「勉強会」タグアーカイブ

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会 (3)

「科学的」と「安全」について

この他の学年用のビデオでは「科学的」という言葉もあった。科学的に測るとか,あるいは科学的に安全というようなことも良く言われる。しかし,私にはそのビデオで言っている「科学的」の意味がわからない。なぜわからないのかを説明しよう。まず,私の考える科学的についてちょっと説明する。

科学的ということに関しては様々な解釈があるだろう。私が思う科学的とは,「世界を観察し,繰り返し観察される共通となるような真実をもとに,その観察される現象をより理解可能な要素に分解し,それを論理的に組みたて,理解のための仮説を提案し,実験により確認して,世界の理解をすすめていく方法」と言ってみようと思う。しかし,これではかなり難しくなってしまった。これも何を言っているのかわからないということになりかねない。そこで,一つ例の話をしよう。それからまた戻って考えてみて欲しい。でもこれは私の考えでしかないことにも注意して欲しい。(ただし,ここにあるものとかなりの部分は共通している)

「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」という話を私の言う意味で科学的に考えてみる。ここでは胃で食べ物が消化されるということはわかっているとする。それは観察されることで,この議論に加わる人達は皆共通の真実と考えたとしよう。そこで,この議論に加わっていたロッコさん(仮名)が仮説を言ったとしよう「胃は消化されないものからできている」この仮説は食べ物は消化されるが,胃が消化されないということをモデルにする考えだ。とてもいいと思う。では,これを確かめられるか? ひとし(仮名)さんが「中華料理には胃の料理がある」ことに気がついた。では,皆でそれを食べて実験してみよう。そうしたら,ひとしさんなど複数の人が次の日にトイレに行って,胃の料理が消化されたことを確認した。つまり,胃そのものは消化される。これでロッコさんの仮説は棄却されてしまった。そこで他の仮説を考えてこれが説明できないかを考える。人間の胃袋は動物とは違うという仮説も可能であるが,そうすると動物の胃袋は動物自身に消化されないことの説明ができないので仮説としては(世界の現象を理解するすすめにならないので)あまり意味がない。

これが私の言う科学的方法というものだ。観察し,それがなぜかを考えて仮説をたて,仮説に基いて検証し,間違いならさらに仮説をたて,現象への理解を深めていくことだ。この例では,問題を分解するなどなどはしなかったので,「世界を観察し (胃が消化されない),…,理解のための仮説を提案し(胃は消化させないものでできている),実験により確認して(胃袋の料理を食べ,トイレに行く),世界の理解をすすめていく方法」ということになる。この話ではまだ「食べ物は胃で消化されるのに,どうして胃は溶けてしまわないのだろうか?」の結論はでていない。科学的方法自体には結論がでていないものも多いから,ここでは結論は出さなかった。私の言う科学的とはプロセスであって,科学的とは何かがわかっていることとも違うこともわかって欲しいからだ。

「科学的に放射線を測る」ということがこのビデオで出てきた。特に中学年用の 7:35 秒は衝撃だった。「では,どうしてこのように放射線の量がわかるのでしょうか? それは,放射線は測ることができるからです。」である。これはトートロジーである。広辞苑には「トートロジー,同語反復: 定義する言葉が定義さるべきものを言葉通り繰り返す定義上の虚偽。」と説明されている。

「なぜ今日はあたたかいのでしょうか? それはあたたかいからです。」「車はどうして走ることができるのですか? それは車だからです。」これらは理由の説明になっていない。どうして? の解答ではない。「なぜ放射線は測れるのか? それは測れるからです。」これが放射線についての理解を深める教材ビデオのした説明である。これを科学的と言うことには衝撃を受けた。このどこに科学があるのだろうか。科学的理解とは観察し仮説をたて実験して検証するプロセスを通して世界を理解していくことだ。どうして放射線は測れるのか? に対し,例えば,歴史的な経緯で,蛍光版が反応していることに気がついたとか,感光板が感光してしまうことに気がついて存在がわかってきた,とか,そういうことは言えなかったのだろうか。。霧箱が本当に放射線を可視化しているのなら,どうして霧箱周辺を放射線計測器で測って対応を見せなかったのだろうか? 霧箱が測定できる放射線と,γ線の測定器の測れる放射線が違うからか? しかし先生は,「このように身の回りにあって測れる」と言ったではないか。なぜそれを科学的に証明しようとしないのか。ところで,
霧箱を作っている会社のページにはこの霧箱は自然の放射線を見せているのではなくて,霧箱内部に置いたラドンなどの核種を見せています。とある。この製品はガラスと金属に覆われているので,α線やβ線は入ってこれないからです。とある。確かに先生は,α線は紙でも止まりβ線はアルミニウムなどの板でも止まると言った。説明はおかしくないだろうかと確認すると,「普通の生活では見えない放射線も霧箱の中では観察できる。このように身の周りに放射線があるのです。」と説明している。これはどういうことなのだろう?

