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核へのレジスタンス

ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年

高橋博子氏の演説

©Hiroko Takahashi

本日2025年8月6日は、アメリカ合州国政府による広島への原爆攻撃から80周年にあたります。この攻撃による「爆風」「熱射」「放射能」によって残酷な被害をもたらしたこと。そのことを正面から考えなくてはなりません。

この原爆攻撃によって何が起こったのか。現在に至っても核被災の実態は人類共有の体験として充分には共有されてきておりません。とりわけ核のフォールアウトの人間や環境への影響については実態が隠されています。その理由としては、第1に、原爆の影響については日本占領期に情報統制があったこと、第2に、放射線影響研究そのものが軍事機密情報として扱われ続けていること、第3に、米国政府は原爆の威力については公表するけれども、国際法違反に問われかねない情報については公表せずにきたことがあげられます。そうした中で核被災者の救済や援護は国際政治の中でも国内政治の中でも構造的に放置されてきました。

広島・長崎の場合、爆風・熱射・放射線が生じますが、原爆の炸裂後1分以内に発生する放射線を初期放射線、それ以降に発生する放射線を残留放射線という。残留放射線のうち放射性物質がチリ・ほこり・雨などに付着して広い範囲に降下することを核のフォールアウト(放射性降下物)といいます。この影響は過小評価され、核被災者の救済や援護は国際政治でも国内政治でも構造的に放置されてきました。核被災者を軽視することから、更なる核被災者が出てきているのです。

米ソ冷戦下「国家安全保障」の名の下で、国家レベルでは核被災者は放置されてきましたが、ジャーナリスト・科学者・知識人、そして市民による実態解明・救済活動はこの80年様々な形で実施されてきました。フランスでも1959年に公開されたアラン・レネ監督の映画『HIROSHIMA MON AMOUR』は広島での悲惨な原爆の影響を示す映像を使用しました。

グローバル・ヒバクシャによる運動も高まってきました。逆に訴えなければ何も救済されない80年間だったのです。原爆症認定集団訴訟、広島「黒い雨」訴訟、ビキニ水爆被災訴訟、長崎被爆体験者訴訟、福島原発訴訟と核被災者は裁判に訴え続けてきました。いずれも直接的・間接的の違いはあるものの被告は日本国政府です。日本政府はアメリカによる原爆攻撃直後、毒ガスの使用や不必要な苦しみを与え続ける兵器を禁止したハーグ陸戦条約違反だとしてスイス政府を通じてアメリカに抗議しました。しかし日本政府による抗議はこれだけです。現在に至るまで80年にわたって、日本政府は抗議するどころかアメリカと一緒になって原爆の残虐性を否定し続けています。日本外務省の公式な見解としては「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です」、「核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険に晒(さら)すことを容認することになりかねず、日本の安全保障にとっての問題を惹起(じゃっき)します」などと言って核兵器禁止条約にも参加しません。それどころかアメリカと一緒になって核兵器の残虐性、とりわけ残留放射線・内部被曝・フォールアウトの影響を過小評価したり否定しているのです。また、放射線被ばくは成長する子どもたちにとりわけ大きいことは早くからわかっているにも関わらず原発事故の影響も含めて子どもたちへの影響は隠されてきました。

こうした日本政府に対して、私は幾つもの裁判で、放射線人体研究が人を救うためではなく、核戦争の準備や放射線兵器の開発のため、いかに医学研究として問題があるのかについて歴史的に検証した意見書を提出してきました。これは私の「原爆投下肯定論」「核抑止論」「戦争正当化論」に対するレジスタンスです。そして未来を核被災から守るためのレジスタンスなのです。

核によって脅すことも脅されることも、被害者になることも加害者になることも、核被災を隠蔽することも隠蔽されることにも、レジスタンスすることを呼びかけます。

右側が演説をする高橋氏(左は通訳の飛幡祐規さん)

高橋博子:奈良大学文学部 史学科 教授、広島・長崎原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証研究で知られる。この演説は、2025年8月7日から10日にかけて行われたフランス・ノルマンディー地方での大きなレジスタント(抵抗)フェスティバルで、ナガサキ原爆投下80年の8月9日に行われた。

広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏の ベルリン訪問同行報告

2025年5月20日から22日までIPB(国際平和ビューロー)とドイツICAN 、ドイツIPPNWから要請を受け、広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏がベルリンを訪れた。もともとドイツの大統領Steinmeierに「世界で初めて核爆弾が落とされてから80年経つ今年、被ばく者の生存者を招いて話を聞いてほしい」という手紙をICANが出し、署名運動で市民の署名もかなり集めて返事を待っていたが、回答をかなり待たされた挙句、結局「今の地政学的状況では難しい」という(おそまつな)答えが返ってきてしまった。それで、国に被ばく者を招いてもらうというアイディアが叶わなくなったが、それでも今年はぜひとも被ばく者の話を直接聞きたいということで、資金的余裕のあまりないIPBとICAN、IPPNWが原水協にも参加してもらうことで、佐久間氏の訪問が可能となった。今回の訪問にはそれもあって原水協事務局次長の土田弥生さんと、学生で原水協で「個人理事」という肩書で活動している小薬岳氏が一緒に訪れた。ベルリンの後は、中立の立場を捨ててNATOに加盟したばかりのフィンランドのヘルシンキで行われる平和フェスタにも訪れた。 ベルリンでのたった三日の滞在で予定されていたのは、原爆投下がトルーマン大統領によって決定されたポツダム会議近くにあるトルーマンが滞在していた館の向かいに作られている「ヒロシマ・ナガサキ広場」訪問、ベルリンのFriedrichshain区Volkspark公園内にある平和の鐘訪問、社会民主党SPDと左翼党Die Linkeの議員やSPD寄りの基金Friedrich-Ebert-Stiftung、左翼党寄りの基金Rosa-Luxemburg-Stiftungとの話し合い、メディアとのインタビュー、それから最後に一般の市民が参加できるイベントだった。私はこの佐久間氏のベルリン滞在で通訳を務め同行する機会を得たのでその報告をする。

