フランス・ノルマンディー地方で行われた「抵抗」フェスティバル参加報告

Les Résistantes „Rencontres des Luttes locales et globales” ‐Terres de Luttes

2022年8月に私は、フランスで高レベル放射性廃棄物最終処分場が計画されているビュールで行われた大きなビュールレスク反核・反原発フェスティバルに参加したが(報告記事:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2022/08/18/%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%82%af%e8%a8%aa%e5%95%8f%e8%a8%98/)、2025年の今年は、反核・反原発というテーマだけにとどまらず、現在世界で起きているあらゆる社会的政治的軍事的人道的環境・生態的問題点を取り上げ闘い、運動しているグループ、団体を総動員して「レジスタント」(抵抗運動自体は「レジスタンス」だが、レジスタントというのは抵抗するの形容詞でもあり、抵抗する強さ、堅牢さも指し、さらに抵抗する人たちのグループ、という意味にもなる。ただし、なぜ女性系の複数なのかははっきりしない。「闘い」が女性だからか?)という名のフェスティバルに参加した。これは、フランスのノルマンディー地方オルヌ県のサン・イレール・ド・ブリウーズという田舎の村で市民グループTerres de Luttes(土地を守る闘い、とでも訳すか)を主とする主催者により催された。このグループは、土地を不毛にするだけで、自然(大地)にとってもそこで生を営む人々や生物、植物、環境にとっても有害ばかりで無益、反民主的な大計画(土地整備・開発)に反対する各地の草の根の運動の間をつなげ、ノウハウを共有して連帯しているネットワークのような集まりといえようか。

どんな発想から始まったかは知る由もないが、最終的に計画実行されたのは大規模な市民フェスティバルで、これだけたくさんのテント会場や駐車場などを仮設する土地を見つけるのは容易ではなかったはずだ。だから実際に、会場のすぐ隣に駐車場が作れなかったなどの問題点もあり、大きな酪農地をもっている農家の人が提供した土地(通常は牛が放牧される場所)で、開催が可能となったと聞いた。

以下がそのプロモーション動画:

3年前私が参加したビュールレスクの開催に協力したフランスの最大反核団体ネットワークであるRéseau Sortir du Nucléaireがこのレジスタントにも協力団体に入っていたため、反核・反原発テーマももちろん「抵抗運動」としてここで取り上げられていた(ちなみに、このネットワークも含む反原発・反核・処分場反対等の各団体は今年も共同で、9月にビュール地方で規模は3年前よりは小さいものの、最終処分場計画に反対するマニフェストアクションを計画している:La manif du futur : à Bure contre la poubelle nucléaire

信じられないほどのたくさんのイベント(ディスカッション、展示パネル、各グループのインフォスタンド、アクション、映画上映、芝居などなど)がいくつも同時進行であらゆるテントや野外で行われ、その数も種類もあまりにたくさんで、プログラムもはっきり言って見にくく、どこで何が行われていて、自分は何を見たいか、何に興味があるかを探し出すのも一苦労なのは確かだった。それにこのフェスティバルは8月7日(木)から始まり、8月10日(日)まで続いたのだが、そこにその間訪れた人たちの数は合計で約7500人(主催者側の発表)ということもあって、野外トイレの設置や食事や飲み物の提供、子どもの遊び場、救急医療体制、音響技術、はたまた最寄りの駅からの送迎バス(最寄りの駅からはかなり何キロもある)、駐車場(いくつかに分かれている)のロジスティクス、その案内・門番係だけでもたくさんのボランティアを総動員しての大イベントだった。

広いフェスティバル会場にはいくつもの大きなイベント用テントが        建てられていた

私は前回ビュールレスクを訪問した時のように、フランスのよそものフランスのパリのグループ数人と、遠くの隣人3.11のグループ数人とでパリで合流し、2台の車(1台はよそものメンバーの一人の自家用車、1台はレンタカー。車がないとフェスティバルの場所と借りていた休暇用貸家との往復や買い物などができないため)にブースで使う折り畳みの机や椅子、横断幕、資料と私たちの荷物を載せ、さらに4人は電車でノルマンディー地方のArgentanという駅まで向かった。

ここでは、上記のフランスの最大脱原発ネットワークRéseau Sortir du NucléaireとTerres de Luttesにより今回、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年ということで、広島平和記念資料館資料調査研究会委員、都立第五福竜丸展示館専門委員も務める奈良大学文学部史学科の高橋博子教授が招かれていた。それで私も彼女と知り合いになる機会に恵まれ、一緒に時間を過ごし、お話をうかがうことができた。彼女はヒロシマ・ナガサキ原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証という研究を続けてきた方だ(著書に「封印されたヒロシマ・ナガサキ: 米核実験と民間防衛計画」、「核時代の神話と虚像――原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史」など)。

このフェスティバルでは、高橋氏の演説、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というタイトルでの円卓会議への高橋氏の出席、長崎原爆忌である9日の朝は、(私も秋にドイツで上映会を予定している)伊東英朗監督の映画「Silent Fallout」のフランス語字幕付きの上映会(その後の討論に高橋さんが参加)が予定されていた。そのほか、よそものフランスが、広島平和記念資料館、長崎原爆死没者追悼平和祈念館から被爆者が描いた絵を選んでデータとして借り出し、それをA2の大きさにきれいにプリントアウトしてラミネート加工し、キャプションも丁寧に翻訳して、フェスティバル開催中誰もが見られるように展示されることになっていた。

残念ながらパリからArgentanの駅に到着して、駅前で車組と電車組が合流して昼食を取った最初の日から私たちは不運が続いた。2台の車のうち、1台はフェスティバルの会場でよそものフランスと遠くの隣人3.11の共同ブースの設置や、被爆者の絵の展示の準備に会場に向かい、もう1台は食料の買い出しをしてから高橋さんを宿泊先に送り届け、私たちの宿泊先にもチェックインする予定だったのだが、あいにくこのレンタカーが故障してしまい、道中レッカー車を手配して運び込まれることとなった。

私はフェスティバルに向かう組だったが、駐車場の標識がわかりにくく、また駐車場自体が会場からとても遠くて、会場設置用の荷物があるから、入り口まで行かせてほしいという頼みも剣もほろろと厳重に断られ、私たちはなんの陰もない田舎道や土地を強い日差しと高い気温の中、えんえんと歩かされる羽目となった。駐車場からこれだけ歩かされるのでは、若い人はともかく、年配の方やハンディキャップのある方たち、ベビーカー連れの家族などはどんなに大変か、と思われる感じで、しかも人によって説明や指示が異なったり、コミュニケーションが全体に行き通っていないのを感じた。入り口にたどり着いても、そこから反核・反原発・放射性廃棄物処分場建設反対の団体が集まっているブース用テントまで標識もない中をかなり歩き、やっと着いた時には私は半分熱中症になった感じで、しばらく日陰で腰をおろして休憩しなければならなかったが、飛幡祐規さんははるばるパリから車を運転しただけでなく、何度も遠い駐車場から会場を行ったり来たりし、関係者と交渉し、役立たずの私とはまったく対照的な活躍ぶりだったが、この彼女の精力的な活躍は、最後パリに帰り着くまで続いた。

駐車場から会場入り口までなかなか到着しない長い道のりで、          「あともうちょっとだよ」という標識が出た時は思わず失笑

一方、同じころレンタカーが買い物をした後で故障してしまった車組は、車を脇道に入れたまま、レンタカーに連絡したもののレッカー車が来るまで、結局何時間も待たされていたのだった。そんなつもりではなかったため、皆がわずかな飲料水しか持っていなくて、暑い中を杉田さんが最後まで持っていた少ない水筒の残りを皆で分け合いながら飲んだということだった。

というわけですっかり恵まれない星の下で私たちのレジスタントフェスティバルは始まった。次の日、金曜の高橋さんも出席する「円卓会議」(テーマ:「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」)は夕方から開始だということで、金曜はゆっくりでかけた。被爆者の絵の展示は、展示用のイーゼルを真似たスタンドが木曜はしっかりできあがっていなかったのだが、それも完成し、見事に並び、思わず立ち止まって説明を読み、絵に見入ってしまう、といった人たちがフェスティバル開催中、続いた。これは私もぜひベルリンでも原爆投下から80周年の今年、実現したかったのだが、ICANやIPPNW、ICBUWなどとも相談したのだが、展示する場所も資金もなく、あきらめたものだ。やはり原爆投下後の写真や被爆者の写真とは違い、実際に被爆した人たちがその体験を絵に描いたものというのはまた別の大きく人の心を揺さぶるものがある。そして大切なのはそれぞれの絵についているキャプションで、そこにその絵をめぐるストーリーが隠れている。広島平和記念資料館と長崎原爆死没者追悼平和祈念館のウェブサイトで見ることのできるたくさんのイメージデータの中から、力強い絵を何枚も選び出し、それをデータとしてプリントアウトし、キャプションも丁寧に翻訳してこれだけ力強い展示会を実現したよそものフランスのメンバーを称えたいと思う。

圧巻だった被爆者の絵の展示。たくさんの訪問者が足を止めて          じっくり見て、説明を読んでいた

次の金曜日に行われた「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマの円卓会議には、もともと予定されていた最初のコンセプトからどんどん変わってしまい、会議に並ぶ面々もかなり増えてしまった、という話を聞いていた。それにしても、テーマもさることながら、きっと自分たちの応援するグループの誰かが出席している、などの理由か、会場は開始前からあふれるほどの人々が入り込み、席が足りずに地面にじかに座り込む若者たちも大勢いた。高橋さんだけがフランス以外から来た方として壇上に並び、彼女は英語で発言するため、同時通訳用のイヤホンなどが貸し出され、ブースにも同時通訳の人たちが並んだ。これだけ盛況に始まったのはいいが、実際に見せられたものは円卓会議でもパネルディスカッションでもなんでもなかった。私のフランス語ヒアリング能力では残念ながらすべてを理解することはできなくて、完全にいろいろな内容が把握できたわけでも、各グループの背景などがわかっていたわけでもないので、後から情報をよそものフランスの飛幡祐規さんや遠くの隣人3.11の杉田くるみさんに補ってもらったことを、ここに記しておく。

モデレーションをすることになっていた男性はいたのだが、その彼も、舞台正面のテーブルに所狭しと座っていた円卓会議「発言者たち」も、自分が参加している、または率先して行っている「闘争」について饒舌にまくしたてるだけで、「世界の再軍備」という本来のテーマで、その数々の世界における武力衝突、戦争、植民地主義的・帝国主義的・構造的レイシズムを推し進めるような政策の共通点や違いを比べることも、根本にある共通の問題を問うこともなく、どう異なる場所や問題を超えてお互いに連帯しあい、「再軍備」を超越することが可能か、という話にはいっさいならなかった。

大体、司会者であるはずの人がいっさいモデレートすることなく、わざわざ日本から招待されてここまで来た高橋氏をしっかり紹介することも、彼女がこの「再軍備」のテーマの円卓会議で発言をすることの意味を語ることもなく、たくさんの世界各地の現在の「武力衝突・戦争に対する市民闘争」をしている人たちの話から浮き上がってしまう形になってしまったことがとても残念だった。しかも、彼女はこのフェスティバルで演説するために、彼女の今回の発言内容はすでに用意されていた英語のテキストが渡されてあったにもかかわらず、同時通訳者はそれをまったく読んでも準備してもいなくて、高橋氏の英語での発言の仏訳は間違いだらけだったと、飛幡祐規さんが嘆いていた。高橋さんの横に座って彼女の次に話をしたのが、Patrice Bouveret氏 (グループObservatoire des armements代表、武装監視市民グループとでも訳すか)だったが、彼の話が唯一、この円卓会議発言者の中で高橋さんおよびテーマに繋がる話をしたと私は理解した。