私はこのビデオの「科学的」に「科学」を見ることができない。だからここで言う科学的の意味がわからない。ファインマンという物理学者がこういう説明を批判して,何もわからないのなら,どんな名前でも同じじゃないか。と言う話がある。それはエネルギーの話だったが,ここでも同じことができるだろう。放射線のお話とは言わなくてもいい。ヨダソウのお話とでも言えばいい。ピッと音がなるたびに,ヨダソウが通った。科学の力でヨダソウの存在が測定できるのです。すばらしいですね,ヨダソウ。

科学的と言う意味を考えずに,科学的というだけでそれが正しいの同義語などと考えるのはやめにしよう。理解しなければ,それはヨダソウにすぎない。「ヨダソウとは何か? ヨダソウのことだ。」では理解にはならない。

では,時々聞く「科学的に安全」とはどういうことなんだろうか。まずそこには何が「安全」なのかを知らないといけない。「安全」の意味は何か? 「安全」の定義とは何だろう。誰がそれを決めたのか?

以前,SNBのメンバーに何 mSv では安全とか科学的にわかっていないのか? という質問を受けた。私の定義での科学的に知るためには,前にいったように,安全とは何かを定義し,それを観察して,ある現象に対して仮説をたてて,それをまた検証しなくてはいけない。

たとえば,年齢別に 1万人の人を集め,半分の人達に放射線を浴びせ,もう半分の人達は放射線を浴びせずに,その違い以外は同じ生活をしてもらう。そしてその量と病気などの関係を長期間に渡って調べる。これによって科学的な実験ができる。しかし,それは倫理的にできるのか? 放射線は 100 mSv まで安全という人に,99 mSv を浴びる実験台になってもらうべきだという意見の人もいたが,そういう実験をするのは科学の前に人間として許されないという問題がある。そうすると科学的に実験によって危険性を確かめることはかなり難しくなる。

私はこういう危険なものの安全性を確かめながらおっかなびっくり使うよりも,そういう問題がそもそもないエネルギー源を使えばいいじゃないか。そういう技術はけっこうあるじゃないかと思っている。まあ,それには異論もあるだろう。でも避けられる危険なら避けたほうがいいと思う。我々にはそういう技術がある。

例として,ウクライナでの放射線の安全性というのは,人間が 100 mSv を越える放射線を浴びると危険であるという説に基づいている (アメリカ合衆国国立生物工学情報センター).  ここでは,These data provide clear evidence of radiation-induced cancer risk at doses above 100 mSv. とあり,「これらのデータから,100 mSv を越える線量を浴びた場合にはガンのリスクがあるというはっきりした証拠が提供される」とある。しかし,前回の「寄らば切る」の話のように,100 mSv 以下なら安全とはこの研究結果でも「言っていない」のだ。実は 100 mSv では危険は確実というこの同じ報告の中で, 10 mSv から 100 mSv でも危険があるかもしれないと言っている部分がある。しかし,10 – 100 mSv でも危険があるかもしれないという部分はほとんど聞くことはない。

そこでウクライナでは人間は 100 年位の寿命があるとして,1 mSv/yの場合,一生で 100 mSv だから,この基準にしようとした (ウクライナの事故への法的取り組み)。

日本で 20 mSv/y で帰還していいという人達は,もしもウクライナと同じ説に基づくなら,人はここには 5 年は住まないから大丈夫という「安全」を考えたのかもしれない。それならば何らかの理屈が見えてくる。20 mSv/y × 5 y = 100 mSv なので,これ以上の滞在は危険とわかっている。だからこれ以上は住まないように,という基準なのだろうか。ちょっと待って欲しい。前回の「寄らば切る」の話を思いだそう。ここから先は危険なのは確実としても,それ以下は安全とは「言っていない」。「安全」とは何かを知らないのなら,落とし穴に落ちることになるだろう。数値がどうかなんてのはこのように安全の定義を変化させればいくらでも操作できる。

つまり,少なくとも 2 つの説明が必要だ。1. 「安全」の定義は何か? 2. 「科学的」とはどのように調べ,どのような証拠が得られたのか。これについて定義がなく。説明がないのなら,それは私の言う科学的ではない。

「安全」とは何か。誰がどうやって決めたのか? たとえば,どこかが毒で汚染されていて,でもそれが安全という場合,安全というのはどういう意味か。それはその毒を摂取した場合,1 年は生きていられるという意味なのか? それとも 2 年は生きていられるという意味なのか? 100 人その毒を摂取したら,次の日には 3 人しか死ななかったので,97 % 安全です。などということもあるかもしれない。100 人のうち 3 人死んでいるが,97 % の生存率ならばすごい安全だ。そういう定義かもしれない。この場合,1ヶ月後には 100 人全員死亡しているかもしれない。それでも,1 日の生存率ならば嘘は言っていない。1ヶ月後,全員死亡しましたが,安全です。ということも,この定義ならば科学的にも論理的にも正しい。だから論理的とか科学的と言うことで「はいそうですか」というのはあまりにナイーブだ。私は怖い。100 人のうち 97 人が 1 ヶ月無事だから安全です。という意味の安全だったら,それを私は「安全」の定義として受けいれられるのか? 安全の意味を知らなければ,安全ですと言われただけでは何も意味がない。