佐久間氏は生後9か月で被ばくしたため、原爆投下自体に自らの記憶はないものの、爆心地から2.8キロのところにあった自宅で被ばくし、母親の背中に背負われて避難所に避難する間に黒い雨に降られたということだ。十歳から十一歳の頃、腎臓、肝臓を患って長い間闘病をしたときの苦しみがトラウマになっている、と彼は語った。でも、それより私が心を打たれたのは、ドイツのntvの若い実習生が行ったインタビューで佐久間氏が話したことだった。この実習生だという女性は、インタビューを行うにあたってとても丹念に佐久間氏の経歴、体験談を勉強してきていた。それだけに、佐久間氏がこれまでもよく語ってきたことはすでに知っていて、それ以上のことを質問できるよう、準備してきていた。彼女は81歳になる彼に「被団協の事務所まで毎日自転車で通っていると読みましたが、それはどうしてですか」と訊いた。佐久間氏はにっこり笑って、かなり前にさかのぼって話をし出した。

自分は定年が迫る数年前、2006年にある銀行に出向して働くことになった。そこで、ちょうど広島原爆投下後写真を撮った中国新聞社写真部員だった松重美人(まつしげよしと、注1)氏の写真展が開かれていた。その写真に写っている人々の姿や町の様子を見て、自分はそれまで被ばく者だということを公に語らないできていたが、自分もここにいたのだ、ここに写っている人たちの一人なんだ、と確信した。自分でそのことを認め真っ向から向かっていかなければ、この体験をめぐるあらゆる問題を乗り越え、前に進んでいくことはできないのだ、と悟った。それで初めて、60になってからやっと被ばく者であることを名乗り出ることができた。それで被団協にも入り、自分の体験を語り、二度とこいうことが起きてはならないということを自分も積極的に訴えていくようになった。定年後時間ができたこともあり、被団協で被ばく者を対象にアドバイスをする仕事をボランティアで始めた。広島というのはそんなに大きな都市ではない。街は自転車で西から東まで1時間もあれば行けるほどの大きさであり、うちから事務所も遠くない。しかも、被団協で仕事をしていると、役所に行ったり、ほかの場所に行ったりとなにかと動かなければいけないことが多い。健康にとってもいい、公害は出さない、小回りが利き便利だ、というので、それで自転車で通うようになった、そう語る佐久間さんは微笑みながら、とても前向きな姿勢に溢れていた。

いつも自転車に乗って通っていらっしゃるというだけあって、佐久間さんは81歳とは見えないお元気なお体で(だからドイツまでもいらっしゃったわけだが)脚も達者、階段もすたすたと昇り降りしていらした。そして、60になってやっと被ばく者であることを明かすまでの思い出話を、語ってくれた。

広島出身であることはあまり語らない方がいい、そのことはできれば隠していた方がいいのだ、ということを小さい時から言い聞かされてきた。被ばく者が子どもを産むと奇形児が生まれる、病気になりやすい、という差別があり、誰もそのことに関して話さないのが当たり前だった。親戚からもその話はしてくれるな、と言われていた。しかし広島にいる限り、そのことが心の負担になるので、高校を出た時に、すぐに広島から抜け出したいと思って上京した。そこでまずホテル業界で働くための大学に行き、勉強し、その後縁あってヒルトンホテルに就職することができた。しかし、そこでの仕事があまりに苛酷だったため、やめざるを得なくなり、別の仕事を得た。そのうち、ある女性と恋をした。将来も一緒になりたいと真剣な付き合いだったので、彼女には自分が広島出身であることも話した。ある時、彼が里帰りするとき、彼女も同じ方向に故郷があるので、いずれ結婚するなら彼女が親に紹介したいというので、一緒についていった。しかし彼女の両親は、彼が来ることを(彼の存在も?)知っていなかった。彼女のうちに到着して、玄関で待つように言われ立って待っていると、中から彼女が母親と話をしているのが聴こえてしまった。「広島の人なの?」という言葉だった。そして、結局彼女の両親は彼を迎え入れてくれなかった。彼女の様子から、広島出身の彼は彼女の夫として望ましくないと思われていることが掴み取れた。その時佐久間さんは、彼女と結婚しようと望むことはできないのだ、彼女にそれ以上負担をかけるわけにはいかないと悟り、広島に戻るしかない、と東京での生活をやめて、広島に帰る決心をして戻ったという。ここでは佐久間氏はそう言わなかったが、話の前後から、広島に戻ったこの時はそれでもまだ、「自分は被ばく者だ」ということを人前では公表しなかったのだ。

