Category Archives: 勉強会

ドイツ- 核のゴミをめぐる抵抗の歴史と現状@zoom茶話会のご案内

脱原発は達成したけれど、まだまだ未解決の問題に溢れているドイツ。SNBメンバーの梶川ゆうがドイツの核のゴミ処分場問題について、現場を視察した情報を交えながらお話します。ぜひご参加ください。 

日時:2024年10月27日(日)19:00~21:00(+交流会)
会場:Zoom
主催:さよなら原発神戸アクション 
参加費:無料(カンパ歓迎)
申し込み:要(下記リンクをご利用ください。)

■お申し込みはこちらから↓(申し込み締め切りは、10月25日です)
https://docs.google.com/…/1FAIpQLSdSZHgblsVU6L…/viewform 

梶川ゆうのプロフィール:
フリー翻訳家、在独37年。ベルリンの日本人反原発グループSayonara Nukes Berlinを中心に活動。

ゆうからのメッセージ:
日本から9千キロも離れたドイツはフクシマ原発事故後「脱原発」を決定し、ついに去年2023年4月に達成されました。しかし、高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトはまだ見つかっておらず、中・低レベル放射性廃棄物の方は処分場建設がすでに始まっているものの、問題は山積みで、予定通り運転開始できそうにありません。条件を満たす最終処分場が完成し、運転開始するまでは、高レベルも中・低レベルも、廃棄物はしっかり遮蔽した状態で中間貯蔵施設に保管しなければなりませんが、最終処分場がいつまでもできないため、耐用年数が数十年しかない中間貯蔵施設に、しかも輸送と短期保管用にしか作られていない容器に入れられたまま、半永久的に保管される可能性があります。このように核の負の遺産をめぐって、市民運動が全国各地で続けられています。
中でも、長い間高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトに指定されながらもずっと抵抗運動を続け、とうとうサイト候補から取り外させることに成功したゴアレーベンの市民運動は、あらゆる市民運動のあり方に大きな影響を与えました。そのゴアレーベンの抵抗運動の話と、その他の核のゴミの処分場をめぐる問題と現状について、報告します。

■お申し込み後、フォームへ記載されたメールアドレスに自動返信機能で返信がいきます。
スマホのメールには自動返信のメールが送信されない場合がありますが、前日までに、ZOOMのアドレス、ID、パスコードをお知らせしますので、その案内が未着の場合は、下記のメールアドレスにメールください。
お問い合わせ:nonukekobe311★gmail.com
(上記のメールアドレスの★の部分は@に変えてください)

■タイムテーブル予定■
18:50 入室開始
19:00 はじめのあいさつ
19:10~20:30 梶川ゆうさんのお話 
20:30~20:35 休憩 
20:35~20:55 Q&A 
20:55~21:00 おわりのあいさつ
21時以降交流会を予定しています。

【カンパ歓迎】振込口座 郵便振替 00900-8-110030 神戸ネットワーク
※通信欄に<カンパ>と書いてください。

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会 (3)

「科学的」と「安全」について

この他の学年用のビデオでは「科学的」という言葉もあった。科学的に測るとか,あるいは科学的に安全というようなことも良く言われる。しかし,私にはそのビデオで言っている「科学的」の意味がわからない。なぜわからないのかを説明しよう。まず,私の考える科学的についてちょっと説明する。

科学的ということに関しては様々な解釈があるだろう。私が思う科学的とは,「世界を観察し,繰り返し観察される共通となるような真実をもとに,その観察される現象をより理解可能な要素に分解し,それを論理的に組みたて,理解のための仮説を提案し,実験により確認して,世界の理解をすすめていく方法」と言ってみようと思う。しかし,これではかなり難しくなってしまった。これも何を言っているのかわからないということになりかねない。そこで,一つ例の話をしよう。それからまた戻って考えてみて欲しい。でもこれは私の考えでしかないことにも注意して欲しい。(ただし,ここにあるものとかなりの部分は共通している)

「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」という話を私の言う意味で科学的に考えてみる。ここでは胃で食べ物が消化されるということはわかっているとする。それは観察されることで,この議論に加わる人達は皆共通の真実と考えたとしよう。そこで,この議論に加わっていたロッコさん(仮名)が仮説を言ったとしよう「胃は消化されないものからできている」この仮説は食べ物は消化されるが,胃が消化されないということをモデルにする考えだ。とてもいいと思う。では,これを確かめられるか? ひとし(仮名)さんが「中華料理には胃の料理がある」ことに気がついた。では,皆でそれを食べて実験してみよう。そうしたら,ひとしさんなど複数の人が次の日にトイレに行って,胃の料理が消化されたことを確認した。つまり,胃そのものは消化される。これでロッコさんの仮説は棄却されてしまった。そこで他の仮説を考えてこれが説明できないかを考える。人間の胃袋は動物とは違うという仮説も可能であるが,そうすると動物の胃袋は動物自身に消化されないことの説明ができないので仮説としては(世界の現象を理解するすすめにならないので)あまり意味がない。

これが私の言う科学的方法というものだ。観察し,それがなぜかを考えて仮説をたて,仮説に基いて検証し,間違いならさらに仮説をたて,現象への理解を深めていくことだ。この例では,問題を分解するなどなどはしなかったので,「世界を観察し (胃が消化されない),…,理解のための仮説を提案し(胃は消化させないものでできている),実験により確認して(胃袋の料理を食べ,トイレに行く),世界の理解をすすめていく方法」ということになる。この話ではまだ「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」の結論はでていない。科学的方法自体には結論がでていないものも多いから,ここでは結論は出さなかった。私の言う科学的とはプロセスであって,科学的とは何かがわかっていることとも違うこともわかって欲しいからだ。

「科学的に放射線を測る」ということがこのビデオで出てきた。特に中学年用の 7:35 秒は衝撃だった。「では,どうしてこのように放射線の量がわかるのでしょうか? それは,放射線は測ることができるからです。」である。これはトートロジーである。広辞苑には「トートロジー,同語反復: 定義する言葉が定義さるべきものを言葉通り繰り返す定義上の虚偽。」と説明されている。

「なぜ今日はあたたかいのでしょうか? それはあたたかいからです。」「車はどうして走ることができるのですか? それは車だからです。」これらは理由の説明になっていない。どうして? の解答ではない。「なぜ放射線は測れるのか? それは測れるからです。」これが放射線についての理解を深める教材ビデオのした説明である。これを科学的と言うことには衝撃を受けた。このどこに科学があるのだろうか。科学的理解とは観察し仮説をたて実験して検証するプロセスを通して世界を理解していくことだ。どうして放射線は測れるのか? に対し,例えば,歴史的な経緯で,蛍光版が反応していることに気がついたとか,感光板が感光してしまうことに気がついて存在がわかってきた,とか,そういうことは言えなかったのだろうか。。霧箱が本当に放射線を可視化しているのなら,どうして霧箱周辺を放射線計測器で測って対応を見せなかったのだろうか? 霧箱が測定できる放射線と,γ線の測定器の測れる放射線が違うからか? しかし先生は,「このように身の回りにあって測れる」と言ったではないか。なぜそれを科学的に証明しようとしないのか。ところで,
霧箱を作っている会社のページにはこの霧箱は自然の放射線を見せているのではなくて,霧箱内部に置いたラドンなどの核種を見せています。とある。この製品はガラスと金属に覆われているので,α線やβ線は入ってこれないからです。とある。確かに先生は,α線は紙でも止まりβ線はアルミニウムなどの板でも止まると言った。説明はおかしくないだろうかと確認すると,「普通の生活では見えない放射線も霧箱の中では観察できる。このように身の周りに放射線があるのです。」と説明している。これはどういうことなのだろう?

私はこのビデオの「科学的」に「科学」を見ることができない。だからここで言う科学的の意味がわからない。ファインマンという物理学者がこういう説明を批判して,何もわからないのなら,どんな名前でも同じじゃないか。と言う話がある。それはエネルギーの話だったが,ここでも同じことができるだろう。放射線のお話とは言わなくてもいい。ヨダソウのお話とでも言えばいい。ピッと音がなるたびに,ヨダソウが通った。科学の力でヨダソウの存在が測定できるのです。すばらしいですね,ヨダソウ。

科学的と言う意味を考えずに,科学的というだけでそれが正しいの同義語などと考えるのはやめにしよう。理解しなければ,それはヨダソウにすぎない。「ヨダソウとは何か? ヨダソウのことだ。」では理解にはならない。

では,時々聞く「科学的に安全」とはどういうことなんだろうか。まずそこには何が「安全」なのかを知らないといけない。「安全」の意味は何か? 「安全」の定義とは何だろう。誰がそれを決めたのか?