そして,「科学的」とは何だろうか? どうやって検証されたのか。この場合,その毒を実際に多数の人間に摂取させてわかったのか? いったいどうやってわかったんだ? どこにエビデンスがあるんだ? 科学的の定義が違う人もいるかもしれないが,仮説をたて,実験をして理解を深めるという私の定義では,実験されないものは科学的ではない。特にたまたま一人で実験して大丈夫でしたというのは一回限りで再現性がないので科学的とは言い難い。まず,科学的と言う人に,あなたの言う「科学的」とはどういう意味なのか,私は尋ねざるを得ない。

だから私は新聞などで説明のない「科学的に安全」という言葉を見る度に,どういう意味なんだ。と考えてしまう。これは私にはあいまいな言葉で,ほとんど何も意味していない,非科学的な言葉だ。

今回の放射線のお話のビデオでは,多岐に渡って考えることが多かった。もっと多くの議論ができることと思う。私はできれば,このビデオを見た子ども達と一緒に考えていきたい。科学的とはどういうことか。メッセージは何だったのか。どうしてこのようなビデオができたのか。そして,このビデオを見せている先生には,子どもが社会に出て生きていけるように,自分で考えることについてぜひ少しヒントをあげて欲しい。この文章がそのヒントの 1 つになってくれると嬉しい。

現実は厳しいものだ。夢の中で生きていく方がいいかもしれないこともある。しかしそれができるのは一部の人達だけで,ほとんどの人達には現実は情け容赦なくふりかかってくる。現実を認識し,それに向かっていくときに考える方法が少しでも見え,それが子ども達の未来を少しともしてくれることを願う。そしてそれを子ども達と議論することが,大人としての責任ではないだろうかと思う。

根拠もなく,安全だ,大丈夫だ。僕達はすごいんだ。では子ども達を守れない世界にしてしまったことを,子ども達にすまなく思う。一番簡単なことは,誰かのせいにすることだ。しかし,それでは子ども達は守れない。でも,そのままで良いと私は思わない。

だからまずは知って考えていこうと思う。

今回の勉強会の講師は「廃炉のおはなし」と同じふくもと氏でした。ありがとうございます。
記録は私,ひとしでした。

最後に,「ヨダソウとは何か」ですが,後ろから読むとわかるかもしれません。本当です。ヨダソウ。

ひとし

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会 (2)

2.2 放射線のおはなしビデオ

放射線のおはなし(低学年)というビデオをマー君達と見て,僕らは少し話し合った。このビデオの話のすじはこういう感じだ。(読者にはもし機会があれば実際のビデオを見て欲しい)

放射線について勉強しましょう。

でもまず「生きるために必要な 4 つのこと」を考えましょう。

水は生きていく上で必要なものです。
土は生きていく上で必要なものです。
火は生きていく上で必要なものです。
空気は目に見えないけれども生きていく上で必要なものです。

では,目に見えないけれどもまわりにあるものについて考えます。
宇宙はどこにありますか? 空の高いところにあります。
太陽から届くもの,それは光,熱,紫外線,放射線です。

私達の身のまわりには放射線がある。放射線は見ることも音として聞くこともできないが,測ることができる。

放射線はレントゲン写真として役にたっている。
放射線を使って殺菌することで役にたっている。
放射線はジャガイモの芽がでないようにするために役にたっている。

原子力発電所では,生活の役に立つ電気を作っていた。
東日本大震災が起きて,事故で放射線が漏れ人々が避難した。
どうして人々は避難したのだろう?

火は沢山あると火事になる。
水は沢山あると嵐や台風で洪水。
火や水と同じく放射線も多すぎると危険,だから避難した。

これから放射線について学んでいきましょう。

別にいい話じゃないかと思うかもしれない。マー君はどういうメッセージを受けとったかな。メッセージって何かって? どんなお話にもメッセージがあるんだ。そのお話を作った人が伝えたいことだよ。僕が君に話をする時は少なくともそうさ。お化けとか河童のおはなしもそうかって? もちろんさ。お化けってのはね,死ぬというのは怖い,良くないことだという考えを伝えるためさ。それが本当に怖いことか良くないことかはもっと大きくなってから自分考えて欲しい。できれば僕と同じように怖いと思ってもらえるといい。命は大切だと思ってもらえたら嬉しい。河童の話? 河童は子どもを食べるんだよ。だから川に行かないようにっていうのさ。これはね,大人の都合だけど,子どもが川で溺れないようにするためさ。怖い怪物が川にいるなら,川には行きたくないだろう。でもマー君,川には本当に河童がいるから一人で行ったりしてはいけないよ。