日本語がわからない若いインタビュアーにこの話を語った佐久間氏のすぐ横で、彼の言葉を訳しながら、私も思わず熱がこもり、夢中でドイツ語にした。証言の強さというのはこういうことではないのか。被ばく者、生存者、というのは単に原爆が投下された時にそこにいて肉体的物質的被害を受けた体験者ということではない。それだけでも惨く、長期にわたって苦痛を強いられることなのに、それ以上に人間としてそれをもとに受け忍んできたありとあらゆる悲劇、ドラマが一人一人の人生残体にのしかかっているのだ。そして、同様のことがフクシマでも起きていることを私たちは何度も耳にしてきたではないか。自分の過失ではない理由で甚大な被害を被った挙句、差別を受け、陰口を叩かれ、賠償や支援を受ければ受けたで妬まれたり罵られたり、そのことを語らない方が家族のためだ、語れば損だ、と出身地や体験を隠さざるを得ない人たちが今もどれだけいるか…

1957年(昭和32年)に原爆医療法が施行され、旧長崎市および広島市、そしてその隣接区域にいた人約20万人を対象に被爆者手帳が交付された。1962年(昭和37年)には被爆した場所が爆心から2km以内から3km以内の直爆被爆者に拡大された。佐久間氏のお母さんはそれまで一切自分たちが被ばくしたということやその時の体験を話そうとしなかったが、被爆者手帳を交付してもらうため、初めてそのときのことを語ったので、佐久間さんも話を聞いたのだという。その時に、彼が原爆投下直後、母の背中に背負われ、避難所に逃げる途中で黒い雨に降られた話も知ったのだ。この被爆者手帳を交付されることは本当に画期的なことで、それまでは生活が苦しく、医者にもかかれない人たちがたくさんいた。一定の条件を満たしてこの被爆者手帳を支給されれば、とにかく医療給付してもらえ、健康診断を受けられる。

これは今回のインタビューでは語られなかったことだが、いただいていた資料の中にあった彼の証言の中に、次の項目もあった。ABCCが1950年代に調査した黒い雨に遭った1万3千人ほどの調査資料が放影研に放置されていたということが2011年10月ころ明らかになり、彼も開示請求をした。すると届いた彼のデータ用紙には、黒い雨にあったか、というチェック項目のところでしっかりYESにチェックがしてあったという。

佐久間氏のお母様も1963年に乳がんと診断されて摘出手術を受けてから、その後も原因不明の病気に苦しみ、入退院を繰り返しながら1998年に亡くなったということだ。

昨年秋にノーベル平和賞を受賞した際、その理由の一つとして「被団協は被ばくの実相や悲惨を語るたゆまぬ努力を続けてきた。そして核兵器の使用は道徳的に容認できないと強力な国際規範が形成され、「核のタブー」として知られるようになった」ことが挙げられた。しかし佐久間氏は今、その核のタブーが壊されようとしている瀬戸際に立っていると感じているという、その危機感について何度も語った。

日本から一緒に来られた原水協の土田さんは、ノーベル平和賞受賞後、祝福のために被団協の代表を招いた石破総理が、祝福の言葉を言いながら同時に「核抑止力の必要性」を語ったため、怒り心頭に達したと話していた。トランプがNATOやEUを脅し、これまで通り有事に米国に助けてもらえなくなる可能性が強まったと、ヨーロッパでも急激にフランスの核兵器をEUの核の傘にしよう、などという話が急に当たり前のようにされるようになってきている。急激にどの国も軍拡に舵を切っており、GNPの2%どころか、5%を目指す国も出ている(ドイツ新政府の外務大臣もそれを目標とすると語った)。NATO事務総長のルッテは、加盟国はこれからどこも3.5%を目指し、1.5%を軍事用インフラストラクチャー整備に充てるべきだ、など発言している。冷戦が終わって35年、またまた世界は軍拡競争に突入している。

ドイツでは、この前の連邦議会総選挙で票を伸ばした左翼党の賛成を得られないことを見越し、新政府発足前の古いメンバーの連邦議会で特別財産基金設置を決め、防衛費については債務ブレーキの適用対象外として「上限なし」で借金してもいい形になってしまった。新政府でも引き続き防衛大臣を続けることになったSPDのピストリウスは(前総理のScholzよりも人気があったそうだが)前の政権時代にすでにドイツの防衛軍は「kriegstüchtig」(戦闘能力を十分に備える、とでも訳せばいいのか? 私の耳には「戦争ができる国」という形容詞に聞こえる)にならなければならない、と言ったことで有名だ。メルツは選挙運動の間「まだ十分発電できた優秀なドイツの原発を信号政権が無理やり止めてしまったので、それをまた再稼働させたい」「せめてそれ以上の廃炉工事はストップする」などと非現実的扇動的な話をしていたし、首相になった途端にマクロンと会って「SMRをフランスとドイツ共同で建設する(したい)」計画を発表した。核融合発電という夢物語も捨てていないようだ。

要するに、ドイツも日本と同じように(必要とあらば自国でも核兵器が作れる可能性を保つべく)核技術を捨てたくないという姿勢がありありだ。それで、トランプだけでなくロシアのウクライナ侵攻とプーチンによる威嚇、ガザでの戦争を始めとする中東の緊迫状態を理由に「核抑止力」「核共有」「核の傘」といったキーワードがことさら繰り返されるようになってしまった。石破首相は「ウクライナは明日の東アジアだ。アジア版NATOを作り核共有を進めたい」とまで言及している。

核兵器禁止条約の3回目の締約国会議が今年3月開かれたが、去年まではオブザーバーとして参加していたドイツは、今年参加しないことをその会議直前に公表した。それに今年はアメリカの核の傘のもとにあるNATO加盟国からのオブザーバー参加国が一つもなくなったという。初日は、NATO加盟国からアルバニアがオブザーバー席に姿を見せていたのに、2日目には会議直前になってアルバニアの国名の表示が消えたそうだ。過去2回続けて参加していたドイツとベルギー、ノルウェーが今回は参加しなかった。これが現在の「核兵器禁止条約」をめぐる国々の姿勢であり、それがドイツ連邦大統領が今年、被ばく者を招くことを断った背景なのだ。