以前,SNBのメンバーに何 mSv では安全とか科学的にわかっていないのか? という質問を受けた。私の定義での科学的に知るためには,前にいったように,安全とは何かを定義し,それを観察して,ある現象に対して仮説をたてて,それをまた検証しなくてはいけない。

たとえば,年齢別に 1万人の人を集め,半分の人達に放射線を浴びせ,もう半分の人達は放射線を浴びせずに,その違い以外は同じ生活をしてもらう。そしてその量と病気などの関係を長期間に渡って調べる。これによって科学的な実験ができる。しかし,それは倫理的にできるのか? 放射線は 100 mSv まで安全という人に,99 mSv を浴びる実験台になってもらうべきだという意見の人もいたが,そういう実験をするのは科学の前に人間として許されないという問題がある。そうすると科学的に実験によって危険性を確かめることはかなり難しくなる。

私はこういう危険なものの安全性を確かめながらおっかなびっくり使うよりも,そういう問題がそもそもないエネルギー源を使えばいいじゃないか。そういう技術はけっこうあるじゃないかと思っている。まあ,それには異論もあるだろう。でも避けられる危険なら避けたほうがいいと思う。我々にはそういう技術がある。

例として,ウクライナでの放射線の安全性というのは,人間が 100 mSv を越える放射線を浴びると危険であるという説に基づいている (アメリカ合衆国国立生物工学情報センター).  ここでは,These data provide clear evidence of radiation-induced cancer risk at doses above 100 mSv. とあり,「これらのデータから,100 mSv を越える線量を浴びた場合にはガンのリスクがあるというはっきりした証拠が提供される」とある。しかし,前回の「寄らば切る」の話のように,100 mSv 以下なら安全とはこの研究結果でも「言っていない」のだ。実は 100 mSv では危険は確実というこの同じ報告の中で, 10 mSv から 100 mSv でも危険があるかもしれないと言っている部分がある。しかし,10 – 100 mSv でも危険があるかもしれないという部分はほとんど聞くことはない。

そこでウクライナでは人間は 100 年位の寿命があるとして,1 mSv/yの場合,一生で 100 mSv だから,この基準にしようとした (ウクライナの事故への法的取り組み)。

日本で 20 mSv/y で帰還していいという人達は,もしもウクライナと同じ説に基づくなら,人はここには 5 年は住まないから大丈夫という「安全」を考えたのかもしれない。それならば何らかの理屈が見えてくる。20 mSv/y × 5 y = 100 mSv なので,これ以上の滞在は危険とわかっている。だからこれ以上は住まないように,という基準なのだろうか。ちょっと待って欲しい。前回の「寄らば切る」の話を思いだそう。ここから先は危険なのは確実としても,それ以下は安全とは「言っていない」。「安全」とは何かを知らないのなら,落とし穴に落ちることになるだろう。数値がどうかなんてのはこのように安全の定義を変化させればいくらでも操作できる。

つまり,少なくとも 2 つの説明が必要だ。1. 「安全」の定義は何か? 2. 「科学的」とはどのように調べ,どのような証拠が得られたのか。これについて定義がなく。説明がないのなら,それは私の言う科学的ではない。

「安全」とは何か。誰がどうやって決めたのか? たとえば,どこかが毒で汚染されていて,でもそれが安全という場合,安全というのはどういう意味か。それはその毒を摂取した場合,1 年は生きていられるという意味なのか? それとも 2 年は生きていられるという意味なのか? 100 人その毒を摂取したら,次の日には 3 人しか死ななかったので,97 % 安全です。などということもあるかもしれない。100 人のうち 3 人死んでいるが,97 % の生存率ならばすごい安全だ。そういう定義かもしれない。この場合,1ヶ月後には 100 人全員死亡しているかもしれない。それでも,1 日の生存率ならば嘘は言っていない。1ヶ月後,全員死亡しましたが,安全です。ということも,この定義ならば科学的にも論理的にも正しい。だから論理的とか科学的と言うことで「はいそうですか」というのはあまりにナイーブだ。私は怖い。100 人のうち 97 人が 1 ヶ月無事だから安全です。という意味の安全だったら,それを私は「安全」の定義として受けいれられるのか? 安全の意味を知らなければ,安全ですと言われただけでは何も意味がない。

そして,「科学的」とは何だろうか? どうやって検証されたのか。この場合,その毒を実際に多数の人間に摂取させてわかったのか? いったいどうやってわかったんだ? どこにエビデンスがあるんだ? 科学的の定義が違う人もいるかもしれないが,仮説をたて,実験をして理解を深めるという私の定義では,実験されないものは科学的ではない。特にたまたま一人で実験して大丈夫でしたというのは一回限りで再現性がないので科学的とは言い難い。まず,科学的と言う人に,あなたの言う「科学的」とはどういう意味なのか,私は尋ねざるを得ない。

だから私は新聞などで説明のない「科学的に安全」という言葉を見る度に,どういう意味なんだ。と考えてしまう。これは私にはあいまいな言葉で,ほとんど何も意味していない,非科学的な言葉だ。

今回の放射線のお話のビデオでは,多岐に渡って考えることが多かった。もっと多くの議論ができることと思う。私はできれば,このビデオを見た子ども達と一緒に考えていきたい。科学的とはどういうことか。メッセージは何だったのか。どうしてこのようなビデオができたのか。そして,このビデオを見せている先生には,子どもが社会に出て生きていけるように,自分で考えることについてぜひ少しヒントをあげて欲しい。この文章がそのヒントの 1 つになってくれると嬉しい。

現実は厳しいものだ。夢の中で生きていく方がいいかもしれないこともある。しかしそれができるのは一部の人達だけで,ほとんどの人達には現実は情け容赦なくふりかかってくる。現実を認識し,それに向かっていくときに考える方法が少しでも見え,それが子ども達の未来を少しともしてくれることを願う。そしてそれを子ども達と議論することが,大人としての責任ではないだろうかと思う。

根拠もなく,安全だ,大丈夫だ。僕達はすごいんだ。では子ども達を守れない世界にしてしまったことを,子ども達にすまなく思う。一番簡単なことは,誰かのせいにすることだ。しかし,それでは子ども達は守れない。でも,そのままで良いと私は思わない。

だからまずは知って考えていこうと思う。

今回の勉強会の講師は「廃炉のおはなし」と同じふくもと氏でした。ありがとうございます。
記録は私,ひとしでした。

最後に,「ヨダソウとは何か」ですが,後ろから読むとわかるかもしれません。本当です。ヨダソウ。

ひとし

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会 (2)

2.2 放射線のおはなしビデオ

放射線のおはなし(低学年)というビデオをマー君達と見て,僕らは少し話し合った。このビデオの話のすじはこういう感じだ。(読者にはもし機会があれば実際のビデオを見て欲しい)

放射線について勉強しましょう。

でもまず「生きるために必要な 4 つのこと」を考えましょう。

水は生きていく上で必要なものです。
土は生きていく上で必要なものです。
火は生きていく上で必要なものです。
空気は目に見えないけれども生きていく上で必要なものです。

では,目に見えないけれどもまわりにあるものについて考えます。
宇宙はどこにありますか? 空の高いところにあります。
太陽から届くもの,それは光,熱,紫外線,放射線です。

私達の身のまわりには放射線がある。放射線は見ることも音として聞くこともできないが,測ることができる。

放射線はレントゲン写真として役にたっている。
放射線を使って殺菌することで役にたっている。
放射線はジャガイモの芽がでないようにするために役にたっている。

原子力発電所では,生活の役に立つ電気を作っていた。
東日本大震災が起きて,事故で放射線が漏れ人々が避難した。
どうして人々は避難したのだろう?

火は沢山あると火事になる。
水は沢山あると嵐や台風で洪水。
火や水と同じく放射線も多すぎると危険,だから避難した。

これから放射線について学んでいきましょう。

別にいい話じゃないかと思うかもしれない。マー君はどういうメッセージを受けとったかな。メッセージって何かって? どんなお話にもメッセージがあるんだ。そのお話を作った人が伝えたいことだよ。僕が君に話をする時は少なくともそうさ。お化けとか河童のおはなしもそうかって? もちろんさ。お化けってのはね,死ぬというのは怖い,良くないことだという考えを伝えるためさ。それが本当に怖いことか良くないことかはもっと大きくなってから自分考えて欲しい。できれば僕と同じように怖いと思ってもらえるといい。命は大切だと思ってもらえたら嬉しい。河童の話? 河童は子どもを食べるんだよ。だから川に行かないようにっていうのさ。これはね,大人の都合だけど,子どもが川で溺れないようにするためさ。怖い怪物が川にいるなら,川には行きたくないだろう。でもマー君,川には本当に河童がいるから一人で行ったりしてはいけないよ。

このビデオの話は,もう少し短くすればこんな感じに受けとめられたかもしれない。

火や水や土や空気は生きていくのに必要なものだ。
火や水や土や空気は身の回りに昔からあったものだ。
放射線も身の回りに昔からあったものだ。
火や水は多すぎたら危険だけど,少なければ大丈夫。
放射線も身の回りにあっていろいろと役にたっているんだよ。

君は僕の授業を受けているから,大人も先生も間違うし,言いたくないことは言わないってわかっているよね。でも,僕は君に伝えたいことがあるし,それがいいものと信じて話をしている。でも僕にも間違いがあるかもしれないから,君には自分で考えて欲しい。たとえば,算数やかけ算は君が大人になれば習っておいてよかったと思うものだとわかってくれると思って教えているんだ。理科だってそうさ,知らないと君を騙そうとする人に対処できない。この水を飲めば癌が直るとかね。本当に直るのもあるかもしれないよ。でも,そうじゃないことだってあるんだ。それは君が自分で判断しないといけない。残念なことに君を騙そうという人がいないとは僕には言えない。だから賢くなって欲しい。騙されなくなって欲しい。