このビデオの話は,もう少し短くすればこんな感じに受けとめられたかもしれない。

火や水や土や空気は生きていくのに必要なものだ。
火や水や土や空気は身の回りに昔からあったものだ。
放射線も身の回りに昔からあったものだ。
火や水は多すぎたら危険だけど,少なければ大丈夫。
放射線も身の回りにあっていろいろと役にたっているんだよ。

君は僕の授業を受けているから,大人も先生も間違うし,言いたくないことは言わないってわかっているよね。でも,僕は君に伝えたいことがあるし,それがいいものと信じて話をしている。でも僕にも間違いがあるかもしれないから,君には自分で考えて欲しい。たとえば,算数やかけ算は君が大人になれば習っておいてよかったと思うものだとわかってくれると思って教えているんだ。理科だってそうさ,知らないと君を騙そうとする人に対処できない。この水を飲めば癌が直るとかね。本当に直るのもあるかもしれないよ。でも,そうじゃないことだってあるんだ。それは君が自分で判断しないといけない。残念なことに君を騙そうという人がいないとは僕には言えない。だから賢くなって欲しい。騙されなくなって欲しい。

このビデオの話はまず,最初の 5 分間は放射線の話がない。「放射線のおはなし」なら,「放射線とは○○です。」というふうに始まっていいと思わないかい? マー君について説明するお話なら,僕はまず「マー君とはこういう人です」というふうに話をはじめると思う。でも,ここでは 6 分間も放射線の話をしないんだよ。そして火や水や土や空気の話をするんだよ。僕はね,関係ない話をえんえんとしていると思ったね。君はどう思った? 放射線のお話なら,放射線の話をすればいいじゃないか。6 分と言えば,このビデオの 3 分の 1だよ。どうして関係ない話を 3 分の 1 もするんだろうね。考えてみてよ。放射線と水は関係あるんじゃないかって? ないわけじゃないけど,でも水は放射線じゃないし,土は放射線じゃないよ。

そして,

火や水や土や空気は生きていくのに必要なものだ。
火や水や土や空気は身の回りに昔からあったものだ。
放射線も身の回りに昔からあったものだ。

という話になった。ここで,君は素直だから,放射線は生きていくのに必要なものだ。と思ったんじゃないかい? アルキメデスの 4 元素を出してきて,それは身の回りにあります。昔からあります。生きていくのに必要なものです。と言われて,実は,放射線も身の回りにあります。昔からあります。と言われたら,「生きていくのに必要なものです。」と思う人もいるかもしれない。でもそれは言っていないよ。「それは言っていない」んだよ。

  • ウイルスだって病気だって,身の回りに昔からあったものだ。
  • 毒キノコや,毒ヘビだって,身の回りに昔からあったものだ。

これも「言っていない」んだよ。関係ないから? そうさ。火や土だって,放射線とは何か, の話に何の関係がある? でも言っている。身のまわりに昔からあるものが全て生活に必要なものだなんて言っていない。火を燃やせば二酸化炭素が出る。部屋を占めきって火を燃やせば,二酸化炭素中毒でたいへんだ。二酸化炭素だって昔からあった。身の回りに昔からあった。どうして二酸化炭素の話はしないんだろう?

「放射線も身の回りに昔からあったものだ。」

だから何なのだろう。このお話を作った人が何が言いたいのか考えよう。メッセージを考えるんだ。何がここで言われなかったのか。この教材はとてもすばらしい批判的にものを見る教材になる。でも,君の年では先生のガイダンスがとても重要になる。

僕達は安全ということを考える。君達には安全で健康で育って欲しいからだ。それは親の多くが思うことだ。放射線を学ぶ教材が作られたと聞いて,僕は君達の安全と健康のためにこういうビデオが作られたんだと思ったよ。

でもここでは安全という話はあまりなかったね。放射線がどういうものかもあまりなかった。結局身のまわりにあって宇宙からきたりするものらしい。まあ,難しいからかもしれない。でも安全についてこのビデオでは言って欲しかった。役に立つかどうかばっかりだ。役に立つならいいことじゃないかって? うーん。

役に立つことと安全かどうかは別の話だ。包丁やナイフだってとても役に立つけれも,そのままで安全なものではない。車だってとても役に立つものだけど,子どもが運転していいものではない。責任ある大人が試験を通ってやっと使わせてもらえるもの,そういう意味では危険なものだ。役に立つならなんでもいいというわけじゃないし,それは誰にでも安全かどうかはあまり関係がない。

レントゲン写真は役に立つだろう。でもレントゲンを取ったことのある人なら,レントゲンを取るお医者さんがその部屋から毎回出ていくのを知っているだろう。レントゲン写真で使う X 線も人間の体には害を及ぼすからさ。そこにいたら危険なんだ。だからお医者さんはいつも他の部屋に行くんだ。役に立つものでも危険なものはいっぱいある。

