広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏の ベルリン訪問同行報告

2025年5月20日から22日までIPB(国際平和ビューロー)とドイツICAN 、ドイツIPPNWから要請を受け、広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏がベルリンを訪れた。もともとドイツの大統領Steinmeierに「世界で初めて核爆弾が落とされてから80年経つ今年、被ばく者の生存者を招いて話を聞いてほしい」という手紙をICANが出し、署名運動で市民の署名もかなり集めて返事を待っていたが、回答をかなり待たされた挙句、結局「今の地政学的状況では難しい」という(おそまつな)答えが返ってきてしまった。それで、国に被ばく者を招いてもらうというアイディアが叶わなくなったが、それでも今年はぜひとも被ばく者の話を直接聞きたいということで、資金的余裕のあまりないIPBとICAN、IPPNWが原水協にも参加してもらうことで、佐久間氏の訪問が可能となった。今回の訪問にはそれもあって原水協事務局次長の土田弥生さんと、学生で原水協で「個人理事」という肩書で活動している小薬岳氏が一緒に訪れた。ベルリンの後は、中立の立場を捨ててNATOに加盟したばかりのフィンランドのヘルシンキで行われる平和フェスタにも訪れた。 ベルリンでのたった三日の滞在で予定されていたのは、原爆投下がトルーマン大統領によって決定されたポツダム会議近くにあるトルーマンが滞在していた館の向かいに作られている「ヒロシマ・ナガサキ広場」訪問、ベルリンのFriedrichshain区Volkspark公園内にある平和の鐘訪問、社会民主党SPDと左翼党Die Linkeの議員やSPD寄りの基金Friedrich-Ebert-Stiftung、左翼党寄りの基金Rosa-Luxemburg-Stiftungとの話し合い、メディアとのインタビュー、それから最後に一般の市民が参加できるイベントだった。私はこの佐久間氏のベルリン滞在で通訳を務め同行する機会を得たのでその報告をする。

佐久間氏は生後9か月で被ばくしたため、原爆投下自体に自らの記憶はないものの、爆心地から2.8キロのところにあった自宅で被ばくし、母親の背中に背負われて避難所に避難する間に黒い雨に降られたということだ。十歳から十一歳の頃、腎臓、肝臓を患って長い間闘病をしたときの苦しみがトラウマになっている、と彼は語った。でも、それより私が心を打たれたのは、ドイツのntvの若い実習生が行ったインタビューで佐久間氏が話したことだった。この実習生だという女性は、インタビューを行うにあたってとても丹念に佐久間氏の経歴、体験談を勉強してきていた。それだけに、佐久間氏がこれまでもよく語ってきたことはすでに知っていて、それ以上のことを質問できるよう、準備してきていた。彼女は81歳になる彼に「被団協の事務所まで毎日自転車で通っていると読みましたが、それはどうしてですか」と訊いた。佐久間氏はにっこり笑って、かなり前にさかのぼって話をし出した。

自分は定年が迫る数年前、2006年にある銀行に出向して働くことになった。そこで、ちょうど広島原爆投下後写真を撮った中国新聞社写真部員だった松重美人(まつしげよしと、注1)氏の写真展が開かれていた。その写真に写っている人々の姿や町の様子を見て、自分はそれまで被ばく者だということを公に語らないできていたが、自分もここにいたのだ、ここに写っている人たちの一人なんだ、と確信した。自分でそのことを認め真っ向から向かっていかなければ、この体験をめぐるあらゆる問題を乗り越え、前に進んでいくことはできないのだ、と悟った。それで初めて、60になってからやっと被ばく者であることを名乗り出ることができた。それで被団協にも入り、自分の体験を語り、二度とこいうことが起きてはならないということを自分も積極的に訴えていくようになった。定年後時間ができたこともあり、被団協で被ばく者を対象にアドバイスをする仕事をボランティアで始めた。広島というのはそんなに大きな都市ではない。街は自転車で西から東まで1時間もあれば行けるほどの大きさであり、うちから事務所も遠くない。しかも、被団協で仕事をしていると、役所に行ったり、ほかの場所に行ったりとなにかと動かなければいけないことが多い。健康にとってもいい、公害は出さない、小回りが利き便利だ、というので、それで自転車で通うようになった、そう語る佐久間さんは微笑みながら、とても前向きな姿勢に溢れていた。

いつも自転車に乗って通っていらっしゃるというだけあって、佐久間さんは81歳とは見えないお元気なお体で(だからドイツまでもいらっしゃったわけだが)脚も達者、階段もすたすたと昇り降りしていらした。そして、60になってやっと被ばく者であることを明かすまでの思い出話を、語ってくれた。

広島出身であることはあまり語らない方がいい、そのことはできれば隠していた方がいいのだ、ということを小さい時から言い聞かされてきた。被ばく者が子どもを産むと奇形児が生まれる、病気になりやすい、という差別があり、誰もそのことに関して話さないのが当たり前だった。親戚からもその話はしてくれるな、と言われていた。しかし広島にいる限り、そのことが心の負担になるので、高校を出た時に、すぐに広島から抜け出したいと思って上京した。そこでまずホテル業界で働くための大学に行き、勉強し、その後縁あってヒルトンホテルに就職することができた。しかし、そこでの仕事があまりに苛酷だったため、やめざるを得なくなり、別の仕事を得た。そのうち、ある女性と恋をした。将来も一緒になりたいと真剣な付き合いだったので、彼女には自分が広島出身であることも話した。ある時、彼が里帰りするとき、彼女も同じ方向に故郷があるので、いずれ結婚するなら彼女が親に紹介したいというので、一緒についていった。しかし彼女の両親は、彼が来ることを(彼の存在も?)知っていなかった。彼女のうちに到着して、玄関で待つように言われ立って待っていると、中から彼女が母親と話をしているのが聴こえてしまった。「広島の人なの?」という言葉だった。そして、結局彼女の両親は彼を迎え入れてくれなかった。彼女の様子から、広島出身の彼は彼女の夫として望ましくないと思われていることが掴み取れた。その時佐久間さんは、彼女と結婚しようと望むことはできないのだ、彼女にそれ以上負担をかけるわけにはいかないと悟り、広島に戻るしかない、と東京での生活をやめて、広島に帰る決心をして戻ったという。ここでは佐久間氏はそう言わなかったが、話の前後から、広島に戻ったこの時はそれでもまだ、「自分は被ばく者だ」ということを人前では公表しなかったのだ。

日本語がわからない若いインタビュアーにこの話を語った佐久間氏のすぐ横で、彼の言葉を訳しながら、私も思わず熱がこもり、夢中でドイツ語にした。証言の強さというのはこういうことではないのか。被ばく者、生存者、というのは単に原爆が投下された時にそこにいて肉体的物質的被害を受けた体験者ということではない。それだけでも惨く、長期にわたって苦痛を強いられることなのに、それ以上に人間としてそれをもとに受け忍んできたありとあらゆる悲劇、ドラマが一人一人の人生残体にのしかかっているのだ。そして、同様のことがフクシマでも起きていることを私たちは何度も耳にしてきたではないか。自分の過失ではない理由で甚大な被害を被った挙句、差別を受け、陰口を叩かれ、賠償や支援を受ければ受けたで妬まれたり罵られたり、そのことを語らない方が家族のためだ、語れば損だ、と出身地や体験を隠さざるを得ない人たちが今もどれだけいるか…

1957年(昭和32年)に原爆医療法が施行され、旧長崎市および広島市、そしてその隣接区域にいた人約20万人を対象に被爆者手帳が交付された。1962年(昭和37年)には被爆した場所が爆心から2km以内から3km以内の直爆被爆者に拡大された。佐久間氏のお母さんはそれまで一切自分たちが被ばくしたということやその時の体験を話そうとしなかったが、被爆者手帳を交付してもらうため、初めてそのときのことを語ったので、佐久間さんも話を聞いたのだという。その時に、彼が原爆投下直後、母の背中に背負われ、避難所に逃げる途中で黒い雨に降られた話も知ったのだ。この被爆者手帳を交付されることは本当に画期的なことで、それまでは生活が苦しく、医者にもかかれない人たちがたくさんいた。一定の条件を満たしてこの被爆者手帳を支給されれば、とにかく医療給付してもらえ、健康診断を受けられる。

これは今回のインタビューでは語られなかったことだが、いただいていた資料の中にあった彼の証言の中に、次の項目もあった。ABCCが1950年代に調査した黒い雨に遭った1万3千人ほどの調査資料が放影研に放置されていたということが2011年10月ころ明らかになり、彼も開示請求をした。すると届いた彼のデータ用紙には、黒い雨にあったか、というチェック項目のところでしっかりYESにチェックがしてあったという。

佐久間氏のお母様も1963年に乳がんと診断されて摘出手術を受けてから、その後も原因不明の病気に苦しみ、入退院を繰り返しながら1998年に亡くなったということだ。

昨年秋にノーベル平和賞を受賞した際、その理由の一つとして「被団協は被ばくの実相や悲惨を語るたゆまぬ努力を続けてきた。そして核兵器の使用は道徳的に容認できないと強力な国際規範が形成され、「核のタブー」として知られるようになった」ことが挙げられた。しかし佐久間氏は今、その核のタブーが壊されようとしている瀬戸際に立っていると感じているという、その危機感について何度も語った。

日本から一緒に来られた原水協の土田さんは、ノーベル平和賞受賞後、祝福のために被団協の代表を招いた石破総理が、祝福の言葉を言いながら同時に「核抑止力の必要性」を語ったため、怒り心頭に達したと話していた。トランプがNATOやEUを脅し、これまで通り有事に米国に助けてもらえなくなる可能性が強まったと、ヨーロッパでも急激にフランスの核兵器をEUの核の傘にしよう、などという話が急に当たり前のようにされるようになってきている。急激にどの国も軍拡に舵を切っており、GNPの2%どころか、5%を目指す国も出ている(ドイツ新政府の外務大臣もそれを目標とすると語った)。NATO事務総長のルッテは、加盟国はこれからどこも3.5%を目指し、1.5%を軍事用インフラストラクチャー整備に充てるべきだ、など発言している。冷戦が終わって35年、またまた世界は軍拡競争に突入している。

ドイツでは、この前の連邦議会総選挙で票を伸ばした左翼党の賛成を得られないことを見越し、新政府発足前の古いメンバーの連邦議会で特別財産基金設置を決め、防衛費については債務ブレーキの適用対象外として「上限なし」で借金してもいい形になってしまった。新政府でも引き続き防衛大臣を続けることになったSPDのピストリウスは(前総理のScholzよりも人気があったそうだが)前の政権時代にすでにドイツの防衛軍は「kriegstüchtig」(戦闘能力を十分に備える、とでも訳せばいいのか? 私の耳には「戦争ができる国」という形容詞に聞こえる)にならなければならない、と言ったことで有名だ。メルツは選挙運動の間「まだ十分発電できた優秀なドイツの原発を信号政権が無理やり止めてしまったので、それをまた再稼働させたい」「せめてそれ以上の廃炉工事はストップする」などと非現実的扇動的な話をしていたし、首相になった途端にマクロンと会って「SMRをフランスとドイツ共同で建設する(したい)」計画を発表した。核融合発電という夢物語も捨てていないようだ。

要するに、ドイツも日本と同じように(必要とあらば自国でも核兵器が作れる可能性を保つべく)核技術を捨てたくないという姿勢がありありだ。それで、トランプだけでなくロシアのウクライナ侵攻とプーチンによる威嚇、ガザでの戦争を始めとする中東の緊迫状態を理由に「核抑止力」「核共有」「核の傘」といったキーワードがことさら繰り返されるようになってしまった。石破首相は「ウクライナは明日の東アジアだ。アジア版NATOを作り核共有を進めたい」とまで言及している。

核兵器禁止条約の3回目の締約国会議が今年3月開かれたが、去年まではオブザーバーとして参加していたドイツは、今年参加しないことをその会議直前に公表した。それに今年はアメリカの核の傘のもとにあるNATO加盟国からのオブザーバー参加国が一つもなくなったという。初日は、NATO加盟国からアルバニアがオブザーバー席に姿を見せていたのに、2日目には会議直前になってアルバニアの国名の表示が消えたそうだ。過去2回続けて参加していたドイツとベルギー、ノルウェーが今回は参加しなかった。これが現在の「核兵器禁止条約」をめぐる国々の姿勢であり、それがドイツ連邦大統領が今年、被ばく者を招くことを断った背景なのだ。

連邦大統領シュタインマイヤーとの会合は叶わなかったが、今回の被団協を代表しての佐久間さんと原水協の土田さんの訪独では、防衛費の底なしの増額にも中距離ミサイルのドイツでの配備にも反対している左翼党の連邦議員(Nordrhein-Westfalen州)で防衛委員会に入っているUlrich Thoden氏、それから連合政府に入っている社会民主党SPDの中でも「核抑止力」に反対する少数派の声であるRalf Stegner氏(Schleswig-Holstein州)と連邦議会の議員会館で会合することができた。左翼党は新しい連邦議会の中でも重要な野党なので当然だが、連合政府に入っているSPD議員のたった一人でも、忙しい中、佐久間さんの話を聞く時間を取ったという事実はポジティブに認識すべきだと思う。SPDの中でも彼の立場は微妙でだが、それでもその中で「核抑止力」に異議を唱えている声があり、議員として新総選挙でも選ばれているということは好ましい。そして彼のような「少数派」の声も、連合政府に参加して軍拡にどんどん力をいれているSPDの中で訴え続けてほしいと願うばかりだ。

議員や基金との話の中で佐久間氏が必ず「防衛費を上げれば上げるほど、社会保護への支出(教育や医療を含む)が削られるのは目に見えている。しかし、市民を守るということは、軍拡し「抑止力」を高めることより、日常の生活で一人一人の暮らし、健康を支えることのはずだ」ということを語っていたことが心に残った。実際に政治決断の場に参画している議員たちにそのことを訴えるのは大切だし、それをしっかり聞く耳をもつ議員と話ができたことは有意義だったと思う。核兵器は、闘うための「武器」ではなく、単に「無差別殺戮兵器」に過ぎず、本当に核兵器が落とされれば、どこにも勝ちも負けもないのだ。そんなものをいくつも持つということ自体が狂気の沙汰であり、国の名、その時の政府や権力者によって始められる戦争で、被害を受けるのは何より罪のない弱い市民だ。人の手で始められ、つくられる核兵器、戦争は人類の手でなくさなければならない、ということを佐久間氏はしっかり訴えた。また、無差別の大虐殺、という点で、今ガザで行われている戦争に対しても極めて憂慮しており、即刻停止すべきであり、ほかの国も声を上げるべきだ、という話も忘れずにされていた。日本政治の問題点に関しては、原水協の土田さんが詳細に英語で話されていた。 二日目の夕方は、いつもSNBのデモにも協力してくれるベルリンの平和の鐘のグループが佐久間氏たちを招き、鐘のもとに集まった。この平和の鐘というのはもともと、政治・宗教・人種にとらわれることなく、世界平和祈念を目的に世界から集められたコインやメダルを溶かして鋳造した鐘であり、ニューヨークの国連本部にも広島など、世界各地にある。ベルリンの平和の鐘でも毎年8月6日に記念式典が開かれ、鐘が鳴らされるが、平和の鐘協会代表のAnja Mewes氏は被ばく者を代表してベルリン訪問される佐久間氏にぜひ訪れてほしいと招待し敬意を表し、ぜひ鐘を突いてほしいと佐久間氏たちにもお願いして、希望を叶えてもらっていた。