この司会をしなかった司会者はCoalition Guerre à la guerre(戦争に対する戦争連合、とても訳すか)という連合の代表で研究者のMathieu Rigouste氏という人で、現在は、植民地支配で培われてきた軍や警察の抑圧的暴力的な取り締まり方法が、治安問題における国内の「敵」に対して使われるようになっている、という視点から反軍備、反軍拡を主張しているようだ。このGuerre à la guerre(戦争に対する戦争)というのはもともと、アメリカの哲学者William Jamesが19世紀後半に確立した表現「War against war」の仏訳だ。この表現に対するWikipediaの英語版を読んでいたら、これは20世紀初頭にヨーロッパでも平和主義・反戦運動のスローガンとなった表現であり、平和主義アナキストだったドイツの作家Ernst Friedrichは、これに同調して「Krieg dem Kriege」というタイトルで1925年にパンフレットを出版し、この翻訳がヨーロッパ中に広がったという。彼は1924年にベルリンで反戦博物館(Antikriegsmuseum)を開館し、新しいラジカルな抵抗運動を提唱したという。もちろんこの博物館はナチス台頭でヒットラーが政権を取った1933年に破壊され、Friedrichもベルギーに逃亡せざるを得なかったようだが、彼はWar Against Warというタイトルで本まで出版している。(詳しくはこちらを参照:https://en.wikipedia.org/wiki/War_against_war

ここで提唱された理想を継承する形で、現在ウクライナやパレスチナでの戦争をきっかけに、フランスやEU、そして世界全体が軍拡に舵を切っている状況に対し、これではいけない、その傾向に抵抗していかなければならない、と左派の団体や個人が集まってできたのがこの新しいGuerre à la guerreという連合だそうだ。ここに、反核・反原発の運動も参加すべきだという指摘があり、それに賛同するグループが加わっていくことになったらしい。ただ、この円卓会議はもともと、フランスで反核・反軍備をずっとやってきた前述の武装監視市民グループ(Observatoire de armements)の代表と高橋博子さんが中心になって進めるという計画だったはずなのに、Guerre à la guerreの運動が結びついたことで、この連合の中心的存在であるSoulèvements de la terre(大地の蜂起、とでも訳すか)連帯グループの人たちに、ある意味乗っ取られてしまった感じらしい。それで私の耳にも繰り返し「Guerre à la guerre」という言葉が聴こえた理由も納得できた。ただし、戦争、武装、軍拡に対し、どのように闘い、それを抑止、または縮小して平和への道を築いていけるかどうかのビジョンや、あらゆる武力闘争・戦争の共通の問題を問いただす視線は、ここでは覗えなかったと思う。

名ばかりの円卓会議は超満員だった

とにかく、この名ばかりの「円卓会議」で、唯一遠い国からはるばる招かれてきていて、フランス語話者ではない高橋さんだけが異様に浮く場となってしまったのは、この円卓会議の主催者と司会の完全な失敗であり、高橋氏に対してとても失礼な扱いでもあっただけでなく、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマにふさわしくないイベントとなってしまった。今、世界各地でどんどん進められている再軍備・軍拡の共通の問題を問いただし、どうやってそうでない平和運動を目指すことが可能か、なにを互いの闘いから学ぶことができるか、どんな歴史からの教訓があるか、議論することができれば意味があっただろうし、すばらしい機会であったはずなのに、残念だったとしかいいようがない。

ただ最後まで耳に残ったのは、「Guerre à la guerre」だった。私は個人的には、Antikrieg、反戦、反暴力、反武装はもっともだが、戦争に対しても戦争・闘い、という表現を用いるのに抵抗がある。この表現には武力的、暴力的な印象があり、不適切に聞こえ、自分では使いたくないと思うのだ。Krieg dem Kriege、戦争に対する戦争、と言ったところで、具体的になにを示すのか? 戦争をやめるためには手段を択ばない、という立場には私にはなれない。戦争をやめるために暗殺やテロ行為を認めるわけにはいかない。「Guerre à la guerre」に参加している人たちがそういうことを主張しているというわけではもちろんないが、戦争に反対するばかりにそれに対し戦争を宣言してしまうと、そういうラジカルなものも許してしまうニュアンスが生まれてしまうので、私にはあまり使いたくない表現だ。とにかく、この「円卓」ならぬ円卓会議は、私にはとても不満なままで終わった。

次の日、8月9日は朝早くからドキュメンタリー映画「サイレント・フォールアウト」(伊東英朗監督)の上映が行われた。これは、私も10月からドイツ各地で上映会を行うべくドイツ語字幕版を作ってプロモーションしている映画だが、フランスでは遠くの隣人3.11.がフランス語字幕版を作り、フランス各地で上映会を行っており、このフェスティバルでもその上映会が実現したのだった。遠くの隣人3.11のメンバーである杉田くるみさんが司会をし、上映後は高橋博子氏がこの映画のテーマ、背景の解説者として話をした。

マンハッタン計画ですでにアメリカ軍は放射線兵器開発をして、人体実験もしていたこと、だからこそ放射能フォールアウトの問題性をアメリカは世界に知られては困ると、できるだけ放射能の影響を矮小化し、隠蔽しようとしていたこと、ABCCも米エネルギー省が管轄していたもので、ヒロシマ・ナガサキでの原爆投下後の調査も、その後のマーシャル諸島での一連の核兵器実験での調査も、次の核戦争の準備のために行われていたのだという、高橋さんの研究結果を踏まえた話が力強く語られた。

左から:ICAN FRANCEのJean-Marie Collin氏、よそものフランスの        飛幡祐規さん、奈良大学の高橋博子さん、遠くの隣人3.11の杉田くるみさん

また、この映画にでてきたように、乳歯を集めることでかなりのフォールアウトの分析ができるのに、それをフクシマ原発事故後に始めようと言い出した人が当初は自民党の福島県議員にさえいたのに、その後その話は姿を消していき、「乳歯を集めることの意味のなさ」を説明する話に取り替わって、福島県を中心に乳歯を集めるという企画は水に流されたことも、話してくれた。「サイレント・フォールアウト」はまさに、アメリカ本土でのアメリカによる核実験による放射能汚染とその影響を調べるために、大々的に乳歯を集めたプロジェクトをある女性医師がイニシアチブを取って始め、分析を可能にしたことを土台にしたドキュメンタリー映画なので、高橋さんの解説はとても大切な補足情報となった。

そしてこの映画は、女性たち(母親)が子どもを守ろうとして立ち上がったことを示すものでもあるが、司会の杉田くるみさんが、日本のフクシマ原発事故後も、母親である女性が主に、子どもたちを放射能から守ろうと、夫(子供の父親)と離れ離れになろうとも自己避難し、一人で故郷を離れ子どもと新生活を始め、差別や非難に晒されても、国・自治体や東電からの援助や損害賠償の欠乏にも耐え、それでも子どもがさらなる差別に遭わないようにとできるだけ名前を表に出さないようにし、子どもを支えながら事故発生後からずっと頑張ってきている、その女性たちに対し大いなる尊敬の意を表したい、と語り、会場の拍手を買ったが、私もまったく同感である。

また、ヒロシマ・ナガサキや、サイレント・フォールアウトに出てきたアメリカによる核実験による被害の話だけでなく、ICAN Franceの男性が、フランスがアルジェリアや南ポリネシア、ムルロア環礁でおこなった核実験の被害についても語って、情報を補足したのは、とてもよかったと思う。

正午になって、たくさんのフェスティバル参加者たちが昼食のための長い行列を作る横で、原爆投下から80年を記念したアクション行列に私も参加し、横断幕を掲げながらフランスのICANなどを始めとする運動家たちと一緒に練り歩いた。ここでは、スティルツ(竹馬のようなもの)で背を高くし、仮面を被った「死神」が鎌で人をどんどん打ち倒していく(要するに倒された人たちはそこでダイイン)というパフォーマンスや、招かれた舞踏家のダンスなどがあった。よそものフランスにいた、今は亡くなってしまったメンバーの一人が、毛糸の残りなどを使って編み、さらに刺繍やパッチワークをして作ったという、オリジナルの素晴らしい編み物横断幕があり、私もそれを持たせてもらって一緒に行進した。この横断幕はそれだけで十分にアート作品なので、たくさんの人が写真を撮っていた。ただ、この日も昼間はものすごく暑く、さらに会場はテントを出ると日陰というものが一切ないので、この日帽子を宿に忘れていった私としてはなかなか辛かった。

夜は、毎晩いくつものテントで遅くまであらゆるコンサートが開かれているようだったが、9日の夜はLGBTQ+の人たちが多いパンクロックといった感じのコンサートがあり、そこでコンサートの合間に高橋さんを舞台に登場させて演説してもらう予定だという。それからその頃、会場のどこかで、原爆投下80年を記念して、ランタンを空に昇らせる、ということだった。最初はどの程度の規模のものなのか、高橋さんの演説がそんなコンサートの会場で聞く耳をもたれるのか、疑問だったのだが、蓋を開けてみたら、それは素晴らしい驚きとなった。

皆が熱狂して踊っているコンサート会場で、舞台のバンドが休憩で引っ込むと同時に、高橋さんを紹介すると言って、その前から高橋さんのプロフィールなどを彼女に直接インタビューして話を聞いていた若いタトゥーも見事な男性(彼もクイアかな)が、それまでに音楽に酔っていた会場の聴衆の熱を冷まさずに、ラップとも思われるノリで高橋さんを紹介し、彼女と通訳の飛幡祐規さんを舞台に呼んだ。そこで熱狂的な拍手と歓声で迎えられた二人は、レジスタント・フェスティバルのトレードマークである拳を上げている「抵抗」のロゴが背後にそびえる舞台で、力強い演説を行った。高橋さんもその熱い歓迎に応えて、演説の前に「音楽がレジスタンスであることがよくわかりました!」と英語でいうと、観衆はまた熱烈な歓声で応えた。それから高橋さんが用意してあった演説(彼女の演説はこちら:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2025/08/11/80-jahrestag-der-atombombenabwurfe-auf-hiroshima-und-nagasaki-august-2025/)を区切りながら読み、その仏訳を飛幡さんが読んだのだが、その区切りのたびに観衆は最後まで歓声や指笛で応酬していて、こんなにこの反核テーマで盛り上がった演説はこれまでになかったのでは、と思えた。

熱狂に包まれたコンサート会場での高橋博子氏の演説

高橋さんの演説をこのコンサートの合間にするというアイディアは、ビュールで最終処分場計画に反対するグループで活躍しているアンジェルという女性が強く推したからだそうだが、単に「世界初の原爆投下から80年を記念して」というタイトルでは決してこれだけの人が集まらないことが安易に予想されるだけ、こういうところで演説をさせることによって、こういうところでなければ、きっとこのテーマに関する演説を聞くことはなかっただろうというタイプの若者たちにも耳を傾けてもらうチャンスとなったので、まさに大当たりのアイディアだった。ここにいた人たちも、マイノリティーとして差別や弾圧、人権問題に敏感にならざるを得ない当事者であることが多いと考えられ、それだけに高橋さんのスピーチが受け入れられたのかもしれない。

ちょうど高橋さんが舞台で熱狂的な応酬を得ながら演説していているときに、大きな気球が「No Nukes」と日本語で「脱原発」と書かれた垂れ幕を付けて空に上がった。それから、紙のランタンがいくつもいくつも上げられていくのが見えた。高橋さんが拍手喝采を得て演説から戻ったときには、彼女の出番をコーディネートしてくれていた若い女性が「高橋さんが見られるように、最後の2つを取ってあるから、ぜひ一緒にきて」といって私たちをランタンを飛ばしている、少し離れた場所まで連れて行ってくれた。そこで、私たちは高橋さんとともに最後の2つのランタンに火を点けて、空に飛ばすのを体験できたのだった。レンタカーが故障して車が1台しかなくなり、移動が難しくなった私たちを助けて、車での送迎を引き受けてくれていたGuyさんという主催者の一人の男性が、その最後のランタンが空に昇るときに「No more Hiroshima Nagasaki, plus jamais ça!」としっかり声を上げていたのが嬉しかった。

このように、最初はかなり印象が悪く、悪運も続いて始まったレジスタンス・フェスティバルだったが、この9日は長丁場の一日で疲れたことは疲れたが、とてもいい結果となり、高橋さんもわざわざ訪れた甲斐があり、とても喜んでいた。このコンサート会場での演説は、忘れがたい思い出となった。全体的には、確かに問題点が多く残り、不消化気味の、オーガナイズが今一つよくない、大きくなり過ぎたフェスティバル、という印象は残ったが、あらゆる「抵抗運動」を1か所に集めて提示する、というのは興味深い試みだと思う。それも、これだけあらゆる問題が満載している今の世界では、そういう俯瞰図的な視野、全体像を見る試みは必要なはずだ。抵抗しなければならない問題、対処していかなければならない問題は、山積みにあり、増える一方だ。