放射線を使って殺菌する。それは役に立っていることだろう。でも,菌というものも生きものだ。それを殺すことができるということはどういうことか考えてみよう。紫外線と似ていると言う。日焼け位した方が健康だという人もいるかもしれない。多いといろんなものが危険になるというのは,まあ僕も賛成だ。紫外線だって浴びすぎれば病気になる。ガンの放射線治療というのも聞くだろう。ガン細胞はとてもやっかいでなかなか死なない。それを殺すことができるような強い毒を使うこともある。そのうちの一つが放射線だ。放射線ほどガンを殺す能力が高いものもなかなかないからだ。役に立つということと安全というのは同じことではない。それはこのビデオでは言っていなかった。火や水は僕たちの生活には絶対必要だ。でも先生の言うことを良く聞いてごらん。放射線がないと僕たちは生きていけないとは「言っていない」んだよ。火や水が多いと危険なように,放射線も同じように多いと危険だ。と言っていたけど,放射線がないと,僕たちは死んでしまうとは「言っていない」んだよ。気がついたかい?

放射線でジャガイモの芽がでないようにする。これを役に立つ例として出してきたのはすごいね。じゃがいもはじゃがいもの植物の子どもだ。子どもが成長しないようにする。これはどういうことなのか,考えてみよう。これはビデオを作った人もここまできたら,役に立つということと安全とは関係があまりないことだと伝えたかったのかもしれない。

ビデオの中の放射線によってじゃがいもの芽がでないようにする説明部分。勉強会にて
ビデオの中の放射線によってじゃがいもの芽がでないようにする説明部分。勉強会にて

役に立っていたということが繰り返されたのは,これは伝えたいことだからなのだろう。しかし,役に立つことというのは,どういう意味なのかな。役に立つには,誰かがいないといけないね。誰にとって役にたったのだろう? 原子力発電所の事故で人々が避難しなくてはいけなくなった。その場合,避難した人々の生活には役にたっていないみたいだ。役に立つとはどういうことだろう。多分,役に立つことはいいことだ。って誰かに言われてきたんだよね。それはいつも本当なのかな。そうじゃない時もあるかもしれないんじゃないかな。いろいろと考えることが増えちゃったな。

あと,世界中の人がある量の放射線を浴びているというのもあったね。地域によって違うとかはあっても,自然放射線を浴びていること自体は本当だろう。それでどう思った? 世界中の人が浴びているのなら心配はないって? どういうことかな。

たくさんの人がしていることは安心できるってこと? うーん。この場合,自分で選んでないとか,もっと大事なのは,自然にあるものに追加された量がどうかなんだけど。。。皆が同じなら大丈夫ってこと? なるほど。そうだね。じゃあ煙草は,たくさんの人が吸えば安全になるのかな。世界中でもっと多くの人がすえばもっと安全になるのかな? 皆が吸った方が安全になるの?

この場合,「どれだけの人がするか」と「安全」とは関係がないとは思わないかい。煙草を吸う人が増えれば増えるほど煙草が安全になるかというと,煙草自体は変化していないのだから,個々の安全性は関係ないと思うよ。放射線を世界中の皆が浴びれば浴びるほど安全になるなら,皆で放射線を浴びればいい。本当にそうかな? この場合には皆がやっているというのは皆がやっているというだけのことだ。ここで重要なのは,このビデオが「皆が浴びているんだ」ということで何を言いたいのか,どんなメッセージを送ろうとしているかを考えることさ。「赤信号,皆で渡れば怖くない」という冗談が昔あった。「放射線,皆で浴びれば怖くない」というメッセージ?これはちょっとブラックだったかな。何を言っているかわからない? まあ,考えてみてよ。「考えてみて」ばっかりだって? 僕が答えを全部あげられることはない。だから君には今から考えて欲しいのさ。

僕の頃は論理の基礎は中学で習った。マー君はまだ 9 歳だから,論理についてあまりちゃんと習っていないかもしれない。でも,こういうビデオを見なくてはいけないのなら,もっとちゃんと習わないといけないね。大変だねえ。僕たちは言葉で考えるのだから,その言葉の使い方を,何を意味しているのか,何を意味していないのかを考えなくてはいけない。その助けになるのが論理というものだ。でも実は意味を理解していないとあまり助けにならない。

私の好きな先生の本に,論理の話があって,「寄らば切る」と言うさむらいの話がある。ある時,ある町人はそのさむらいの近くに寄らなかったのに,そのさむらいが切りかかってきた。「寄らば切ると言ったじゃないか。俺は遠くにいたじゃないか。どうしてわざわざ近くに寄ってきて切りかかってくるんだ」という町人に,「寄ってこない時に何をするとは言っていない。寄らば切る。とは確かに言ったが,寄らずとも切る。それだけだ。」とそのさむらいは言った。ひどいさむらいだと思ったよ。寄らば切ると言っただけだ。でも,確かに「寄らずとも切る」とは言わなかった。くやしいけどさむらいは論理的には間違っていない。でもひどいとは思わないか。論理的に正しいけどひどいよ。論理的に正しいからいいなんてこともないんだ。論理は考えの道を照らしてくれるけど,そこに進むかは君次第なんだ。そこに穴があると教えてくれても,そこに進んで落ちるかどうかは君次第なんだ。だから勉強するのはいいけど,勉強したからってそれだけじゃだめなんだ。勉強するとか努力することが考えもせずにとにかくいいことなんて信じてはいけない。どうして勉強するのか,どうして努力するのか考えて欲しい。「また考えてみて」だって? まあ,そうなんだけど。