このビデオの話はまず,最初の 5 分間は放射線の話がない。「放射線のおはなし」なら,「放射線とは○○です。」というふうに始まっていいと思わないかい? マー君について説明するお話なら,僕はまず「マー君とはこういう人です」というふうに話をはじめると思う。でも,ここでは 6 分間も放射線の話をしないんだよ。そして火や水や土や空気の話をするんだよ。僕はね,関係ない話をえんえんとしていると思ったね。君はどう思った? 放射線のお話なら,放射線の話をすればいいじゃないか。6 分と言えば,このビデオの 3 分の 1だよ。どうして関係ない話を 3 分の 1 もするんだろうね。考えてみてよ。放射線と水は関係あるんじゃないかって? ないわけじゃないけど,でも水は放射線じゃないし,土は放射線じゃないよ。

そして,

火や水や土や空気は生きていくのに必要なものだ。
火や水や土や空気は身の回りに昔からあったものだ。
放射線も身の回りに昔からあったものだ。

という話になった。ここで,君は素直だから,放射線は生きていくのに必要なものだ。と思ったんじゃないかい? アルキメデスの 4 元素を出してきて,それは身の回りにあります。昔からあります。生きていくのに必要なものです。と言われて,実は,放射線も身の回りにあります。昔からあります。と言われたら,「生きていくのに必要なものです。」と思う人もいるかもしれない。でもそれは言っていないよ。「それは言っていない」んだよ。

  • ウイルスだって病気だって,身の回りに昔からあったものだ。
  • 毒キノコや,毒ヘビだって,身の回りに昔からあったものだ。

これも「言っていない」んだよ。関係ないから? そうさ。火や土だって,放射線とは何か, の話に何の関係がある? でも言っている。身のまわりに昔からあるものが全て生活に必要なものだなんて言っていない。火を燃やせば二酸化炭素が出る。部屋を占めきって火を燃やせば,二酸化炭素中毒でたいへんだ。二酸化炭素だって昔からあった。身の回りに昔からあった。どうして二酸化炭素の話はしないんだろう?

「放射線も身の回りに昔からあったものだ。」

だから何なのだろう。このお話を作った人が何が言いたいのか考えよう。メッセージを考えるんだ。何がここで言われなかったのか。この教材はとてもすばらしい批判的にものを見る教材になる。でも,君の年では先生のガイダンスがとても重要になる。

僕達は安全ということを考える。君達には安全で健康で育って欲しいからだ。それは親の多くが思うことだ。放射線を学ぶ教材が作られたと聞いて,僕は君達の安全と健康のためにこういうビデオが作られたんだと思ったよ。

でもここでは安全という話はあまりなかったね。放射線がどういうものかもあまりなかった。結局身のまわりにあって宇宙からきたりするものらしい。まあ,難しいからかもしれない。でも安全についてこのビデオでは言って欲しかった。役に立つかどうかばっかりだ。役に立つならいいことじゃないかって? うーん。

役に立つことと安全かどうかは別の話だ。包丁やナイフだってとても役に立つけれも,そのままで安全なものではない。車だってとても役に立つものだけど,子どもが運転していいものではない。責任ある大人が試験を通ってやっと使わせてもらえるもの,そういう意味では危険なものだ。役に立つならなんでもいいというわけじゃないし,それは誰にでも安全かどうかはあまり関係がない。

レントゲン写真は役に立つだろう。でもレントゲンを取ったことのある人なら,レントゲンを取るお医者さんがその部屋から毎回出ていくのを知っているだろう。レントゲン写真で使う X 線も人間の体には害を及ぼすからさ。そこにいたら危険なんだ。だからお医者さんはいつも他の部屋に行くんだ。役に立つものでも危険なものはいっぱいある。

放射線を使って殺菌する。それは役に立っていることだろう。でも,菌というものも生きものだ。それを殺すことができるということはどういうことか考えてみよう。紫外線と似ていると言う。日焼け位した方が健康だという人もいるかもしれない。多いといろんなものが危険になるというのは,まあ僕も賛成だ。紫外線だって浴びすぎれば病気になる。ガンの放射線治療というのも聞くだろう。ガン細胞はとてもやっかいでなかなか死なない。それを殺すことができるような強い毒を使うこともある。そのうちの一つが放射線だ。放射線ほどガンを殺す能力が高いものもなかなかないからだ。役に立つということと安全というのは同じことではない。それはこのビデオでは言っていなかった。火や水は僕たちの生活には絶対必要だ。でも先生の言うことを良く聞いてごらん。放射線がないと僕たちは生きていけないとは「言っていない」んだよ。火や水が多いと危険なように,放射線も同じように多いと危険だ。と言っていたけど,放射線がないと,僕たちは死んでしまうとは「言っていない」んだよ。気がついたかい?

放射線でジャガイモの芽がでないようにする。これを役に立つ例として出してきたのはすごいね。じゃがいもはじゃがいもの植物の子どもだ。子どもが成長しないようにする。これはどういうことなのか,考えてみよう。これはビデオを作った人もここまできたら,役に立つということと安全とは関係があまりないことだと伝えたかったのかもしれない。

ビデオの中の放射線によってじゃがいもの芽がでないようにする説明部分。勉強会にて
ビデオの中の放射線によってじゃがいもの芽がでないようにする説明部分。勉強会にて

役に立っていたということが繰り返されたのは,これは伝えたいことだからなのだろう。しかし,役に立つことというのは,どういう意味なのかな。役に立つには,誰かがいないといけないね。誰にとって役にたったのだろう? 原子力発電所の事故で人々が避難しなくてはいけなくなった。その場合,避難した人々の生活には役にたっていないみたいだ。役に立つとはどういうことだろう。多分,役に立つことはいいことだ。って誰かに言われてきたんだよね。それはいつも本当なのかな。そうじゃない時もあるかもしれないんじゃないかな。いろいろと考えることが増えちゃったな。

あと,世界中の人がある量の放射線を浴びているというのもあったね。地域によって違うとかはあっても,自然放射線を浴びていること自体は本当だろう。それでどう思った? 世界中の人が浴びているのなら心配はないって? どういうことかな。

たくさんの人がしていることは安心できるってこと? うーん。この場合,自分で選んでないとか,もっと大事なのは,自然にあるものに追加された量がどうかなんだけど。。。皆が同じなら大丈夫ってこと? なるほど。そうだね。じゃあ煙草は,たくさんの人が吸えば安全になるのかな。世界中でもっと多くの人がすえばもっと安全になるのかな? 皆が吸った方が安全になるの?

この場合,「どれだけの人がするか」と「安全」とは関係がないとは思わないかい。煙草を吸う人が増えれば増えるほど煙草が安全になるかというと,煙草自体は変化していないのだから,個々の安全性は関係ないと思うよ。放射線を世界中の皆が浴びれば浴びるほど安全になるなら,皆で放射線を浴びればいい。本当にそうかな? この場合には皆がやっているというのは皆がやっているというだけのことだ。ここで重要なのは,このビデオが「皆が浴びているんだ」ということで何を言いたいのか,どんなメッセージを送ろうとしているかを考えることさ。「赤信号,皆で渡れば怖くない」という冗談が昔あった。「放射線,皆で浴びれば怖くない」というメッセージ?これはちょっとブラックだったかな。何を言っているかわからない? まあ,考えてみてよ。「考えてみて」ばっかりだって? 僕が答えを全部あげられることはない。だから君には今から考えて欲しいのさ。

僕の頃は論理の基礎は中学で習った。マー君はまだ 9 歳だから,論理についてあまりちゃんと習っていないかもしれない。でも,こういうビデオを見なくてはいけないのなら,もっとちゃんと習わないといけないね。大変だねえ。僕たちは言葉で考えるのだから,その言葉の使い方を,何を意味しているのか,何を意味していないのかを考えなくてはいけない。その助けになるのが論理というものだ。でも実は意味を理解していないとあまり助けにならない。

私の好きな先生の本に,論理の話があって,「寄らば切る」と言うさむらいの話がある。ある時,ある町人はそのさむらいの近くに寄らなかったのに,そのさむらいが切りかかってきた。「寄らば切ると言ったじゃないか。俺は遠くにいたじゃないか。どうしてわざわざ近くに寄ってきて切りかかってくるんだ」という町人に,「寄ってこない時に何をするとは言っていない。寄らば切る。とは確かに言ったが,寄らずとも切る。それだけだ。」とそのさむらいは言った。ひどいさむらいだと思ったよ。寄らば切ると言っただけだ。でも,確かに「寄らずとも切る」とは言わなかった。くやしいけどさむらいは論理的には間違っていない。でもひどいとは思わないか。論理的に正しいけどひどいよ。論理的に正しいからいいなんてこともないんだ。論理は考えの道を照らしてくれるけど,そこに進むかは君次第なんだ。そこに穴があると教えてくれても,そこに進んで落ちるかどうかは君次第なんだ。だから勉強するのはいいけど,勉強したからってそれだけじゃだめなんだ。勉強するとか努力することが考えもせずにとにかくいいことなんて信じてはいけない。どうして勉強するのか,どうして努力するのか考えて欲しい。「また考えてみて」だって? まあ,そうなんだけど。

火は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
土は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
水は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
空気は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
放射線は身のまわりにあります。

このビデオはこう言っていたね。僕は「寄らば切る」のさむらいよりも,くどいだけひどいと思ったね。よくわからない? うーん。そうだなあ。僕はね,マー君がこういうビデオを見た時に,ちょっとだけ考えて欲しいんだ。先生が言ったことは素直に聞くものだと先生に言われた? 確かに。それで君の安全と健康が守られるなら,僕もそう言うだろう。君が将来安全に生きていけるならそれでいい。でもね,もしかしたら,僕達は君の安全と健康を守れないかもしれないと,僕は思うようになったんだ。こんなことを君に教えないと君が将来困るかもしれないということになってしまった。ゴメンネ。でも,僕がしてあげられるのは,こんなふうに考え方をちょっとだけ教えてあげることだけなんだ。