連邦大統領シュタインマイヤーとの会合は叶わなかったが、今回の被団協を代表しての佐久間さんと原水協の土田さんの訪独では、防衛費の底なしの増額にも中距離ミサイルのドイツでの配備にも反対している左翼党の連邦議員(Nordrhein-Westfalen州)で防衛委員会に入っているUlrich Thoden氏、それから連合政府に入っている社会民主党SPDの中でも「核抑止力」に反対する少数派の声であるRalf Stegner氏(Schleswig-Holstein州)と連邦議会の議員会館で会合することができた。左翼党は新しい連邦議会の中でも重要な野党なので当然だが、連合政府に入っているSPD議員のたった一人でも、忙しい中、佐久間さんの話を聞く時間を取ったという事実はポジティブに認識すべきだと思う。SPDの中でも彼の立場は微妙でだが、それでもその中で「核抑止力」に異議を唱えている声があり、議員として新総選挙でも選ばれているということは好ましい。そして彼のような「少数派」の声も、連合政府に参加して軍拡にどんどん力をいれているSPDの中で訴え続けてほしいと願うばかりだ。

議員や基金との話の中で佐久間氏が必ず「防衛費を上げれば上げるほど、社会保護への支出(教育や医療を含む)が削られるのは目に見えている。しかし、市民を守るということは、軍拡し「抑止力」を高めることより、日常の生活で一人一人の暮らし、健康を支えることのはずだ」ということを語っていたことが心に残った。実際に政治決断の場に参画している議員たちにそのことを訴えるのは大切だし、それをしっかり聞く耳をもつ議員と話ができたことは有意義だったと思う。核兵器は、闘うための「武器」ではなく、単に「無差別殺戮兵器」に過ぎず、本当に核兵器が落とされれば、どこにも勝ちも負けもないのだ。そんなものをいくつも持つということ自体が狂気の沙汰であり、国の名、その時の政府や権力者によって始められる戦争で、被害を受けるのは何より罪のない弱い市民だ。人の手で始められ、つくられる核兵器、戦争は人類の手でなくさなければならない、ということを佐久間氏はしっかり訴えた。また、無差別の大虐殺、という点で、今ガザで行われている戦争に対しても極めて憂慮しており、即刻停止すべきであり、ほかの国も声を上げるべきだ、という話も忘れずにされていた。日本政治の問題点に関しては、原水協の土田さんが詳細に英語で話されていた。 二日目の夕方は、いつもSNBのデモにも協力してくれるベルリンの平和の鐘のグループが佐久間氏たちを招き、鐘のもとに集まった。この平和の鐘というのはもともと、政治・宗教・人種にとらわれることなく、世界平和祈念を目的に世界から集められたコインやメダルを溶かして鋳造した鐘であり、ニューヨークの国連本部にも広島など、世界各地にある。ベルリンの平和の鐘でも毎年8月6日に記念式典が開かれ、鐘が鳴らされるが、平和の鐘協会代表のAnja Mewes氏は被ばく者を代表してベルリン訪問される佐久間氏にぜひ訪れてほしいと招待し敬意を表し、ぜひ鐘を突いてほしいと佐久間氏たちにもお願いして、希望を叶えてもらっていた。

平和の鐘を背後に「No more Hibakusha」の旗をもって             (今年のSNBのモットーと同じ、とつい3月のデモの写真をお見せしてしまった)

スケジュールとスケジュールの間、連邦議会議員会館から移動する途中で「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」と「国家社会主義の下で殺害されたシンティとロマの記念碑」を訪れ、(写真)Rosa-Luxemburg-Stiftungの帰りには近くのイーストサイドギャラリーの壁を見に行った。

最後の公開イベントは、IPBの事務所のある(私がよくGreen Planet Energyとデモの相談で通ったMarienstr.の建物に入っている)会場で行われた。メディアで来ていたのは日本の赤旗、共同通信のほか、ドイツのものではntv以外に、残念ながらドイツ/ベルリンのメディアは一つも来ていなかった。このイベントは外国や会場に来られない人にもオンライン配信されたため、英語で行われることになっていて、私はここだけは不本意ながらも英語で通訳しなければならなかった。私の英語能力はかなり衰えていて、ドイツ語ほどの細かいニュアンスをしっかり訳せなかったという悔いが残ったが、とにかく無事に大役を果たし終えてほっとした。しかし三日ぎっしり通訳をし続けたのでその後はかなりへとへとになって消耗しきり、数日間使い物にならなかった。

いろいろな人々との交流の中で印象に残ったのは、佐久間さんに対して「学校など、若い世代に対する体験の継承をどう行っているか」という質問があらゆるところで出されたことだ。ドイツは「Erinnerungskultur(記憶文化)」を実践していることを誇りすぎている向きもあるが、確かに日本と比べるとナチス時代のおぞましく恥ずかしい過去と向き合い、それをできるだけ正確に次世代に伝えようという試みがずっと当然の教育指針の一つとして行われてきている国であることは間違いない。学校の遠足でKZ(ナチス強制収容所)を訪れたり、証言者を学校に招いたり、迫害された人たちの話をテーマにした本を授業で扱ったりするのは珍しいことではない。先日103歳で亡くなったホロコースト生存者のMargot Friedländer 氏も、結婚してアメリカに暮らしていたが、過去のことを話したくなかった夫が亡くなって88歳になってからドイツに戻り、体験談を語り始めた人だ。彼女はことに学校を回って若い生徒たちを前に証言していくことをずっとやり続けた人だった。「話すことができなかった人たちのためにも語るのが私の使命だ」と言い続け、若い世代に対して「人間であれ」という言葉を繰り返し伝えた。