火は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
土は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
水は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
空気は身のまわりにあって,生きていくのに必要なものです。
放射線は身のまわりにあります。

このビデオはこう言っていたね。僕は「寄らば切る」のさむらいよりも,くどいだけひどいと思ったね。よくわからない? うーん。そうだなあ。僕はね,マー君がこういうビデオを見た時に,ちょっとだけ考えて欲しいんだ。先生が言ったことは素直に聞くものだと先生に言われた? 確かに。それで君の安全と健康が守られるなら,僕もそう言うだろう。君が将来安全に生きていけるならそれでいい。でもね,もしかしたら,僕達は君の安全と健康を守れないかもしれないと,僕は思うようになったんだ。こんなことを君に教えないと君が将来困るかもしれないということになってしまった。ゴメンネ。でも,僕がしてあげられるのは,こんなふうに考え方をちょっとだけ教えてあげることだけなんだ。

え,どうして僕がこんなことを話すかって? いいところに気がついたね。むしろ気がつかなかったら困ったことだった。ビデオを作った人達と同じように,僕も君に伝えたいメッセージがあるからさ。ここにあるのは僕のメッセージだ。このビデオを作った人が伝えたいこととは多分,別のメッセージなのだけどね。どうして僕が君にこういう話をするのか,それを考えるのもとてもいいことだと思うよ。

君が僕を考えずに信じたらそれは残念なことだ。僕の言うことを疑って考えて自分で理解して欲しい。僕の言うことをそのまま信じるような人になっちゃあいけない。僕も間違いをする。「考えてみてよ」でしょうって。その通り。「ひとしさんが,ひとしさんを信じないようにって言うけど,信じないようにってことを信じたら,ひとしさんの言う通りだ。でもそれは駄目ってひとしさんは言うのでしょう。何もできないよ」って? まいったな。いや,すばらしい。マー君,君は論理学を本格的に学ぶ準備ができているよ。

僕が君にこういうことを言うのは,簡単に言えば,この社会には民主主義という方法があって,その場合,大多数の人が騙されたら,僕もその人達と一緒に強制的に騙されないといけないことが多いからなんだ。そして僕は騙されたくない。だから,騙される人はできるだけ少なくしたいんだ。なんだい? 自分が騙されたくないだけかって? エゴと言われるかもしれないけど,確かにそれは大きな動機だよ。僕も若い頃は,僕だけ騙されなければいいと思っていたこともあったよ。でも皆が騙されないようにならないと,困るというのも本当さ。もちろん僕がマー君を好きで,君が騙されて欲しくないといういうのもあるから,君にまず話をしているんだけどね。

マー君,君が自分で考えて理解して判断するようになりますよう。皮肉に聞こえるかもしれないけど,このビデオは批判的思考法を鍛えるにはとても良いビデオだった。本当だよ。マー君には,情報が来た時に,「何を言っていないのか」「メッセージは何か」を考えて情報に触れるようになって欲しい。

紫外線の説明と放射線の説明を並べたもの。紫外線も放射線も目に見えないと説明しながら,矢のような形をしており,放射線にだけはさらに「目」がついている。さて,このビデオの作者は,何を意図して放射線だけに「目」をつけたのだろう? 考えてみよう。
紫外線の説明と放射線の説明を並べたもの。紫外線も放射線も目に見えないと説明しながら,矢のような形をしており,放射線にだけはさらに「目」がついている。さて,このビデオの作者は,何を意図して放射線だけに「目」をつけたのだろう? 考えてみよう。

次回はこのビデオの語らなかったもう一つのこと,科学的と安全ということについて話をしよう。

ひとし

福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会(1)

1. 勉強会報告について

1 月に SNB では,福島で行なわれている放射線教育のビデオ教材についての勉強会がありました。この記事はその報告です。この報告は 3 回に分かれています。

今回の報告では,教材の内容についてよりも,私がこの教材を見てどのようなことを考えたかについて書くことにしました。

視点としては,私が一番なじみのある,技術者の目を通して見たらどうなるのか,を考えました。ある意味,このビデオは平凡な物を作っている技術者の持つ,critical thinking から見て面白い教材です。これを教材に他のビデオを見る目を考えることを念頭に置きました。