え,どうして僕がこんなことを話すかって? いいところに気がついたね。むしろ気がつかなかったら困ったことだった。ビデオを作った人達と同じように,僕も君に伝えたいメッセージがあるからさ。ここにあるのは僕のメッセージだ。このビデオを作った人が伝えたいこととは多分,別のメッセージなのだけどね。どうして僕が君にこういう話をするのか,それを考えるのもとてもいいことだと思うよ。

君が僕を考えずに信じたらそれは残念なことだ。僕の言うことを疑って考えて自分で理解して欲しい。僕の言うことをそのまま信じるような人になっちゃあいけない。僕も間違いをする。「考えてみてよ」でしょうって。その通り。「ひとしさんが,ひとしさんを信じないようにって言うけど,信じないようにってことを信じたら,ひとしさんの言う通りだ。でもそれは駄目ってひとしさんは言うのでしょう。何もできないよ」って? まいったな。いや,すばらしい。マー君,君は論理学を本格的に学ぶ準備ができているよ。

僕が君にこういうことを言うのは,簡単に言えば,この社会には民主主義という方法があって,その場合,大多数の人が騙されたら,僕もその人達と一緒に強制的に騙されないといけないことが多いからなんだ。そして僕は騙されたくない。だから,騙される人はできるだけ少なくしたいんだ。なんだい? 自分が騙されたくないだけかって? エゴと言われるかもしれないけど,確かにそれは大きな動機だよ。僕も若い頃は,僕だけ騙されなければいいと思っていたこともあったよ。でも皆が騙されないようにならないと,困るというのも本当さ。もちろん僕がマー君を好きで,君が騙されて欲しくないといういうのもあるから,君にまず話をしているんだけどね。

マー君,君が自分で考えて理解して判断するようになりますよう。皮肉に聞こえるかもしれないけど,このビデオは批判的思考法を鍛えるにはとても良いビデオだった。本当だよ。マー君には,情報が来た時に,「何を言っていないのか」「メッセージは何か」を考えて情報に触れるようになって欲しい。

紫外線の説明と放射線の説明を並べたもの。紫外線も放射線も目に見えないと説明しながら,矢のような形をしており,放射線にだけはさらに「目」がついている。さて,このビデオの作者は,何を意図して放射線だけに「目」をつけたのだろう? 考えてみよう。
紫外線の説明と放射線の説明を並べたもの。紫外線も放射線も目に見えないと説明しながら,矢のような形をしており,放射線にだけはさらに「目」がついている。さて,このビデオの作者は,何を意図して放射線だけに「目」をつけたのだろう? 考えてみよう。

次回はこのビデオの語らなかったもう一つのこと,科学的と安全ということについて話をしよう。

ひとし

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会(1)

1. 勉強会報告について

1 月に SNB では,福島で行なわれている放射線教育のビデオ教材についての勉強会がありました。この記事はその報告です。この報告は 3 回に分かれています。

今回の報告では,教材の内容についてよりも,私がこの教材を見てどのようなことを考えたかについて書くことにしました。

視点としては,私が一番なじみのある,技術者の目を通して見たらどうなるのか,を考えました。ある意味,このビデオは平凡な物を作っている技術者の持つ,critical thinking から見て面白い教材です。これを教材に他のビデオを見る目を考えることを念頭に置きました。

私はソフトウェア技術者なので,ソフトウェアの不具合 (それをソフトウェア技術者はソフトウェアのバグ (虫) と言います) などを追いかけることがあります。この場合,ソフトウェア技術者はある意味,探偵の目でバグを追いかけます。どこかにソフトウェアの問題になる犯人 (バグ) が隠れている。なぜ犯人が隠れているとわかるのか? それはたとえば,ソフトウェアがクラッシュするなどの目に見える症状があるからです。そこでその症状を起こす犯人がここにいるのならこれがあるはずという仮説をたて,それを検証していきます。また,もしそれがないということはここにはいない。というふうにも考えていく視点です。あるいはそれがないということは,この犯人はこうしたはずだ。というふうに「何かがない」ことも犯人を追う一つの手掛かりになります。ソフトウェアの場合には,犯人を追うための道具にバグがあったり,ある時には,コンピュータ (ハードウェア) が実は壊れていることもあります。そういう意味では探偵仲間に裏切りがあることもあります。しかしこの記事ではそこまでは考えませんでした。今回は,このビデオが何を言ったのか,そして何を「言わなかった」のかを考えることになります。

また,「科学的」と言えば,いいことだとつい無条件で考えてしまう,「役に立つ」ものなら無条件でついいいことだと考えてしまう,「安全」と言えば,その安全の意味は何かは実はあまり考えたことがない。そういうこともよくあると思います。そんなことも一歩立ち止まって考えてみたらいいのではないかなと考えて書いてみました。

この勉強会については私のような視点だけではなく,他の視点からもいろいろと書けるのではと思います。少しだけふれますが,一つとしては,このビデオについて情報リテラシーという観点で書くのも面白いと思います。

しかし,キュービズムのように同時に複数の視点を表現することでものをとらえる,というのは,私には荷が重く,その点は私は今回はできませんでした。他の視点からのブログを書いてみたいという人はぜひお願いしたいと思います。

お楽しみ下さればと思います。

2017-1-21 福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会の様子
2017-1-21 福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会の様子

2.1 はじめに

今回,Sayonara Nukes Berlin では,福島県教育委員会の作成した,放射線教育用学習ビデオ教材 (平成 27 年 3 月) を 2017 年 1 月 21 日に見る機会があった。

正直,このビデオを見て私は愕然としてしまった。私はその内容についての意見もあるが,それ以前にも,この製作者の考える教育についての疑問である。このビデオを作成した人達がどうしてこのような形でこのビデオを作成したのか考えざるを得なかった。

私の考える教育には,「子ども達が社会に出た時に生きていけるようにするための知識や考え方を訓練する」ことも含まれている。私達の社会は残念ながら理想郷ではない。だからものごとを筋道たてて考えることを子ども達には学んで,そしてできるだけ騙されないように生きていって欲しい。良い人ばかりなら,「君はとてもすばらしい。」とだけ言って育てればいいかもしれない。しかし,たとえば仕事を探すことを考えてみたら,今の社会ではただそこに存在するだけでは生きることは難しい。多分,それは社会の方が間違っているのだろうけれども,では私は子ども達に社会が間違っているから,生きていけなくて残念だねとは言えない。そこで,それぞれの個性の中に,他の人達を助けられるような,そういう部分を伸ばしていって,そして生きていって欲しいと願う。それは私のエゴでもあろう。でも,私は自分や友人の子ども達が世界の中で生きていけるようにするためにできるだけのことをしたい。

ここでは私の視点が述べられる。それは私の経験などに基づいている。だから,私の書くことが唯一の真実だなどとは言わない。私は技術者で物を作っている。物が設計したどおりに動くかどうかは私の感情や希望とは関係がない。私がそこにある物理などを理解しているかどうかに多くがかかっている。私はそういう視点からこのビデオについて議論をしたという話をしたいと思う。他の視点からのアプローチもあるはずだ。それはまたいずれ他の人が書いてくれるだろう。

だから,私は今回はちょっとした寓話の形でこの教育ビデオについて書いてみたいと思う。私には,他に良い話の仕方がわからなかったからだ。そして,私はこのビデオを作った人達に関しては実はあまり関心がない。これを見る子ども達,そしてその親や先生達に考えてみて欲しい。私達は現実の中に生きている。夢の中に生きて,何もしなくても生活ができるような,めぐまれた人達は,現実を認識する必要もないかもしれない。自分が何もしなくても世界ですばらしいとほめてもらってその夢の中で生きていける人達はそれでいい。しかし,そうでない私のような人間は現実を認識し,生きていかなくてはいけない。

甘い言葉ばかり聞いているのは,お菓子ばかり食べているようなものだ。時々食べるお菓子は心にうるおいをもたらしてくれるだろうけれども,それしか食べないのでは,病気になってしまう。私は子ども達にお菓子もあげたいが,でも,ちゃんとした食事もして欲しい。

このビデオについての目的は,福島県教育委員会のホームページ(http://www.pref.fks.ed.jp/committee.html) からのリンクにある相双教育事務所のページでみつかる (http://www.sousou-eo.fks.ed.jp/07%20%E2%85%A6_%E5%8F%82%E8%80%83%E8%B3%87%E6%96%99.pdf) それをまず書いておこう。

指導の重点

  1. 学校や地域の実状及び児童生徒の実態に応じた指導計画及び指導内容を工夫し、実践する。
  2. 放射線等の基礎的な性質について身に付けさせ、自ら考え、判断する力を育む指導方法を工夫する。
  3. 放射線から身を守り、健康で安全な生活を送ろうする意欲と態度を育てる。

この指導の重点を見る限りは良さそうに見える。そして私達は実際のビデオを見た。

次回は寓話的にこのビデオの話をしたいと思う。

ひとし

ソーラーハウス (Effizienzhaus) 見学

2016 年 2 月 1 日に何人かで Berlin の Fasanenstrasse にあるソーラーハウスを見学する機会がありました.このソーラーハウスは Bundesministerium fürUmwelt, Naturschutz, Bau und Reaktorsicherheit によって実験として建てられたものです.プロジェクトは Effizienzhaus Plus mit Elektromobilität と言い,「電気自動車を含む効率的家屋プラス」とでも訳せばいいでしょうか.