広島や長崎の原爆資料館を修学旅行で訪れる高校生などもいることはいるが、漫画の「はだしのゲン」が数年前から平和教育副教材から削除されたり、高校の歴史の授業でも第二次世界大戦のことは扱われないなど、日本では歴史の「継承」を実践する気が教育委員会側にあるとは思えない状態だ。学校を被ばく者が回って体験談を話すというようなことは従って行われず、被団協を始めとする一部の市民団体やイニシアチブが企画して若い人を対象にそうした場を提供するか、自ら興味をもった人が被ばく者団体に接したり勉強したりするほかは、なかなか接点が生まれないのが実情なようで、それには「誇れない過去をなかったことにしたい」「歴史の教科書を書き換えたい」歴史修正主義者たちが権力を持っている社会であることが、ここでも影響しているのだと思う。ことに、広島・長崎の原爆投下に関しては、日本が侵略戦争を始めたという事実、他国を植民地にし、そこの住民たちに強制労働を強い、あらゆる物資資源を搾取し、大量虐殺もおこなったという事実を顧みず(ましては否定し)、「原爆という恐ろしい新型兵器の被害者になった」というストーリーに徹して、反省をしていない今の政治の指導者たちを見ていると、その中で「市民一人一人の当然な人権」としての平和を求める運動を続けていくことの難しさも、重要性も実感する。

今回の被ばく者を招く企画で私が気になったのは以下のことである。確かに貴重な体験談を実際に被ばく者から話を聞くというのは、単に証言者の話を読んだり、画面越しに見たり、間接的に話を聞くより、ずっと心を動かすものであるし、インパクトは大きい、それは確かだ。

しかし、実際にヒロシマナガサキ原爆投下から80年経った現在、生存者は皆、高齢者ばかりだ。佐久間さんは生後9か月の時に被ばくしたから「まだ」81歳だが、被ばくの記憶がある方たちのほとんどは80代後半であり、その彼らをはるばるヨーロッパまで連れてきて、長い飛行機の旅や時差ぼけから少しでも回復する時間の余裕も与えずにハードスケジュールで、しかも節約した移動(交通)手段で連れ回すのは、あまりに苛酷であり、被ばく者の方々に対する礼儀、思いやりに欠けてはいないだろうか。

今回は「なけなしのお金」をIPB、ドイツICAN、ドイツIPPNW、原水協が出し合って、フィンランド・ヘルシンキ訪問とも組み合わせることで、佐久間さんの訪独を可能にしたということだが、早朝にベルリン空港に到着したばかりの彼らを夕方、普通のS-Bahnでポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場にお連れして長時間、夏の様な日差しの下、外で話をしたり、二日目も、すでにいくつもの予定をこなしたあとで、遠いFriedrichshainのVolksparkにある平和の鐘まで連れていくなど、佐久間さんは文句の一つも言わずこなしていらっしゃったとはいえ、私はあまりにも配慮を欠く対応なのではないかと思わずにいられなかった。コストを抑えるためとはあっても、せめてレンタカーを借りて移動する、タクシーをもっと使う、などをして佐久間さんの負担を減らしてあげることはできなかったのか、それから到着した日はせめて何の予定も入れず休んでいただく、という風にはできなかったのか、と思う次第だ。それから、被団協や原水協の方でも、せっかく企画を立てて招待されたから、わがままを言っては悪い、というような日本的な遠慮をせずに、ご高齢の被ばく者の方たちの海外でのプログラムがあまり負担にならないよう、「到着当日は何も予定しないでほしい」とか「移動はなるべく車でしてほしい」とか、最低限の条件を付けて被ばく者の方たちを守るべきではないか、とも思う。また、ベルリンの公共交通機関ではまだまだバリヤーフリーが徹底していなくて、私はできる限りエスカレーターやエレベーターを探したのだが、それでもないところがいくつもあったのも、いつものことながら気になった。

それでも、佐久間氏とお会いしたこと、お話を直接伺えたこと、また彼の訴えを私がドイツ語にしながらドイツの議員や基金で働く人たちに伝えることができたのはとても有意義なことで、学ぶこと、考えさせられることが多かったので、こうした機会に恵まれたことに感謝している。コーディネーションをしたIPBの代表であるアメリカ人のSean Conner氏や副代表のイタリア人のEmily Molinari氏、ドイツICANのAicha Kheinette氏のチームはとても感じがよく、一緒に話をし、行動する時間が長かっただけに、個人的にも親しくなれたことも嬉しい。ある大きな目標に向かって、皆、それぞれができる範囲で、出来る形で活動し、力を合わせていくことが何より大切だと再確認した。そういう意味でも、さらにネットワークが広がったことを喜びたい(ゆう)。

注1:松重美人氏https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8D%E7%BE%8E%E4%BA%BA

注2:ICANでもこの佐久間氏のベルリン訪問に関する記事を発表している。https://www.icanw.de/neuigkeiten/hibakusha-kunihiko-sakuma-zu-besuch-in-berlin/

Dokumentarfilm „Silent Fallout“ (Leiser Fallout, mit deutschem Untertitel)von Hideaki ITO aus Japan anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki

Im August 2025 jähren sich die ersten Atombombenabwürfe auf Hiroshima und Nagasaki zum 80. Mal.