これまでにもずっとあったあらゆる環境問題は悪化の一途をたどっており、解決されない原発や核廃棄物とその最終処分場計画問題に加え、ウクライナやガザ、スーダンなどで現実に悲劇となっている戦争の実態、それにともなう世界の武装強化、はたまた当たり前のように議論され始めたヨーロッパ独自の核の傘構想がある。あっという間に軍事費のGNPに対するパーセンテージが各国で吊り上がったことは言及するまでもない。同時に気候変動は確実に進んでおり、あらゆる土地の砂漠化、森林火事の増加(ちょうどこのフェスティバルの間も、南フランスの各地で大きな森林火事がニュースとなっていた)洪水や水不足、猛暑記録の更新などは日常茶飯事だ。それなのに、相変わらず石油や石炭は惜しまず使われており、土の地面をコンクリート舗装して覆い、断熱対策をきちんとしないまま大都市のヒートアイランド現象は増加している。飛行機のCO2 の排出量が高いことは知られているのに、ローコストキャリアの運航サービスで、鉄道よりも安上がりに観光のための長距離旅行ができるシステムはいまだに変わらない。グリーンディールとしてEUがかつて掲げていたあらゆるエネルギーシフトのための政策はどんどん骨抜きとなっていっている。

レジスタント直後に開かれていた、プラスチック環境汚染を規制するための国際プラスチック条約交渉も、合意に至らなかった。気候変動の対策に関する各国、EUまたは世界のコンセンサスもできないまま、さらにたくさんの人命を奪い、その人たちの築いている生活、社会、生命線、インフラストラクチャー、住居、農地を夥しいエネルギーを使って破壊する戦争が各地で続けられており、それらに私たちはなんらかの形で望む望まないにかかわらず加担させられている。性暴力、あらゆるマイノリティに対する差別、人権問題、レイシズム、女性蔑視、LGBTQ+差別、そして新植民地主義的思想や支配構造もなくならない。

そして、市民が「抵抗」せずにいられないのは、一部の独裁者、権力者、資産家、グローバル企業などが自分たちの利害獲得や維持のために、環境・生態系を破壊し、資源を独占・消耗し、社会・共同体を破壊し、権力・軍事・経済力で人々の生命を殺傷し、生活手段を奪い、貧困や飢餓を招き、経済的精神的なトラウマを生み出し、一方でその罪も自らもたらした加害の事実も認めないばかりでなく、あらゆる影響・損害を矮小化し、黙殺し、なかったことにするか事実を書き換えようとすることがあらゆる場所とレベルで行われてきて、それに声を上げずにはいられないからだ。そういう意味で、私たちは「抵抗」し、闘って解放と変革・改善を求めていかなければいけないものに囲まれて生きているともいえるし、同時にあらゆる異質の抵抗がその根元で、同等であるべき人間の尊厳に関する「人権問題」なのだということもできる。だからこそ、このフェスティバルのようなありとあらゆる「抵抗」運動を集めて一緒に問題提起しよう、連帯しよう、交流を深めよう、という試みはとても意義あることだと、私は思う。ただ同時に、これだけ多彩多様な運動、グループ、市民たちを集めるだけの意義にふさわしい、交流・発表・マニフェスト・話し合いを可能にするためには、それなりのモデレーションとビジョン、方向性、シナリオが必要だと感じた。

手作りのベンチにはリラックスのシンボルと                    抵抗の拳のシンボルが両方描かれている

私の知る限り、まだドイツではこのようにあらゆる抵抗運動を1つに集中させてフェスティバルの様な場で集まり交流し、意見・情報交換しよう、という試みはまだ行われていない。オーガナイズはかなりカオティックではあったが、それでもこれだけボランティアを集め、あらゆる企画を実現させ、合計7500人もの参加者を集めたのは凄いことだ。資金もかなり必要だっただろうし、ボランティアの数は約2500人いたという。こうしたアクションに情熱をかけ、エネルギーと時間を注いで頑張る人たち(特に若者たち)がこんなにもいることが、まさに今、日々少なくなってきている希望の光であると思った。この光がたくましく育つよう、私も非力ながら私なりの努力を今後も続けていきたいと思った。(ゆう)

核へのレジスタンス

ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年

高橋博子氏の演説

©Hiroko Takahashi

本日2025年8月6日は、アメリカ合州国政府による広島への原爆攻撃から80周年にあたります。この攻撃による「爆風」「熱射」「放射能」によって残酷な被害をもたらしたこと。そのことを正面から考えなくてはなりません。

この原爆攻撃によって何が起こったのか。現在に至っても核被災の実態は人類共有の体験として充分には共有されてきておりません。とりわけ核のフォールアウトの人間や環境への影響については実態が隠されています。その理由としては、第1に、原爆の影響については日本占領期に情報統制があったこと、第2に、放射線影響研究そのものが軍事機密情報として扱われ続けていること、第3に、米国政府は原爆の威力については公表するけれども、国際法違反に問われかねない情報については公表せずにきたことがあげられます。そうした中で核被災者の救済や援護は国際政治の中でも国内政治の中でも構造的に放置されてきました。

広島・長崎の場合、爆風・熱射・放射線が生じますが、原爆の炸裂後1分以内に発生する放射線を初期放射線、それ以降に発生する放射線を残留放射線という。残留放射線のうち放射性物質がチリ・ほこり・雨などに付着して広い範囲に降下することを核のフォールアウト(放射性降下物)といいます。この影響は過小評価され、核被災者の救済や援護は国際政治でも国内政治でも構造的に放置されてきました。核被災者を軽視することから、更なる核被災者が出てきているのです。

米ソ冷戦下「国家安全保障」の名の下で、国家レベルでは核被災者は放置されてきましたが、ジャーナリスト・科学者・知識人、そして市民による実態解明・救済活動はこの80年様々な形で実施されてきました。フランスでも1959年に公開されたアラン・レネ監督の映画『HIROSHIMA MON AMOUR』は広島での悲惨な原爆の影響を示す映像を使用しました。

グローバル・ヒバクシャによる運動も高まってきました。逆に訴えなければ何も救済されない80年間だったのです。原爆症認定集団訴訟、広島「黒い雨」訴訟、ビキニ水爆被災訴訟、長崎被爆体験者訴訟、福島原発訴訟と核被災者は裁判に訴え続けてきました。いずれも直接的・間接的の違いはあるものの被告は日本国政府です。日本政府はアメリカによる原爆攻撃直後、毒ガスの使用や不必要な苦しみを与え続ける兵器を禁止したハーグ陸戦条約違反だとしてスイス政府を通じてアメリカに抗議しました。しかし日本政府による抗議はこれだけです。現在に至るまで80年にわたって、日本政府は抗議するどころかアメリカと一緒になって原爆の残虐性を否定し続けています。日本外務省の公式な見解としては「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です」、「核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険に晒(さら)すことを容認することになりかねず、日本の安全保障にとっての問題を惹起(じゃっき)します」などと言って核兵器禁止条約にも参加しません。それどころかアメリカと一緒になって核兵器の残虐性、とりわけ残留放射線・内部被曝・フォールアウトの影響を過小評価したり否定しているのです。また、放射線被ばくは成長する子どもたちにとりわけ大きいことは早くからわかっているにも関わらず原発事故の影響も含めて子どもたちへの影響は隠されてきました。

こうした日本政府に対して、私は幾つもの裁判で、放射線人体研究が人を救うためではなく、核戦争の準備や放射線兵器の開発のため、いかに医学研究として問題があるのかについて歴史的に検証した意見書を提出してきました。これは私の「原爆投下肯定論」「核抑止論」「戦争正当化論」に対するレジスタンスです。そして未来を核被災から守るためのレジスタンスなのです。

核によって脅すことも脅されることも、被害者になることも加害者になることも、核被災を隠蔽することも隠蔽されることにも、レジスタンスすることを呼びかけます。

右側が演説をする高橋氏(左は通訳の飛幡祐規さん)

高橋博子:奈良大学文学部 史学科 教授、広島・長崎原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証研究で知られる。この演説は、2025年8月7日から10日にかけて行われたフランス・ノルマンディー地方での大きなレジスタント(抵抗)フェスティバルで、ナガサキ原爆投下80年の8月9日に行われた。

おしどりマコ&ケン        ZOOM講演会

Fukushima matters!                問い続けよう、知ろう、フクシマの現状

2025年7月12日(土)東京 20:00/Berlin/Madrid/Paris 13:00/London 12:00/Montréal/New York 07:00

事前登録はこのリンクから:

https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_jQhDPkk4SLKYbI_4RDp0NA

2025年3月で14周年を迎えたフクシマ原発事故。11月には燃料デブリからたった0.7グラムを取り出し、デブリ撤去が本格的に始まったかのように報道されましたが、その陰ではたくさんの作業員が高線量の被ばくを強いられました。

汚染水海洋放出が続行される中、空になったタンクを撤去する作業員も、底にたまった高線量の泥の処理で被ばくします。メルトダウンを起こし、たくさんの住民から故郷を奪い、今も収束からは程遠い原発事故ですが、どんどん事実を伝える報道が少なくなり、安全を謳う広告記事の方が大々的に流される今、核心の問

題点、東電や官庁が話したくない事実、見逃しがちなテーマを追求し続けるマコ&ケンの存在はますます貴重です。東電記者会見に通い続け、追及の手を緩めず、データをチェック分析するおしどりマコ&ケンによる恒例のオンライン講演会「Fukushima matters! 問い続けよう、知ろう、フクシマの現状」。

【プロフィール】

マコとケンの夫婦コンビ。漫才協会/落語協会/保健物理学会会員。東京電力福島第一原子力発電所事故(東日本大震災)後、随時行われている東京電力の記者会見、様々な省庁、地方自治体の会見、議会・検討会・学会・シンポジウム・被害者による各地の裁判を取材。また現地にも頻繁に足を運び取材し、その模様を様々な媒体で公開している。2016年「平和・協同ジャーナリスト基金」奨励賞受賞。http://oshidori-makoken.com

欧州・米大陸などで反原発・反核運動に取り組む日本人を中心としたネットワーク「よそものネット」では、今年もまたおしどりマコ&ケン・オンライン講演会を開催します。

2025年3月でフクシマ原発事故は14周年を迎えました。東京電力の旧経営陣が業務上過失致死傷の罪で、検察審査会の議決で強制的に起訴された裁判で、最高裁は上告を退け、無罪が確定されました。世界史上でも重大な事故の責任を「責任者」であるはずの経営陣が取らなくていいと司法が認めるということが、理解できません。原告団代表の武藤類子氏はその後の会見で「どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、どれだけの人が人生を狂わされたのか、未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか」と語りましたが、事故以来ずっと、せめて司法による正義を求めて闘ってきた被害者の方たちの悔しさを思うと、言葉になりません。責任が問われずに済むなら、こういう事故が再発する可能性が高まります。原発事故はまだ収束からほど遠いのに、当事国の日本では、海洋放出も汚染土「再生利用」もすべて「安心」と宣伝だけ熱心で、肝心の健康調査や避難者の支援などはどんどん減らされています。これまでに1gにも満たないデブリを取り出したものの、溶け落ちた燃料デブリは合計で880トンもあります。

そのほかにも報道されないため私たちが知らない事実がたくさんあります。14年間東電記者会見に通い続け、細かい取材・調査・分析をし続けてきているマコ&ケンさんだからこそできる濃厚な報告を、今年もお二人にお願いします。各国にまたがる「よそものネット」が世界各地で同時視聴可能な時間帯を選択しています。また、時間が合わず、ライブ視聴できない方たちのために、講演会は録画して後日公開しますので、必ずご覧いただけます。

参加費は無料。ライブ視聴には下記URLからの事前登録が必要です。

https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_jQhDPkk4SLKYbI_4RDp0NA