このソーラーハウスはドイツでは 35 件建てられたエネルギー効率の高い実験用の通常の家屋の1軒です.それぞれが異なる建築家によるもので,一件一件異なります.ベルリンのものは写真のようにかなりモダンなキューブ形状です.しかし,伝統的なドイツの家のようなものもあります.

Berlin にある Effizienzhaus Plus
Berlin にある Effizienzhaus Plus

Effizienzhaus Plus 内
見学会での説明会 (Effizienzhaus Plus 内)

エネルギーの効率的な家屋,と言っても Plus と名前にあるように,省エネではなく,「年間で作るエネルギーが消費するエネルギー以上になる家」の実験として建てられています.これは電気自動車 1 台を含みます.それぞれの家では,公募で選ばれた家族が1 年住んでエネルギー消費の実験をします.この家にはこれまで 2 家族がそれぞれ 1 年住みました.

この家はソーラーパネルを使って電気を生産し,蓄電池に貯める方式です.この家の建築家は家庭でのエネルギー消費は,主に朝,そして夕方から夜にかけてあり,昼は家族が仕事や学校に行くために下がると予想し,ソーラーパネルを東と西の壁に設置してあります.また,外観 (色) を重視したため,エネルギー変換効率が10% と比較的効率の低いパネルを利用しています.

ドイツでは家屋では暖房でのエネルギー使用が大きいので,窓は 3 重構造の熱を伝えにくいもの,換気には熱交換器,暖房はヒートポンプを利用し,南側と北側は大きなガラスで採光を重視,また,電灯は LED を利用,壁も断熱を重視するなど,様々な省エネの技術を利用しています.また電気エネルギーだけで全てすむようにガスなどは利用されていません.

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熱を逃がさない 3 重構造ガラス

実験結果は,初年度には家で消費する分のエネルギーは生産できましたが,自動車の分まではまかなえませんでした.しかし,この家ではエネルギー消費をモニタリングしており,2つの大きなエネルギー消費源が特定されました.1つは熱交換器が製造した会社の説明通りに作動しなかったことで,これは交換されました.そして,リビングからすぐ階段がありますが,リビングの熱が階段に抜けていくことも判明しました.そこでリビングの出口にガラスのドアを1枚設置しました.この変更の後,2年目にはこの家で生産されたエネルギーの総量は年間を通すと,家屋と電気自動車のエネルギー消費を含めて上まわりました.また,動きセンサーライトは,猫を飼っていた最初の家族には合わないという話もありました.

様々な最新技術が使われているのに,目標達成には結局「1枚のドア」が足りなかったということは興味深いことでした.やはり,実際に実験する必要があるのです.また,利用者のマインドが省エネをあまり考えずに,少し浪費する傾向があったことです.確かにエネルギーが全部自分の家で生産されるとなると,あまり省エネを考えなくなるかもしれません.しかしそれは社会のマインドとしてどうなのかという新しい問題を提起します.あとは,空気の熱を逃がさないという意味では窓は開けない設計というものもあるそうなのですが,住んだ家族には窓が手動で開けられるということは重要な要素だという結果などもあります.これらの結果は全て online で見ることができます.

さて,ここからは私の感想です.

私がこの家を見て思ったことは,「こんなボーグキューブみたいな家には住みたくないな」でした.ただ,これはこの家が3年で解体する実験予定だったことや,建築家のデザインによるもので,他の Effizienzhaus Plus には「この家なら住んでみたい」というものもありました.また外観は私の好みではありませんが,内装は良かったと思います.

今回の見学では,技術の成熟が見えてきたことが印象に残りました.この家は既に 2012 年のものですが,ドイツの技術は既に,

省エネではなく,エネルギー生産であること

です.そして,先にデザインの好みの話をしましたが,私が感じた問題は既に技術的な性能問題ではありません.デザインが重要になってきたということは技術が成熟してきていることを示していると思います.私は 1999 年に 5 色の iMacというコンピュータが登場した時のことを思い出します.私にとって,コンピュータは性能でした.「CPU が Power PC 750 の 266MHz はいいが,メモリが少ないかな.」などと思っていました.しかしその当時,あまりコンピュータになじみのない人達が,「何色の iMac がいい?」と,色の話をしていたことに驚きました.インテリアのデザインの一部としてコンピュータが考えられた時,技術の成熟を感じました.一般に広まる時には,性能はあまり問題ではないのだと驚きでした.

今回の家でもそうでしたが,ソーラパネルの性能は落としても色を重視するというデザインが考えられていました.今後重要なのは,色のあるソーラーパネルなどかもしれません.今後,様々な色のパネルが生まれ,それがデザインとなって,やがてソーラーパネルとはわからなくなる時に,この技術はより成熟するのでしょう.このような家は,エネルギー効率だけを語る時代ではなくなりつつあるまで進歩していました.たとえば,緑のソーラーパネルのある家は,遠目には庭の植物と一体化するようになるかもしれません.

自然エネルギーの他のもの,例えば風力も,風力と見てわかるようなものではまだまだかもしれません.それはオランダの風車のように風景となる方向に進歩するかもしれません.もしかしたら遠くから見たら木のように見える風力発電機ができるかもしれません.垂直軸発電方式など既にある技術がやがて景観を考えたデザインとなる日が来るでしょう.風力発電地域はいつか森のようにしか見えないという時が来るでしょうか.いや,本物の森の木々の中に気がつかないように風力発電機がある,そういう形で技術が成熟していくのかもしれません.発電所は自然がいっぱいある公園であるという未来をふと想像してしまうような家でした.

安保法制成立後の日本社会とどう向き合っていくか@ロンドン

10月10日ロンドン某所にて開催されたイギリス在住の大学生らによる「安保法制成立後の日本社会とどう向き合っていくか」と云うテーマの交流会に参加した。安保法制強行採決以後の日本社会に対して、自由と民主主義のためと云う観点からわたしたちがどう考え向き合って行けば良いのか、また行動していくためのネットワーク作りの場として、会の趣旨にふさわしい大変有意義な集まりとなったと思う。

主催者の大学生の挨拶

スカイプを通して、日本のSEALDsメンバーから日本で急速に広がりを見せつつある市民運動やその意義について、首都圏反原発連合や戦争させない・9条壊すな!でおなじみの総がかり行動実行委員会ら他団体との良好な協力関係、または相互支援があったこと。普通の大学生らの活躍により、一般市民に参加を促すためのハードルを下げる役割があったことなどが語られた。

英エセックス大学人権センターフェローの藤田早苗氏

英エセックス大学人権センターのフェロー藤田早苗氏の“自由と民主的な社会のために必要なこと“では政治と日本のメディアの在り方についても問われた。

後半は参加者同士のフリートークの場に。幾つかのグループに分かれ「あなたにとって最も関心のある日本の社会・政治問題は何か」、「その問題に取り組むうえで最も重要な事は何か」について議論をし、同席した学生らから活発な意見を聞くことができた。

私は、社会や政治問題については個々にあるとして、こうした問題に取り組んでいくための土壌づくりについても話した。例えばドイツの学校の教育課程にはふんだんに議論の場が設けられており、学生たちは早くから様々な問題について討論している。学生たちは必ずしも是否や善悪などを決議するためにのみ討論するわけではなく、どんな意見にもその相手の存在を認め、耳を傾け、議論する。教師は生徒が自己を主張する行為に点をつける。こうした過程や場面は各家庭ごとにも度々見受けられる。子どもがしたい事、したくない事にも理論があって、主張があるものに応じる大人たちの姿を日常的に目にする機会がある。みんなにそれぞれの主義主張があり思想が違うのは当たり前だ、そういう前提に立って積極的に話し合える社会づくりをしていくこと、これは私たちが直ちに個人単位で取り組んでいけることでもあり、こうした土壌づくりが今後みんなにとってより良い社会を育む糧になると考えている。

私たちSayonara Nukes Berlin は原子力の利用に反対するベルリンもしくは近郊都市に在住する市民の集まりであり、趣旨のひとつには原子力にまつわる話題(健康/環境/政治/社会/法律)に関して独立した情報と議論の場づくりを掲げている。311以降、フクシマはもちろんのこと、秘密保護法、今回の安保法制の強行採決に至るまでに、今や日本はもとより国際社会からも日本の民主主義の在り方が問われている。この度の会の趣旨が私たちの活動にも関わりのあるものとして、今後もこの活動に積極的に参加していきたいと思う。R

————————————————————————– 2015/10/10 【ロンドン】安保法制成立後の日本社会とどう向き合っていくか:イギリス在住者による交流会(IWJ動画) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/269833

最終処分の話をしようや (6): 最終処分の資金はどうなっているのか

前回は最終処分の方法についてみてきました.放射性廃棄物を処理するのは簡単ではなく,費用がかかります.その費用はどのようになっているのかが今回のお話です.

最終処分の資金

最終処分の資金は,国にもよりますが,原発を有する電力会社が徴収した電力料金からバックエンド資金として積み立てています.利用者負担原則にしたがって,原発で発電された電気を使用した者がそれによって発生する放射性廃棄物と老朽化して使えなくなった原発を処分するために必要な資金を負担します.