平和の鐘を背後に「No more Hibakusha」の旗をもって             (今年のSNBのモットーと同じ、とつい3月のデモの写真をお見せしてしまった)

スケジュールとスケジュールの間、連邦議会議員会館から移動する途中で「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」と「国家社会主義の下で殺害されたシンティとロマの記念碑」を訪れ、(写真)Rosa-Luxemburg-Stiftungの帰りには近くのイーストサイドギャラリーの壁を見に行った。

最後の公開イベントは、IPBの事務所のある(私がよくGreen Planet Energyとデモの相談で通ったMarienstr.の建物に入っている)会場で行われた。メディアで来ていたのは日本の赤旗、共同通信のほか、ドイツのものではntv以外に、残念ながらドイツ/ベルリンのメディアは一つも来ていなかった。このイベントは外国や会場に来られない人にもオンライン配信されたため、英語で行われることになっていて、私はここだけは不本意ながらも英語で通訳しなければならなかった。私の英語能力はかなり衰えていて、ドイツ語ほどの細かいニュアンスをしっかり訳せなかったという悔いが残ったが、とにかく無事に大役を果たし終えてほっとした。しかし三日ぎっしり通訳をし続けたのでその後はかなりへとへとになって消耗しきり、数日間使い物にならなかった。

いろいろな人々との交流の中で印象に残ったのは、佐久間さんに対して「学校など、若い世代に対する体験の継承をどう行っているか」という質問があらゆるところで出されたことだ。ドイツは「Erinnerungskultur(記憶文化)」を実践していることを誇りすぎている向きもあるが、確かに日本と比べるとナチス時代のおぞましく恥ずかしい過去と向き合い、それをできるだけ正確に次世代に伝えようという試みがずっと当然の教育指針の一つとして行われてきている国であることは間違いない。学校の遠足でKZ(ナチス強制収容所)を訪れたり、証言者を学校に招いたり、迫害された人たちの話をテーマにした本を授業で扱ったりするのは珍しいことではない。先日103歳で亡くなったホロコースト生存者のMargot Friedländer 氏も、結婚してアメリカに暮らしていたが、過去のことを話したくなかった夫が亡くなって88歳になってからドイツに戻り、体験談を語り始めた人だ。彼女はことに学校を回って若い生徒たちを前に証言していくことをずっとやり続けた人だった。「話すことができなかった人たちのためにも語るのが私の使命だ」と言い続け、若い世代に対して「人間であれ」という言葉を繰り返し伝えた。

広島や長崎の原爆資料館を修学旅行で訪れる高校生などもいることはいるが、漫画の「はだしのゲン」が数年前から平和教育副教材から削除されたり、高校の歴史の授業でも第二次世界大戦のことは扱われないなど、日本では歴史の「継承」を実践する気が教育委員会側にあるとは思えない状態だ。学校を被ばく者が回って体験談を話すというようなことは従って行われず、被団協を始めとする一部の市民団体やイニシアチブが企画して若い人を対象にそうした場を提供するか、自ら興味をもった人が被ばく者団体に接したり勉強したりするほかは、なかなか接点が生まれないのが実情なようで、それには「誇れない過去をなかったことにしたい」「歴史の教科書を書き換えたい」歴史修正主義者たちが権力を持っている社会であることが、ここでも影響しているのだと思う。ことに、広島・長崎の原爆投下に関しては、日本が侵略戦争を始めたという事実、他国を植民地にし、そこの住民たちに強制労働を強い、あらゆる物資資源を搾取し、大量虐殺もおこなったという事実を顧みず(ましては否定し)、「原爆という恐ろしい新型兵器の被害者になった」というストーリーに徹して、反省をしていない今の政治の指導者たちを見ていると、その中で「市民一人一人の当然な人権」としての平和を求める運動を続けていくことの難しさも、重要性も実感する。

今回の被ばく者を招く企画で私が気になったのは以下のことである。確かに貴重な体験談を実際に被ばく者から話を聞くというのは、単に証言者の話を読んだり、画面越しに見たり、間接的に話を聞くより、ずっと心を動かすものであるし、インパクトは大きい、それは確かだ。

しかし、実際にヒロシマナガサキ原爆投下から80年経った現在、生存者は皆、高齢者ばかりだ。佐久間さんは生後9か月の時に被ばくしたから「まだ」81歳だが、被ばくの記憶がある方たちのほとんどは80代後半であり、その彼らをはるばるヨーロッパまで連れてきて、長い飛行機の旅や時差ぼけから少しでも回復する時間の余裕も与えずにハードスケジュールで、しかも節約した移動(交通)手段で連れ回すのは、あまりに苛酷であり、被ばく者の方々に対する礼儀、思いやりに欠けてはいないだろうか。

今回は「なけなしのお金」をIPB、ドイツICAN、ドイツIPPNW、原水協が出し合って、フィンランド・ヘルシンキ訪問とも組み合わせることで、佐久間さんの訪独を可能にしたということだが、早朝にベルリン空港に到着したばかりの彼らを夕方、普通のS-Bahnでポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場にお連れして長時間、夏の様な日差しの下、外で話をしたり、二日目も、すでにいくつもの予定をこなしたあとで、遠いFriedrichshainのVolksparkにある平和の鐘まで連れていくなど、佐久間さんは文句の一つも言わずこなしていらっしゃったとはいえ、私はあまりにも配慮を欠く対応なのではないかと思わずにいられなかった。コストを抑えるためとはあっても、せめてレンタカーを借りて移動する、タクシーをもっと使う、などをして佐久間さんの負担を減らしてあげることはできなかったのか、それから到着した日はせめて何の予定も入れず休んでいただく、という風にはできなかったのか、と思う次第だ。それから、被団協や原水協の方でも、せっかく企画を立てて招待されたから、わがままを言っては悪い、というような日本的な遠慮をせずに、ご高齢の被ばく者の方たちの海外でのプログラムがあまり負担にならないよう、「到着当日は何も予定しないでほしい」とか「移動はなるべく車でしてほしい」とか、最低限の条件を付けて被ばく者の方たちを守るべきではないか、とも思う。また、ベルリンの公共交通機関ではまだまだバリヤーフリーが徹底していなくて、私はできる限りエスカレーターやエレベーターを探したのだが、それでもないところがいくつもあったのも、いつものことながら気になった。

それでも、佐久間氏とお会いしたこと、お話を直接伺えたこと、また彼の訴えを私がドイツ語にしながらドイツの議員や基金で働く人たちに伝えることができたのはとても有意義なことで、学ぶこと、考えさせられることが多かったので、こうした機会に恵まれたことに感謝している。コーディネーションをしたIPBの代表であるアメリカ人のSean Conner氏や副代表のイタリア人のEmily Molinari氏、ドイツICANのAicha Kheinette氏のチームはとても感じがよく、一緒に話をし、行動する時間が長かっただけに、個人的にも親しくなれたことも嬉しい。ある大きな目標に向かって、皆、それぞれができる範囲で、出来る形で活動し、力を合わせていくことが何より大切だと再確認した。そういう意味でも、さらにネットワークが広がったことを喜びたい(ゆう)。

注1:松重美人氏https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8D%E7%BE%8E%E4%BA%BA

注2:ICANでもこの佐久間氏のベルリン訪問に関する記事を発表している。https://www.icanw.de/neuigkeiten/hibakusha-kunihiko-sakuma-zu-besuch-in-berlin/

シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金主催のアクションウィーク参加報告

シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金のマーティン・カストラネック氏は、フクシマ原発事故が起こる数年前から「アクションウィーク」を企画して実行してきた。これは、チェルノブイリ原発事故のあった4月前後にシュレスヴィヒホールシュタイン州の学校を回って、原発事故の「記憶を伝える」とともに、それを踏まえどのような未来を築いていけばいいのかというテーマを生徒に与えながら、学校、身の回りの環境でなにを改善することができるか話し合い、アイディアを出し合い、最終的に皆で投票して決めた一つのアイディアを、クラブ活動のようなチームで半年くらいかけて実現していく、そのためのノウハウやアドバイスを与えたりエキスパートを招いたりしてサポートしていく、という長い期間に渡るプロジェクトだ。持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に国連総会で採択されてからは、このSDGsを自分たちの環境でどのような形で実現するか、という主旨に変更した。こうしたコンセプトで地元の学校に提案を出し、目的に賛成し、生徒たちが積極的に参加しなければ成り立たないプロジェクトを一緒にやりたいと考える教師が協力を申し出て、時期や企画内容で折り合いがつけば実行される。このようにしてほぼ毎年、シュレスヴィヒホールシュタイン州の各地の学校(主にギムナジウムまたは総合学校(Gemeinschaftsschule)の10年生または9年生を対象)を、4月から5月の間の一週間、毎日1校ずつ5日間(月曜から金曜まで)めぐり、第一回目の集まりを開いてきた。

ここには、チェルノブイリ原発事故のリクビダートル(原発事故の処理作業に従事した人々を指す)として参加した人や実際の事故をその場で体験した人などがウクライナ(またはベラルーシ)から招かれていたが、フクシマ原発事故が起きてから、「記憶を伝える」の部分にはフクシマの話も大切だとして、フクシマまたは日本からも人を招くよう試みてきた。それで私は、ベル基金には緑の党寄りの基金としてそれだけの財源があるのかと思っていたのだが、そうではなく、このアクションウィークをどうしても実現・存続させるべく、カストラネック氏が宝くじによる社会貢献事業支援の枠組みに何度も応募してはこのプロジェクトに対し資金をもらっていたことがわかった。ただし、この宝くじによるあらゆる社会支援プロジェクトも、もう何度もこのプロジェクトが資金援助を受けたからかどうかはわからないが、同じ内容のプロジェクトではこれからはもう支援は与えられないと通達されているそうで、来年もこうしたプロジェクトを実現したければ、内容やコンセプトを変更せざるを得なくなる、という話だった。それにしても、若い中学3年生または高校1年生に当たる若者たちを対象に、原発事故の記憶を伝え、長期にわたるあらゆる側面に渡る問題を考えさせるだけでなく、そうした不安のない持続可能なエネルギーシフトを導き、自分の身の回りでもなるべく、どのようにすれば持続可能な環境を作っていけるか自分の問題として捉えさえ、考えさせるという試みはとても大切だし、通常の授業の枠組を超え、自分たちで具体的な考えを出し合い、そのアイディアを実行できるまで具体的にサポートしてもらえる、という経験を生徒に提供するというのはすばらしいアイディアだと思った。もう何年も前から反原発・反核の活動を通じて交流のあったマーティンから今回は私にもぜひ参加して私の立場から「フクシマの問題」を話してほしいと依頼された時、これなら応援しようと承諾した。このように5月の5日の月曜から5日間キールを拠点に、シュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校を毎日めぐる、2025年のアクションウィークに参加したので、これはその報告である。

国連のSDGs

招かれていたのは私だけではない。フリーの調査ジャーナリストとして事故後福島第一原発で普通の労働者として6か月被ばくしながら働いた桐島瞬氏が日本から参加していた。彼は、このアクションウィークの招きでドイツに来るのはこれで3度目だそうである。私は彼の通訳も受け持つことになった。桐島瞬氏は3.11の起きた時、日本のある出版社に勤めていたそうだが、それまで環境問題に関するテーマでも取材は行ってきたものの、原子力エネルギーに関しては一切かかわってこなかったという。フクシマ事故が起きて、情報が伝わってこない中、どうなっているのか自分の目で見たいという気持ちが募り、社員として新聞社や出版社に勤めているジャーナリストは「高線量の場所に行かせるわけにはいかない」と行かせてもらえないので、まず出版社を辞職し、フリーとなってから「潜入」する決心をしたそうだ。自分の本名で書いてネットで発表されていたそれまでの記事は、訳を話して名前を伏せてもらい、ネットでも彼の「正体」や電話番号、メールアドレスなどが暴かれないよう、いろいろ工夫をしてから、福島第一の中で働く仕事に就くことになったという。もちろん東電に直接雇われたわけではなく、現場から30キロほど離れたところにある会社に雇われたそうだが、東電で働くには身分証明をしっかりして本名を明かさないわけにはいかなかったのでそれなりの対処が必要だったようだ。また労働者は写真を撮ることを固く禁じられていて、携帯の所持も許されていなかったのだが、彼は隠れてジャーナリストとして潜入するからには、どうしても写真を撮りたいと、苦労して隠れて写真撮影もした。

雇われていた6か月ほど、彼は車で寝起きしていたという。早朝、同僚と会社の車で楢葉町にある中継拠点のJヴィレッジまで行き、防護服に着かえ、放射性物質を吸い込まないための全面マスクを手に取る。そこから作業員を載せる大型バス数台で福一に向かう。線量の高いところに入ればバスの中ですでに全面マスクもつけたそうだ。

彼が福島第一に入ったころはまだ、水素爆発の後あちこちに飛び散った瓦礫が散在しており、敷地内はまっすぐ車などが通ることもできないほどだったという。それでも、原子炉を冷却するための「循環注水冷却システム」と、冷却などで高レベルに汚染された水を浄化するための「多核種除去装置(ALPS)」を作り、重く太いホースを人海作戦で持ち運び、繋げる仕事に従事していたそうだ。最初は軽量の塩化ビニール製ホースだったが、草がホースを突き破り、汚染水が漏れることがわかり、のちにポリエチレン製のしっかりしたホースを使うことが決まったため、労働者たちがまったくのマンパワーで瓦礫や草木に覆われた場所を苦心してホースを運び繋いだそうだ。労働者たちは高線量の中を働くため、毎朝、その日の計画線量(その日の仕事の最大被ばく許容線量)を言い渡されるが、数時間でいっぱいになることもある。被ばく線量を測定するために24時間付けているガラスバッジと、敷地内の作業時につける線量計とで線量管理は一応しているのだが、朝の8時くらいから仕事を始めても昼近くには被ばく量が増えるため、休憩所に行って休むことになる。だが、その休憩所の線量も低くはないため、そこで全面マスクを外して休憩すると、休憩の間に汚染空気を吸い込んで被ばくしてしまうことになる。また夏の暑い時期には、全面マスクの中で汗を掻き、びしょびしょになってほとんど息ができなくなって苦しくなることが少なくなかったという。彼が働いていた当時は3000人前後の労働者が福一で働いていたが、休憩所はその人たちを収容する広さがなく、ロッカールームの前で横たわるしかないこともあった。肌が直接放射性物質に触れることがないように、特殊なポリエチレン繊維不織布で作られた全身の防護服を着ているが、休憩所では全面マスクを取り、首元を開ける。それで休憩中も被ばくをしてしまうのだそうだ。頭ではわかっていても、実際に目には見えない、味も臭いもしない放射能被ばくに関する懸念は、そこで具体的な仕事に携わり、暑さや疲労と闘っていると、どんどん麻痺していく、と彼は語っていた。

6か月ほど仕事をしてやめたすぐ後は、鼻血が止まらなかったことが何度もあったそうだ。それは、線量の高いところに住んでいる住民もよく報告していた症状である。彼が働いていたときだけで、2~3名が作業中に発症した急性心疾患などで死亡し、あとから取材した1人は白血病に罹患したが、東電は作業による被ばくとの因果関係を認めていない。彼も14年近く経つ今年の1月に心筋梗塞を起こし、心臓の手術を二度も行ったそうだ。つい1か月前まではまともに歩けなかったというが、ここまで回復してドイツにやって来たのだ。がんや心疾患は被ばくとの関連性が高いと言われ、被ばく後、長い時間が経ってから発症することがあると言われている。