Leider ist die Welt die Angst vor dem Atomkrieg nicht losgeworden, vielmehr ist die Bedrohung heute stärker denn je. Und ohne den Einsatz von Atomwaffen in einem Krieg gibt es seit der Entdeckung der Kernspaltung und der ersten nuklearen Kettenreaktionen überall auf der Erde Strahlenopfer – sei es von Atomtests, von Atomkraftwerken oder vom Uranabbau. Man übersieht meistens die Tatsache, dass man selbst betroffen ist.

Gerade jetzt, wo die Gefahr eines Atomkriegs wieder hoch aktuell geworden ist wie noch nie, ist es von großer Wichtigkeit, uns nochmals bewusst zu machen, was radioaktive Strahlen anrichten können. Um das Thema – anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki – stärker ins Blickfeld zu rücken, schlagen wir Sayonara Nukes Berlin (nachfolgend „SNB“), vor, gemeinsam mit euch eine Filmvorführung zu veranstalten, bei der ein besonderer Dokumentarfilm gezeigt wird, der nun mit deutschen Untertiteln verfügbar ist.


Der Film vom japanischen Filmemacher ITO Hideaki „Silent Fallout“ (Leiser Fallout) taucht tief in die unerzählten Geschichten der Opfer von Atomtests in Amerika ein. 1951 begannen die USA mit Atomwaffentests auf dem Festland und setzten unzählige Bürger einer gefährlichen Strahlung aus. Mary Dickson, die in den 1950er und 1960er Jahren in einem Vorort von Utah aufwuchs, wurde Zeugin, wie ihre Mitschüler in der Grundschule an ungewöhnlichen Krankheiten und Todesfällen starben. Gleichzeitig führte Dr. Louise Reiss in St. Louis, Missouri, eine bahnbrechende Studie durch, bei der sie Milchzähne sammelte und das Vorhandensein von Strontium-90, einem radioaktiven Element, in den Körpern von Kindern nachwies, die der Strahlung in ganz Amerika ausgesetzt waren. Dies veranlasste schließlich Präsident Kennedy zu dem Beschluss, die atmosphärischen Atomtests einzustellen.

Mit Berichten von Betroffenen aus erster Hand und Interviews mit Wissenschaftlern will Filmemacher Ito mit seinem Film das Bewusstsein für das gravierende Problem der Strahlenvergiftung und der nuklearen Verseuchung in den USA und weltweit schärfen. „Silent Fallout“, der die wahre Dimension der weltweiten radioaktiven Verseuchung, insbesondere durch Tests im Pazifischen Ozean und in Russland, aufzeigt, ist ein Muss für jeden, der sich für die dunklen Kapitel der Geschichte und ihre anhaltenden Auswirkungen in der heutigen Zeit interessiert, und bietet eine Fülle wissenschaftlicher und historischer Informationen sowie Berichte der Opfer aus erster Hand. Der gut geschnittene Film hat die Qualität eines guten Erzählfilms und ist ein wirkungsvolles pädagogisches Instrument.


Der Filmemacher Ito verzichtet bewusst auf feste Vorführgebühren, damit möglichst viele Menschen diesen Film anschauen können, aber freut sich über jede Spende von Zuschauergästen und/oder Organisationen, die die Filmvorstellung organisieren. Der Film ist auf Englisch mit deutschen Untertiteln, und ist 70 Minuten lang.


Nach der Vorstellung kann man entweder per Skype oder direkt ein Gespräch mit dem Regisseur (SNB stellt eine Dolmetscherin zur Verfügung) anbieten. Herr Ito plant, im September/Oktober eine Filmvorstellungstour durch Frankreich zu machen und könnte je nach Bedarf und Einladung auch nach Deutschland kommen.


Wir würden uns sehr freuen, wenn möglichst viele Menschen in Deutschland die Gelegenheit bekämen, diesen beeindruckenden Film anzuschauen.


Filmvorführungen können auch in kleineren Rahmen veranstaltet werden, d.h. der Film darf überall, egal in kleineren Gruppen von Menschen, oder in Kinos, Theatern, Universitäten, Schulen, Vereinen oder Firmen gezeigt werden.


Bei Interesse schreibt eine Mail an:
Silent Fallout promotion team in Europa: (SilentFallout_projection_eu@protonmail.com )

Filmemacher Hideaki ITO:
Geboren 1960 in Japan. Seit 1990er Jahren ist er als Filmemacher tätig. 2004 fing er an, über die Fischerboote Japans zu berichten, die 1954 im Pazifik verstrahlt worden waren im Zuge der Atomtests durch die USA im Bikini Atoll, und seitdem setzt er sich mit dem Thema Strahlenopfer auseinander. Der Dokumentarfilm „Silent Fallout“ aus dem Jahr 2022 ist sein dritter Film über dieses Thema. Er wurde in den USA erstmal beim Hampton International Film Festival gezeigt und bereits mit mehreren Preisen ausgezeichnet.