各国にまたがる「よそものネット」が世界各地で同時視聴可能な時間帯を選択しています。また、時間が合わなくてライブ視聴できない方たちのために、講演会は録画して後日公開しますので、必ずご覧いただけます。

お二人の取材活動を支援する寄付金にもご協力ください。

マコさんケンさんのご祝儀口座: http://oshidori-makoken.com/?page_id=126

海外からの送金は、下記お問い合わせメールアドレスへご相談ください。

お問い合わせ E-mail:sayonara-nukes-berlin[at]posteo.net

広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏の ベルリン訪問同行報告

2025年5月20日から22日までIPB(国際平和ビューロー)とドイツICAN 、ドイツIPPNWから要請を受け、広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏がベルリンを訪れた。もともとドイツの大統領Steinmeierに「世界で初めて核爆弾が落とされてから80年経つ今年、被ばく者の生存者を招いて話を聞いてほしい」という手紙をICANが出し、署名運動で市民の署名もかなり集めて返事を待っていたが、回答をかなり待たされた挙句、結局「今の地政学的状況では難しい」という(おそまつな)答えが返ってきてしまった。それで、国に被ばく者を招いてもらうというアイディアが叶わなくなったが、それでも今年はぜひとも被ばく者の話を直接聞きたいということで、資金的余裕のあまりないIPBとICAN、IPPNWが原水協にも参加してもらうことで、佐久間氏の訪問が可能となった。今回の訪問にはそれもあって原水協事務局次長の土田弥生さんと、学生で原水協で「個人理事」という肩書で活動している小薬岳氏が一緒に訪れた。ベルリンの後は、中立の立場を捨ててNATOに加盟したばかりのフィンランドのヘルシンキで行われる平和フェスタにも訪れた。 ベルリンでのたった三日の滞在で予定されていたのは、原爆投下がトルーマン大統領によって決定されたポツダム会議近くにあるトルーマンが滞在していた館の向かいに作られている「ヒロシマ・ナガサキ広場」訪問、ベルリンのFriedrichshain区Volkspark公園内にある平和の鐘訪問、社会民主党SPDと左翼党Die Linkeの議員やSPD寄りの基金Friedrich-Ebert-Stiftung、左翼党寄りの基金Rosa-Luxemburg-Stiftungとの話し合い、メディアとのインタビュー、それから最後に一般の市民が参加できるイベントだった。私はこの佐久間氏のベルリン滞在で通訳を務め同行する機会を得たのでその報告をする。

佐久間氏は生後9か月で被ばくしたため、原爆投下自体に自らの記憶はないものの、爆心地から2.8キロのところにあった自宅で被ばくし、母親の背中に背負われて避難所に避難する間に黒い雨に降られたということだ。十歳から十一歳の頃、腎臓、肝臓を患って長い間闘病をしたときの苦しみがトラウマになっている、と彼は語った。でも、それより私が心を打たれたのは、ドイツのntvの若い実習生が行ったインタビューで佐久間氏が話したことだった。この実習生だという女性は、インタビューを行うにあたってとても丹念に佐久間氏の経歴、体験談を勉強してきていた。それだけに、佐久間氏がこれまでもよく語ってきたことはすでに知っていて、それ以上のことを質問できるよう、準備してきていた。彼女は81歳になる彼に「被団協の事務所まで毎日自転車で通っていると読みましたが、それはどうしてですか」と訊いた。佐久間氏はにっこり笑って、かなり前にさかのぼって話をし出した。

自分は定年が迫る数年前、2006年にある銀行に出向して働くことになった。そこで、ちょうど広島原爆投下後写真を撮った中国新聞社写真部員だった松重美人(まつしげよしと、注1)氏の写真展が開かれていた。その写真に写っている人々の姿や町の様子を見て、自分はそれまで被ばく者だということを公に語らないできていたが、自分もここにいたのだ、ここに写っている人たちの一人なんだ、と確信した。自分でそのことを認め真っ向から向かっていかなければ、この体験をめぐるあらゆる問題を乗り越え、前に進んでいくことはできないのだ、と悟った。それで初めて、60になってからやっと被ばく者であることを名乗り出ることができた。それで被団協にも入り、自分の体験を語り、二度とこいうことが起きてはならないということを自分も積極的に訴えていくようになった。定年後時間ができたこともあり、被団協で被ばく者を対象にアドバイスをする仕事をボランティアで始めた。広島というのはそんなに大きな都市ではない。街は自転車で西から東まで1時間もあれば行けるほどの大きさであり、うちから事務所も遠くない。しかも、被団協で仕事をしていると、役所に行ったり、ほかの場所に行ったりとなにかと動かなければいけないことが多い。健康にとってもいい、公害は出さない、小回りが利き便利だ、というので、それで自転車で通うようになった、そう語る佐久間さんは微笑みながら、とても前向きな姿勢に溢れていた。

いつも自転車に乗って通っていらっしゃるというだけあって、佐久間さんは81歳とは見えないお元気なお体で(だからドイツまでもいらっしゃったわけだが)脚も達者、階段もすたすたと昇り降りしていらした。そして、60になってやっと被ばく者であることを明かすまでの思い出話を、語ってくれた。

広島出身であることはあまり語らない方がいい、そのことはできれば隠していた方がいいのだ、ということを小さい時から言い聞かされてきた。被ばく者が子どもを産むと奇形児が生まれる、病気になりやすい、という差別があり、誰もそのことに関して話さないのが当たり前だった。親戚からもその話はしてくれるな、と言われていた。しかし広島にいる限り、そのことが心の負担になるので、高校を出た時に、すぐに広島から抜け出したいと思って上京した。そこでまずホテル業界で働くための大学に行き、勉強し、その後縁あってヒルトンホテルに就職することができた。しかし、そこでの仕事があまりに苛酷だったため、やめざるを得なくなり、別の仕事を得た。そのうち、ある女性と恋をした。将来も一緒になりたいと真剣な付き合いだったので、彼女には自分が広島出身であることも話した。ある時、彼が里帰りするとき、彼女も同じ方向に故郷があるので、いずれ結婚するなら彼女が親に紹介したいというので、一緒についていった。しかし彼女の両親は、彼が来ることを(彼の存在も?)知っていなかった。彼女のうちに到着して、玄関で待つように言われ立って待っていると、中から彼女が母親と話をしているのが聴こえてしまった。「広島の人なの?」という言葉だった。そして、結局彼女の両親は彼を迎え入れてくれなかった。彼女の様子から、広島出身の彼は彼女の夫として望ましくないと思われていることが掴み取れた。その時佐久間さんは、彼女と結婚しようと望むことはできないのだ、彼女にそれ以上負担をかけるわけにはいかないと悟り、広島に戻るしかない、と東京での生活をやめて、広島に帰る決心をして戻ったという。ここでは佐久間氏はそう言わなかったが、話の前後から、広島に戻ったこの時はそれでもまだ、「自分は被ばく者だ」ということを人前では公表しなかったのだ。

日本語がわからない若いインタビュアーにこの話を語った佐久間氏のすぐ横で、彼の言葉を訳しながら、私も思わず熱がこもり、夢中でドイツ語にした。証言の強さというのはこういうことではないのか。被ばく者、生存者、というのは単に原爆が投下された時にそこにいて肉体的物質的被害を受けた体験者ということではない。それだけでも惨く、長期にわたって苦痛を強いられることなのに、それ以上に人間としてそれをもとに受け忍んできたありとあらゆる悲劇、ドラマが一人一人の人生残体にのしかかっているのだ。そして、同様のことがフクシマでも起きていることを私たちは何度も耳にしてきたではないか。自分の過失ではない理由で甚大な被害を被った挙句、差別を受け、陰口を叩かれ、賠償や支援を受ければ受けたで妬まれたり罵られたり、そのことを語らない方が家族のためだ、語れば損だ、と出身地や体験を隠さざるを得ない人たちが今もどれだけいるか…

1957年(昭和32年)に原爆医療法が施行され、旧長崎市および広島市、そしてその隣接区域にいた人約20万人を対象に被爆者手帳が交付された。1962年(昭和37年)には被爆した場所が爆心から2km以内から3km以内の直爆被爆者に拡大された。佐久間氏のお母さんはそれまで一切自分たちが被ばくしたということやその時の体験を話そうとしなかったが、被爆者手帳を交付してもらうため、初めてそのときのことを語ったので、佐久間さんも話を聞いたのだという。その時に、彼が原爆投下直後、母の背中に背負われ、避難所に逃げる途中で黒い雨に降られた話も知ったのだ。この被爆者手帳を交付されることは本当に画期的なことで、それまでは生活が苦しく、医者にもかかれない人たちがたくさんいた。一定の条件を満たしてこの被爆者手帳を支給されれば、とにかく医療給付してもらえ、健康診断を受けられる。

これは今回のインタビューでは語られなかったことだが、いただいていた資料の中にあった彼の証言の中に、次の項目もあった。ABCCが1950年代に調査した黒い雨に遭った1万3千人ほどの調査資料が放影研に放置されていたということが2011年10月ころ明らかになり、彼も開示請求をした。すると届いた彼のデータ用紙には、黒い雨にあったか、というチェック項目のところでしっかりYESにチェックがしてあったという。

佐久間氏のお母様も1963年に乳がんと診断されて摘出手術を受けてから、その後も原因不明の病気に苦しみ、入退院を繰り返しながら1998年に亡くなったということだ。

昨年秋にノーベル平和賞を受賞した際、その理由の一つとして「被団協は被ばくの実相や悲惨を語るたゆまぬ努力を続けてきた。そして核兵器の使用は道徳的に容認できないと強力な国際規範が形成され、「核のタブー」として知られるようになった」ことが挙げられた。しかし佐久間氏は今、その核のタブーが壊されようとしている瀬戸際に立っていると感じているという、その危機感について何度も語った。

日本から一緒に来られた原水協の土田さんは、ノーベル平和賞受賞後、祝福のために被団協の代表を招いた石破総理が、祝福の言葉を言いながら同時に「核抑止力の必要性」を語ったため、怒り心頭に達したと話していた。トランプがNATOやEUを脅し、これまで通り有事に米国に助けてもらえなくなる可能性が強まったと、ヨーロッパでも急激にフランスの核兵器をEUの核の傘にしよう、などという話が急に当たり前のようにされるようになってきている。急激にどの国も軍拡に舵を切っており、GNPの2%どころか、5%を目指す国も出ている(ドイツ新政府の外務大臣もそれを目標とすると語った)。NATO事務総長のルッテは、加盟国はこれからどこも3.5%を目指し、1.5%を軍事用インフラストラクチャー整備に充てるべきだ、など発言している。冷戦が終わって35年、またまた世界は軍拡競争に突入している。

ドイツでは、この前の連邦議会総選挙で票を伸ばした左翼党の賛成を得られないことを見越し、新政府発足前の古いメンバーの連邦議会で特別財産基金設置を決め、防衛費については債務ブレーキの適用対象外として「上限なし」で借金してもいい形になってしまった。新政府でも引き続き防衛大臣を続けることになったSPDのピストリウスは(前総理のScholzよりも人気があったそうだが)前の政権時代にすでにドイツの防衛軍は「kriegstüchtig」(戦闘能力を十分に備える、とでも訳せばいいのか? 私の耳には「戦争ができる国」という形容詞に聞こえる)にならなければならない、と言ったことで有名だ。メルツは選挙運動の間「まだ十分発電できた優秀なドイツの原発を信号政権が無理やり止めてしまったので、それをまた再稼働させたい」「せめてそれ以上の廃炉工事はストップする」などと非現実的扇動的な話をしていたし、首相になった途端にマクロンと会って「SMRをフランスとドイツ共同で建設する(したい)」計画を発表した。核融合発電という夢物語も捨てていないようだ。

要するに、ドイツも日本と同じように(必要とあらば自国でも核兵器が作れる可能性を保つべく)核技術を捨てたくないという姿勢がありありだ。それで、トランプだけでなくロシアのウクライナ侵攻とプーチンによる威嚇、ガザでの戦争を始めとする中東の緊迫状態を理由に「核抑止力」「核共有」「核の傘」といったキーワードがことさら繰り返されるようになってしまった。石破首相は「ウクライナは明日の東アジアだ。アジア版NATOを作り核共有を進めたい」とまで言及している。