私は、自分がドイツでフクシマ事故の話を聞いてどう反応し、何をしたか、という話をした。日本にいるより遠くのドイツにいる私の方が得られる情報や報道があったことに驚き、それを翻訳して日本の人にアクセスできるようネットで拡散し始めたことなどを話すとともに、日本ではフクシマ事故以来、実際の健康調査や被ばくの状況のデータ収集をしっかり進めて人々をサポートしたり、故郷を離れざるを得なくなり、帰ることのできない人たちに住宅支援を続ける代わりに、中途半端な「除染」でどんどん帰還政策を行って、住宅支援を断ち切り、包括的な調査をする代わりに「心の除染」「ちょっとくらいの放射能は大丈夫」「フクシマはおいしい、きれい」の大々的なキャンペーンを国や県や自治体が税金を使って政府寄りの広告代理店にやらせている話などもした。また、日本のフクシマの実態をドイツでも伝えるため、証言をドイツ語に翻訳するボランティア活動を続けていることも話した。その中で、遠くの隣人3.11の杉田くるみさんが制作してきた一連の「証言ビデオ」(ことに菅野みずえさんの、フクシマからの避難の話に私がドイツ語訳をつけたもの*2)を使わせてもらったり、彼女がコミック作家のダミアン・ヴィダルさんと作った「Fukushima 3.11」のコミックドイツ語版を紹介し、生徒たちに配布することもできた。くるみさんとダミアンさんにはこの場を借りて改めてお礼を言いたい。

今回のアクションウィークの第一回目の生徒との集まりでは、まず最初にこの企画の説明と流れを紹介してから、「まずフクシマと聞いて何を思い浮かべるか」、「フクシマとSDGsを繋ぐものはなにか」というような質問をMentimeterというリアルタイムフィードバックプログラムを使って(最近の学校はこのように進歩していて、かつて黒板のあったところに大きなモニターが付いていたりするのを私は初めて知った)生徒に答えさせる。何しろ14年前のことで、15歳16歳の生徒たちを対象としているから、当時の報道のことは知らない世代だが、教師と授業などですでにこのことが話題になっていた場合には、最初の質問に「原発事故」とか「放射能」とか「津波」とか答えた生徒もかなりいた。2番目の質問でも「環境問題」とか「持続可能な社会」とか「環境にやさしいエネルギー」とか答えられる生徒もいた。

コミックFukushima 3.11 *1

その後で、インタビュー形式で桐島氏と私に「事故のとき、何を思ったか、何をしたか」とか「日本でのメディアはどのように事故のこと、その後の影響などを伝えているか」などの質問をしながら答えさせるといった形でほぼ1時間くらい「フクシマ原発事故」にまつわる個人的な話をさせた。桐島氏は、実際に現場で被ばくをしながら一般の労働者と同じように働いたという実際の体験を語ったので、それは証言というものの常として、聞く人を動かす力があったと思う。放射能の危険性を知りながらも潜伏してその体験を語るInvestigative Journalistということで、話を聞いていた生徒たちや教師の中にも感動する人たちがいた。私はしかし、実際にフクシマの地震や津波も体験していないほか、故郷を追われたわけでもない、遠くに住むただの日本人として、それをどう自分なりに受け止め、反応し、それでどのように行動したか、というアクティビストとしての活動報告のようなものを語るしかない。また、アクションウィークのコンセプトに合う「ストーリー」に沿って用意された質問に対して答えるしかなかった(ことにそれは用意された質問に答える形でしかゲストである私たちは話すことができなかったからでもある)。

例えば日本のマスコミの問題点、政府・当局や東電の事故後の対応や責任問題、市民の健康管理や避難した市民たちの援助を徹底して実行・続行するよりずっと多大の金額を電通を先頭とする広告代理店に委託してプロパガンダを続け、汚染水の海洋放出や汚染土リサイクルなどを正当化しているなどの話もしたが、短い時間に、しかも原発事故に対する問題意識や知識のない若者たちに語れることは限られており、あまり詳しい内容を話すことはできない。どこに重点を置くか決めて、これだけは話そう、と要点に絞るしかない。ということは、これではフクシマの問題点、原子力産業の問題点、核の恐ろしさは伝えられない、と思っても、また問題点は複雑であり、ないがしろにできないデリケートかつ難解なテーマや説明が難しい状況が多岐にわたってあることがわかっていても、それを異国のティーンエージャーに、しかも学校のカリキュラムではない課外授業のような限られた枠内で、この事故の14年来(または原子力発電が誕生してから?)の問題を伝えることは不可能だ。簡単にまとめ、わかりやすくアレンジした「ストーリー」に嚙み砕くしかなくなる。ベル基金は緑の党に近い基金であるし、脱原発がまがりなりにも実現したドイツで、原発に頼らないエネルギーシフトと持続可能な社会を作って行こうということはいいとしても、政治的メッセージ、洗脳の試みとして取られかねないので学校であまり反原発を直接呼びかけない方がいいだろう、ということは最初に言われてもいた。私にはこうした「短い時間」で「噛み砕いた」フクシマの原発事故とその問題を(遠い異国の出来事として学ぶドイツの生徒たちに)わかりやすく、掴みやすい(しかもマーティンの主旨に沿った)ストーリーで伝える、ということ、そして同じ内容のプログラムをほぼ5日間繰り返したので、大体何をどのように話すのか決まってしまい、マンネリ化を感じながら、こうした「偏った」または「短絡化した」「ストーリーにまとめられた」フクシマを結果として伝える一人となったことに、罪悪感というか、フクシマ以来、さまざまな苦しみ、悲しみ、悩みを抱えてきている人たちを裏切っているような気持に苛まれた。

私はまったく被害者でも当該者でも体験者でもないわけだから、アクティビストとして学んできたこと、考えてきたこと、観察してきたことのほか、人前で話せることはない。それはこのような学校の限られた枠内で話すのには適さないのではないか、という思いに責められた。あるいは、こうして日本のことを全く知らない若者たちにフクシマまたは原発事故の悲劇、問題点を語るということは、私にはできない、私は不適格者だ、と悟らざるをえなかったとも言えよう。「これさえ伝えれば、あとは語らなくてもいい」とか「この側面だけ伝えよう」というような単純なメッセージづくりにフクシマも核をめぐる問題も縮め、簡略化することができない、もしくはしたくない私には、こういう任務はまったくふさわしくないのだ、と感じたと言えようか。そういう意味で、私は最後まで居心地の悪い参加となってしまった。それでも、桐島氏の話の通訳や、私の話にそれなりに満足し、任務を果たしたと思ってもらえたのはよかったと言わなければならないだろう。

アクションウィークには私たち「日本人ゲスト」のほか、シュレスヴィヒホールシュタイン州Bad Bramstedt地区代表の緑の党州議員で環境保護、エネルギー政策を専門とするGilbert Sieckmann-Joucken氏が参加しているほか、若手の女性二人(一人はエラスムス計画でスウェーデンの大学で半年勉強しているMelina Wolf(数年前からこのアクションウィークプロジェクトの研修生として働いてきている)と、大学での政治学修士を獲得後、今は難民支援団体Flüchtlingsratで仕事をしているMiriam Zweng(彼女も3年前からアクションウィークに参加)が司会やサポート役として来ていた。彼らがSDGsをどのように身近な学校環境で変えていくことができるか説明したり、例を挙げたりしてから、自分たちの周りで何が問題か、何を変えることができるか考えさせるワークショップへと生徒たちを導いていく。

ワークショップの様子

アイディアとして出た例は、「学校の緑化」「自転車をつかって電気を作ってそれで校内の一部の設備機械のエネルギーを賄う」「戦争や紛争を逃れて難民として来ている子どもたちを支援する寄付金集め」 「太陽光パネルを屋根に設置して校内の電気として使う」「学校の庭で畑を作り、養蜂もする」「屋根の緑化」などがあったが、その前に「どういう問題があるか」という段階で、「ファーストファッションが問題」とか「パン屋でいちいち新しい紙の袋にパン菓子を入れて買うとゴミが出る」、「低学年の生徒に正しいゴミの仕分け方とその意味、理由を教えて、リサイクリングを徹底する」から「暴力」や「武力闘争」問題、差別問題まで提示するほど、意識の高い生徒もいた。9年生と10年生の生徒両方と接したが、やはりこの年齢での1年の差は大きく、10年生のギムナジウムの生徒は、意識も高く、考えもしっかりまとめられる人がいるのに感心した。

アイディア例

最終的には、多数出されたアイディアの中から1つまたは2つを投票で選び、それをこれから半年かけてクラブのような形で集まって具体的な計画を経て、実現していく、これがアクションウィークだ。資金がかかるアイディアだと、どのように資金を調達するかアドバイスを出す、技術的な支援が必要なアイディアなら、エキスパートを招いて講習する、などのフォローがベル基金の方から出されることになっている。

生徒から出されたアイディア

滞在中、Schönbergという町でフクシマ原発事故以来、かかさずMahnwache(戒めの集い)を続けてきたグループが私たちを招待してくれたので、キールからフェリーでLaboeまで行き、そこからさらにSchönbergまで向かった。このフクシマ・グループは事故直後はかなりの人数だったというが、今は7人程度、といいながらも毎週欠かさず町の真ん中の商店街の薬局前(ここは屋根があるので雨でも大丈夫)でMahnwacheをしているというので驚いてしまった。薬屋もそれを快く受け入れてくれているということだ。この町は、町長も原発事故後、役所の建物をミーティングで使わせてくれたり好意的だったそうだが、それはここが元原発が稼働していたBrokdorf (Kreis Steinburg)、Brunsbüttel (Kreis Dithmarschen)そしてKrümmel (Kreis Herzogtum Lauenburg)から離れていたからだろうという。最初にメンバーの一人の自宅に伺い、そこで菅野みずえさんが避難の模様を語ったビデオを見せながら少し話をして、それから一緒に食事のできる海岸沿いのレストランに向かった。彼らは、かつて反原発運動がドイツで盛んな頃、よく作られたという「たいらげて退治」しまおう原発お菓子(Schokokussと細長いワッフルクッキーで作ったもの)を持ってきてくれた。私が初めてこれを知ったのは、SNBや私の活動にいつも協力を惜しまずサポートしてくれた大切な友だった今はいないAnnette HackがSNBの集まりに作ってもってきてくれた時だったことを懐かしく思い出した。

食べてなくしてまおう!原発

ドイツの学校は朝の授業開始時間が早く、宿泊しているキールから車で1時間くらいかかる学校もあったため、毎朝かなり早い出発時間だったのが大変だった。でも、首都のキール周辺にアクションウィークに参加する学校が集中してしまわないよう、できるだけシュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校に行けるよう、企画しているのだ。いろいろな教師がいることも、いろいろな学校(その建物、設備、生徒たちの様子なども含め)があることもこの目で見て、改めて勉強になった。そして、携帯(スマホ)の所持を学校内で禁止しているところも少なくなかった。そしてある教師は、ここ数年、TikTok等の影響で、数秒で興味を覚えないものにはすぐに集中力が失せてしまう生徒たちが圧倒的に増え、10年前と同じ授業は今は行えない、と嘆いていた。ここで話をした若者のどれくらいの人たちが、私たちの話を数年経っても覚えているだろうか。何か、心に残ったり、なるほどと思ってくれたことはあっただろうか。あと10年も経たないうちに、この若者たちがドイツで仕事をしていく世代になるのだ。彼らが次の世代を育てるようになる頃には、どういう社会が、どういう環境ができているのだろうか。自分の生きる、自分の大切な人たちが生活する環境、世界をできるだけ安心できる、気持ちのいい場所にしたいというSDGsの理念を、自分で考え、自分で実践していってほしい。そのためにアクションウィークのようなプロジェクトをこれからもあらゆる学校で生徒たちに提供し続けてほしいと思う。(ゆう)

*1 コミックFukushima 3.11(以下のリンクでフランス語・英語・ドイツ語版がダウンロード可)

*2 菅野みずえさんの証言ビデオ

原発事故の強制起訴裁判、最高裁東電元副社長2人を無罪確定

2025年3月6日、日本の最高裁は、メルトダウンを起こし、未曽有の被害、死、をもたらした東京電力福島第1原発事故を巡る、東電旧経営陣の責任を問う刑事裁判で地裁、高裁の判決を認め上告棄却を決定し、旧経営陣の無罪が確定することになった。

旧経営陣を告訴・告発した「福島原発告訴団」の武藤類子団長は、最高裁の上告棄却が決定されてから弁護士とともに記者会見を開いて、悔しさを語った。

武藤類子団長の発表の抜粋

地裁、高栽と全員無罪となりましたが、私たちは最高裁の裁判官としての誇りと最高裁判所という場所の正義に一縷の望みをかけてきました。

刑事告訴するための準備を含めて13年間を費やして夢中で走ってきました。振り返る間もありませんでした。事故から14年が迫る中、その直前の判断は、被害者の気持ちを踏みにじるもので、冷酷さを感じます。

3月11日を目前に控えた今日、このような判断がされたということは、原発事故の被害者を本当に踏み躙るという冷酷さを感じています。どれだけの原発被害者が落胆して憤っているかと思います。

福島原発事故は今も続いています。どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、そしてどれだけの人が人生を狂わされたのか、そして未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか、そして原発事故を起こした企業の経営者の責任を問わないということが、次の原発事故を引き起こす可能性があるということ、それを裁判所が理解してくれなかったということが何よりも悔しくてそして残念です。

私たちはこの判決も司法でこれから問うことはできませんけれども、この判決にはまるで納得していません。これからも、この事故の責任というものは色んな形で問われると思いますので、そういった活動をしていきたいというふうに思っています。

フクシマ原発事故14周年を機に寄せられたフクシマ出身の女性二人のメッセージ

2025年 世界の皆さまへ

揺れ動く世界の情勢に、困惑するばかりの2025年の始まりですが、世界中で脱原発を目指して頑張っておられる皆さまに、心より感謝いたします。

私は、昨年夏に、帰還困難区域に入る機会がありました。過酷な避難の途中で50人以上の患者さんが亡くなった病院は、鬱蒼と繁った樹木と草に覆われていました。老人ホームには、ベッドや紙おむつ、薬、書類などが散乱し、大慌てで避難をしていったそのままの様子が見て取れました。3月11日の食事の献立がホワイトボードに書き残されていました。小学校では小さな木の机の一つ一つに、辞書が置かれていました。ランドセルも靴も絵の具の筆を洗うバケツも、倒れた自転車もヘルメットも、みな置き去りにされたままでした。物音はなく蝉の声だけがあたりを包んでいました。13年前には確かにここには人の暮らしがありました。でも、今は誰もいません。今もそんな場所が存在します。

避難解除された場所に、戻ってくる方々は極少数です。放置せざるを得ない住宅は次々に解体されています。江戸時代に建てられた文化財のような門や蔵などが、解体されているのを見ました。そのすぐそばには災害復興住宅があり、県外からの移住者の子どもたちも住んでいます。住民の方によると、家の中でも事故前の5~10倍の0.3μSv/hだそうです。住宅のフェンスの向こう側は帰還困難区域です。このような住環境は、決して安全とは言えません。

 一方、日本の第7次エネルギー基本計画案では、「原発依存度を減らす」という文言を削除し、原発回帰が色濃く見えています。今も終わらない福島原発事故を経験し、そして昨年の能登半島地震で、もし原発事故が起きたら避難も自宅待機もできないことが明らかになり、それでも尚、原子力をエネルギーとして選択する愚かさが、私には理解できません。