ヒロシマ、そしてナガサキから74年目のベルリンの平和の鐘

2019年8月6日、ベルリンでも平和の鐘協会ベルリンIPPNWドイツ日独平和フォーラム・ベルリン、ベルリン市のクロイツベルグ・フリードリッヒスハイン区役所の共催によって、ヒロシマ、そしてナガサキの原爆投下から74年目を迎える追悼記念の行事があった。

クロイツベルグ・フリードリッヒスハイン地区の副区長でドイツ左派党/DIE LINKEのクヌート・ミルドナー・スピンドラーさんは、89年から30年間ずっとこの活動をしてきたが、立ち上げた時代は反核運動が盛んで87年には米露の間で結ばれた軍縮条約の中距離核戦力全廃条約があったが、米露の離脱、兵器を持つ国が増えている。この時代にふたたびこの活動の重要性が増している。大事なのは記憶すること、記念すること、啓発することだ、と述べた。

ノーベル平和賞を受賞したICANのドイツ支部、ICANドイツのヨアーナ・カリピディスさんは、平和が当たり前過ぎて人々が無関心になってきている。意識を高めるためにも、こうしたセレモニーは重要である、と述べ、ウェブサイトを訪ねて私たちの活動も見てほしいと話した。

 

 

2013年の初年度にSNBでも手伝った日本のNGO、アースウォーカーズによる、福島を伝え再生可能エネルギーを学ぶ福島・ドイツ高校生交流プロジェクトが続いており、この日に福島の高校生がベルリンに到着、彼らを代表して2人の16歳の高校生らが自らの体験談を英語で発表した。3.11当時は小学1年生、7歳である。先に発表した里桜さんは、明るい挨拶のあと、当時の体験を振り返り涙が止まらずスピーチを何度も中断した。クリーンエネルギーに携わりたいとの意欲を語る聖真さんは、原発の事故をきっかけに、当時7歳の自分が何が起きたのかわからないままに生活を変えることを余儀なくされた様子を語り、ヒロシマとナガサキのために集まった人々への謝意を述べた。

 

かつての大戦の記憶は薄れつつあるのか、世界情勢は刻一刻と変化している様に思う。このところは日本国内でも中距離核戦力全廃条約をめぐる報道が熱を帯びている。報道では主にINF全廃条約、INF条約などの表現が用いられる。これまでに米露でミサイルの開発、または試験等が繰り返され、双方が批判の応酬を繰り返していた。その結果、米国は昨年10月に条約の離脱を表明し、8月2日にこの条約の失効を迎えることとなった。この条約は核弾頭の中距離ミサイルに限ったものではないが、核兵器の抑止力のひとつとしてもとらえられてきただけに、国連をはじめ、世界の平和団体からの懸念の声は高まっている。

式典の終わりには、犠牲者に思いを馳せるとともに核兵器の廃絶を願って、来場者らが平和の鐘をつく長い長い列をつくった。平和とは、常にそこにあるものではない。先人の苦労とたゆまぬ努力の上に成り立っている。恒久的な平和を目指すためにも、今後ともできることを模索して行動していきたい。


広島市 - 平和宣言【令和元年(2019年)】 http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/index.html
長崎市│令和元年長崎平和宣言(宣言文) http://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3020000/3020300/p033237.html @nagasakimaster

 

 

ヒロシマとナガサキ原爆投下70年/70 Jahre Atombomben auf Hiroshima und Nagasaki

SNBの活動を立ち上げて以来お世話になっているベルリン在住のジャーナリストのふくもとさんも運営されるポツダム・ヒロシマ広場をつくる会(Hiroshima-Platz-Potsdam e.V. )の開催で、去る7月25日にベルリン市から電車で20分ほど郊外にあるポツダム市内の、ポツダム会談時に米国トルーマン大統領の宿泊先であった邸宅前にあるヒロシマ・ナガサキ広場にて、原爆投下70年の追悼式典が行われた。

バス停もヒロシマ・ナガサキ広場(Hiroshima-Nagasaki-Platz)

この日は15時から、ポツダム市に住む芸術家たちによって共同運営されている工房で、親子で参加できる千羽鶴のための折り鶴と灯籠のワークショップも開催された。快晴には恵まれたものの、強風にあおられながら、参加者たちは黙々と灯籠づくりに精を出した。広島市からも二人の参加者の姿があった。

工房のカフェには美味しい手作りケーキ。お茶の後では実にエコロジーな方法で各自が水を張った桶で皿を洗った。

ヒロシマ・ナガサキ広場の記念碑には千羽鶴が置かれ

19時からの式典ではヒロシマ、ナガサキについてのそれぞれの思いが交錯する演説が続いた。ポツダム市の市議で緑の党に所属するマッティアス・クリップ氏(Matthias Klipp) は演説の途中「日本がこの戦争を起こした事も忘れてはいけない」と、日本でかつての戦争について語られるときに忘れられがちな、とても大切な事をおっしゃった。くれぐれも単純な比較をしてはいけないが、ともに敗戦国のドイツと日本では戦後の歩み方がまるで違う。私の長男は今年15歳になるが、自国の過ちを学ぶ教育制度とは別に、ドイツの学校では授業内容が教師に委ねられていることから、結局、様々な教科で毎年のようにドイツの戦争責任を学んでいる。2013年に福島市から8人の高校生らが脱原発を学ぶプロジェクトと称しベルリン市を訪れた。プログラムの一環で、ベルリン市内のカニジウス高校の日本語クラスの生徒らが「大戦後の平和教育についての学校の役割と歴史認識」というタイトルでドイツの戦争責任についてパワーポイントを使って発表してくれた際、福島の高校生のひとりからこんな質問の声が上がった。

ベルリン市内のカニジウス高校でドイツの戦争責任の取り方を学ぶ福島市の高校生ら(2013年8月20日撮影)