核兵器禁止条約の3回目の締約国会議が今年3月開かれたが、去年まではオブザーバーとして参加していたドイツは、今年参加しないことをその会議直前に公表した。それに今年はアメリカの核の傘のもとにあるNATO加盟国からのオブザーバー参加国が一つもなくなったという。初日は、NATO加盟国からアルバニアがオブザーバー席に姿を見せていたのに、2日目には会議直前になってアルバニアの国名の表示が消えたそうだ。過去2回続けて参加していたドイツとベルギー、ノルウェーが今回は参加しなかった。これが現在の「核兵器禁止条約」をめぐる国々の姿勢であり、それがドイツ連邦大統領が今年、被ばく者を招くことを断った背景なのだ。

連邦大統領シュタインマイヤーとの会合は叶わなかったが、今回の被団協を代表しての佐久間さんと原水協の土田さんの訪独では、防衛費の底なしの増額にも中距離ミサイルのドイツでの配備にも反対している左翼党の連邦議員(Nordrhein-Westfalen州)で防衛委員会に入っているUlrich Thoden氏、それから連合政府に入っている社会民主党SPDの中でも「核抑止力」に反対する少数派の声であるRalf Stegner氏(Schleswig-Holstein州)と連邦議会の議員会館で会合することができた。左翼党は新しい連邦議会の中でも重要な野党なので当然だが、連合政府に入っているSPD議員のたった一人でも、忙しい中、佐久間さんの話を聞く時間を取ったという事実はポジティブに認識すべきだと思う。SPDの中でも彼の立場は微妙でだが、それでもその中で「核抑止力」に異議を唱えている声があり、議員として新総選挙でも選ばれているということは好ましい。そして彼のような「少数派」の声も、連合政府に参加して軍拡にどんどん力をいれているSPDの中で訴え続けてほしいと願うばかりだ。

議員や基金との話の中で佐久間氏が必ず「防衛費を上げれば上げるほど、社会保護への支出(教育や医療を含む)が削られるのは目に見えている。しかし、市民を守るということは、軍拡し「抑止力」を高めることより、日常の生活で一人一人の暮らし、健康を支えることのはずだ」ということを語っていたことが心に残った。実際に政治決断の場に参画している議員たちにそのことを訴えるのは大切だし、それをしっかり聞く耳をもつ議員と話ができたことは有意義だったと思う。核兵器は、闘うための「武器」ではなく、単に「無差別殺戮兵器」に過ぎず、本当に核兵器が落とされれば、どこにも勝ちも負けもないのだ。そんなものをいくつも持つということ自体が狂気の沙汰であり、国の名、その時の政府や権力者によって始められる戦争で、被害を受けるのは何より罪のない弱い市民だ。人の手で始められ、つくられる核兵器、戦争は人類の手でなくさなければならない、ということを佐久間氏はしっかり訴えた。また、無差別の大虐殺、という点で、今ガザで行われている戦争に対しても極めて憂慮しており、即刻停止すべきであり、ほかの国も声を上げるべきだ、という話も忘れずにされていた。日本政治の問題点に関しては、原水協の土田さんが詳細に英語で話されていた。 二日目の夕方は、いつもSNBのデモにも協力してくれるベルリンの平和の鐘のグループが佐久間氏たちを招き、鐘のもとに集まった。この平和の鐘というのはもともと、政治・宗教・人種にとらわれることなく、世界平和祈念を目的に世界から集められたコインやメダルを溶かして鋳造した鐘であり、ニューヨークの国連本部にも広島など、世界各地にある。ベルリンの平和の鐘でも毎年8月6日に記念式典が開かれ、鐘が鳴らされるが、平和の鐘協会代表のAnja Mewes氏は被ばく者を代表してベルリン訪問される佐久間氏にぜひ訪れてほしいと招待し敬意を表し、ぜひ鐘を突いてほしいと佐久間氏たちにもお願いして、希望を叶えてもらっていた。

平和の鐘を背後に「No more Hibakusha」の旗をもって             (今年のSNBのモットーと同じ、とつい3月のデモの写真をお見せしてしまった)

スケジュールとスケジュールの間、連邦議会議員会館から移動する途中で「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」と「国家社会主義の下で殺害されたシンティとロマの記念碑」を訪れ、(写真)Rosa-Luxemburg-Stiftungの帰りには近くのイーストサイドギャラリーの壁を見に行った。

最後の公開イベントは、IPBの事務所のある(私がよくGreen Planet Energyとデモの相談で通ったMarienstr.の建物に入っている)会場で行われた。メディアで来ていたのは日本の赤旗、共同通信のほか、ドイツのものではntv以外に、残念ながらドイツ/ベルリンのメディアは一つも来ていなかった。このイベントは外国や会場に来られない人にもオンライン配信されたため、英語で行われることになっていて、私はここだけは不本意ながらも英語で通訳しなければならなかった。私の英語能力はかなり衰えていて、ドイツ語ほどの細かいニュアンスをしっかり訳せなかったという悔いが残ったが、とにかく無事に大役を果たし終えてほっとした。しかし三日ぎっしり通訳をし続けたのでその後はかなりへとへとになって消耗しきり、数日間使い物にならなかった。

いろいろな人々との交流の中で印象に残ったのは、佐久間さんに対して「学校など、若い世代に対する体験の継承をどう行っているか」という質問があらゆるところで出されたことだ。ドイツは「Erinnerungskultur(記憶文化)」を実践していることを誇りすぎている向きもあるが、確かに日本と比べるとナチス時代のおぞましく恥ずかしい過去と向き合い、それをできるだけ正確に次世代に伝えようという試みがずっと当然の教育指針の一つとして行われてきている国であることは間違いない。学校の遠足でKZ(ナチス強制収容所)を訪れたり、証言者を学校に招いたり、迫害された人たちの話をテーマにした本を授業で扱ったりするのは珍しいことではない。先日103歳で亡くなったホロコースト生存者のMargot Friedländer 氏も、結婚してアメリカに暮らしていたが、過去のことを話したくなかった夫が亡くなって88歳になってからドイツに戻り、体験談を語り始めた人だ。彼女はことに学校を回って若い生徒たちを前に証言していくことをずっとやり続けた人だった。「話すことができなかった人たちのためにも語るのが私の使命だ」と言い続け、若い世代に対して「人間であれ」という言葉を繰り返し伝えた。

広島や長崎の原爆資料館を修学旅行で訪れる高校生などもいることはいるが、漫画の「はだしのゲン」が数年前から平和教育副教材から削除されたり、高校の歴史の授業でも第二次世界大戦のことは扱われないなど、日本では歴史の「継承」を実践する気が教育委員会側にあるとは思えない状態だ。学校を被ばく者が回って体験談を話すというようなことは従って行われず、被団協を始めとする一部の市民団体やイニシアチブが企画して若い人を対象にそうした場を提供するか、自ら興味をもった人が被ばく者団体に接したり勉強したりするほかは、なかなか接点が生まれないのが実情なようで、それには「誇れない過去をなかったことにしたい」「歴史の教科書を書き換えたい」歴史修正主義者たちが権力を持っている社会であることが、ここでも影響しているのだと思う。ことに、広島・長崎の原爆投下に関しては、日本が侵略戦争を始めたという事実、他国を植民地にし、そこの住民たちに強制労働を強い、あらゆる物資資源を搾取し、大量虐殺もおこなったという事実を顧みず(ましては否定し)、「原爆という恐ろしい新型兵器の被害者になった」というストーリーに徹して、反省をしていない今の政治の指導者たちを見ていると、その中で「市民一人一人の当然な人権」としての平和を求める運動を続けていくことの難しさも、重要性も実感する。

今回の被ばく者を招く企画で私が気になったのは以下のことである。確かに貴重な体験談を実際に被ばく者から話を聞くというのは、単に証言者の話を読んだり、画面越しに見たり、間接的に話を聞くより、ずっと心を動かすものであるし、インパクトは大きい、それは確かだ。

しかし、実際にヒロシマナガサキ原爆投下から80年経った現在、生存者は皆、高齢者ばかりだ。佐久間さんは生後9か月の時に被ばくしたから「まだ」81歳だが、被ばくの記憶がある方たちのほとんどは80代後半であり、その彼らをはるばるヨーロッパまで連れてきて、長い飛行機の旅や時差ぼけから少しでも回復する時間の余裕も与えずにハードスケジュールで、しかも節約した移動(交通)手段で連れ回すのは、あまりに苛酷であり、被ばく者の方々に対する礼儀、思いやりに欠けてはいないだろうか。

今回は「なけなしのお金」をIPB、ドイツICAN、ドイツIPPNW、原水協が出し合って、フィンランド・ヘルシンキ訪問とも組み合わせることで、佐久間さんの訪独を可能にしたということだが、早朝にベルリン空港に到着したばかりの彼らを夕方、普通のS-Bahnでポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場にお連れして長時間、夏の様な日差しの下、外で話をしたり、二日目も、すでにいくつもの予定をこなしたあとで、遠いFriedrichshainのVolksparkにある平和の鐘まで連れていくなど、佐久間さんは文句の一つも言わずこなしていらっしゃったとはいえ、私はあまりにも配慮を欠く対応なのではないかと思わずにいられなかった。コストを抑えるためとはあっても、せめてレンタカーを借りて移動する、タクシーをもっと使う、などをして佐久間さんの負担を減らしてあげることはできなかったのか、それから到着した日はせめて何の予定も入れず休んでいただく、という風にはできなかったのか、と思う次第だ。それから、被団協や原水協の方でも、せっかく企画を立てて招待されたから、わがままを言っては悪い、というような日本的な遠慮をせずに、ご高齢の被ばく者の方たちの海外でのプログラムがあまり負担にならないよう、「到着当日は何も予定しないでほしい」とか「移動はなるべく車でしてほしい」とか、最低限の条件を付けて被ばく者の方たちを守るべきではないか、とも思う。また、ベルリンの公共交通機関ではまだまだバリヤーフリーが徹底していなくて、私はできる限りエスカレーターやエレベーターを探したのだが、それでもないところがいくつもあったのも、いつものことながら気になった。

それでも、佐久間氏とお会いしたこと、お話を直接伺えたこと、また彼の訴えを私がドイツ語にしながらドイツの議員や基金で働く人たちに伝えることができたのはとても有意義なことで、学ぶこと、考えさせられることが多かったので、こうした機会に恵まれたことに感謝している。コーディネーションをしたIPBの代表であるアメリカ人のSean Conner氏や副代表のイタリア人のEmily Molinari氏、ドイツICANのAicha Kheinette氏のチームはとても感じがよく、一緒に話をし、行動する時間が長かっただけに、個人的にも親しくなれたことも嬉しい。ある大きな目標に向かって、皆、それぞれができる範囲で、出来る形で活動し、力を合わせていくことが何より大切だと再確認した。そういう意味でも、さらにネットワークが広がったことを喜びたい(ゆう)。

注1:松重美人氏https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8D%E7%BE%8E%E4%BA%BA

注2:ICANでもこの佐久間氏のベルリン訪問に関する記事を発表している。https://www.icanw.de/neuigkeiten/hibakusha-kunihiko-sakuma-zu-besuch-in-berlin/

シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金主催のアクションウィーク参加報告

シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金のマーティン・カストラネック氏は、フクシマ原発事故が起こる数年前から「アクションウィーク」を企画して実行してきた。これは、チェルノブイリ原発事故のあった4月前後にシュレスヴィヒホールシュタイン州の学校を回って、原発事故の「記憶を伝える」とともに、それを踏まえどのような未来を築いていけばいいのかというテーマを生徒に与えながら、学校、身の回りの環境でなにを改善することができるか話し合い、アイディアを出し合い、最終的に皆で投票して決めた一つのアイディアを、クラブ活動のようなチームで半年くらいかけて実現していく、そのためのノウハウやアドバイスを与えたりエキスパートを招いたりしてサポートしていく、という長い期間に渡るプロジェクトだ。持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に国連総会で採択されてからは、このSDGsを自分たちの環境でどのような形で実現するか、という主旨に変更した。こうしたコンセプトで地元の学校に提案を出し、目的に賛成し、生徒たちが積極的に参加しなければ成り立たないプロジェクトを一緒にやりたいと考える教師が協力を申し出て、時期や企画内容で折り合いがつけば実行される。このようにしてほぼ毎年、シュレスヴィヒホールシュタイン州の各地の学校(主にギムナジウムまたは総合学校(Gemeinschaftsschule)の10年生または9年生を対象)を、4月から5月の間の一週間、毎日1校ずつ5日間(月曜から金曜まで)めぐり、第一回目の集まりを開いてきた。