不十分な賠償と責任追及のために沢山の被害者が起こしている裁判は、2022年に最高裁が国の責任を認めない判決を出しました。その後、その最高裁判所判事と東電の癒着がジャーナリストによって明らかになっています。日本の司法はかなり危機的な状況にあります。最高裁判例がその後の下級審の判決に踏襲されるなど、原発事故被害者による裁判は厳しい状況に置かれています

0.7グラムの核燃料デブリの取り出しが成功したと報道されていますが、何度も失敗があり、むしろ高線量の放射能の下での作業の過酷さと、テレスコープ型のデブリ取り出し装置の組み立て作業に東電社員が立ち会い確認をしなかったなど、東電の作業管理の杜撰さを露呈しました。誰もが2051年の廃炉の実現などありえないことを感じているにも関わらず、放射能の減衰期間を置くなどの廃炉のロードマップの見直しはされません。

汚染水を海洋投棄することに強引に着手した東電と国は、次は「復興再生利用」と謳った汚染土の拡散を本格的に推し進めようとしています。特に若い人々に向けて放射能の安全神話と、政府が認めた「科学的」が正しいものだと刷り込むための宣伝事業を繰り広げています。

誰もいなくなった海岸線の土地に、「復興」の掛け声とともに、被害者に本当に必要なものなのかも分からない最先端技術の企業や研究所が、多額の復興予算を使い林立しています。

原発事故とは、暮らしも、故郷も、人権も踏みにじるものです。事故から14年の現状を目にすると、福島はどうなっていくのだろうと途方に暮れるばかりです。

でも、冬の寒さが過ぎ、春の兆しがそこまで来ています。こんな時代だからこそ、心にきれいなものを沢山詰め込み、真実を見抜く涼やかな目を持ちたいです。そして今日も脱原発を粘り強く闘う仲間が世界にはたくさんいることを心強く思いながら、私もできることを続けていきたいと思います。

武藤類子

福島原発告訴団(刑事裁判)代表

ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)代表

このメッセージは5か国語(フランス語、ドイツ語、イタリア語、ルーマニア語)に翻訳され、『よそものネット』のウェブサイトに掲載されています。武藤類子さんからのメッセージ(6カ国語) – yosomono-net

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東電福島原子力惨禍における放射線被ばく被害を避けるため、国内避難を続けている森松明希子と申します。


2011 年3月11日に発生した大震災及びそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故から14 年が経過しました。しかし事故は収束からはほど遠く、世界につながる海、空気、陸地を汚染し続けています。
事故を起こした原子力発電所が「アンダー・コントロール」とは言い難く、この国のリーダーが、誰一人として、その事実を認めていないことに対して憤りを覚えます。14 年経った今なお、放射線被ばくを避けて多くの人々が汚染地から避難を続けている現状があります。政府(復興庁)に登録した避難者数は、分かっているだけでおよそ2万
9,000 人、全国47都道府県全てに今なお存在し(2024 年12 月6日復興庁『全国の避難者数』)、政府の保護や救済を切望し続けています。しかし、発災直後から正確な避難者数が日本政府によって把握されたことは一度もなく、実際には、これより多くの人々が避難を余儀なくされていますが、救済されることはなく苦難の中に今もあります。また、現状を把握しようとしない政府からの支援や保護の措置がないため、したくても避難できない人々が多数存在しています。

私には2人の子どもがいます。震災当時、5ヶ月の赤ん坊と3歳の幼児でした。この14年間、私の夫(子どもたちの父親)は福島県郡山市に、私と子どもたちは大阪市に、離ればなれに住んでいます。このように、強制避難区域に指定されなかった汚染地域に住む人々は、被ばくに脆弱な子どもを守るため、母子だけで線源(汚染地)から離れるという苦肉の策を余儀なくされ、今現在も、多数の母子避難をはじめとする自力避難者が存在しています。


避難できた人も、そうでない人も、東電福島第一原子力発電所事故に由来する放射能汚染から身を守る必要があります。そして、「避難すること」は被ばくから免れ健康を享受するための人として当然の行為です。しかし、日本では、避難者は差別され、いじめの対象になり、「風評加害者」などとレッテルを貼られ、言論の自由まで奪われるという二次被害まで受け続けるという人権侵害の惨状があります。

原子力を推進し、核を手放さないということは、一次的には、望まない被ばくを余儀なくされることであり、二次被害としては、安全な場所に避難するという自らの身を守る権利も剥奪され、さらにそのことに対して抗議するための言論の自由という民主主義の根幹をなす権利をも奪われるということに他なりません。


また、この問題は、福島の人々だけの問題ではないということを強く訴えたいです。核被害の脅威にさらされた時、あなたは被ばくを強いる側に立つのか、それとも被ばくから人々の命と健康を守る側に立つのか、という問いを世界の皆様と共有したいです。

国策で、原子力発電が進められれば、逃げることは簡単に許されず、日本と同じように、原子力を肯定するために、核との共存が可能であると、国は喧伝するでしょう。それは欺瞞でしかありません。

2025 年は、第2次世界大戦終了から80年を迎えます。昨年は、日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、ヒバクシャが世界の舞台でスピーチしたことで「被ばく」に関しても注目されています。今こそ、世界の核被害を訴える人々とつながって、放射線被ばくから免れ命を守る行為が原則であり、それを世界で普遍的な共通認識にすべきと考えます。この普遍的な権利の確立のために福島核災被害者である私もともに声を上げ、闘い続けようと決意も新たにしています。世界中の皆さま、ともに声を上げ続けていきましょう。

2025 年 3月11日

森松明希子
原発賠償関西訴訟原告団代表
原発被害者訴訟原告団全国連絡会共同代表

Dokumentarfilm „Silent Fallout“ (Leiser Fallout, mit deutschem Untertitel)von Hideaki ITO aus Japan anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki

Im August 2025 jähren sich die ersten Atombombenabwürfe auf Hiroshima und Nagasaki zum 80. Mal.


Leider ist die Welt die Angst vor dem Atomkrieg nicht losgeworden, vielmehr ist die Bedrohung heute stärker denn je. Und ohne den Einsatz von Atomwaffen in einem Krieg gibt es seit der Entdeckung der Kernspaltung und der ersten nuklearen Kettenreaktionen überall auf der Erde Strahlenopfer – sei es von Atomtests, von Atomkraftwerken oder vom Uranabbau. Man übersieht meistens die Tatsache, dass man selbst betroffen ist.

Gerade jetzt, wo die Gefahr eines Atomkriegs wieder hoch aktuell geworden ist wie noch nie, ist es von großer Wichtigkeit, uns nochmals bewusst zu machen, was radioaktive Strahlen anrichten können. Um das Thema – anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki – stärker ins Blickfeld zu rücken, schlagen wir Sayonara Nukes Berlin (nachfolgend „SNB“), vor, gemeinsam mit euch eine Filmvorführung zu veranstalten, bei der ein besonderer Dokumentarfilm gezeigt wird, der nun mit deutschen Untertiteln verfügbar ist.


Der Film vom japanischen Filmemacher ITO Hideaki „Silent Fallout“ (Leiser Fallout) taucht tief in die unerzählten Geschichten der Opfer von Atomtests in Amerika ein. 1951 begannen die USA mit Atomwaffentests auf dem Festland und setzten unzählige Bürger einer gefährlichen Strahlung aus. Mary Dickson, die in den 1950er und 1960er Jahren in einem Vorort von Utah aufwuchs, wurde Zeugin, wie ihre Mitschüler in der Grundschule an ungewöhnlichen Krankheiten und Todesfällen starben. Gleichzeitig führte Dr. Louise Reiss in St. Louis, Missouri, eine bahnbrechende Studie durch, bei der sie Milchzähne sammelte und das Vorhandensein von Strontium-90, einem radioaktiven Element, in den Körpern von Kindern nachwies, die der Strahlung in ganz Amerika ausgesetzt waren. Dies veranlasste schließlich Präsident Kennedy zu dem Beschluss, die atmosphärischen Atomtests einzustellen.

Mit Berichten von Betroffenen aus erster Hand und Interviews mit Wissenschaftlern will Filmemacher Ito mit seinem Film das Bewusstsein für das gravierende Problem der Strahlenvergiftung und der nuklearen Verseuchung in den USA und weltweit schärfen. „Silent Fallout“, der die wahre Dimension der weltweiten radioaktiven Verseuchung, insbesondere durch Tests im Pazifischen Ozean und in Russland, aufzeigt, ist ein Muss für jeden, der sich für die dunklen Kapitel der Geschichte und ihre anhaltenden Auswirkungen in der heutigen Zeit interessiert, und bietet eine Fülle wissenschaftlicher und historischer Informationen sowie Berichte der Opfer aus erster Hand. Der gut geschnittene Film hat die Qualität eines guten Erzählfilms und ist ein wirkungsvolles pädagogisches Instrument.


Der Filmemacher Ito verzichtet bewusst auf feste Vorführgebühren, damit möglichst viele Menschen diesen Film anschauen können, aber freut sich über jede Spende von Zuschauergästen und/oder Organisationen, die die Filmvorstellung organisieren. Der Film ist auf Englisch mit deutschen Untertiteln, und ist 70 Minuten lang.


Nach der Vorstellung kann man entweder per Skype oder direkt ein Gespräch mit dem Regisseur (SNB stellt eine Dolmetscherin zur Verfügung) anbieten. Herr Ito plant, im September/Oktober eine Filmvorstellungstour durch Frankreich zu machen und könnte je nach Bedarf und Einladung auch nach Deutschland kommen.


Wir würden uns sehr freuen, wenn möglichst viele Menschen in Deutschland die Gelegenheit bekämen, diesen beeindruckenden Film anzuschauen.


Filmvorführungen können auch in kleineren Rahmen veranstaltet werden, d.h. der Film darf überall, egal in kleineren Gruppen von Menschen, oder in Kinos, Theatern, Universitäten, Schulen, Vereinen oder Firmen gezeigt werden.


Bei Interesse schreibt eine Mail an:
Silent Fallout promotion team in Europa: (SilentFallout_projection_eu@protonmail.com )

Filmemacher Hideaki ITO:
Geboren 1960 in Japan. Seit 1990er Jahren ist er als Filmemacher tätig. 2004 fing er an, über die Fischerboote Japans zu berichten, die 1954 im Pazifik verstrahlt worden waren im Zuge der Atomtests durch die USA im Bikini Atoll, und seitdem setzt er sich mit dem Thema Strahlenopfer auseinander. Der Dokumentarfilm „Silent Fallout“ aus dem Jahr 2022 ist sein dritter Film über dieses Thema. Er wurde in den USA erstmal beim Hampton International Film Festival gezeigt und bereits mit mehreren Preisen ausgezeichnet.

ドイツ- 核のゴミをめぐる抵抗の歴史と現状@zoom茶話会のご案内

脱原発は達成したけれど、まだまだ未解決の問題に溢れているドイツ。SNBメンバーの梶川ゆうがドイツの核のゴミ処分場問題について、現場を視察した情報を交えながらお話します。ぜひご参加ください。 

日時:2024年10月27日(日)19:00~21:00(+交流会)
会場:Zoom
主催:さよなら原発神戸アクション 
参加費:無料(カンパ歓迎)
申し込み:要(下記リンクをご利用ください。)

■お申し込みはこちらから↓(申し込み締め切りは、10月25日です)
https://docs.google.com/…/1FAIpQLSdSZHgblsVU6L…/viewform 

梶川ゆうのプロフィール:
フリー翻訳家、在独37年。ベルリンの日本人反原発グループSayonara Nukes Berlinを中心に活動。

ゆうからのメッセージ:
日本から9千キロも離れたドイツはフクシマ原発事故後「脱原発」を決定し、ついに去年2023年4月に達成されました。しかし、高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトはまだ見つかっておらず、中・低レベル放射性廃棄物の方は処分場建設がすでに始まっているものの、問題は山積みで、予定通り運転開始できそうにありません。条件を満たす最終処分場が完成し、運転開始するまでは、高レベルも中・低レベルも、廃棄物はしっかり遮蔽した状態で中間貯蔵施設に保管しなければなりませんが、最終処分場がいつまでもできないため、耐用年数が数十年しかない中間貯蔵施設に、しかも輸送と短期保管用にしか作られていない容器に入れられたまま、半永久的に保管される可能性があります。このように核の負の遺産をめぐって、市民運動が全国各地で続けられています。
中でも、長い間高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトに指定されながらもずっと抵抗運動を続け、とうとうサイト候補から取り外させることに成功したゴアレーベンの市民運動は、あらゆる市民運動のあり方に大きな影響を与えました。そのゴアレーベンの抵抗運動の話と、その他の核のゴミの処分場をめぐる問題と現状について、報告します。

■お申し込み後、フォームへ記載されたメールアドレスに自動返信機能で返信がいきます。
スマホのメールには自動返信のメールが送信されない場合がありますが、前日までに、ZOOMのアドレス、ID、パスコードをお知らせしますので、その案内が未着の場合は、下記のメールアドレスにメールください。
お問い合わせ:nonukekobe311★gmail.com
(上記のメールアドレスの★の部分は@に変えてください)

■タイムテーブル予定■
18:50 入室開始
19:00 はじめのあいさつ
19:10~20:30 梶川ゆうさんのお話 
20:30~20:35 休憩 
20:35~20:55 Q&A 
20:55~21:00 おわりのあいさつ
21時以降交流会を予定しています。

【カンパ歓迎】振込口座 郵便振替 00900-8-110030 神戸ネットワーク
※通信欄に<カンパ>と書いてください。

Weltatomerbe Braunschweiger Land:

Endlager-Symposium(核の遺産を背負うブラウンシュヴァイク地方最終処分場シンポジウム)報告

2024年6月16日から20日まで核の遺産を背負うブラウンシュヴァイク地方最終処分場シンポジウムが開催された。これはブラウンシュヴァイク地方でずっと原発・放射性廃棄物処分場問題をテーマに運動してきたプロテスタント教会グループのPaul Koch氏と、シュレスヴィヒ・ホールシュタイン州ハインリッヒ・ベル基金のMartin Kastraneck氏が中心となり、ブラウンシュヴァイク近郊に点在する中・低レベル放射性物質処分場を実際に巡り、放射性廃棄物最終処分のための連邦機関(Bundesgesellschaft für Endlagerung、以下BGEと略)の主張、進行状況報告を聞き、その土地で運動をしている市民グループたちが警鐘を鳴らしている問題点を聞こうという濃厚なプログラムだ。

具体的には、最終処分場候補や、かつて最終処分場とされたもののそれを撤回し、すでに存在する廃棄物を取り出さなければいけないことになっている処分場が抱えている問題だけに留まらず、「放射性廃棄物の処分」とはどういうことか、国はどういうコンセプトでどう進めているかBGEから直接話を聞くと同時に、市民グループはそれに対し何を不服とし問題視しているか、どんな運動をしているかを話してもらい、実際に問題の処分場にも足を運んで自分の目でも問題を捉え直すというプログラムだ。それぞれの処分場を訪ねて地下に潜ると何時間もかかるので、一日に一か所しか巡れないため、4泊5日に渡る大プログラムとなり、Koch氏が主に一人で計画準備設定をしてくれた。私の宿泊費はKoch氏が所属する教会でフクシマ原発事故以来彼らが続けている勉強会「ワーキングサークル・日本(Arbeitskreis Japan)」が負担すると提案していただいたため、こんな機会はめったにないとありがたく受け入れさせていただき、参加の運びとなった。。深謝。