ドイツの場合にはバックエンド資金は電力会社が全体で300-360億ユーロを積みたてています.ドイツが世界で最もバックエンド資金を積み立てていると見られますが,それとてそれで足りるという保障はまったくありません.

日本でもバックエンド資金が積み立てられていますが,日本の場合は永久に核燃料サイクルが機能するとの前提で,最終的に残る使用済み(MOX)燃料を処分する資金は含まれていません.

いずれにせよ,積み立てられた資金が不足し,原発を使用しない世代にその負担を押し付けることになるのは間違いありません.

最終処分状況

高レベル放射性廃棄物の最終処分を実際に行なっているところは世界でもまだありません.現在フィンランドのオンカロで建設中,2020年稼動開始予定の最終処分場がおそらく世界最初のものになると思われます.以下ではドイツと日本の現在の状況をまとめました.

ドイツの最終処分状況

低中レベル放射性廃棄物のドイツの最終処分については以下のようにいくつかの計画がありましたが,様々な問題を今後解決していかねばなりません.

  • ジャハト・コンラート
    • 地下1000メートル
    • 元鉄鉱石鉱山で,その上に粘土層
    • すでに運転許可も出され,2017年からの運用が計画されているが,まだ技術的な問題があり,運用開始が遅れる可能性が大きいと見られる.
  • モアスレーベン(旧東ドイツ)
    • 地下約500メートル,岩塩層
    • 元石灰採掘場,元武器製造の強制収容所
    • 水漏れ,落盤の危険がわかり,2001年閉鎖が決定
    • 2014/2015 閉鎖完了の予定
  • アッセ(旧西ドイツ)
    • 地下約 1000 メートル
    • 岩塩層の適性試験用として運用が開始された
    • 水漏れが判明,高レベル放射性廃棄物の破棄発見
    • 全ての放射性廃棄物を取り出す予定

高レベル放射性廃棄物の最終処分場に関しては,ドイツはゴアレーベンで調査を開始していましたが,最終処分場の選定は白紙状態に戻されました.その後最終処分選定法が制定され,各界の代表を集めて最終処分場を選定するための委員会が設置されました.今後の予定は以下の通りです.

  • 2013年7月,最終処分場選出法が制定される
  • 最終処分庁が設置される
  • 2015年末までに最終処分場選出手順作成
  • 2035年まで運用開始予定 (勉強会後追記:委員会は現段階で,バックエン資金不足などを理由に,高レベル最終処分場の運用を2170年からにしなければならないとも発言しています.)

ゴアレーベンでは地下約1000メートルの岩塩層を調査してきましたが,今後どのように展開していくのかはまだ不明です.

ドイツでは当初永久貯蔵を計画していましたが,運用期間を 100 万年として,最初の 500 年間は放射性廃棄物を取り出す可能性を残すことに変更しました.取り出すというのは,その500年の間に,もしかしたら何らかの技術の進歩で放射性廃棄物の無害化が可能になる可能性を考えてのことです.

日本の最終処分状況

日本では,低レベルの放射性廃棄物については,六ヶ所村において最高地下100mの最終処分場が稼動中です.高レベルの放射性廃棄物のうち,使用済み核燃料そのものに関しては,現在ではまだめどの立っていない核燃料サイクルの確立が今後可能であることを仮定しており,再処理することが前提になっています.そのため,特に福島第一原発事故後使用済み核燃料の直接処分を求めるべきだとの議論が起こってきていますが,使用済み核燃料を直接最終処分することも,再処理後のガラス固化体を最終処分する具体的な計画はまだありません.

高レベルの放射性廃棄物のうち,ガラス固化体は2020年までに4万本が想定されています.これに関しては候補地を公募し,検討などは10数ヶ所ありましたが,公募の取り下げなどで消滅し,現在(2014年12月現在)未定です.(勉強会後追記:政府は公募を諦め,政府自らが選定することを決定 (2015年5月現在) [1])

日本では地層処理の研究施設の事例がいくつかあります.北海道の幌延(ほろのべ)町では,地下 350 メートル以上,堆積岩の地層処理について研究が行なわれています.岐阜県の瑞浪(みずなみ)市では,地下約 500メートルの花崗岩の地層処理について研究が行なわれています.

ただし日本では他の国に比較して,最終処分場として「水のない1万年を越えて安定した均一地層」というのは簡単ではありません.地震が頻繁に発生することや,地下水が豊富という最終処分には向いていない条件がそろっていることが問題になっています.

やまうちメモ

中低レベルの最終処分に関しては除染などで出た放射性廃棄物の最終処分場の検討が今後宮城県で行なわれます [2] (2014年12月の状況).


最終処分の大原則

最終処分の大原則は「国内処分,利用者負担」です.実際にエネルギーを使った人達が全ての処分の負担をすべきです.次の世代に負の遺産を残すべきではありません.しかし,今となってはそれは不可能です.

現在可能なこととしては,たとえば,自然エネルギーへの投資によって後の世代の負担を軽減することがあります.利用者の世代では原子力の負の遺産である廃炉や最終処分が完了しません.ですから,利用者の世代が次の世代のためにできるだけ多く自然エネルギーに投資して,その負担を軽減することを考えなければなりません.そうしなければ,世代間で負担が公平に分配されず,原発の利用者世代が残した負の遺産を次世代に押しつけ,次の世代の発展を阻害する可能性があります.

最終処分の現状に関するやまうちメモ

今回もまとめとして,私(やまうち)の個人的な感想をここに述べさせて頂きます.

原子力発電所は無限に稼動できるわけではなく,廃炉がやがて必要になり,そして最終処分が必要です.核燃料サイクルは40年以上の年月と10兆円以上の予算を使った現在でもまだだめどが立っておらず [3],これが前提の国策は考え直すべき時点に来ているのではないかと私は感じます.世界の他でもこの方法は撤退が続いています.たとえ燃料が再処理できたとしても,再処理の工程で高レベル放射性廃棄物は発生し,廃棄物はガラス固化体として増え続けています(電気事業連合会の資料 [4] より).ということは,廃炉と最終処分という負の遺産が将来に残ることは残念ながら避けられません.

ここでは利用者負担の原則ということを書きましたが,そうする理由は将来の発展のためです.利用者負担の原則を無視する考えもあるでしょう.自分がよければ,子孫や国が将来滅ぶのはかまわないという考えです.民主主義でそう判断することは可能です.しかし,それはいいのでしょうか? 借金を重ねる政策を民主主義で選択し,後に借金を返す時には皆で投票して借金を返したくないから,他の人に負担してもらおうと決めることもできます.民主主義的に決めることはできても,それで済むわけはありません.たとえば,景気を良くすると決めることと,景気が実際に良くなることは全然別のことだからです.明日から 1 + 1 = 3である.1 + 1 = 2 は禁止する.と投票で決めることはできます.しかしどんな決めかたであろうと,決めたことと,現実とは基本的には別のものです.責任をとらないと決めることはできます.しかし,現実はどうか.世界では責任をとらない人は信頼を失い,資本主義では信頼のない人には金はまわってこなくなります.つけがあれば,誰かがつけを払わねばならない.他人はそれを引き受けたくない.それを後世にまわそうとすれば,そのような人々の社会は後に行くほど弱くなることでしょう.利用者負担の原則を守る意味ということは少し考えても良いと思います.

利用者負担の1つである日本のバックエンド資金については,あまり情報がみつかりません.ドイツの積立てを300億ユーロとして本日(2015-7-3)では 1 ユーロ136 円なので,およそドイツにはバックエンド資金は4兆円があり,それで不足と考えられています.この記事[5]によると,日本の電力産業には廃炉費用として1兆4800億円の積立があるとあります.ただドイツの金額はバックエンド資金なので廃炉費用のみではありません.日本のこの金額が廃炉費用のみならば,バックエンドとしてはどれだけの積立があるのかが興味あります.ただ,金額を一概に比較することもできません.というのも現時点では日本の原子炉の数はドイツの2倍以上あるからです.また,日本で不足分を補うために廃炉後も積立てるということですが,廃炉の資金を廃炉後に積みたてるというのは原子炉がない状態で積立てることになります.つまり,原子力で生み出される電気では原子力にかかる費用がまかなえないので,それを水力や火力,あるいは太陽光に転嫁するという意味だと思います.利用者の意見を聞かずに,利用者負担にはせず,利用者の子孫に強制的に負担させることになるのは,どうも納得がいきません.「便利なのものがあるから使ってみて下さい,安くしておきます.」と言い,後で,「借金はあなたのお子さんにつけておきました.」というのは納得いかないです.特にその借金を背負わされる子は納得がいかないのではないでしょうか.バックエンド資金については今後も情報に気をつけたいと思っています.

私個人の意見ですが,日本の将来の発展を阻害する古いシステムの一時的な延命への投資は理解に苦しみます.短期的に多少のリターンがあるとしても,長期的に負となるものは,結果的に国家を衰弱させることが予想できるからです.負の遺産は可能な限り早めに清算してしまうのが良いと思います.

また,原子力発電所には安全保障における負の面もあります.たとえば,アメリカでの原子力発電所計画が躊躇すべき理由としてコストだけではなく,テロによるリスクが大きいという議論があります[6].この議論では,原子力発電所は国土を失なわせる効率的な攻撃目標であり,太陽光や風力などの自然エネルギーの安全性というのは,テロや戦争に対しても強いという議論です.私個人ではそういうリスクを数値としては評価できませんが,他の国で評価の進んでいるこのようなリスクも想定するべきではないでしょうか.