ここには、チェルノブイリ原発事故のリクビダートル(原発事故の処理作業に従事した人々を指す)として参加した人や実際の事故をその場で体験した人などがウクライナ(またはベラルーシ)から招かれていたが、フクシマ原発事故が起きてから、「記憶を伝える」の部分にはフクシマの話も大切だとして、フクシマまたは日本からも人を招くよう試みてきた。それで私は、ベル基金には緑の党寄りの基金としてそれだけの財源があるのかと思っていたのだが、そうではなく、このアクションウィークをどうしても実現・存続させるべく、カストラネック氏が宝くじによる社会貢献事業支援の枠組みに何度も応募してはこのプロジェクトに対し資金をもらっていたことがわかった。ただし、この宝くじによるあらゆる社会支援プロジェクトも、もう何度もこのプロジェクトが資金援助を受けたからかどうかはわからないが、同じ内容のプロジェクトではこれからはもう支援は与えられないと通達されているそうで、来年もこうしたプロジェクトを実現したければ、内容やコンセプトを変更せざるを得なくなる、という話だった。それにしても、若い中学3年生または高校1年生に当たる若者たちを対象に、原発事故の記憶を伝え、長期にわたるあらゆる側面に渡る問題を考えさせるだけでなく、そうした不安のない持続可能なエネルギーシフトを導き、自分の身の回りでもなるべく、どのようにすれば持続可能な環境を作っていけるか自分の問題として捉えさえ、考えさせるという試みはとても大切だし、通常の授業の枠組を超え、自分たちで具体的な考えを出し合い、そのアイディアを実行できるまで具体的にサポートしてもらえる、という経験を生徒に提供するというのはすばらしいアイディアだと思った。もう何年も前から反原発・反核の活動を通じて交流のあったマーティンから今回は私にもぜひ参加して私の立場から「フクシマの問題」を話してほしいと依頼された時、これなら応援しようと承諾した。このように5月の5日の月曜から5日間キールを拠点に、シュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校を毎日めぐる、2025年のアクションウィークに参加したので、これはその報告である。

国連のSDGs

招かれていたのは私だけではない。フリーの調査ジャーナリストとして事故後福島第一原発で普通の労働者として6か月被ばくしながら働いた桐島瞬氏が日本から参加していた。彼は、このアクションウィークの招きでドイツに来るのはこれで3度目だそうである。私は彼の通訳も受け持つことになった。桐島瞬氏は3.11の起きた時、日本のある出版社に勤めていたそうだが、それまで環境問題に関するテーマでも取材は行ってきたものの、原子力エネルギーに関しては一切かかわってこなかったという。フクシマ事故が起きて、情報が伝わってこない中、どうなっているのか自分の目で見たいという気持ちが募り、社員として新聞社や出版社に勤めているジャーナリストは「高線量の場所に行かせるわけにはいかない」と行かせてもらえないので、まず出版社を辞職し、フリーとなってから「潜入」する決心をしたそうだ。自分の本名で書いてネットで発表されていたそれまでの記事は、訳を話して名前を伏せてもらい、ネットでも彼の「正体」や電話番号、メールアドレスなどが暴かれないよう、いろいろ工夫をしてから、福島第一の中で働く仕事に就くことになったという。もちろん東電に直接雇われたわけではなく、現場から30キロほど離れたところにある会社に雇われたそうだが、東電で働くには身分証明をしっかりして本名を明かさないわけにはいかなかったのでそれなりの対処が必要だったようだ。また労働者は写真を撮ることを固く禁じられていて、携帯の所持も許されていなかったのだが、彼は隠れてジャーナリストとして潜入するからには、どうしても写真を撮りたいと、苦労して隠れて写真撮影もした。

雇われていた6か月ほど、彼は車で寝起きしていたという。早朝、同僚と会社の車で楢葉町にある中継拠点のJヴィレッジまで行き、防護服に着かえ、放射性物質を吸い込まないための全面マスクを手に取る。そこから作業員を載せる大型バス数台で福一に向かう。線量の高いところに入ればバスの中ですでに全面マスクもつけたそうだ。

彼が福島第一に入ったころはまだ、水素爆発の後あちこちに飛び散った瓦礫が散在しており、敷地内はまっすぐ車などが通ることもできないほどだったという。それでも、原子炉を冷却するための「循環注水冷却システム」と、冷却などで高レベルに汚染された水を浄化するための「多核種除去装置(ALPS)」を作り、重く太いホースを人海作戦で持ち運び、繋げる仕事に従事していたそうだ。最初は軽量の塩化ビニール製ホースだったが、草がホースを突き破り、汚染水が漏れることがわかり、のちにポリエチレン製のしっかりしたホースを使うことが決まったため、労働者たちがまったくのマンパワーで瓦礫や草木に覆われた場所を苦心してホースを運び繋いだそうだ。労働者たちは高線量の中を働くため、毎朝、その日の計画線量(その日の仕事の最大被ばく許容線量)を言い渡されるが、数時間でいっぱいになることもある。被ばく線量を測定するために24時間付けているガラスバッジと、敷地内の作業時につける線量計とで線量管理は一応しているのだが、朝の8時くらいから仕事を始めても昼近くには被ばく量が増えるため、休憩所に行って休むことになる。だが、その休憩所の線量も低くはないため、そこで全面マスクを外して休憩すると、休憩の間に汚染空気を吸い込んで被ばくしてしまうことになる。また夏の暑い時期には、全面マスクの中で汗を掻き、びしょびしょになってほとんど息ができなくなって苦しくなることが少なくなかったという。彼が働いていた当時は3000人前後の労働者が福一で働いていたが、休憩所はその人たちを収容する広さがなく、ロッカールームの前で横たわるしかないこともあった。肌が直接放射性物質に触れることがないように、特殊なポリエチレン繊維不織布で作られた全身の防護服を着ているが、休憩所では全面マスクを取り、首元を開ける。それで休憩中も被ばくをしてしまうのだそうだ。頭ではわかっていても、実際に目には見えない、味も臭いもしない放射能被ばくに関する懸念は、そこで具体的な仕事に携わり、暑さや疲労と闘っていると、どんどん麻痺していく、と彼は語っていた。

6か月ほど仕事をしてやめたすぐ後は、鼻血が止まらなかったことが何度もあったそうだ。それは、線量の高いところに住んでいる住民もよく報告していた症状である。彼が働いていたときだけで、2~3名が作業中に発症した急性心疾患などで死亡し、あとから取材した1人は白血病に罹患したが、東電は作業による被ばくとの因果関係を認めていない。彼も14年近く経つ今年の1月に心筋梗塞を起こし、心臓の手術を二度も行ったそうだ。つい1か月前まではまともに歩けなかったというが、ここまで回復してドイツにやって来たのだ。がんや心疾患は被ばくとの関連性が高いと言われ、被ばく後、長い時間が経ってから発症することがあると言われている。

私は、自分がドイツでフクシマ事故の話を聞いてどう反応し、何をしたか、という話をした。日本にいるより遠くのドイツにいる私の方が得られる情報や報道があったことに驚き、それを翻訳して日本の人にアクセスできるようネットで拡散し始めたことなどを話すとともに、日本ではフクシマ事故以来、実際の健康調査や被ばくの状況のデータ収集をしっかり進めて人々をサポートしたり、故郷を離れざるを得なくなり、帰ることのできない人たちに住宅支援を続ける代わりに、中途半端な「除染」でどんどん帰還政策を行って、住宅支援を断ち切り、包括的な調査をする代わりに「心の除染」「ちょっとくらいの放射能は大丈夫」「フクシマはおいしい、きれい」の大々的なキャンペーンを国や県や自治体が税金を使って政府寄りの広告代理店にやらせている話などもした。また、日本のフクシマの実態をドイツでも伝えるため、証言をドイツ語に翻訳するボランティア活動を続けていることも話した。その中で、遠くの隣人3.11の杉田くるみさんが制作してきた一連の「証言ビデオ」(ことに菅野みずえさんの、フクシマからの避難の話に私がドイツ語訳をつけたもの*2)を使わせてもらったり、彼女がコミック作家のダミアン・ヴィダルさんと作った「Fukushima 3.11」のコミックドイツ語版を紹介し、生徒たちに配布することもできた。くるみさんとダミアンさんにはこの場を借りて改めてお礼を言いたい。

今回のアクションウィークの第一回目の生徒との集まりでは、まず最初にこの企画の説明と流れを紹介してから、「まずフクシマと聞いて何を思い浮かべるか」、「フクシマとSDGsを繋ぐものはなにか」というような質問をMentimeterというリアルタイムフィードバックプログラムを使って(最近の学校はこのように進歩していて、かつて黒板のあったところに大きなモニターが付いていたりするのを私は初めて知った)生徒に答えさせる。何しろ14年前のことで、15歳16歳の生徒たちを対象としているから、当時の報道のことは知らない世代だが、教師と授業などですでにこのことが話題になっていた場合には、最初の質問に「原発事故」とか「放射能」とか「津波」とか答えた生徒もかなりいた。2番目の質問でも「環境問題」とか「持続可能な社会」とか「環境にやさしいエネルギー」とか答えられる生徒もいた。

コミックFukushima 3.11 *1

その後で、インタビュー形式で桐島氏と私に「事故のとき、何を思ったか、何をしたか」とか「日本でのメディアはどのように事故のこと、その後の影響などを伝えているか」などの質問をしながら答えさせるといった形でほぼ1時間くらい「フクシマ原発事故」にまつわる個人的な話をさせた。桐島氏は、実際に現場で被ばくをしながら一般の労働者と同じように働いたという実際の体験を語ったので、それは証言というものの常として、聞く人を動かす力があったと思う。放射能の危険性を知りながらも潜伏してその体験を語るInvestigative Journalistということで、話を聞いていた生徒たちや教師の中にも感動する人たちがいた。私はしかし、実際にフクシマの地震や津波も体験していないほか、故郷を追われたわけでもない、遠くに住むただの日本人として、それをどう自分なりに受け止め、反応し、それでどのように行動したか、というアクティビストとしての活動報告のようなものを語るしかない。また、アクションウィークのコンセプトに合う「ストーリー」に沿って用意された質問に対して答えるしかなかった(ことにそれは用意された質問に答える形でしかゲストである私たちは話すことができなかったからでもある)。

例えば日本のマスコミの問題点、政府・当局や東電の事故後の対応や責任問題、市民の健康管理や避難した市民たちの援助を徹底して実行・続行するよりずっと多大の金額を電通を先頭とする広告代理店に委託してプロパガンダを続け、汚染水の海洋放出や汚染土リサイクルなどを正当化しているなどの話もしたが、短い時間に、しかも原発事故に対する問題意識や知識のない若者たちに語れることは限られており、あまり詳しい内容を話すことはできない。どこに重点を置くか決めて、これだけは話そう、と要点に絞るしかない。ということは、これではフクシマの問題点、原子力産業の問題点、核の恐ろしさは伝えられない、と思っても、また問題点は複雑であり、ないがしろにできないデリケートかつ難解なテーマや説明が難しい状況が多岐にわたってあることがわかっていても、それを異国のティーンエージャーに、しかも学校のカリキュラムではない課外授業のような限られた枠内で、この事故の14年来(または原子力発電が誕生してから?)の問題を伝えることは不可能だ。簡単にまとめ、わかりやすくアレンジした「ストーリー」に嚙み砕くしかなくなる。ベル基金は緑の党に近い基金であるし、脱原発がまがりなりにも実現したドイツで、原発に頼らないエネルギーシフトと持続可能な社会を作って行こうということはいいとしても、政治的メッセージ、洗脳の試みとして取られかねないので学校であまり反原発を直接呼びかけない方がいいだろう、ということは最初に言われてもいた。私にはこうした「短い時間」で「噛み砕いた」フクシマの原発事故とその問題を(遠い異国の出来事として学ぶドイツの生徒たちに)わかりやすく、掴みやすい(しかもマーティンの主旨に沿った)ストーリーで伝える、ということ、そして同じ内容のプログラムをほぼ5日間繰り返したので、大体何をどのように話すのか決まってしまい、マンネリ化を感じながら、こうした「偏った」または「短絡化した」「ストーリーにまとめられた」フクシマを結果として伝える一人となったことに、罪悪感というか、フクシマ以来、さまざまな苦しみ、悲しみ、悩みを抱えてきている人たちを裏切っているような気持に苛まれた。