ハードスケジュールのプログラムだったが、学ぶことばかりだった。これまで聞いてある程度知っているように思っていたドイツの処分場に関する知識も不十分だったことも実感した。またドイツに限らず、解決法がないままずっと夥しい量の放射性廃棄物をどんどん作り上げ、見えないところに押し込み(投げ捨て)、考えないようにしてきたツケが、世界各地でこのような形で噴き出ているのだという事実を改めて見直し、放射性廃棄物に対する考えも、処分という考え方、処分法についても熟考するいい機会となった。プログラムを追ってここに報告したい。

一日目夜:オープニングプログラム「放射性廃棄物処分の取組み方と問題点をあらゆる視点から考察する」

Koch氏、Kastraneck氏からの開催に関する挨拶後、BGEを代表してManuel Wilmanns氏がBGEの最終処分コンセプト、方針、計画について発表、アッセII(研究鉱山でここに1967年から1978年まで中・低レベル放射性廃棄物が処分されそのままになっている)周辺の環境市民グループを代表してEleonoreとWolfgang Bischoff夫妻がそれに対する意見、批判とアッセIIの状態についてデータを挙げながら考察を述べた。最後に私が日本の最終処分場探しに関する歴史、現在の状況、問題点などをパワーポイントファイルを使いながら簡単に説明し、最後は参加者が自由に意見を述べたり議論する場となった。

Asse II近郊市民運動家の報告

この最初のプログラムの会場となったのは、Koch氏が所属するSchöppenstedt市の教会(プロテスタント)教区集会場だ。この近くにAsse IIを始めとする、岩塩等のかつての鉱山坑内に中・低レベル放射性廃棄物を「処分」してきた処分場がまとまって存在しているため、放射性廃棄物による環境汚染や放射線障害の問題に関する市民の意識が長年高く、それで教会に属するKoch氏のような人たちも「放射線交流会」のような話し合いの場、意見交換の場、勉強会などを開いてきた。以前フランクフルトのレップ牧師が退職するまでおしどりマコ&ケンさんをドイツに毎年のように招いてくれていたころ、ベルリンの前後には必ずこのKoch氏に招かれておしどりさんたちがブラウンシュヴァイクに行っていたことを思い出す。ちなみに、この二人はKochさんに連れられて、Asse IIの坑内に見学しに行ったことがあるそうだ。

翌日の月曜にはAsse IIの坑内、火曜日にはMorslebenの坑内、そして水曜にはSchacht Konradの低・中放射性廃棄物最終処分場工事現場に見学に行くこともあり、そこの問題点を中心に「放射能廃棄物処分」というこれまでの歴史と経過そして予定されているこれからの行政の計画から復習することとなった。放射性廃棄物最終処分のための連邦機関(Bundesgesellschaft für Endlagerung, BGE)は連邦政府が運営する機関組織として6つの部門に分かれて放射性廃棄物最終処分に関する仕事を取り扱っている。その6つの分野とは:

  1. Endlager Schacht Konrad(唯一ドイツで現在許可が下りて建設工事が進んでいる中・低レベル放射性廃棄物最終処分場、もと鉱山)
  2. Endlager Morsleben(かつて最終処分場とされ、1971年から1998年の間に処分され中・低レベル放射性廃棄物が37000立方メートルすでにある)
  3. Schachtanlage Asse II(1967年から1978年までにここに処分されてしまった中・低レベル放射性廃棄物が約47000立方メートルあり、ドラム缶が塩水で錆びているような危険な状態の廃棄物を取り出して、水に溶けて陥没するかもしれない塩山を安定させなければならない)
  4. Bergwerk Gorleben(2020年になってやっと高レベル放射性廃棄物最終処分場候補リストから降ろされたゴアレーベンの塩ドームは、1977年から「最終処分予定地」として調査のための採掘が行われた。2021年にBGEはこのゴアレーベン鉱山を閉山することになっている。このすぐそばには中間貯蔵施設があり、ここにラアーグなどから戻された高レベル放射性廃棄物の入ったキャスクが保管されていて、この貯蔵施設の使用許可が2034年に切れるのでそれをどうするかについてもまだ未定なのだが、こちらの問題は放射性廃棄物中間処分のための連邦機関BGZ(Bundesgesellschaft für Zwischenlagerung)が担当している。)
  5. 最終処分場サイト探索(サイト選定と日本語ではふつう訳されるが、実際は「探索」だ)
  6. 品質管理(最終処分用容器や最終処分場の運営・管理・制御方法に関する品質管理、認可など)

このBGEと日本で最終処分探しを担当している原子力発電環境整備機構(NUMO)との決定的な違いは、BGEが完全に連邦政府により資金が出され運営経営されている公共機関であるのに対し、NUMOは幹事に経済産業省のもと大臣官房付きだった人などが入っているものの、ほとんどは電力会社、日本原子力研究開発機構(JAEA)日本原燃から納付された拠出金・運用益によって賄われ、それらの関係者で運営されていることだ。

BGEは2016年7月に、それまでの放射線保護連邦庁 (BfS)内の最終処分部門とAsse運営会社と廃棄物最終処分場建設運営会社 (DBE)を統合し、ドイツの「原子力法」と改正された「最終処分サイト選定法」に基づいて設立され、現在約2300人の従業員がそれぞれの分野で従事しているという。透明性、公明性を強調するため、広報には力を入れていて、どの処分場サイトに行っても、どんな質問にも真摯に答えられるだけの知識専門情報を持ち合わせた広報担当者が詳しく案内・説明し、批判的な意見に対してもきちんと対応し議論しているのは気持ちがいい。もちろんだからといって、彼らの言っていることが必ずしも正しいわけではないし、批判の余地がないわけではなく、それを監視する情報や目も、市民が持ち続けなければならないことに変わりはない。

今回のシンポジウムでは、Asse IIとMorslebenの坑内(地下)、Schacht Konradの中・低レベル放射性廃棄物最終処分場の工事現場を見学してそれぞれの問題点を学び、さらにブラウンシュヴァイク市外で主に医療で使われる放射性医薬品を製造するEckert und Ziegler社の放射性廃棄物の処分問題についても話を聞くこととなった。

二日目:Asse II坑内見学

ドイツでは1960年代に原発計画が持ち上がった。ドイツ国内で原発による発電を始めたら、必ず排出されることになる高レベル放射性廃棄物については、その崩壊熱がある程度おさまってから、それを最終処分する場所がいずれ必要になることはわかっていた。1959年11月にモナコで放射性廃棄物処分に関する国際会議がIAEAとユネスコ共催で催されたが、ここで、これから原発が世界各地で増設されていくのを鑑み、排出も増える放射性廃棄物をどのように処分すべきかが話し合われた。32か国から約300人の科学者たちが集まって15年のそれまでの経験をもとに(つまり1944年からの経験)議論や講演を行った。特記すべきは、当時はまだ誰もが「原子燃料サイクル」を信じていたため「廃棄物」とは言わず「使用可能な資源」と言っていたそうである(日本ではそれをまだ相変わらず言い続けている)。この会議では、放射性物質は固体に固めるか容器に入れて密閉し、人工的または自然の地下の空洞に処分するのがいいという結論が出されたという。しかし、それぞれの土地・地方の地理的、地質的、天候的、水資源的等条件がことごとく異なるため、どこにも採用可能な統一の解決法をここで提示することはなかった。またここではまだソ連を除き、ほかの国々は海洋放棄という方法も完全に放棄しなかったとある。

これを受けてドイツでは、地質的条件から最適なのは塩山ドームだという議論が優勢になった。というのは、当時最終処分場として適しているとされてきた地質には大きく分けて3種類あり、それは岩塩(塩山)、粘土質岩、結晶質岩(花崗岩)である。それぞれに長所短所がある。例えば結晶質岩の例で花崗岩(Granite)が挙げられ、例えばフィンランドのオンカロに予定されている最終処分場は花崗岩の地質だが、花崗岩は極めて硬質であるのが長所だが、短所として脆性性(割れやすい)がある。粘土質岩は熱に強いが、水を含むと膨張するという短所がある。それと同様に岩塩は水に溶けるという短所があるものの、塩は放射性物質の遮蔽性能が高いとされている。

そこでドイツは、塩山や塩ドームが国内にいくつもあり、すでに坑道もあって採掘後の空洞があったため、ここを使うのが経済的にも安いし便利だと思われたのだった。まず第一に高レベル放射性廃棄物の最終処分場候補として考えられたのが当時の西ドイツの東ドイツとの国境沿いにあったゴアレーベンの塩ドームだった。ただ、まだ技術的に解明しなければいけない問題があったため、放射性物質研究機関(GSF)が連邦政府の指示で、1965年にすでに採掘をやめていた塩山のAsse IIを買い上げ、研究鉱山という名前でここに「試しに」低・中レベルの放射性物質をドラム缶に入れたものを「保管」することにしたのだった。あくまでも「研究鉱山」という名で、GSFはゴアレーベンに高レベル放射性廃棄物最終処分場を造るための技術的科学的調査を行うという目的で、Asse IIを使用することにしたのだった。

すでに水が流れ込んでいるという問題は知られていたので、それを裁判で訴えた市民、環境団体がいたのにもかかわらず、Asse IIは「乾燥して」おり、「放射性廃棄物処分に適している」と宣言されてしまい、1972年当時の連邦科学省長官であるKlaus von Dohnanyiは「ほぼ百パーセントの確率で水が入り込むことはない」と言い放った。

Asseはこの近郊地下に広がる塩鉱山だが、IIという番号からも予想できるように、まずはAsse Iの坑道で1899年からカリ塩が採掘され始めた。しかしまもなく水が入り込んで塩が溶け始め、1921年にはこのAsse Iの坑道は完全に陥没してしまった。Asse IIIは1911年に掘り始められてからも塩水の流れが何度も見つかり、なかなか塩の採掘にたどり着かなかったそうだ。第一世界大戦後728メートルの深さまで掘られたのち、ここで採掘していたカリ塩の需要が少なくなったこともあり、閉山された。今はここもほぼ陥没状態に近いと言われている。残ったAsse IIは1906年から1908年の間に765メートルの深さまで掘られ、そこから坑道が作られていった。ここでは主に岩塩が採掘されていったが、いくつもの深さと水平の長さに空洞に岩塩が削られていったのである。1964年に採掘が終了され、一部の空洞は埋められたという話だが、結局合計300万立方メートルもの空洞が残されたことになる。

「スイスチーズの穴」Asse II内部の模型

訪問者センターに入り、BGEの広報担当の人から最初のレクチャーを受ける場所にAsse IIの模型があるが、ここを見るとわかるように、坑内は地下に作られた大規模な高層ビルのように、何層にも長い坑道が掘られて「スイスチーズの穴」のようだとも言われている。(写真参照)

Asse IIには1965年から1978年まで、約126,000ものドラム缶に入れられた中・低レベル放射性および化学毒性物質の廃棄物がここに処分された。最初は縦、または横に寝かしてきちんと並べられていたのが、1971年からは地下の穴奥深くにただごろごろと投げ落とされて放棄されていたことが知られており(動画にもその様子が残っている。写真参照)、そこに水が出始めてドラム缶の蓋や容器が塩水で錆び出し、放射能が漏れ始めて怖い状態になっているため、これをどうして取り出して安全に処分し直すかが最大の課題となって いる。

後先考えずに放り込まれた廃棄物の入ったドラム缶
後先考えずに放り込まれた廃棄物の入ったドラム缶

この無秩序な処分はなにより「時間の節約」のためでもあったが、労働者の放射線保護のためになるべく放射線に近づく時間を短縮するためでもあったということで、それだけ「後日これをまた回収する」などということは予定に入っていなかったことがわかる。ここに放棄された廃棄物には、約25000のドラム缶に分散されて28㎏分のプルトニウム、102トンのウラン、500㎏のヒ素が含まれているそうだ。

さらに、これらドラム缶はいくら中・低レベルといっても放射線を放出する廃棄物を入れる容器としては、輸送のためにしか適していないもので、放射性遮蔽が長期にできる貯蔵のために設計されたものではもちろんなかった。さらに、ドラム缶を無防備に下の方に投げ入れたため、それで凹凸が生じたり、傷がつくなどの損傷があるという。考えれば考えるほど恐ろしい状態でドラム缶が水で溶け始めている岩塩の地の底に埋まっているわけだ。

1978年にAsse IIでの処分は終了されたが、いわゆる「研究」は続けられ、同時にあらたな「湿った壁」もいくつも発見されていった。1988年からは地下水がこの塩山に入り込んでいることがわかっており、将来放射性廃棄物が流れ出して地表面にも出てくる可能性がある、または地下水を汚染する可能性があると、恐れられている。水が浸み出しているところでは、丈夫なビニールシートを張ってそこで集水するようになっており、それをまとめてポンプで地上に汲み上げている。塩山が水によって地形を変え「動く」「変形する」ことでこのビニールシートが水平に保てず、窪みや凹みができてしまうなどの問題が生じていたが、ここでは今年4月からさらに予想外の新問題が生じている。

シートを張ってある場所のそば

このシートのある658メートルの深さのところでは、長年 測ったように毎時10立方メートルの水が入り込んでいた。それが4月になって急に変わってしまったのだ。この深さでの浸水が急激に減少し、725mの深さのレベルでの浸水が増えた。1時間に40リットルの水しか届いていない。400リットルではなく、40リットルだ。3センチの厚さのシートで浸み出てくる水を集めてはタンクに入れ、それをまた地上にポンプで汲み上げてきた。水は今もどこかで流れ続けているはずなのに、それがここまで全部届かなくなっているのだ。今のところ毎日2000リットルから3000リットルの水がどこかで「消えて」いることになる。塩は水で溶けるので、これでいくと水が浸みていけばいくほど、塩山の安定性がさらに失われていくことになる。Asseはこれまでも時間との競争だったが、その度合いがさらに激しくなってしまったことになる。これで、その「消えた」水探しという課題が一つ加わってしまったわけだ。廃棄物は2033年に回収することになっているのに、もしその前に塩山が溶け落ちてしまったらどうするのか?