私はソフトウェア技術者なので,ソフトウェアの不具合 (それをソフトウェア技術者はソフトウェアのバグ (虫) と言います) などを追いかけることがあります。この場合,ソフトウェア技術者はある意味,探偵の目でバグを追いかけます。どこかにソフトウェアの問題になる犯人 (バグ) が隠れている。なぜ犯人が隠れているとわかるのか? それはたとえば,ソフトウェアがクラッシュするなどの目に見える症状があるからです。そこでその症状を起こす犯人がここにいるのならこれがあるはずという仮説をたて,それを検証していきます。また,もしそれがないということはここにはいない。というふうにも考えていく視点です。あるいはそれがないということは,この犯人はこうしたはずだ。というふうに「何かがない」ことも犯人を追う一つの手掛かりになります。ソフトウェアの場合には,犯人を追うための道具にバグがあったり,ある時には,コンピュータ (ハードウェア) が実は壊れていることもあります。そういう意味では探偵仲間に裏切りがあることもあります。しかしこの記事ではそこまでは考えませんでした。今回は,このビデオが何を言ったのか,そして何を「言わなかった」のかを考えることになります。

また,「科学的」と言えば,いいことだとつい無条件で考えてしまう,「役に立つ」ものなら無条件でついいいことだと考えてしまう,「安全」と言えば,その安全の意味は何かは実はあまり考えたことがない。そういうこともよくあると思います。そんなことも一歩立ち止まって考えてみたらいいのではないかなと考えて書いてみました。

この勉強会については私のような視点だけではなく,他の視点からもいろいろと書けるのではと思います。少しだけふれますが,一つとしては,このビデオについて情報リテラシーという観点で書くのも面白いと思います。

しかし,キュービズムのように同時に複数の視点を表現することでものをとらえる,というのは,私には荷が重く,その点は私は今回はできませんでした。他の視点からのブログを書いてみたいという人はぜひお願いしたいと思います。

お楽しみ下さればと思います。

2017-1-21 福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会の様子
2017-1-21 福島県教育委員会作成放射線教育用学習ビデオ教材についての勉強会の様子

2.1 はじめに

今回,Sayonara Nukes Berlin では,福島県教育委員会の作成した,放射線教育用学習ビデオ教材 (平成 27 年 3 月) を 2017 年 1 月 21 日に見る機会があった。

正直,このビデオを見て私は愕然としてしまった。私はその内容についての意見もあるが,それ以前にも,この製作者の考える教育についての疑問である。このビデオを作成した人達がどうしてこのような形でこのビデオを作成したのか考えざるを得なかった。

私の考える教育には,「子ども達が社会に出た時に生きていけるようにするための知識や考え方を訓練する」ことも含まれている。私達の社会は残念ながら理想郷ではない。だからものごとを筋道たてて考えることを子ども達には学んで,そしてできるだけ騙されないように生きていって欲しい。良い人ばかりなら,「君はとてもすばらしい。」とだけ言って育てればいいかもしれない。しかし,たとえば仕事を探すことを考えてみたら,今の社会ではただそこに存在するだけでは生きることは難しい。多分,それは社会の方が間違っているのだろうけれども,では私は子ども達に社会が間違っているから,生きていけなくて残念だねとは言えない。そこで,それぞれの個性の中に,他の人達を助けられるような,そういう部分を伸ばしていって,そして生きていって欲しいと願う。それは私のエゴでもあろう。でも,私は自分や友人の子ども達が世界の中で生きていけるようにするためにできるだけのことをしたい。

ここでは私の視点が述べられる。それは私の経験などに基づいている。だから,私の書くことが唯一の真実だなどとは言わない。私は技術者で物を作っている。物が設計したどおりに動くかどうかは私の感情や希望とは関係がない。私がそこにある物理などを理解しているかどうかに多くがかかっている。私はそういう視点からこのビデオについて議論をしたという話をしたいと思う。他の視点からのアプローチもあるはずだ。それはまたいずれ他の人が書いてくれるだろう。

だから,私は今回はちょっとした寓話の形でこの教育ビデオについて書いてみたいと思う。私には,他に良い話の仕方がわからなかったからだ。そして,私はこのビデオを作った人達に関しては実はあまり関心がない。これを見る子ども達,そしてその親や先生達に考えてみて欲しい。私達は現実の中に生きている。夢の中に生きて,何もしなくても生活ができるような,めぐまれた人達は,現実を認識する必要もないかもしれない。自分が何もしなくても世界ですばらしいとほめてもらってその夢の中で生きていける人達はそれでいい。しかし,そうでない私のような人間は現実を認識し,生きていかなくてはいけない。

甘い言葉ばかり聞いているのは,お菓子ばかり食べているようなものだ。時々食べるお菓子は心にうるおいをもたらしてくれるだろうけれども,それしか食べないのでは,病気になってしまう。私は子ども達にお菓子もあげたいが,でも,ちゃんとした食事もして欲しい。