私はまったく被害者でも当該者でも体験者でもないわけだから、アクティビストとして学んできたこと、考えてきたこと、観察してきたことのほか、人前で話せることはない。それはこのような学校の限られた枠内で話すのには適さないのではないか、という思いに責められた。あるいは、こうして日本のことを全く知らない若者たちにフクシマまたは原発事故の悲劇、問題点を語るということは、私にはできない、私は不適格者だ、と悟らざるをえなかったとも言えよう。「これさえ伝えれば、あとは語らなくてもいい」とか「この側面だけ伝えよう」というような単純なメッセージづくりにフクシマも核をめぐる問題も縮め、簡略化することができない、もしくはしたくない私には、こういう任務はまったくふさわしくないのだ、と感じたと言えようか。そういう意味で、私は最後まで居心地の悪い参加となってしまった。それでも、桐島氏の話の通訳や、私の話にそれなりに満足し、任務を果たしたと思ってもらえたのはよかったと言わなければならないだろう。

アクションウィークには私たち「日本人ゲスト」のほか、シュレスヴィヒホールシュタイン州Bad Bramstedt地区代表の緑の党州議員で環境保護、エネルギー政策を専門とするGilbert Sieckmann-Joucken氏が参加しているほか、若手の女性二人(一人はエラスムス計画でスウェーデンの大学で半年勉強しているMelina Wolf(数年前からこのアクションウィークプロジェクトの研修生として働いてきている)と、大学での政治学修士を獲得後、今は難民支援団体Flüchtlingsratで仕事をしているMiriam Zweng(彼女も3年前からアクションウィークに参加)が司会やサポート役として来ていた。彼らがSDGsをどのように身近な学校環境で変えていくことができるか説明したり、例を挙げたりしてから、自分たちの周りで何が問題か、何を変えることができるか考えさせるワークショップへと生徒たちを導いていく。

ワークショップの様子

アイディアとして出た例は、「学校の緑化」「自転車をつかって電気を作ってそれで校内の一部の設備機械のエネルギーを賄う」「戦争や紛争を逃れて難民として来ている子どもたちを支援する寄付金集め」 「太陽光パネルを屋根に設置して校内の電気として使う」「学校の庭で畑を作り、養蜂もする」「屋根の緑化」などがあったが、その前に「どういう問題があるか」という段階で、「ファーストファッションが問題」とか「パン屋でいちいち新しい紙の袋にパン菓子を入れて買うとゴミが出る」、「低学年の生徒に正しいゴミの仕分け方とその意味、理由を教えて、リサイクリングを徹底する」から「暴力」や「武力闘争」問題、差別問題まで提示するほど、意識の高い生徒もいた。9年生と10年生の生徒両方と接したが、やはりこの年齢での1年の差は大きく、10年生のギムナジウムの生徒は、意識も高く、考えもしっかりまとめられる人がいるのに感心した。

アイディア例

最終的には、多数出されたアイディアの中から1つまたは2つを投票で選び、それをこれから半年かけてクラブのような形で集まって具体的な計画を経て、実現していく、これがアクションウィークだ。資金がかかるアイディアだと、どのように資金を調達するかアドバイスを出す、技術的な支援が必要なアイディアなら、エキスパートを招いて講習する、などのフォローがベル基金の方から出されることになっている。

生徒から出されたアイディア

滞在中、Schönbergという町でフクシマ原発事故以来、かかさずMahnwache(戒めの集い)を続けてきたグループが私たちを招待してくれたので、キールからフェリーでLaboeまで行き、そこからさらにSchönbergまで向かった。このフクシマ・グループは事故直後はかなりの人数だったというが、今は7人程度、といいながらも毎週欠かさず町の真ん中の商店街の薬局前(ここは屋根があるので雨でも大丈夫)でMahnwacheをしているというので驚いてしまった。薬屋もそれを快く受け入れてくれているということだ。この町は、町長も原発事故後、役所の建物をミーティングで使わせてくれたり好意的だったそうだが、それはここが元原発が稼働していたBrokdorf (Kreis Steinburg)、Brunsbüttel (Kreis Dithmarschen)そしてKrümmel (Kreis Herzogtum Lauenburg)から離れていたからだろうという。最初にメンバーの一人の自宅に伺い、そこで菅野みずえさんが避難の模様を語ったビデオを見せながら少し話をして、それから一緒に食事のできる海岸沿いのレストランに向かった。彼らは、かつて反原発運動がドイツで盛んな頃、よく作られたという「たいらげて退治」しまおう原発お菓子(Schokokussと細長いワッフルクッキーで作ったもの)を持ってきてくれた。私が初めてこれを知ったのは、SNBや私の活動にいつも協力を惜しまずサポートしてくれた大切な友だった今はいないAnnette HackがSNBの集まりに作ってもってきてくれた時だったことを懐かしく思い出した。

食べてなくしてまおう!原発

ドイツの学校は朝の授業開始時間が早く、宿泊しているキールから車で1時間くらいかかる学校もあったため、毎朝かなり早い出発時間だったのが大変だった。でも、首都のキール周辺にアクションウィークに参加する学校が集中してしまわないよう、できるだけシュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校に行けるよう、企画しているのだ。いろいろな教師がいることも、いろいろな学校(その建物、設備、生徒たちの様子なども含め)があることもこの目で見て、改めて勉強になった。そして、携帯(スマホ)の所持を学校内で禁止しているところも少なくなかった。そしてある教師は、ここ数年、TikTok等の影響で、数秒で興味を覚えないものにはすぐに集中力が失せてしまう生徒たちが圧倒的に増え、10年前と同じ授業は今は行えない、と嘆いていた。ここで話をした若者のどれくらいの人たちが、私たちの話を数年経っても覚えているだろうか。何か、心に残ったり、なるほどと思ってくれたことはあっただろうか。あと10年も経たないうちに、この若者たちがドイツで仕事をしていく世代になるのだ。彼らが次の世代を育てるようになる頃には、どういう社会が、どういう環境ができているのだろうか。自分の生きる、自分の大切な人たちが生活する環境、世界をできるだけ安心できる、気持ちのいい場所にしたいというSDGsの理念を、自分で考え、自分で実践していってほしい。そのためにアクションウィークのようなプロジェクトをこれからもあらゆる学校で生徒たちに提供し続けてほしいと思う。(ゆう)

*1 コミックFukushima 3.11(以下のリンクでフランス語・英語・ドイツ語版がダウンロード可)

*2 菅野みずえさんの証言ビデオ

原発事故の強制起訴裁判、最高裁東電元副社長2人を無罪確定

2025年3月6日、日本の最高裁は、メルトダウンを起こし、未曽有の被害、死、をもたらした東京電力福島第1原発事故を巡る、東電旧経営陣の責任を問う刑事裁判で地裁、高裁の判決を認め上告棄却を決定し、旧経営陣の無罪が確定することになった。

旧経営陣を告訴・告発した「福島原発告訴団」の武藤類子団長は、最高裁の上告棄却が決定されてから弁護士とともに記者会見を開いて、悔しさを語った。

武藤類子団長の発表の抜粋

地裁、高栽と全員無罪となりましたが、私たちは最高裁の裁判官としての誇りと最高裁判所という場所の正義に一縷の望みをかけてきました。

刑事告訴するための準備を含めて13年間を費やして夢中で走ってきました。振り返る間もありませんでした。事故から14年が迫る中、その直前の判断は、被害者の気持ちを踏みにじるもので、冷酷さを感じます。

3月11日を目前に控えた今日、このような判断がされたということは、原発事故の被害者を本当に踏み躙るという冷酷さを感じています。どれだけの原発被害者が落胆して憤っているかと思います。

福島原発事故は今も続いています。どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、そしてどれだけの人が人生を狂わされたのか、そして未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか、そして原発事故を起こした企業の経営者の責任を問わないということが、次の原発事故を引き起こす可能性があるということ、それを裁判所が理解してくれなかったということが何よりも悔しくてそして残念です。

私たちはこの判決も司法でこれから問うことはできませんけれども、この判決にはまるで納得していません。これからも、この事故の責任というものは色んな形で問われると思いますので、そういった活動をしていきたいというふうに思っています。

フクシマ原発事故14周年を機に寄せられたフクシマ出身の女性二人のメッセージ

2025年 世界の皆さまへ

揺れ動く世界の情勢に、困惑するばかりの2025年の始まりですが、世界中で脱原発を目指して頑張っておられる皆さまに、心より感謝いたします。

私は、昨年夏に、帰還困難区域に入る機会がありました。過酷な避難の途中で50人以上の患者さんが亡くなった病院は、鬱蒼と繁った樹木と草に覆われていました。老人ホームには、ベッドや紙おむつ、薬、書類などが散乱し、大慌てで避難をしていったそのままの様子が見て取れました。3月11日の食事の献立がホワイトボードに書き残されていました。小学校では小さな木の机の一つ一つに、辞書が置かれていました。ランドセルも靴も絵の具の筆を洗うバケツも、倒れた自転車もヘルメットも、みな置き去りにされたままでした。物音はなく蝉の声だけがあたりを包んでいました。13年前には確かにここには人の暮らしがありました。でも、今は誰もいません。今もそんな場所が存在します。

避難解除された場所に、戻ってくる方々は極少数です。放置せざるを得ない住宅は次々に解体されています。江戸時代に建てられた文化財のような門や蔵などが、解体されているのを見ました。そのすぐそばには災害復興住宅があり、県外からの移住者の子どもたちも住んでいます。住民の方によると、家の中でも事故前の5~10倍の0.3μSv/hだそうです。住宅のフェンスの向こう側は帰還困難区域です。このような住環境は、決して安全とは言えません。

 一方、日本の第7次エネルギー基本計画案では、「原発依存度を減らす」という文言を削除し、原発回帰が色濃く見えています。今も終わらない福島原発事故を経験し、そして昨年の能登半島地震で、もし原発事故が起きたら避難も自宅待機もできないことが明らかになり、それでも尚、原子力をエネルギーとして選択する愚かさが、私には理解できません。

不十分な賠償と責任追及のために沢山の被害者が起こしている裁判は、2022年に最高裁が国の責任を認めない判決を出しました。その後、その最高裁判所判事と東電の癒着がジャーナリストによって明らかになっています。日本の司法はかなり危機的な状況にあります。最高裁判例がその後の下級審の判決に踏襲されるなど、原発事故被害者による裁判は厳しい状況に置かれています

0.7グラムの核燃料デブリの取り出しが成功したと報道されていますが、何度も失敗があり、むしろ高線量の放射能の下での作業の過酷さと、テレスコープ型のデブリ取り出し装置の組み立て作業に東電社員が立ち会い確認をしなかったなど、東電の作業管理の杜撰さを露呈しました。誰もが2051年の廃炉の実現などありえないことを感じているにも関わらず、放射能の減衰期間を置くなどの廃炉のロードマップの見直しはされません。

汚染水を海洋投棄することに強引に着手した東電と国は、次は「復興再生利用」と謳った汚染土の拡散を本格的に推し進めようとしています。特に若い人々に向けて放射能の安全神話と、政府が認めた「科学的」が正しいものだと刷り込むための宣伝事業を繰り広げています。

誰もいなくなった海岸線の土地に、「復興」の掛け声とともに、被害者に本当に必要なものなのかも分からない最先端技術の企業や研究所が、多額の復興予算を使い林立しています。