BGEの最大の課題は、このAsse IIに詰め込まれた廃棄物の入ったドラム缶をどのようにして「回収する」かだが、同時に空洞となった場所を、塩を混ぜた特殊セメントで埋めて、脆弱になっている塩山全体を安定させていく、という作業もしていかなければならない(それにしても巨大な空洞があれだけあるのだから気の遠くなるような話である)。廃棄物の取り出しは2033年開始と予定されているものの、それもあまり現実的な計画ではない。

全員がこの装備で立坑を下った。肩に5キロの酸素

鉱山というのはどこもそうだが、まず坑道に入る地下の立坑(エレベーターのような乗り物)に、作業員も工具、大規模な機械も作業車もすべて載せて運ばなければならない。大きな機械や車は、分解して運び、地下でまた組み立てて使えるようにするのだ。また、地面の下を何百メートルといった深さまで掘り下げて作られた坑道なので、常に空気を下に送り込み、また送り戻して循環していなければならない。地下採掘の鉱山では最初に坑口を開け、そこから必要な深さまでボーリングして立坑を使って人も物も工具もすべて運ぶので、それが地上に戻る唯一の手段である。万が一電気が使えなくなってこの立坑のエレベーターも止まり、空調も止まった場合、緊急時用電源を使えるようにしてそれが復活するまで最大1時間ほどかかることが想定されるため、下に行く人間はすべて5キロの酸素を担いでいくことが義務付けられている。これに作業服と作業用靴、ヘルメットと大きな懐中電灯を渡されて(一番小さいサイズを借りたが私にはそれでもすべてぶかぶかで動きにくかったが)さらに5キロもの酸素を担いで歩かなければならず、大変だった。ちなみに坑道は広く、迷子になりそうな迷路のような暗いトンネルが広がっているので、実際に自分の足で歩いたのはわずかな距離だけで、ほとんどは地下に備えてあるヴァンやジープなどの車で移動した。ガイドの人はよくあんな暗い、どこも同じようなトンネルの中でオリエンテーションがつくなぁ、と感心した。

Asse IIの立坑。これですべてを運ぶ

Asse IIは地下の坑道は30度以上で湿度が高く、日本の夏のようだ。それで下着からシャツ、ジャケット、ズボンにヘルメットと着させられて汗を掻くが、地上に無事戻ると気持ちよいシャワーが待っている。下着まで脱いでここのものを着なければならないのかと思ったが、汗を掻くと、最後にすべてそれを脱いで汗を掻いていない自分の元の下着に戻れたことが嬉しかったので、意味はあった。その代わり、あんなに大きなぶかぶかのパンツを履くのはずり落ちそうで、気持ちが悪かった。BGEはこのAsse IIにかつて回収を前提として考えないで表向き「試験的」とだけいいながら合計約4万7,000m3の放射性廃棄物を処分してしまったことは「過ちだった」と認めているものの、BGEは2016年に作られたばかりの機関なので、自分たちがやったことではないから我々の責任ではない、というスタンスで、これからの計画、コンセプトを自信をもって宣伝している。それでも、すでにひどい状態になって置かれている廃棄物のほか、その周囲で汚染されてしまった岩塩や塩水などを含めて「回収」しなければならないことに変わりはなく、その量はほぼ10万立方メートルになると言われている。それを取り出すために、既存の塩山の東側に新しく立坑を建設し、回収用の坑道も建設する計画であること、そして回収は2033年に開始するというのが今の計画だが(それが実現できるというのを裏付ける具体的なデータはまだ上がっていない、これも市民グループの批判の対象である)、実際に回収作業が開始されるとして、それを地上に搬出したら、それをどうするか、についても問題が大きく横たわっている。

ドラム缶に入れられた廃棄物の状態も何がどのように入っているかその詳しい情報も把握できていない(過去に、内容物がまったく間違って書かれたままのラベリングがあったことも見つかっている)ので、取り出した廃棄物をどこかにしっかり処理する前に(もちろん、その行先はまだ決まっていない。現在唯一中・低レベル放射性廃棄物最終処分場として決定され建設工事が始められているSchacht KonradにはAsse IIから回収された廃棄物は入らないことは決まっている)、中身を取り出し、調べ、特性評価(Charakaterization)し、再び「正しく処分」できるようコンディショニングしなければならない。BGEはそれを放射線防護の観点から移動距離を最小限にするために、Asse II東側に作る予定の立杭そばで行い、回収し特性評価し正しくコンディショニングされた廃棄物が新しくどこかに中・低レベル放射性廃棄物最終処分場が建設されて操業を開始し、処分が開始できるまで、そこに中間貯蔵施設を併設して貯蔵しようと計画している。

近郊の住民たちが一番懸念しているのは、ここである。投げ込まれ、放り出されたまま溶けだした塩水でどうなっているかはっきりわからないような恐ろしい状態にある放射性廃棄物を一刻も早く取り出し、それ以上放射能汚染が広 がらないようにしなければならないことは言うまでもない。しかし、なぜ廃棄物を取り出したら、それをその場で(しかも地上で)開き、何が入っていてどの程度の汚染でどのような状態かという特性評価をし、コンディショニングしなければならないのか。さらに最終処分場が見つかるまで、危険な廃棄物をなぜまたAsse IIの地上で保管しなければならないのか、ということである。なぜなら、そのためには3万平方メートルもの面積に新しく放射性廃棄物を取り扱う、高さ25メートルほどの施設を建設すると計画されているが、Asse IIから2 km以内にはRemlingen、Mönchevahlberg、Klein Vahlberg、Groß Vahlbergなどと、すぐ近郊に普通に住民が暮らす村が点在しており、小学校や幼稚園まである。放射線防護の観点から見れば住民の住む地区から最低4kmは離れているべきだし、しかもすでにAsse IやAsse IIIは陥没してしまったくらいで、Asse IIにも地下水が入り込んでいる場所があり、地盤が安定していないとわかっているところに、それも地上に放射性廃棄物を扱う施設を作り、さらにいつまでのことかわからない中間貯蔵施設をつくるというのはとんでもない、というのが市民の言い分だ。せっかくAsse IIから「危険な廃棄物」を取り出しても、それが「地上」で蓋を開けられ、特性評価し、コンディショニングしなおすという作業をすれば、放射能が空間に放出されることは必然となる。それをどうして住民がそんな近くにいる、しかも地盤がそれほど悪い場所で行わなければならないのか? 単に経済的な理由でそこを選んでいるだけではないか、本当に放射線防護、環境への遮蔽と生命の安全確保を考えれば、そんなところにそんな施設をつくることなどできないはずだ、というそういう主張で、もっともである。彼らに言わせれば、「適した場所までの回収した廃棄物輸送を可能にする設備」さえ作ればいいはずで、これなら設備としての規模も圧倒的に小さいし、周囲環境への放射性物質放出の危険もずっと少なくなる、としている。

岩塩の壁

BGEは、なぜそこにそういう施設を作らなければならないのかという問いかけに対し、かつてAsse IIを「処分するのに適切」と決めつけたのと同様の独断で、「ここの地盤は基本的に安定しており、この施設建設に適している」と説明しているのみだ。「一番安全で適した場所」をゼロから探すのではなくて、「ここにあるものを苦労して取り出すのだから、ここで特性評価やコンディショニング(詰め替え)もしてしまおう、どこかにいつか最終処分場ができるまで、回収した廃棄物はついでにここで中間貯蔵するのが経済的だし手っ取り早い」という考えが見え見えなのだ。これでは、今BGEですら間違っていたと認めている「大きい空洞があるからそこに核のゴミを入れてしまうのが経済的で便利」という立場からほとんど変わっていないことになる。「そこにゴミがあるから、そこで特性評価もゴミの詰め替えもしてしまおう、最終的な処分場がみつかるまで、そこに置いたままにするのが都合がいい」といっているわけだからだ。

地元の市民たちは、BGEの強硬な進め方、計画に反対し、市民が参画できる開かれた作業プロセスを望み、Begleitprozess(市民参画プロセス)を作ったが、それは結局失敗に終わった。決裂の最大の原因を作ったのは、この特性評価・コンディショニングのための設備と中間貯蔵施設をこのAsse IIの東側に作ろうという計画を一切見直そうとしないBGEと市民たちが議論できなくなったことだという。BGEがオープンな議論を形ばかりで本気でせず、ちゃんとした意見交換、調整、共同の決議などをすることができなかったからで、それがさらに市民たちの懐疑感を増長し、対等な意見交換が不可能な状態を作り出してしまった。

廃棄物は危険な状態にあるから、もちろん一刻も早く取り出すべきなのだが、実際に廃棄物を取り出してしまったら、それをどうしていくかについてはっきりしたコンセプトが確立していなければ、なにしろあらゆる種類とレベルの危険な状態にあるドラム缶にあらゆる種類とレベルの危険な廃棄物が入っているので、「とにかく取り出してしまおう」では危ない、そのことを市民グループは指摘しているのに、それに対する真っ当な議論が行われないのだ。具体的な疑問、例えば湿ってしまった廃棄物はその場で乾燥させるのか? その場合は乾燥時に放射性の蒸気が排出されることになるが、それをどのように外気から遮蔽すべきか?ということを、周辺に住む住民たちは考えざるを得ない。放射線防護の観点から言えば、大体そんな危ないゴミが地下に埋め込まれていて、塩が溶け始めて地下水や外気にどう漏れ出すかわからない、という処分場のそんなそばに住民が住んで普通の暮らしを営んでいるということこそ、あってはならないはずだ。

というわけで、BGEの計画に市民グループが断固として反対しなければならない理由があり、BGEがその異議に対し協議し一緒に最善の解決策を追求するのではなく、結局は自分たちのコンセプトをただ押し付けようとしていることに対しても、彼らはNOと言い続ける以外にないという状態が続いているのである。

Asse II近郊の村Remlingenには測定所がある。https://www.transens.de/buergermessstelle

Schulz氏が従事する測定室

これは、チェルノブイリ事故やフクシマ事故後のように、原発事故が起きてから食品、土壌、空気などの汚染の危険が実際にあって各地に作られた市民測定所とは異なり、Asse IIにかつて処分され、それが塩水で錆びたり溶けだしたりして放射能汚染の危険が報じられているこの土地で、自分たちの環境を心配する市民たちのために独立した測定所を作り、それをいずれは、市民がボランティアでそれを続けていけるようにするのを助けようという目的で、ハノーファーのライプニッツ大学の放射線生態学・放射線保護研究所研究員のWolfgang Schulz氏がTRANSENSというプロジェクトの枠内で実験的にここに設立したものである。彼はだからハノーファー大学の研究員として給料を得ながらここの仕事をしてきた。周辺環境の放射線測定に関する知識、データをここに集め、測定方法や必要な知識を近郊の学校などで生徒や一般市民に教えるという活動をしながら、市民が持ち込む土壌や水などのサンプルの測定をしてきた。

ここには鉛の容器を装備した超高純度ゲルマニウムガンマ検出器、ヨウ化ナトリウムシンチレーション検出器、携帯用ガイガーカウンターなどがある。ちなみにKoch氏はすでに自宅の庭の土をサンプルとしてここに持ち込み、土壌の放射性物質検出をしてもらったそうである。ここではチェルノブイリか、または世界各地での核実験の際に飛散した核物質と見られるものが分析できたそうだ。先日は、近郊の市民グループとの協力で、Asse II近くの池の水のトリチウム検査、やはりAsse II近くで伐採された木の樹皮の炭素14検査が行われたという(結果は前述のサイトで公表されている)。

Schulz氏は、このプロジェクトが終了し、彼が測定所での作業をやめるまでに、この測定所を引き継いでやっていく意思のあるボランティア市民を育てたかったのだが、残念ながら見つからないため、このプロジェクトが今年いっぱいで終了すると測定所自体を引き上げることになるだろうと語っていた。本来なら、2033年に問題のあるAsse IIの廃棄物を取り出す作業が本当に始まってから、またはこれから汚染が広がりその影響が環境に漏れ出すことを懸念して、これからこそ独立した測定所がこの地にあることが大切なはずだが、やはり運動している市民もそこまで余裕がない人が多いのだろう。これだけノウハウをきちんと教えてくれる専門家がいて、測定器も揃っているのに残念なことである。

三日目:Morsleben見学

Morslebenはカリ岩塩鉱山で、かつての東ドイツが中・低レベル放射性廃棄物最終処分場と設定した場所で、約480mの深さの地下にある坑道におよそ37000㎥の中・低レベル放射性廃棄物が1971年からドイツ再統一となる1998年まで、ここに処分された。使用済み核燃料(高レベル放射性)はソ連へと運ばれることになっていたので、ここには中・低レベル放射性廃棄物だけを東ドイツ国内で処分することになっていた。無期限の最終処分場としての運営認可が東ドイツ政府から下されたのが1986年。

もともとMorslebenは第二次世界大戦中に、ナチス政府の命令で収容所の捕虜たちをここに連れ込み、日の目を見ないところで強制労働させて戦闘機部品や弾薬を製造させた場所だという。戦後、59年から82年まで東ドイツはまずMorslebenの最初の坑口地下Marieで大規模な養鶏場を運営していて、その後毒性の強い廃棄物をここに処分するようになったという。養鶏場の運営で出た大量の糞が地下に残っていたそうだ。東ドイツ時代にここには、放射性廃棄物以外にも約2万のドラム缶に入った高度の毒性の廃棄物がここに処分されたが、これらは1996年に回収されたそうだ。1969年に塩の採掘は終了されている。

坑内に入る前にBGE広報の説明を聞く

西ドイツで1973年に高レベル放射性廃棄物最終処分場サイトを見つけなければいけないということになったとき、当時はまさに冷戦時代の真っただ中にあり、東ドイツが西ドイツのニーダーザクセン州との国境沿いにあるMorslebenに最終処分場を作るつもりなら、西ドイツ側でもニーダーザクセン州の東ドイツとの国境沿いに処分場を見つけてやれ、という政治的判断によりゴアレーベンに白羽の矢が立ったのだ、と言われている。東ドイツがその気なら、同じことを西ドイツでも仕返ししてやれ、ということだったらしい。

ドイツ再統一後、このもと東ドイツの最終処分場Morslebenにも水が入り込む危険性が何人もの専門家により指摘されていたにもかかわらず、1990年代の連邦環境相(はじめはクラウス・テプファー〈CDUの連邦環境大臣からその後国連環境計画事務局長になり、「環境」を一番に考えるCDUの良心、緑寄りの政治家とすら言われた〉、のちはアンゲラ・メルケル〈のちに首相となるが、再統一後は当時のコール首相に買われて環境相に抜擢された〉)は、このMorslebenをそのまま最終処分場として使用できると変更しようとしなかった。というのは、ここにすでに「処分」されている廃棄物をそのまま保管する方が、取り出すよりずっと費用が安いことが計算で出たからである。

ドイツ再統一後、連邦政府は東ドイツの「処分認可」をまず十年に制限して有効と認めることにしたが、その十年が切れたら、西ドイツで作られていた原子法に基づいた基準で新しく認可を与えることが必要になり、それはおそらく不可能だろうということは明らかだった。それでも94年から98年までに新たに放射性廃棄物がここに、約22,320㎥ももたらされた(合計でアルファ線0.08テラベクレル、ベータおよガンマ線は91テラベクレル)。当時のメルケル環境相は原子法の「例外」を初めて作り、Morsleben最終処分場の東ドイツ政府による認可を、経済的観点から鑑み、東ドイツで有効だった認可のための条件を(西ドイツでの法に従えば認可されないはずなのに)さらに適用すると決定したが、環境団体BUNDがそれを法違反だとして訴え、マクデブルク裁判所が1998年9月にその訴えを認める決定を下した。これにより、正しく法に則った認可決定がなされるまでは、それ以上の廃棄物処分は許可されないこととなった。完全にここでの最終処分を正式に放棄することになったのは、2001年になってからである。

重い酸素を下に置いてBGE案内人の話を聞く

1998年9月以来新しい廃棄物は持ち込まれていないが、塩山坑内の倒壊の危険が強くなったため、Morslebenは安定させるための工事などが余儀なくされる。この処分場のデコミッショニングには22億ユーロがかかると見積もられている。この任を負っているのがBGEである。デコミッショニングの完全なコンセプトがまだ公開されていないことが市民運動家たちからずっと指摘されてきており、コミッショニングの認可もまだ下りていない。最終処分場のデコミッショニングとは、廃棄物をそのままに、それが環境に漏れ出すことのないように遮蔽した状態で、完全に閉鎖し、そのまま誰もまた開くことができないように封鎖するということである。

塩の入ったコンクリートで埋める作業、右は新しい混合での実験箇所

塩山の空洞を廃棄物が入ったまま安定化し、閉じ込めるため、ここでとれるカリ塩を40%分混ぜたセメント、石灰、砂、塩水によるコンクリートで固めるという作業を進めているが、それについてもまだ実験的な段階が多い。2005年からデコミッショニングの認可に必要な書類・データ準備が進められている。処分場をデコミッショニングするということ

