先日、福島県飯舘村の女性たち10人とベルリンで食事をともにする機会があった。
飯舘村は放射能汚染の影響で計画的避難区域となり、彼女たちも福島県内の他市で避難生活を強いられている。
ドイツ料理とドイツビールをいただきながら、話が盛り上がり一気に距離が縮まる。事故直後当時の混乱、避難後の生活で思うこと、今取り組んでいること、政治のこと。
彼女たちとテーブルを共にし、いろいろな話を聞きながら思ったことは、彼女たちの顔が輝いていることだ。安易な意味での印象ではない。原発事故以来、村を襲った過酷な現実と再生への意志の間で果敢に闘っている人が放つ輝きだ。避難した新しい土地で、ほとんどの方が新しい仕事や取り組みをしている。
彼女たちは24年前、東西再統一前のドイツを訪れている。飯舘村で「女が変われば、男も変わり、村も変わる」というコンセプトで“農家の嫁”を、村で資金補助をしヨーロッパに研修旅行に送るという、非常に画期的な『若妻の翼』プロジェクトで第一期生として送り出されたメンバーだ。
(『若妻の翼』について:多くの方がブログに書いていらっしゃるが、ここではアメーバニュースでの記事を紹介:http://news.ameba.jp/20111003-67/)
さて、今回どのようなきっかけで、彼女たちがドイツを再訪することになったかという話。
SayonaraNukesBerlinの活動に参加してくれている強力な助っ人さいこちゃんが、日本に一時帰国中福島を訪れた。その時のIさんとメンバーSちゃんの出会いが、「24年前ベルリンで植えられた桜の木の成長を見に行こう」という話に発展し実現した。
(ベルリン南部の東西境界線の町に、東西再統一を記念して日本市民の募金によって桜の木が植樹され、春には満開の桜並木になる「テレビ朝日通り」がある)
Sちゃんは語る。
「報道からはあまり実感を伴って知り得ない、福島で生活が行われている、人間ひとりひとりが住んでいるということが知りたくて、たいした計画もなく福島に行きました。友人のご両親を頼って行ったところ、いろいろな境遇の方に引き合わせてくださり、飯舘村から来られた方の話しも聞くといいといって『若妻の翼』第一期生のIさんの営む珈琲店「椏久里(あぐり)」にも連れて行ってもらい、お話を伺いました。
飯舘の映画のポスターがお店の入り口に貼ってあり、それを見るように勧められたとき、Iさん自身は見ていると辛すぎて頭痛がしてきた、それほどの心の傷なのだ、とおっしゃっていたのが大変心に残っており、それがなによりその後のお話を聞く私の態度に大きく影響を及ぼしました。
ほんとうにおいしいコーヒーとドイツ菓子を誇りを持って出されているお店とともに、いろいろな事実を知った上でそこに住むと決断されたIさんのお話には迷いがなく、報道などで表現される“翻弄される福島県民”というものとはまるで違うものでした。
飯舘のお話のほかに、以前ドイツに来られたことがあることも伺いました(これはまったくの偶然)。飯舘の農家のお嫁さんたちが大挙して海外へ研修に行った『若妻の翼』というプロジェクトはとても革新的なもので、帰国後参加者のみなさんで出版された報告書をおみやげにいただきました。この本がまた想像以上におもしろくて、私はすっかり若妻の翼さんたちのファンになりました。」
私も『若妻の翼』のみなさんに魅了されたひとりだ。
「東京からも人が来て、行政側が開いた説明会で、飯舘村は安全ですから避難する必要はありませんと言われた次の日に避難勧告が出た」
「現状をよく知らないで、福島はもう住めない、もうだめだと言わないでほしい」
「東京が2020年のオリンピックの開催国になると決まったとき、とても傷ついた。オリンピックよりまず被災地の復興に責任を持って早く進めてほしいのに」
「たばこの葉栽培農園を持っていたのに、すべて失った」
そんなつらいことを語りながらも、Iさんのように避難先で再びお店を開いた人、昔取得した資格を役立て保健師として働く人、新しいビジネスを始めた人、飯舘村出身の高齢者を避難先に巡回訪問し見守り役をする人などのストーリーを聞くと、彼女たちがこうして活躍するのは、もしかして24年前の『若妻の翼』プロジェクト参加で得たものが、今ここに生きているのではと感じる。当時、周囲で反対がありながらも確信を持って実施に踏み切った当時の飯舘村の村長、斉藤長見さんの将来を見据えた決断と、農繁期の忙しい時期にあえて”嫁”たちを送り出したご家族にも感服する。そしてそれに応えるような生き方をしている飯舘村の女性たちを見て、私もこういう女性を目指そうと思う。
Iさんからお土産にいただいた自家焙煎の椏久里珈琲。帰りの電車なかで、バックをあけて豊かなコーヒー豆の香りを何度も深く吸い込みながら家路についた。
椏久里珈琲 http://www.agricoffee.com/