私達の欲しい未来とは何か,子孫達にどこまで負の遺産を作り続けるのか.私達の未来に何ができるのか今後も考えていきたいと思います.そして持続的な発展が私達の未来にあることを願ってやみません.

次回

今回で最終処分についての勉強会でのお話は終わりです.このお話を読むにあたって,いくつかの専門用語がでてきました.私自身,この勉強会に参加する前は,ベクレルとかシーベルトとかいう単位は報道などで聞いたことがあるけれどもどう違うのかよくわからない.ということもあり,このような用語や放射能とはそもそもどういうものなのか,ということを私自身が理解した形でもう少し説明したいと思います.そうすると報道などでどうして違う単位が使われているのかなどが少しわかってくるのではと思います.ですから次回は付録となります.

後記: 2015-6-26(Fri) 経済産業省(宮沢洋一経済産業大臣)は「核燃料サイクル事業」継続策を検討する作業部会の設置を了承しました.

参考文献

  1. 朝日新聞, 国主導で原発ごみ処分地選定、「有望地」提示 閣議決定 (2015-5-22), http://www.asahi.com/articles/ASH5Q335KH5QULBJ002.html
  2. 河北新報, 宮城県知事,詳細調査受け入れ 最終処分場 2014-8-5, http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201408/20140805_11016.html, (Online; accessed 2014-12-22)
  3. 東京新聞, 45年で10兆円投入.核燃サイクル事業めどなく, http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2012010502100003.html, (Online; accessed 2014-10-04)
  4. 電気事業連合会 (The Federation of Electric Power Companies of Japan), 原子力発電について(Nuclear): ガラス固化体(Vitrified radioactive waste), http://www.fepc.or.jp/nuclear/haikibutsu/high_level/glass/, 2014, (Online; accessed 2014-12-21(Sun))
  5. 西日本新聞, 原発解体費4割不足 廃炉後も電気料金で穴埋め 電力9社積立金調査, http://qbiz.jp/article/48036/1/ (Online; accessed 2015-7-3)
  6. Amory Lovins, A 40-year plan for energy, TEDSalon NY2012, http://www.ted.com/talks/amory_lovins_a_50_year_plan_for_energy, (Online; accessed 2014-12-22)
  7. 朝日,原発回帰 再稼働を問う:4核燃サイクル、再開にらむ,http://digital.asahi.com/articles/DA3S11852879.html

最終処分の話をしようや (5): 最終処分の方法

前回は中間貯蔵について話をし,核燃料の放射能減衰のグラフを見て,中間貯蔵の想定している 30 年から50年という短期間では不足であることを見てきました.数万年以上の貯蔵,それが最終処分です.どのようなことが考えられているのでしょうか?

最終処分の方法

地層処分

最終処分の方法として現在現実的なものは地層処分です.驚きですが,以前は核廃棄物を海に捨てる,海洋投棄があったようです.しかし,環境を汚染する海洋投棄は今では国際的に禁止されています.現在では核廃棄物を地中深く掘って埋める地層処分が最も現実的な方法と考えられています.

地層処分では放射線を以下の2つの方法で遮蔽します.

  • 人工バリア: 容器,コンクリート
  • 自然バリア: 地層

このうち,遮蔽効果のほとんどは地中深く埋める自然バリアによってもたらされます.

廃棄物のレベルと国によってどれだけ深く埋めるかには次のような分類があり,異なっています.

  • 低中レベル放射性廃棄物
    • 浅層 (数百メートルの深度(日本等))
    • 中層
    • 深層 (1000m 前後 (ドイツ等))
  • 高レベル放射性廃棄物(+TRU廃棄物)
    • 深層処理

高レベル放射性廃棄物の地層としては次のような候補があり,それぞれ特徴があります.

  • 粘土層:
    • 欠点: 熱伝導率が低く,熱が逃げないので,地層が高レベル放射性廃棄物の熱で乾燥して亀裂が入り,汚染が漏れる危険がある.
  • 花崗岩層:
    • 欠点: 岩盤が硬いので掘るのに莫大なコストがかかる上,地層に地下水がある可能性があり,地下水によって汚染が拡散される.
  • 岩塩層:
    • 利点: 熱伝導率が高く,熱を逃がしやすいので.高レベル放射性廃棄物の熱が拡散される.
    • 欠点: 過去海だったため,どこかに水がある可能性が高く,水によって汚染が拡散される危険がある.

最終処分の地層としては廃棄物を長期間安定に保存するために,以下の条件が求められます.

  • 地層が均一である (均一であれば亀裂などがない,または起こりにくい)
  • 地下水が流れこまない (地下水によって汚染が拡散してしまう可能性がある)
  • 地層の移動がない (移動があると廃棄物が安定して保存されない)

地下水が流れているとか,亀裂があるなどとなると,長期間の保存では保存している核廃棄物が環境を汚染する可能性があります.そのため水(地下水)の有無は重要な条件になります.

最終処分場の事例

地層処分とは,地上から2本の竪坑を掘って,地下に坑道を作って最終処分に適した地層に放射性廃棄物を保管できるようにすることです.

図 4 は,東ドイツ時代にモアスレーベン(Morsleben)で建設,使用されていた低中レベル放射性廃棄物の最終処分場です.地下に壮大な貯蔵場が必要なことがわかります.なお,モアスレーベンの最終処分場は岩塩層が落盤する危険があることから,使用を中断し,閉鎖されることが決定されました.morsleben_1511_3

図 4.写真: 独モアスレーベンの最終処分場構造図 (写真提供: ふくもと氏)

ドイツのゴアレーベン(Gorlben)は当初,放射性廃棄物の総合処理場にする計画がありました.まず,中央中間貯蔵施設が設置されました.そのうちに,そこに最終処分場を設置する目的でその地下岩塩層が高レベル放射性廃棄物に適するかどうかの調査施設が建設されました.ただ,その適性には疑問もあり,これまで調査を中断したり,再開するなどを繰り返してきました.現在は最終処分場の候補地を白紙に戻して,最終処分地を選定するための委員会が国会内に設置されています.gorlben_DSC_0018

図 5.写真: 地層内にある油 (独ゴアレーベン) (写真提供: ふくもと氏)

図 5 は,ゴアレーベン地下調査坑道内の地層の写真です.黒い部分は油のある層で,岩塩層が均一でないことがわかります.

次回

ここまでで最終処分の方法についてみてきました.実際の最終処分場はまだ世界にはほとんどありません.しかし核のゴミは既に存在し,増え続けています.我々の世代はこの負担をしなくてはいけません.でなければ危険なものが処理されずに存在することになります.実際にはどこかにほおっておくという手もありますが,負担そのものはなくなりません.やまうち個人としてはこのほおっておく,放置する,という形の負担はしたくありません.なぜなら,そちらの方が結局もっと高くつくためです.どうせ負担しなくてはいけないのなら安くして欲しいのです.放置しておくという解答は,それで死人が出たり病人が出たり,国土が汚染され利用できなくなるという形での負担になるからです.この負担はどのようになっているのでしょうか? 次回は最終処分の資金についてのお話です.

高雄綾子先生を招いて。

8月30日。横浜市で市民測定所を立ち上げられた代表のひとりである高雄綾子先生にお越しいただき、“食の安全と市民測定所~震災後2年間の活動”と題して講演会を行った。

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福島第一原発の事故以後、友人の中には放射線測定器の購入に踏み切った者もいた。やはり子供を抱える母たちはいち早く敏感だった。高雄先生のお話によると、横浜の市民測定所にはチェルノブイリで活躍したと云われるセシウムを測定するためのATOMTEX 1320Aという測定器があるそうだ。立ち上げ当初、賛同者から寄付を募り、この150万円の機械を購入する事が出来たと言う。この様な高価な装置を用いても食品の測定には大変な労力を伴うと言う。

例えば、水分の多いものほど値が低くなるなど、測定が困難になる。肉や魚などは、非常に細かく刻み、測定中の腐敗を防ぐための処理を施すなど、主婦を中心としたボランティアメンバーたちが試行錯誤を重ね、限られた時間の中で様々な食品の調査をされているということだ。

こうした活動が実を結び、横浜市では、こちらの市民測定所のウェブサイトでの発表を意識するに至り、現在では神奈川県の他の市に比べ、横浜市の自治体による放射線測定数が増え、学校給食での産地の公開などから市民が子供に与える食品を選別する機会が持てる様にもなったということだ。ひとえに尽力された市民測定所のみなさんの努力の賜物である。食品の測定依頼は主に有料で行われ、または既出の測定結果もすべてが無料で公開されているわけではない。これは市民測定所の厳しい台所事情にもあるように、事故後2年を経て、活動を支援する為の会員数が半減するなど人々の関心が薄れつつあることも起因する。

今後、取り組んでいかねばならないことは、水産品の汚染についての測定だろう。今までの汚染状況やこうした測定結果などは、チェルノブイリの事故後にも見られた様子に酷似しているそうだが、私たちは未だかつてなかった大規模な海洋の汚染と云う未曽有の危機に瀕している。