は、閉じ込めたところに水が入り込んだり、汚染が拡散したりすることなどがないという長期の安全確認を、日々刻々と進む技術に合わせて調整しながら、証明しなければならないので、認可に必要とされるデータもどんどん増えるらしい。それらをすべて揃えられるのが2026年だと言われている。

地下で廃棄物が入った坑道を完全に遮蔽する作業、鉱山を塩の入ったコンクリートで完全に埋める作業、Morslebenの最初のピットMarieとBartenslebenを完全に封鎖する作業という3つが主作業だ。一度デコミッショニングしたら、それからあとはメンテナンスフリーでなければいけない。デコミッショニング後も水の侵入を100%防ぐことはできない可能性が残るので、それで地下に、廃棄物の入った空洞を埋めてからも、それをさらに遮蔽する建物を作って、環境に放射線汚染が広がらないようにする、という設計なのだそうだ。認可が無事に下りれば、デコミッショニングまで約15年から20年の年数がかかるとBGEは言っている。

このMorslebenの近郊Helmstedtという村の住民でずっと環境への影響を懸念し運動をしてきた市民の一人がAndreas Fox氏だが、彼はかつて、Morslebenを最終処分場として認可されていることの撤回を求めて裁判を起こした市民の一人である。ドイツ再統一の際にすでに、ここMorslebenを最終処分場として西ドイツの原子法に則れば認可できる状態でなかったのに、あきらめずにだらだらと既成事実をいいことに現状追認し、長い間最終処分場としての使用続行を断念しなかっただけではない。ここでの最終処分を放棄してからも、放射線保護連邦局、そしてそこから派生して作られたBGEも、きちんと裏付けのある詳細のデコミッショニングのためのコンセプトを作成していない。2009年に提出され、2011年に説明された計画書は、連邦政府の廃棄物処分委員会ですら、当時の最先の科学的技術的水準で練り直してコンセプトを書き直せと求めたほどである。それを2018年までに提出するように言われたはずなのに、その期限がとっくに過ぎたのに、BGEは未だに求められた条件を満たすコンセプトを提出していないのである。

それに、ドイツ再統一後、連邦政府の責任において1994年から1998年の間に、Morslebenの東側にかなりの量の廃棄物が貯蔵されたのだが、ここは東ドイツの運営認可さえ受けていない場所である。それをマクデブルク裁判所ですら指摘したため、ここでの廃棄物処理が停止されることとなった。この東側の処分場としての利用が問題なのは、ここの地層がカリ塩でも岩塩でもなく、割れやすく、脆い硬石膏(Anhydrite)だからだ。後日、この硬石膏の空洞をコンクリートで固めて埋めようとする実験は、失敗に終わっている。今も新しい方法でこの硬石膏を遮蔽する実験が行われているが、それがうまくいくかどうかはまだわかっていない。そのようなことから、環境への影響を懸念する地元の市民運動家たちは、ラジウムが入っているドラム缶を回収すること、東側に処分されている放射性廃棄物はせめてすべて回収することを求めていると同時に、BGEに一刻も早く裏付けのある最新の技術と科学知識をもとに作られたデコミッショニングのコンセプトを提出するように求めているのである。

四日目:Schacht Konrad情報センター(これはSalzgitterの街中にある)とSchacht Konradサイトの実際の工事現場見学

Schacht Konradはドイツで現在適用されている原子法に基づき、初めて中・低レベル放射性廃棄物の「最終処分場」サイトとして決定され、工事がすでに始められている場所だ。Schacht Konradはニーダーザクセン州のSalzgitterという市の近郊にあり、その名にも「塩」が入っているのでここも塩山なのかと私は思い込んでいたのだが、岩塩もあることはあるのだが、ここは主に鉄鉱石の採れる鉱山なのだった。ここも鉱山として坑道がすでにいくつもあり、ここに昔からある立坑の塔は歴史的記念物として指定されているため、解体や改装が許されていないので、そのまま残されている。

鉄鉱石は19世紀の産業革命の時代に注目を浴びるようになり、この場所で最初に鉄鉱石が採掘されたのが1867年だという。Schacht Konrad 1(約1232mの深さ)とSchacht Konrad 2(約999mの深さ)の2つのピットがあり、1961年から1976年までに約670万トンの鉄鉱石がここで採掘されたそうだ。鉄鉱石採掘を終了してから、中・低レベル放射性廃棄物の最終処分場として適しているかどうかの調査が行われ、結果的にここが適していると認められるようになった。鉄鉱石鉱山としてはことに乾燥していることがその理由の一つでもあるが、ここでも毎日16,300リットルの水が浸入しているのだという。

この鉱山が最終処分場に適しているのではないかという調査は1975年に始められ、「良好」な結果が得られた後、当時最終処分認可を出す連邦庁であった連邦物理工学研究所(PTB)により1982年8月に、実現のための具体的な詳細計画を打ち立てる段階へと入った。

建設予定の模型

興味深いのは、鉄鉱石というのが素材として将来性がないことがわかり、経済性がないため、鉱山を閉山しなければならないという時になったとき、ここに従事していた労働者たちの労働組合が、職場を失わないためにここでできる代わりの仕事を求め、それで最終処分場をここに作るとなれば、それまで当分仕事は確保されるということで、かなり熱心に誘致したという歴史があることだ。

ここには、すでに6つの房室があり、ここからさらに処分用のホールを建設して、処分後にそれを、切削した岩石の素材とセメントを混ぜて作った特殊コンクリートで埋めてデコミッショニングする予定だ。処分される房室は、断面が約40平米で、7m幅で高さはおよそ6m、そして長さはそれぞれの地質に従い、100mから1000mの長さになるという。処分する前に廃棄物は「適切な」コンクリートで

固定され、閉じられるはずで、そのための設備が立抗の下に作られ、すべてが地下で処理されることになる。ここで処分される廃棄物の量は303,000立方メートルと設定されており、例えばAsse IIで回収される予定の廃棄物はここには入らないことがすでに決まっている。実際にドイツですでに各地の中間処分場に入れられたままになっている中・低レベル放射性廃棄物の量は、それよりずっと多いため、中・低レベル放射性廃棄物の最終処分場もSchacht Konradtだけでなくもっと必要なのだ。2030年代前半には、303,000㎥分の中・低レベル放射性廃棄物の処分を開始する計画だ。

市民グループはことに、「認可」が下ろされたベースとなるデータ資料が1980年代の古い技術基準によるものであることを批判している。それからあらゆる技術・分析調査方法は進み、当時明らかにできなかったことが調査できるようになっているのに、いまだに1980年代の技術水準でなされたデータをもとに出された認可を、最新技術でもう一度確認しようとしないことを問題にしている。Schacht KonradもAsse IIと同じで、水が入っている箇所があり、使用済み核燃料以外の放射性廃棄物をどんどん押し込んで入れ、それをさらにコンクリートで固めて埋めてしまい、そのままずっと放っておくというのでは、もし地下水にその水がつながって汚染を拡散し始めたらその危険は取り返しがつかないことになると訴える。

この日の最後のプログラムは、ブラウンシュヴァイク市郊外Thuneの工業地区に40年前から放射線医薬品を製造している企業があり、その問題点を指摘してAsseやSchacht Konradと並んで運動している市民たちの話を聞いた。これまでに企業のオーナーは変わったが、2009年に大きな工場拠点を買い取って以来営業しているEckert & ZieglerとHealthcare Buchlerがここで大量の放射性物質を取り扱い、同時に中・低レベル放射性廃棄物も出している。Eckert & Zieglerが作った廃棄物は、これまでSchacht Konradにも大量に運ばれてきた。ここでは放射性物質を扱う医薬品を作っているだけではなく、放射性廃棄物処理業務も業務分野に入っていて、放射性物質を扱う他企業が出す廃棄物がここに持ち込まれ、そのコンディショニングと詰め替え作業を行っているのだ。すぐ近くに住民が暮らし、小学校や幼稚園も近くにある場所で、である。そのための特別な「許認可」は官庁から下されたことがなく、今から業務を開始するとすれば、その許可は決して下りなかったはずだということを政治家も官庁も認めている。

Eckert & Ziegler社の前で市民運動家から説明を受ける

スキャンダルはそれだけではない。毎年1万個のドラム缶に入った中・低レベル放射性廃棄物がグラウト充填され、この拠点からトラックで運び出され、またそれがここに戻される。その運送のたびにキャスク輸送と同様の放射能がここで外気に放出されているわけだ。2001年から2011年の10年の間に10万以上のドラム缶がほかの放射性物質を扱う企業からEckert & Zieglerに運ばれてくるそうだ。2012年からはさらに、2000トンの放射性物質がアメリカに「焼却」のために船で送られ、高濃度になった放射性物質がまたここに送り返されてくるという。

2011年3月に日本でフクシマ原発事故が起きてからドイツではドイツ国内のすべての原子炉および放射性物質を扱う施設にストレステストを行うことを義務付けたが、Eckert & Zieglerはこのストレステストに不合格だったという。それでも相変わらず「業務続行」されているのである。

どれだけの放射性廃棄物がどのような状態で入っているかわからないが、この上空を飛行機が飛ぶ

市民が警鐘を鳴らしているのはことに、このEckert & Zieglerがこの拠点でさらに16000平米の平地を買い取り、ここで業務拡大を行うと言ったからである。このブラウンシュヴァイク地方にはAsse II、Schacht Konrad、Morslebenがあり、さらにこのような放射性物質を扱う企業とそこに運ばれてくる放射性廃棄物の運送などで、放射性物質の全体量が高くなっている。また、すぐ近くにはWaggumという飛行場があるが、この企業の上空は原発と異なり、飛行禁止区域に制定されていない。もしここで飛行機が墜落したらどうなるか、と考えると怖い。ここにはそれに放射性廃棄物だけでなく、超高圧ガスのガス管が工場施設に通っているほか、何トンもの化学物質も取り扱われているという。

ここの市民環境グループは、あらゆる運動でニーダーザクセン州の環境省などとも議論を続け、裁判でも訴えて積極的に行動しているので、今のところ計画されていた新しい廃棄物用ホールは建設されていないし、新しい建物の認可も下りていないという。しかしそれでもこの企業は営業をこれまで通りに続けているので、市民たちの反対運動はまだ続くのである。

五日目:

連邦物理工学研究所(PTB)

午前中は連邦物理工学研究所(PTB)を見学し、主に放射線に関係する部署を案内してもらった。この研究所は連邦政府の資金で運営され、ドイツ国内での物理・工学分野に欠かせない調査分析における、時間、長さ、重量、力量、流量、温度、電流量値、光度、物質量等の単位の設定と測定器の較正・検定認可を行うと同時に、最新測定技術と精度を保つための研究を並行して行っていて、それぞれの分野ごとにあらゆる部門が備わっている。先ほども触れたが、BGEができる前は、このPTBが最終処分認可を出す連邦庁でもあった。ここにはドイツの時間を制定している原子時計もある。

いくつかの部門を見学させてもらったが、そのうちの一つで放射線被ばくについて案内してくれた、その部門で働く放射性物理学者と話をしているとき、外気にある放射線を世界全体で見ると、その約半分が自然発生しているラドンであり、そのラドンによる被ばくの方が圧倒的に高く、人工的に作られた原発、核実験のフォールアウト、放射性廃棄物による放射線は割合からいくと2%にも及ばないほどで、まったく大したことはないのだ、というような話をし始めたので、こういう物理学者を相手に、私の物理学知識で議論する気にはならず、そのまま黙っていたが、こういうことを「専門家」が主張するのは、ドイツでも同じなのだなと嫌な思いだった。あらゆる種類と半減期の放射線を全部一括りにできるわけはないし、自然界にも存在し、それが危険なら、なおさらのこと人工の放射線をさらに作り出してそれを外気に出していいわけがないし、ましてや自然界にはなかったような恐ろしい、半減期が夥しく長いプルトニウムを始め、ストロンチウム90、セシウム137、ジルコニウム96などの核分裂で生成される放射性核種、原子炉内で中性子照射で生成される放射性核種コバルト60や炭素14、トリチウムなどをさらにつくってはいけないはずなのだが(そしてそれらが実際に原発事故で大量に発生して外気や海に放出されたわけだから)、すべてを同じに扱ってパーセンテージで出してどうするんだ!と憤るものの、科学者がすべてそうだとはもちろんいわないが、こうして乾いた「データ」だけを扱って全体のコンテキストの中で、把握すべき核心の意味が読み取れない研究者は本当にだめだ、とここでも思ってしまった。

ミヒャエリス教会ステンドグラス

この日の午後はシンポジウム最後のプログラム、ブラウンシュヴァイク市のミヒャエリス教会で行われた「最終処分場シンポジウム」というタイトルの「最終処分」というテーマに関するあらゆる側面からの意見をそれぞれの人に短く発表させるものだった。BGEの人の意見も、ハノーファー大学の無機化学専門の教授で、新しい最終処分方法について研究しているRenz博士の発表もあれば、Asse IIやMorslebenの市民運動家の主張と問題指摘の発表、さらには文化的、倫理的、宗教的立場からの発言もあり、最後には私が日本との問題も合わせてどういう最終処分が可能か、または好ましいか、という考察も発表した。五日間もハードスケジュールで中身の濃いプログラムばかりだったので、完全に消化しきれていない部分があるのは事実だが、私にとっては学ぶところの多いシンポジウムであり、参加させていただいたことを心から感謝する。

ことに、これまでもGorlebenなどを訪れたりそこの市民と交流するたびに、「市民参画」、民主主義的決定とはどういうものか、ということを考えてきて、答えは完全に出ていなかったが、ここでも同じ問いかけに直面した。

人間が作り出してしまった核のゴミをどのように「できる限り可能な範囲で」安全に「処分」するかというのは、本来エネルギー危機と同じくらい重要なテーマなはずなのに、それがそれだけの重大性にふさわしい優先順位で扱われていないことがまた問題である。放射線防護の観点から、放射性廃棄物はできる限り環境から遮蔽する形で生命体から隔離して管理し続けていかなければならないのだが、「廃棄処分」という「放り出して捨てる」というアイディアは捨てた方がいいのではないかと私は思う。ドイツは日本のようにいくつも活断層があるわけでもなく大地震がないので、確かにテロや戦争、飛行機墜落などの危険を考えれば、地層処分という地下深い場所に廃棄物を貯蔵する方が安全なのかもしれないが、「すでに鉱山で採掘した後の空洞があるからそこを使うのが経済的で便利で、手っ取り早い」という安易な発想でそこに放り込んで「処分」してきたドイツの過去の廃棄物処分政策のツケが、各地の処分場で出てきている。日本や他国と同じように、「中間貯蔵施設」が、認可期間を越して事実上の最終処分場となりかねないような事態が起き始めている。それをどうしても防ぎ、最新の技術での最大限の安全が確認される場所を建設して廃棄物を移動させたい市民たちと、それが実際には見つからない、お金もない、反対運動ばかりされて建設ができない、ということで「とりあえずそのままにしておきたい」国との間で、にっちもさっちも動かないまま、どんどん時間ばかりが経っている。それに、「いつまでに」という期限を設けずに「調査」を続けるばかり、すぐにでも「回収」しなければならない危ない廃棄物も、ドラム缶が錆びて塩水に溶けだしそうな状態のまま年月が経っているのである。鉱山の空洞がすでにあるところ(ドイツ)、とか、輸送に便利だから海岸沿いに(日本)、とかではなく、世界のどこであっても、地質的、科学技術的、天候的、地理的に最大限安全な場所、最大限安全な手段、そして最大限安全な建築で、まったく白紙の状態から(まやかしの科学的特性マップなしに)処分場は探し求め、適性を徹底的に調査しなければならないはずだ。一応BGEではそういうことを言っていて、今のところ、高レベル放射性廃棄物最終処分場サイトの選定は、一番適切と見つかった第一位を高レベル放射性廃棄物最終処分場に、そして第二位をSchacht Konradに続く第二の中・低レベル放射性廃棄物最終処分場にする、ということを表明している。しかし、ドイツでも、サイト選定法では2031年までにサイト選定を連邦議会で決定する、ということになっていたが、2022年11月にはBGEが、高レベル放射性廃棄物最終処分場に適したサイトを探し出すにはそれ以上の時間がかかると認めている。今のところ、2046年から2068年までの間にあらゆるオプションで最終処分場としての適性調査を進めて、サイトを選定することができるはずだとしている。つまり、これもただの「見通し」であり、そんな適正な場所が本当にドイツ国内にあるかどうかもわからないのである。