「ドイツでは戦争犯罪者のお墓や記念碑がありますか」

―もちろん人が死んでいるのだからどこかに墓はあるだろう。でも僕たちはそれを知らないし知る必要はないと、カニジウス高校の学生から即座に回答があった。終戦記念日に、戦争で亡くなった日本人の為に祈る日本と、戦争で死なせた被害者の為に祈るドイツ。この違いについて関心を持たれた方があれば、それぞれについて学んでみて欲しいと思 う。

※ドイツでは祈るという事はたいへん宗教的な意味合いとなるため、ドイツ語にした場合、直訳では”考える”が正しい表現にはなります。

※広島、長崎の原爆投下にともなう被害を矮小化する目的はなく、そのための式典を批判する意図もありません。非道な原爆による体験を継承するべく尽力されてきた方々に心より感謝しています。また終戦記念日に日本人のために祈ることを批判するものでもなく、すべての日本の方が日本人のためにのみ祈っていると限定するものでもありません。一部の有識者による良心的な演説や試みがあることも理解しています。

 

 

 

 

 

 

さて、ベルリンの夏時間は日暮れも遅い。21時より、ポツダム市内のグリープニッツゼー(Griebnitzsee)の湖のほとりで、関範子氏とシュテッフェン・フィントアイゼン氏(Noriko Seki, Steffen Findeisen) のパフォーマンスが始まった。

この後の灯籠流しはあいにくの強風で大変難しいものとなったが、家族や友人らと共に暗闇に吸い込まれゆく灯籠にヒロシマ・ナガサキの死者への追悼の思いを馳せた。

この日、早めに記念碑の前に到着した私たち家族はベンチに座って軽食をとっていたのだが、中年のドイツ人カップルが角のアイスクリーム屋からアイスを手に歩いて来て、私たちを不思議そうに眺めながらふと記念碑に足を止めた。男性が記念碑の文字を読みあげ、「これは日本から運ばれたヒバク石だ」と云った。女性が少し退いたあとで、男性が「今はこの石には危険はない」と読むと、二人は並んでしばらくそれを眺めていた。おそらく記念碑が設置されてからと云うもの、何度もこう云った場面があったのだろうと思いを巡らせると、思わず目頭が熱くなるのだった。

最後になるが、ふくもとさんから戴いたメッセージから以下を拝借する。

近くでアイス クリームを買ったこどもたちが記念碑の周りでアイスクリームを食べたりしている。
こうして日常化してきているし、日常の生活の場で戦争や平和の問題に接することがたいへん大切だと思っています。

私はふくもとさんの意見に賛成で、日頃から家族や友人、子どもたちと平和について分かち合って行きたい考えだ。

また、かつての戦争について省みる事を忘れずに語り継いでいく事は、今後の発展的な未来づくりのためにも私たちに課せられた大切な使命の様にも感じる。

今年は戦後70年と云う節目の年である。日本の現状を憂えてばかりもいられまい。今年は特に日本の現況や過去の戦争に鑑み て、この機会に戦争や平和についてみなさんと一緒に考えていけたら良いなと思う。私たち在外邦人らも日本で活動するみなさんと共に手を取り合い、今後とも日本の様々な活動を支援していきたい。

ポツダム会談が行われたポツダム市内のセシリエンホーフにて。

”アベ政治を許さない”

日本では多くの憲法学者が憲法違反だと指摘し、国民の大多数が反対している「安全保障関連法案」が7月15日に強行採決されたことを受け、この安倍政権の暴挙に対し日本では作家の澤地久枝さんの発案で、この法案に反対する新しい試み「アベ政治を許さない」一斉行動アクションが行なわれた。日本の第2次世界大戦の終戦記念日である8月15日(土) にドイツのさようなら原発デュッセルドルフの呼びかけで、国内外問わず、再びこのプラカートを表明するアクションを行う。このイベントはどなたもその場で参加することができる。デュッセルドルフではK20美術館前で、ドイツ時間の14時に作家の北原みのり氏らと声明を読み上げる予定。IWJの中継もあり。

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ふくもとまさお:
ドイツ・ベルリン在住。1985年東ドイツへ渡り、邦人企業に勤める。東西ドイツ統一後、会社を共同経営、フンボルト大学非常勤講師などを経て、フリーライターとなる。著書に「ドイツ ・低線量被曝から28年チェルノブイリはおわっていない」、今月6日に発行されたばかりの「小さな革命 東ドイツ市民の体験」 (共に言叢社) がある。この近著にドレスデン空襲体験者の話も書いており、その和解の試みについては8日発行の岩波書店「世界」9月号にも記事を投稿。

暮らしから考える『小さな革命 東ドイツ市民の体験』 フリージャーナリスト ふくもとまさおさん(58)

「ナチズムの反省から地方分権を徹底し均衡経済を打ち出したドイツから日本を見ると、日本はまだ経済成長期のままのように感じる。原発が必要なのは誰なのか。長い目で捉え、市民の暮らしから考えることが大切なことを、二冊の本で訴えたかった」。書名の「小さな革命」とはそんな思いで立ち上がった人たちの思いや行為のことだ。

(東京新聞Tokyo Web/2015年8月9日版より一部抜粋)

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こちらはおまけ。ベルリンの活動でお世話になっているジャーナリストの永井潤子氏が日本で開いた勉強会の文字起こしを発見。
「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本~被害国に受け入れられたドイツの戦後補償の歩み~」
永井潤子:
ジャーナリスト。1972年から1999年3月までドイツ国際放送の日本語放送記者としても活躍。近著に在独歴40年放送記者歴50年を紡いだ「放送記者、ドイツに生きる」がある。