原発事故とは、暮らしも、故郷も、人権も踏みにじるものです。事故から14年の現状を目にすると、福島はどうなっていくのだろうと途方に暮れるばかりです。

でも、冬の寒さが過ぎ、春の兆しがそこまで来ています。こんな時代だからこそ、心にきれいなものを沢山詰め込み、真実を見抜く涼やかな目を持ちたいです。そして今日も脱原発を粘り強く闘う仲間が世界にはたくさんいることを心強く思いながら、私もできることを続けていきたいと思います。

武藤類子

福島原発告訴団(刑事裁判)代表

ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)代表

このメッセージは5か国語(フランス語、ドイツ語、イタリア語、ルーマニア語)に翻訳され、『よそものネット』のウェブサイトに掲載されています。武藤類子さんからのメッセージ(6カ国語) – yosomono-net

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東電福島原子力惨禍における放射線被ばく被害を避けるため、国内避難を続けている森松明希子と申します。


2011 年3月11日に発生した大震災及びそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故から14 年が経過しました。しかし事故は収束からはほど遠く、世界につながる海、空気、陸地を汚染し続けています。
事故を起こした原子力発電所が「アンダー・コントロール」とは言い難く、この国のリーダーが、誰一人として、その事実を認めていないことに対して憤りを覚えます。14 年経った今なお、放射線被ばくを避けて多くの人々が汚染地から避難を続けている現状があります。政府(復興庁)に登録した避難者数は、分かっているだけでおよそ2万
9,000 人、全国47都道府県全てに今なお存在し(2024 年12 月6日復興庁『全国の避難者数』)、政府の保護や救済を切望し続けています。しかし、発災直後から正確な避難者数が日本政府によって把握されたことは一度もなく、実際には、これより多くの人々が避難を余儀なくされていますが、救済されることはなく苦難の中に今もあります。また、現状を把握しようとしない政府からの支援や保護の措置がないため、したくても避難できない人々が多数存在しています。

私には2人の子どもがいます。震災当時、5ヶ月の赤ん坊と3歳の幼児でした。この14年間、私の夫(子どもたちの父親)は福島県郡山市に、私と子どもたちは大阪市に、離ればなれに住んでいます。このように、強制避難区域に指定されなかった汚染地域に住む人々は、被ばくに脆弱な子どもを守るため、母子だけで線源(汚染地)から離れるという苦肉の策を余儀なくされ、今現在も、多数の母子避難をはじめとする自力避難者が存在しています。


避難できた人も、そうでない人も、東電福島第一原子力発電所事故に由来する放射能汚染から身を守る必要があります。そして、「避難すること」は被ばくから免れ健康を享受するための人として当然の行為です。しかし、日本では、避難者は差別され、いじめの対象になり、「風評加害者」などとレッテルを貼られ、言論の自由まで奪われるという二次被害まで受け続けるという人権侵害の惨状があります。

原子力を推進し、核を手放さないということは、一次的には、望まない被ばくを余儀なくされることであり、二次被害としては、安全な場所に避難するという自らの身を守る権利も剥奪され、さらにそのことに対して抗議するための言論の自由という民主主義の根幹をなす権利をも奪われるということに他なりません。


また、この問題は、福島の人々だけの問題ではないということを強く訴えたいです。核被害の脅威にさらされた時、あなたは被ばくを強いる側に立つのか、それとも被ばくから人々の命と健康を守る側に立つのか、という問いを世界の皆様と共有したいです。

国策で、原子力発電が進められれば、逃げることは簡単に許されず、日本と同じように、原子力を肯定するために、核との共存が可能であると、国は喧伝するでしょう。それは欺瞞でしかありません。

2025 年は、第2次世界大戦終了から80年を迎えます。昨年は、日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、ヒバクシャが世界の舞台でスピーチしたことで「被ばく」に関しても注目されています。今こそ、世界の核被害を訴える人々とつながって、放射線被ばくから免れ命を守る行為が原則であり、それを世界で普遍的な共通認識にすべきと考えます。この普遍的な権利の確立のために福島核災被害者である私もともに声を上げ、闘い続けようと決意も新たにしています。世界中の皆さま、ともに声を上げ続けていきましょう。

2025 年 3月11日

森松明希子
原発賠償関西訴訟原告団代表
原発被害者訴訟原告団全国連絡会共同代表

Dokumentarfilm „Silent Fallout“ (Leiser Fallout, mit deutschem Untertitel)von Hideaki ITO aus Japan anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki

Im August 2025 jähren sich die ersten Atombombenabwürfe auf Hiroshima und Nagasaki zum 80. Mal.


Leider ist die Welt die Angst vor dem Atomkrieg nicht losgeworden, vielmehr ist die Bedrohung heute stärker denn je. Und ohne den Einsatz von Atomwaffen in einem Krieg gibt es seit der Entdeckung der Kernspaltung und der ersten nuklearen Kettenreaktionen überall auf der Erde Strahlenopfer – sei es von Atomtests, von Atomkraftwerken oder vom Uranabbau. Man übersieht meistens die Tatsache, dass man selbst betroffen ist.

Gerade jetzt, wo die Gefahr eines Atomkriegs wieder hoch aktuell geworden ist wie noch nie, ist es von großer Wichtigkeit, uns nochmals bewusst zu machen, was radioaktive Strahlen anrichten können. Um das Thema – anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki – stärker ins Blickfeld zu rücken, schlagen wir Sayonara Nukes Berlin (nachfolgend „SNB“), vor, gemeinsam mit euch eine Filmvorführung zu veranstalten, bei der ein besonderer Dokumentarfilm gezeigt wird, der nun mit deutschen Untertiteln verfügbar ist.


Der Film vom japanischen Filmemacher ITO Hideaki „Silent Fallout“ (Leiser Fallout) taucht tief in die unerzählten Geschichten der Opfer von Atomtests in Amerika ein. 1951 begannen die USA mit Atomwaffentests auf dem Festland und setzten unzählige Bürger einer gefährlichen Strahlung aus. Mary Dickson, die in den 1950er und 1960er Jahren in einem Vorort von Utah aufwuchs, wurde Zeugin, wie ihre Mitschüler in der Grundschule an ungewöhnlichen Krankheiten und Todesfällen starben. Gleichzeitig führte Dr. Louise Reiss in St. Louis, Missouri, eine bahnbrechende Studie durch, bei der sie Milchzähne sammelte und das Vorhandensein von Strontium-90, einem radioaktiven Element, in den Körpern von Kindern nachwies, die der Strahlung in ganz Amerika ausgesetzt waren. Dies veranlasste schließlich Präsident Kennedy zu dem Beschluss, die atmosphärischen Atomtests einzustellen.

Mit Berichten von Betroffenen aus erster Hand und Interviews mit Wissenschaftlern will Filmemacher Ito mit seinem Film das Bewusstsein für das gravierende Problem der Strahlenvergiftung und der nuklearen Verseuchung in den USA und weltweit schärfen. „Silent Fallout“, der die wahre Dimension der weltweiten radioaktiven Verseuchung, insbesondere durch Tests im Pazifischen Ozean und in Russland, aufzeigt, ist ein Muss für jeden, der sich für die dunklen Kapitel der Geschichte und ihre anhaltenden Auswirkungen in der heutigen Zeit interessiert, und bietet eine Fülle wissenschaftlicher und historischer Informationen sowie Berichte der Opfer aus erster Hand. Der gut geschnittene Film hat die Qualität eines guten Erzählfilms und ist ein wirkungsvolles pädagogisches Instrument.


Der Filmemacher Ito verzichtet bewusst auf feste Vorführgebühren, damit möglichst viele Menschen diesen Film anschauen können, aber freut sich über jede Spende von Zuschauergästen und/oder Organisationen, die die Filmvorstellung organisieren. Der Film ist auf Englisch mit deutschen Untertiteln, und ist 70 Minuten lang.


Nach der Vorstellung kann man entweder per Skype oder direkt ein Gespräch mit dem Regisseur (SNB stellt eine Dolmetscherin zur Verfügung) anbieten. Herr Ito plant, im September/Oktober eine Filmvorstellungstour durch Frankreich zu machen und könnte je nach Bedarf und Einladung auch nach Deutschland kommen.


Wir würden uns sehr freuen, wenn möglichst viele Menschen in Deutschland die Gelegenheit bekämen, diesen beeindruckenden Film anzuschauen.


Filmvorführungen können auch in kleineren Rahmen veranstaltet werden, d.h. der Film darf überall, egal in kleineren Gruppen von Menschen, oder in Kinos, Theatern, Universitäten, Schulen, Vereinen oder Firmen gezeigt werden.


Bei Interesse schreibt eine Mail an:
Silent Fallout promotion team in Europa: (SilentFallout_projection_eu@protonmail.com )

Filmemacher Hideaki ITO:
Geboren 1960 in Japan. Seit 1990er Jahren ist er als Filmemacher tätig. 2004 fing er an, über die Fischerboote Japans zu berichten, die 1954 im Pazifik verstrahlt worden waren im Zuge der Atomtests durch die USA im Bikini Atoll, und seitdem setzt er sich mit dem Thema Strahlenopfer auseinander. Der Dokumentarfilm „Silent Fallout“ aus dem Jahr 2022 ist sein dritter Film über dieses Thema. Er wurde in den USA erstmal beim Hampton International Film Festival gezeigt und bereits mit mehreren Preisen ausgezeichnet.

ドイツ- 核のゴミをめぐる抵抗の歴史と現状@zoom茶話会のご案内

脱原発は達成したけれど、まだまだ未解決の問題に溢れているドイツ。SNBメンバーの梶川ゆうがドイツの核のゴミ処分場問題について、現場を視察した情報を交えながらお話します。ぜひご参加ください。 

日時:2024年10月27日(日)19:00~21:00(+交流会)
会場:Zoom
主催:さよなら原発神戸アクション 
参加費:無料(カンパ歓迎)
申し込み:要(下記リンクをご利用ください。)

■お申し込みはこちらから↓(申し込み締め切りは、10月25日です)
https://docs.google.com/…/1FAIpQLSdSZHgblsVU6L…/viewform 

梶川ゆうのプロフィール:
フリー翻訳家、在独37年。ベルリンの日本人反原発グループSayonara Nukes Berlinを中心に活動。

ゆうからのメッセージ:
日本から9千キロも離れたドイツはフクシマ原発事故後「脱原発」を決定し、ついに去年2023年4月に達成されました。しかし、高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトはまだ見つかっておらず、中・低レベル放射性廃棄物の方は処分場建設がすでに始まっているものの、問題は山積みで、予定通り運転開始できそうにありません。条件を満たす最終処分場が完成し、運転開始するまでは、高レベルも中・低レベルも、廃棄物はしっかり遮蔽した状態で中間貯蔵施設に保管しなければなりませんが、最終処分場がいつまでもできないため、耐用年数が数十年しかない中間貯蔵施設に、しかも輸送と短期保管用にしか作られていない容器に入れられたまま、半永久的に保管される可能性があります。このように核の負の遺産をめぐって、市民運動が全国各地で続けられています。
中でも、長い間高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイトに指定されながらもずっと抵抗運動を続け、とうとうサイト候補から取り外させることに成功したゴアレーベンの市民運動は、あらゆる市民運動のあり方に大きな影響を与えました。そのゴアレーベンの抵抗運動の話と、その他の核のゴミの処分場をめぐる問題と現状について、報告します。

■お申し込み後、フォームへ記載されたメールアドレスに自動返信機能で返信がいきます。
スマホのメールには自動返信のメールが送信されない場合がありますが、前日までに、ZOOMのアドレス、ID、パスコードをお知らせしますので、その案内が未着の場合は、下記のメールアドレスにメールください。
お問い合わせ:nonukekobe311★gmail.com
(上記のメールアドレスの★の部分は@に変えてください)

■タイムテーブル予定■
18:50 入室開始
19:00 はじめのあいさつ
19:10~20:30 梶川ゆうさんのお話 
20:30~20:35 休憩 
20:35~20:55 Q&A 
20:55~21:00 おわりのあいさつ
21時以降交流会を予定しています。

【カンパ歓迎】振込口座 郵便振替 00900-8-110030 神戸ネットワーク
※通信欄に<カンパ>と書いてください。

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