Schacht Konradの市民グループ拠点

日本に至っては、ドイツと違って2000以上の活断層が地下にあり、4枚のプレートが相接した島国であり、地震という危険だけでなく、台風、津波、火山爆発という自然災害に見舞われる国であり、最近では大地震のたびに液状化で地盤が沈下したり傾いたり盛り上がるという現象が多々見られているところである。そこで原発をあれだけ作って電気を作ってきたことが信じられないことではあるが、この島国のどこかに、しかも海岸線に近いところで地層から300メートル以上の地層に処分しようというコンセプトもにも無理がある。すでに2023年10月末に日本の地球科学、地質学等の専門科学者有志300余名が、「日本に適地はない」という声明を公表している。(注:https://www.asahi.com/articles/ASRBZ641WRBWPLZU001.html日本列島は複数のプレートが収束する火山・地震の活発な変動帯であり、北欧と同列に扱い、封じ込めの技術で安全性が保証されるとみなすのは「論外」だと彼らは批判している。岩盤が不均質で亀裂も多いうえ、活断層が未確認の場所でも地震が発生している上、地下水の流れが変化し、亀裂や断層を伝って放射性物質が漏れ出す可能性があり、10万年にわたり影響を受けない場所を選ぶのは現状では不可能だというのだ。つまり、日本で2000年に成立した「最終処分法」は不可能なので廃止にするしかなく、地上での暫定保管も含め、中立的な第三者機関を設けて再検討すべき、ということをこれら科学者たちは求めているのだ。日本が「科学的最新の調査と見解に基づいた結論」ではなく、(見えないところに隠してしまえ式の)地層処分ありきで進めてきたにすぎない、ということだ。

Abschalten(脱原発)

誰も自分の近所に核のゴミは欲しくない。しかし、ただよそに押し付ければいいわけではない。後先のことを考えずにこれだけの量を作り出し安全でない状態のまま放ってきてしまった以上、せめて最大限安全な状態を確保すべくその可能性を探り、それで最大限可能で最良の方法を実現すべきだということに違いはない。このままずるずると後回しにするわけにはいかない。でも、どの市民も怖い、近くにもってきては欲しくない、というものを結局どこかに押し付けるしかない以上、最大限の技術と調査で環境から遮蔽し、安全を確保すべきだし、同時にその方法について一方的に決定して市民に強制するのではなく、一緒にコンセンサスを見つけ、互いに了承しあえる結論を出すべきだ。これだけ生命、生活圏、将来の世代にもわたることだからこそ、一部の人間が決めて押し付けていいことではない。そのための民主主義の原則を徹底した市民参画の意思決定が欠かせないはずだ。

しかも、日本のように、とりあえず文献調査に手を挙げれば、その自治体には御褒美のお金が山ほど来る、というやり方はあまりにひどすぎる。本当は処分場を引き受けたくないのに、文献調査だけやってもいいと手を挙げることで、お金だけを手にしたい過疎地がそれでNUMOのいいなりになって買われていく。こうした原発誘致でさんざん経験したやり方をこそ絶たなければ、この過疎地の原発頼みという「麻薬」構造が最終処分場でも続けられていくことになる。

市民グループが作った核のゴミ学習遊歩道

ドイツには一応そういう「札束で頬を叩く」ということは処分場探しでは行われていない。それだけに、経済的効果や贅沢な「招待」などに釣られて賛成する一般市民は少なく(経済界、政界にはいるが)、それよりはしっかり知識を蓄え、勉強し、論点を明らかにして、科学的・法的・政治的とあらゆる側面で国や自治体などと闘っていく市民たちの力強さとその根気強さに圧倒される。自分たちの正しさ、当然のことを求めているのだという公平性を求めるその「ブレなさ」、一貫性、粘り強さは、市民運動では一番大切なことだ。しかし、そうした市民運動のあり方も、確かに若い人が参加しなくなっているということに関しては、ドイツも日本と似ているので、これから運動の在り方が変わっていかざるを得ないと思う。シンポジウム最後のプログラムであった、ブラウンシュヴァイク教会での最終処分場意見交換の場も、参加者は多いとは言えなかった。その代わり、地元のメディアが取材に来て、発言者たちにインタビューをしていた。その番組をあとで聞かせてもらったが、BGEの人の発言と並んで、科学者の意見、市民運動家の話もしっかり紹介していた。

それに、Asse IIでの問題は、連邦環境相レムケ氏(緑の党)も四月に見つかった「大量の水の消滅問題」を案じて先日足を運んで見学に行き、私も今回交流した市民活動家たちとも意見交換をしており、ここにある問題の廃棄物を一刻も早く回収しなければならない、と改めて表明した。このことはニュースでも新聞でも大きく報道された。

もうすぐ運営認可の切れる、長期的に安全に高レベル放射性廃棄物を保管するようには作られていないGorlebenの「中間貯蔵設備」にすでに運び込まれているキャスクやガラス固化体の高レベル放射性廃棄物をどうするかについても、青写真もできていない。ここでも、原発上空にはあるのに飛行機の「飛行禁止」区域に指定されていない、飛行機の墜落やテロ行為、ドローン等の侵入などを防ぐための設備はなにもなく、ただ壁を高くするというような子ども騙しのような対策しか取ろうとしていない国の対処を、ゴアレーベンの市民たちも鋭く批判して抜本的な解決を求めているが、ここもAsse IIやMorsleben、Schacht Konradと同様に、基本的な解決を出そうとはしない国の態度が明らかになっている。これだけ国の政治的意思と経済力で行われてきた原子力エネルギーの「遺産」を、それと同じだけの意思と経済力で、名誉にかけても、そして市民の生活を守るという国の最大の任務としても、実現してもらわなければ困る。それは後先のことを考えず原発をこれだけ動かして恐ろしく莫大な量の核のゴミを生み出してきてしまった各国に共通する課題である。

日本はフクシマ原発事故を起こしてしまった国として、「通常の原発稼働」から出る放射性廃棄物以外に、夥しい量の水と土壌汚染を作り出している。汚染は事故から13年経った今もまだ続いている。その量を少なくしたいと、それも「目に見えないところに隠してなくしてしまいたい」と、フィルター後希釈して海洋放出したり、ほかの土と混ぜてリサイクル使用しようとしているのが日本である。それこそ、放射線防護を真っ当から否定する方針だ。

4泊したSchöppenstedt市で見た虹

さらに日本はいまだに核燃料サイクルというおとぎ話を信じてしがみつき、高レベル放射性廃棄物として認めている物は「再処理」後の高濃度の廃棄物の残りをガラスで固めた固化体だけだ。つまり、リサイクルして再使用するつもりで大量の使用済み燃料棒をこれからもプール貯蔵し続けるつもりなのだ。日本の原発のそれぞれの使用済み燃料貯蔵プールは、どこでもすぐにいっぱいになることが分かっている。それで東電でも、青森県むつ市に建設中の中間貯蔵施設(RFS)に、柏崎刈羽原発の使用済み核燃料を搬入すると言っている。しかし、中間貯蔵施設からそれら使用済燃料棒が搬出される見込みも計画も決まっていない。再処理工場建設は完成の見込みはなく、日本での核燃料サイクル計画は事実上破綻している。

Aufpassen!!!気を付けろ!

一度むつ市の中間貯蔵施設にそれを持っていけば、ずっとそこに(最終処分場という認可が下りていない、あくまでも仮の貯蔵施設に)置きっぱなしにされる可能性がある。そんな滅茶苦茶な話が許されてはならないし、計画もコンセプトもなしに、ただ原発政策を強行し、核燃料サイクルに固執し続ける日本政府を、市民の手で止めなければならない。そこに今、そして将来生きるすべての生命体の環境を、地球を、欲に目が眩んだたった一握りの人間たちだけの勝手な決断でこれだけ破壊させてきた政治を止めないと、地球には未来がない。気候変動の影響がこうもあらわに出始め、すでに将来のあらゆる夢、可能性が奪われてきている現在だ。今それを変えなくてどうする、と非力ながら思う。とにかく黙ってはいられない。それをあらためて痛感したシンポジウムだった。(ゆう)

汚染水海洋放出への抗議メッセージ

SNBもメンバーになっている在外邦人の脱原発ネットワーク「よそものネット」で、現在日本政府が計画している放射能汚染水海洋放出に対する抗議声明を日・英・独・仏4か国語で発信しましたhttps://yosomono-net.jimdofree.com/

フクシマ原発事故/日本:放射能汚染水を海へ放出?

日本は、福島第一原発事故から出る、フィルター処理後もまだ放射能汚染されている水を希釈して2023年の夏にも海へ放出しようとしています。

「フクシマ原発事故」とは?

2011年3月11日の大地震と津波の発生後、福島第一原発で水素爆発と炉心溶融を伴う深刻な原子力事故が起こりました。これにより大量の放射性物質が環境に放出され、大気、土壌、水、食物を海陸で汚染し、それが今も続いています。

12年以上経った今も、当時発令された原子力緊急事態宣言は出されたままで、2万人以上の人が公に避難者として登録されています。子ども、若者、妊婦を含む近隣の住民たちには年間20ミリシーベルトという被ばく限度線量が強いられていますが、これは法律で民間人に許されている最大被ばく線量の20倍で、原発労働者の基準値と同じです。

なにを海に放出?

事故を起こした原子炉は、冷却回路が壊れていてもずっと水で冷却する必要があるため、強度に汚染した冷却水がどんどん溜まり、それが漏れ出てくる地下水と雨水と混ざって日々大量の汚染水に膨れ上がっています。今では130万トンもの量となって約千基ものタンクで福一の敷地で保管されています。この水を日本はフィルター設備で処理し、希釈してから海に放出しようとしています。

日本政府の言い分

放射性核種の含まれた水はALPSというフィルター設備で「問題のないレベル」まで処理される。残るのは主に水から分離が難しいトリチウムだけである。トリチウム水は世界のどの原発からも放出されている。水に含まれている放射性核種はすべてそれぞれの濃度限度を下回るまで処理され、さらに放出前に希釈される。国際原子力機関IAEAからも承認を得た。東電によればタンクを置く場所がもうすぐなくなる、こう主張しています。

問題点

福島第一に保管されている水は、溶けた燃料棒に触れた液体の放射性廃棄物であり、通常の原子炉の運転で放出されるトリチウム水とは比べることはできません。ALPSは放射性核種すべてを取り除けるわけではありません。水素の同位元素であるトリチウムだけが処理後に残る唯一の核種かのように言われていますが、実際にはトリチウムのほか、セシウム134および137、ストロンチウム90、コバルト60、炭素14、ヨウ素129などが含まれています。

生態系および食物連鎖におけるトリチウムの影響はしかし、調査が不十分なほか、わずかな調査結果も考慮されていません。どの量からは何が「問題ない」と、誰が判断するのでしょうか? 放射性物質の環境への放出に関し、日本政府はそれぞれの核種に対する告示濃度限度を定めました。これは、人が70年にわたり毎日その濃度の水を2リットル飲み続けた場合、1年間で平均1ミリシーベルト被ばくする、という濃度です。ということは、長期にわたる影響評価はここでは全く考慮されていないことになります。また、個々の放射性核種がどのように海水で変化し、どのように食物連鎖で濃縮され、どのような害を及ぼす可能性があるかについての研究も不十分です。濃度がいくら希釈されても、トリチウムは年間22兆ベクレル/ℓ分が海に放出されることになります。希釈されてもばらまかれても、量に変わりはありません。

トリチウムの半減期:12年、ストロンチウム90:28.8年、炭素14:5730年、ヨウ素129:1570万年。

予防の原則

放射線防護の観点から言えば、福島第一の汚染水は厳重な管理のもと、タンクに保管されたままであるべきです。疑義がある場合には予防の原則に則るべきです!

ことに心配されているのが近隣の港で捕れる魚から検出されるセシウム134/137 が増加している事実です。2023年6月には、クロソイでなんと18,000ベクレル/キロが測定されました。汚染水の漏洩が続いている可能性があります。これを徹底的に調査し対策をとらずに汚染水を海洋放出するなどは無責任です。

「心の除染」と「風評被害」

市民を放射能によるさらなる危険から守る代わりに日本政府は「少しくらいの放射能は大丈夫、それより不安の方が問題だ」というおとぎ話を広めています。その不安克服のため彼らは、厳重な健康調査や放射能汚染の計測ではなく、「心の除染」という大規模な宣伝キャンペーンで、原発推進派の科学者の意見だけを集めた偏った結論を繰り返しています。人々の正当な恐れを「放射能パニック」、経済に害を及ぼす「風評被害」だとしているのです。

原子力推進のためのIAEA

1957年に「原子力の平和利用」というモットーの下原子力エネルギー推進を目的に作られた国際原子力機関の任務は、放射線防護ではありません。それよりどこまで放射線リスクを「軽微であり無視できる」と呼べるかの規定を作っています。IAEAの影響評価報告書には、海の生態系への長期影響は考慮されていません。どうして彼らの報告書が「認可」だと言えるでしょうか?

去るもの日々疎し?

近隣国、南太平洋諸国は当然ながらこの日本の計画に反対しています。国連の専門家も人体の健康と環境に及ぶ可能性のある危険について懸念を表明しています。一度海洋放出を始めてしまえば、将来も汚染水の海洋投棄を許す前例を作ることになります。日本は、すでにあらゆる環境汚染の影響を受けている海、地球のほかのどの海洋とも繋がっている海を30年以上にわたってさらに汚染しようというのです。海は汚染物の廃棄場ではありません。汚染をできるだけ限られた場所に閉じ込める努力をする代わりに、それを散りばめようとするなど、無責任極まりありません。しかし、東電も日本政府も、大量の水タンクなど、事故がもたらした目に見える結果を、汚染水を海に放出することでできるだけ見えなくしてしまおうというのです。決してそれを許してはなりません!

従って以下のことを求めます:

  • フクシマであろうがどこであろうが、放射能汚染された水を海洋放出してはならない!
  • 世界各地の原子力施設に対し、生態系変化と人体への健康への影響をモニタリング・分析する、独立した団体による管理・研究システムの設立
  • 研究・モニタリング結果の透明性高い開示

2023年7月23日付

出典:

http://oshidori-makoken.com/

https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/decommissioning/committee/fukushimahyougikai/2021/23/shiryou_04_2.pdf

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal-de/de04-02.html

https://www.ohchr.org/en/press-releases/2021/04/japan-un-experts-say-deeply-disappointed-decision-discharge-fukushima-water

https://www.iaea.org/sites/default/files/iaea_comprehensive_alps_report.pdf

 

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