このビデオについての目的は,福島県教育委員会のホームページ(http://www.pref.fks.ed.jp/committee.html) からのリンクにある相双教育事務所のページでみつかる (http://www.sousou-eo.fks.ed.jp/07%20%E2%85%A6_%E5%8F%82%E8%80%83%E8%B3%87%E6%96%99.pdf) それをまず書いておこう。

指導の重点

  1. 学校や地域の実状及び児童生徒の実態に応じた指導計画及び指導内容を工夫し、実践する。
  2. 放射線等の基礎的な性質について身に付けさせ、自ら考え、判断する力を育む指導方法を工夫する。
  3. 放射線から身を守り、健康で安全な生活を送ろうする意欲と態度を育てる。

この指導の重点を見る限りは良さそうに見える。そして私達は実際のビデオを見た。

次回は寓話的にこのビデオの話をしたいと思う。

ひとし

SNBメンバーと菅直人氏との意見交換会

2015年10月14日(水)には,SNB (Sayonara Nukes Berlin) の中から 6 人が菅氏と話をする機会があった.

まずは SNB が2013 年に 5人のメンバーでデモを始めたこと,再生エネルギーの象徴としてかざぐるまを使った「かざぐるまデモ」を行なっていること.そして今年はフクシマ 5 周年であり,またチェルノブイリ 30 年であるのでいくつかの計画を練っていることなどを説明した.

我々と菅氏の意見が様々に交錯する形で活発に交換された.そのいくつかを以下に示す.

  • 脱原発はエネルギー転換の1つのプロセスでしかなく,エネルギー転換としてみることが重要であること
  • 再生エネルギーの普及には何か重要なことなのか: たとえば,優先買取制度の充実の必要性
  • ドイツは脱原発ができたのに,日本でできないのはなぜなのか.外圧は強いのか.政治的な圧力か,産業界の圧力なのか.日米合同の原子力産業界の圧力はある.しかし,政治的には比較的にない.というのも,アメリカは政治的には日本を含む他国が大量のプルトニウムを保持することへの警戒がある.また,アジアの国々が日本は持つ許可があるのに,なぜ自国は持てないのかとアメリカに疑問を呈することに答えにくくなって政治的求心力が低下する.
  • 日本は自由化などで今後,既得権者の力は減ることがあるのか? 現時点では上手くいっていないかもしれない.しかし小売の自由化が始まるのは一歩ではあろう.
菅氏が宿泊するホテルのロビーで。次の講演会に向かう合間の時間を取ってくださった。
菅氏が宿泊するホテルのロビーで。次の講演会に向かう合間の時間を取ってくださった。

原発はそもそもなくすことができるのかという話題には,菅氏は政治的な立場は違うと前置きした上で,比較的楽観的に考えていると答えた.というのも,結局はわかってくると長い目で原発は金にならない.他の技術と違い,年々安くなることもない.工業技術で金にならないものは残らない.世界的に見て今世紀中にはなくなっていくのではと考えている.しかしそれで間に合うのかという方が問題である.我々の中にも同様,地産地消の経済(里山経済)に競争で負けていくことを予想する意見もあった.

原子力爆弾を持ちたいという人々の圧力は,という質問もあった.我々にも現実的に考えれば,たとえそうでも現在日本の保有するプルトニウムで既に大量に作れる.これ以上持つ必要もないし,50基も持つ意味がないという意見があった.では,イデオロギーの問題かということには,菅氏はイデオロギーですらなく,既得権者が利権にしがみついている問題と考えているとのことであった.したがって自然エネルギーなどへの転換が1つの柱になる.

また,市民運動をしてきた先人としてアドバイスをという質問に菅氏は,まず楽観的に考えること.そしてしつこく,あきらめないこと.市民の運動は簡単に上手くいくものではない.また,菅氏は自身には鈍感力が強いのではと分析された.たたかれてもあまり気にならないそうである.そして,基本的に市民運動は大変ではあっても楽しいことも多々あるということである.

原発・エネルギーの技術に非常に精通しておられ、また元首相であることを忘れさせる気さくさである。
原発・エネルギーの技術に非常に精通しておられ、また元首相であることを忘れさせる気さくさである。

事故当時に一人になるとどうでしたかという質問には,チェルノブイリではソ連は軍を投入して,最初の10日間で急性被曝が原因で30人近くの死者を出すという,命を省みずに処理したという報告を読んだことがあった.そのため,福島でも同じことをしなくてはいけない状態になったら,と考えると寝られなかった.ということである.

1時間半ほどのミーティングは様々な意見交換があり,時間を忘れてしまった.最後に記念写真をとってミーティングは終了した.

今後も原発をない世界を目指し,少しづつ,しかししつこくあきらめないで行こうと思った.

最後に記念撮影。今回ドイツ語にも訳された菅氏の著書「東電福島原発事故ー総理大臣として考えたこと」をいただいた。
最後に記念撮影。今回ドイツ語にも訳された菅氏の著書「東電福島原発事故ー総理大臣として考えたこと」をいただいた。

菅氏の一言 blog

シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューの日本語訳(無限遠点ブログ)