ブラウンシュバイク市の福島3・11祈念式に参加して
3月8日にベルリンの反原発デモを一緒に行ったSchacht Konrad(コンラート立坑)の招待で3月10日にブラウンシュバイク市の福島3・11祈念式に参加してきました。ベルリンの準備グループに加わっていたユリアーネのお父さんのペーター・ディッケル氏がベルリンに用事(ドイツ環境大臣との会合)で来ていたので、彼の車に乗せてもらってブラウンシュバイク市に行きました。そのペーターさんは筋金入りの活動家で、すでに反原発運動を35年も続けて来ているそうで、シャハト・コンラート運動の中心人物です。シャハト・コンラートは100年以上前から1970年代まで鉄鉱石を掘り出す鉱山でした。非常に乾燥した鉱山ということで、連邦政府がドイツの核廃棄物の最終処分場の候補地として指名し,75年から調査が始まりました。その時からディッケル氏は反対運動に主体的にコミットしています。
ドライブの途中に核廃棄物処分地のMorsleben(旧東独)とSchacht Asseを外から見学しました。Morslebenは塩山として使われた後、東独時代に核廃棄物処分地として指定され、統一後は連邦政府に引き継がれました。住民は現在反対運動を起こしています。ベルリンから同乗したのが運動の代表を務めているフックスさんでした。Schacht Asseは同地から10キロぐらい離れた旧西ドイツ側にあるやはり元塩山で、1995年から2004年の間に16100樽の核廃棄物が運び込まれました。ところが地下水が流れ込み、金属製の樽を浸食し始めたのです。ディッケル氏によれば、鉱山の現場の人たちはその危険を指摘していたそうです。そこで2008年に運び込みがストップされ、最終的に取り出すことになりました。しかしウランが25キロ、危険なプルトニウムが6キロなども入っていて、どのように取り出すか、現在議論されています。3月初めにヘンドリックス環境大臣(Barbara Hendriks,SPD)がここを訪れ、正直言ってどう、またいつ運び出せるか分からないと途方に暮れている様子が報道されました。ちょうどそのニュースを見た記憶があったので、余計にInfo-Hausで展示されていた半壊した樽の写真が印象深かったです。次にSchacht Konradを見学しました。ここにはまだ廃棄物は運び込まれていないそうです。地域の人の反対が強いからだそうです。ディッケル氏の話では、福島の事故の後,地域の人たちによるキャンドル記念連帯の夕べには2万8千人が蝋燭を手に沿道に並んだそうです。素晴らしく感動的なシーンだと言っていました。
5時半頃にやっとブラウンシュバイクの市庁舎前の広場に到着しました。すでに50人以上の人が三々五々と立って、集会が始まるのを待っていました。反原発のポスターやフライヤーなどを並べたテーブルもありました。司会役のマリアさんが挨拶に来ました。僕がトップバッターだとのこと。夕方6時過ぎに150人ほどが集まり、祈念式が始まりました。僕は用意したドイツ語原稿を読み上げました。後から話した皆さんのようにフリーに感情込めて演説を打つのはドイツ語では無理です。福島をめぐる日本の現状を報告しました。そして、みなさんの連帯をこれからも必要としているという言葉で結びました。
ドイツ語演説全文Rede an der Schacht Konrad
映像でご覧になりたい方は:
その後4人(ペーターさんも)の話が続き、1時間ほどで式を終えました。みなさん本当に息の長い運動をして来ているなという印象を強く感じました。
7時過ぎに市庁舎内の政党議員室(彼らの市民連合による政党)で10人ほどの参加者に質問に答える形で日本の現状について多少詳しい話をしました。原発からの撤退はもちろん重要だが、まず汚染区域から子どものいる家族を優先して移住させるべき方向に運動の目的を決めるべきだと述べました。それと汚染水問題も含めて福島の問題解決がまったく宛にならない東電の手に握られているのが大きなジレンマだということを強調しました。
帰宅は最終電車に何とか間に合いました。
最後にディッケル氏から『Atommüll(核のゴミ)』という270頁にもなる本を頂きました。昨年の8月に行われた全国の活動家による「核のゴミ会議」で発表されたデーターをまとめた本です。10日の朝ヘンドリックスドイツ環境大臣に渡したところ、ドイツの90か所の処分場をすべて網羅したこのような資料がほしかったのだと誉められたそうです。本来なら金もマンパワーもある環境省が作成すべきなのだと彼は半分怒っていました。これをみてもいかにドイツの反原発運動と環境運動が大きな勢力になっているかが分かります。日本の反原発運動も原子力村がごまかせないようなデーターを集め,突きつけられるように早くなりたいものです。
福澤