もっともっと、海産品の汚染状況を調べていかなければ。しかし、魚をキロ単位で購入するコストや、セシウムばかりでなくストロンチウムまでもを調べるための機械は1500万円もするばかりか24時間の監視体制も必要だと言う。人々の不安や真実を求める声が、こうした市民測定所の支援に繋がればと切に願う。

本日のお話にもあったように、何をどこまで許容できるかはあくまで個人の問題である。市民測定所は、正しい知識を正確に伝えていく事で、市民がやみくもな不安に陥れられることなく日常を送る事ができる手助けに他ならない。台所を預かる一主婦としても(ジェンダーのみなさま悪しからず)、私の持てる責任は大きいのだな、とつくづく感じさせられる講演となった。

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難しい勉強会の合間に、癒しの歌声がWerkstadtに響く。

ベルリンに在住して間もないソプラニスタ皆川卓志氏が「Amazing Grace」をアカペラでの披露。9月3日のイベントでは、彼の新たな挑戦を見せてくれる。
イベント詳細https://www.facebook.com/events/1409172132630648/

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既におなじみとなった放射線テレックスのトーマス・デアゼー氏にも、来場者からの質問に答えてもらえることとなった。チェルノブイリから27年。未だ汚染の深刻な被害が残るドイツの水道水は調査され続けているのか、食品汚染のその後はどうなっているのだろうか。日本の現況を含め、続きは後日コラムにて。

講演中に発表のあった、日本全国での測定結果の統合を目指すフォーラムはコチラhttp://minnanods.jimdo.com/

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多忙な滞在期間中にも関わらずボランティアでこのような機会を設けて下さった高雄先生をはじめ、デアゼー氏、皆川氏にこの場を借りてあらためて感謝の意を表したい。

最後になるが、今回よりWerkstadtでの室料が発生する事になった。ご協力いただいたみなさまにも感謝したい。また、この日のグッズの収益と募金75.30ユーロは今後の脱原発運動に役立てたい。R

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高雄綾子:フェリス女学院大学国際交流学部専任講師。東京大学大学院教育学研究科満期取得退学。専門は社会教育学、環境教育学。ドイツの環境市民運動が社会の多方面に影響を与えたことに関心を持ち、環境教育の分野からその影響を研究中。

横浜市民測定所共同代表。http://www.ycrms.net/

高雄先生のチェルノブイリ事故後のドイツ市民測定所運動と市民の学びについてのコラム

http://econavi.eic.or.jp/ecorepo/live/series/34

 

内部被曝を考える

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環境フェスティバルの翌日に行った勉強会「東電福島第一原発大惨事の今 ―放射線内部被曝による健康障害―」について、まとめておこうと思います。

今回お話を伺ったのは、岐阜環境医学研究所所長の松井英介医師です。呼吸器学や放射線医学の専門家で、フクシマ以降は内部被曝の危険を訴えて、日本のみならず海外でも積極的な活動をなさっています。かつてベルリンで研究をされていたこともあり、ベルリンは第二の故郷とおっしゃる松井さん。「松井先生」とか「松井医師」という肩書きをつけてより、つい「松井さん」と呼びたくなるような、朗らかで親しみやすい雰囲気の方です。(ということでここでは「松井さん」と表記します)

松井さんは「見えない恐怖 放射線内部被曝」の著者でもあり、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の呼びかけ人の一人でもあります。内部被曝の専門的なことはそちらを参考にしていただくとして、ここでは、今回のお話の中で私が特に興味深いと思った点を挙げておきます。

まず、内部被曝とはなにか、という根本的な問いですが、これは外部被曝(たとえば原爆)と比べると分かりやすいと思いました。外部被曝がおもにガンマ線が外から身体を貫いたときの影響であるのに対して、内部被曝は、身体の中に沈着したさまざまな放射性物質からくり返し長期間にわたって照射される、おもにアルファ線とベータ線による影響です。
内部被曝の場合、影響を及ぼす放射線量は低レベルなのですが、放射性物質が体の中に留まって、そこから放射線を出し続けることにより健康被害が出ます。体のなかに取り入れられた放射性物質は、その性質によっていろいろな部分に溜まります。セシウム137は筋肉や心臓に、ストロンチウム90は骨や歯に、というように沈着して体の中にホットスポットができます。

内部被曝について考える場合、チェルノブイリ事故後の被害をみるのがよさそうです。主にガンマ線による高レベルの外部被曝である原爆の影響は、フクシマ後に微量の放射線を体に取り込み続けている現在の私たちの状況とは違います。しかし、現代の医学の基本にもなっているICRP(国際放射線防護委員会)の基準が、ヒロシマ・ナガサキの外部被曝の影響を元に推定したものなので、体の場所ごとに影響が違う内部被曝については過小評価されているそうです。
被曝の自覚がない人々に深刻な健康被害が出たという点では、イラク戦争で使われた劣化ウラン弾による被害も放射能の「見えない恐怖」を知る手がかりになりそうです。

フクシマが起こってから、必要に迫られて「放射能ってなんだ?」ということを調べだした私にとって、全く実感できないものの存在とその危険性を日々の生活の中で考えるというのはとても難しいことです。今回のお話を通じて、被曝を避ける云々以前に、そもそもそこに危険なものがあるということを突き止めてデータとして出すのが難しいことなのだということがよくわかりました。
たとえば、ホールボディカウンターでわかるのはガンマ線だけ。そうすると、ベータ線しか出さないストロンチウム90やアルファ線しか出さないプルトニウム239は測れない。空間線量を測るガイガーカウンターのようなもので食品の汚染濃度を測ることもできない。
松井さんが問題視していることのひとつに、日本での食品検査の際にストロンチウム90が計測されていないことがあります。ウクライナやベラルーシなど、チェルノブイリの影響が大きいところの調査では、セシウム137とストロンチウム90の許容線量限度値が決められたのですが、日本ではストロンチウム90が無視されています。ストロンチウム90はカルシウムと似ていて、骨に溜まる性質があり、内部被曝を考える上では非常に重要です。検出される量はセシウム137と比べ少ないのですが、ストロンチウム90の健康リスクはセシウム137の約300倍もあるそうです。
旧ソ連でできたことが、なぜ現代の日本でできないのか、などというと語弊はありますが、移住の問題にしろ、検査の問題にしろ、フクシマをめぐる日本の対応を見ていると、チェルノブイリから学ぶべきことはまだたくさんありそうです。

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松井さんのお話の中で、文系人間な私に特に響いたのは、原発というものの歴史的・社会的背景についてです。フクシマは起こるべくして起きたことなんじゃないか、私たちは清算できていない負の歴史の延長線上にいるのではないか、と思いました。原発を考える上で、第二次世界大戦や、原爆や、戦後の原子力政策を無視することはできません。

WHO(世界保健機構)は1959年に「IAEA(国際原子力機関)の了解なしに情報公開・研究・住民救助をしてはならない」という協定を結んだことにより、原子力に関する活動の自由を奪われているそうです。
原子力産業と結びつきの深いICRP(国際放射線防護委員会)が作った基準は原爆の情報をもとにしており、原子力産業に都合のいいようになっています。

「安全だ」「大丈夫だ」と言っている人々や団体は、何を根拠にそう言っているのか。彼らの示す「科学的根拠」はどこまで信用できるのか。背後にどんな権力やお金が潜んでいるのか。集めた情報をどうするのか。そういうことを疑ってかからないと、被害者はいとも簡単に「人体実験」の道具になり得てしまうばかりか、それを傍観する市民は結果的にその無責任な行為に加担するはめになってしまいます。

そんなおおげさな、と思うでしょうが、そこが私たちが歴史から学ばなければいけない核心部分だと思います。
731部隊の資料や原爆の被害者の資料はなぜアメリカに渡ったのか。
戦後に罪を問われなかった「戦犯」たちが何をしたのか。
第五福竜丸の事件後に起きた反原発(水爆)運動はなぜ消えたのか。
核のゴミで作られた劣化ウラン弾とは一体なんだったのか。
ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸を経験した日本人がなぜ「原子力の平和利用」などということに手を染めてしまったのか。
そういう問いは、どこかで「なぜフクシマを経験した日本がまだ原発に頼ろうとし、よりによって外国にまで原発を売ろうとしているのか」という現在の状況に繋がってくるのではないでしょうか。

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内部被曝の恐ろしさを訴える松井さんは「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言をしていらっしゃいます。内部被曝のメカニズムやチェルノブイリの被害などもここで詳しく紹介されているので、ぜひ一読してみてください。
”内部被曝による健康障害の深刻化を食い止めるために、今最も求められているのは、「家族や地域の人間関係を保って放射線汚染の少ない地域に移住し、働き子育てする権利を保障する法」(略称)の制定です。今だからこそ水俣病など公害闘争の歴史に学び、国際的には「チェルノブイリ法」を実現した市民運動に学び、その教訓を生かすべきです。”

松井さんの提言に深く共感する一方で、いまだに収束の見通しすらたたないフクシマの現状や、汚染された瓦礫や食品が全国各地にばら撒かれていることを考えると、早くなんとかしないと、肝心の「放射線汚染の少ない地域」が日本からなくなってしまうのではないか、という気すらします。
何を食べればいいのか、ということに神経をすり減らすだけではなく、未来に向けて社会を変えていく努力をしなければいけないのだと思います。

今回多くのことを考えるヒントを与えてくださった松井さんと、協力してくださった皆さん、どうもありがとうございました。(文責:KIKI)

参考
「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言 http://tkajimura.blogspot.de/2013_04_01_archive.html