Les Résistantes „Rencontres des Luttes locales et globales” ‐Terres de Luttes
2022年8月に私は、フランスで高レベル放射性廃棄物最終処分場が計画されているビュールで行われた大きなビュールレスク反核・反原発フェスティバルに参加したが(報告記事:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2022/08/18/%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%82%af%e8%a8%aa%e5%95%8f%e8%a8%98/)、2025年の今年は、反核・反原発というテーマだけにとどまらず、現在世界で起きているあらゆる社会的政治的軍事的人道的環境・生態的問題点を取り上げ闘い、運動しているグループ、団体を総動員して「レジスタント」(抵抗運動自体は「レジスタンス」だが、レジスタントというのは抵抗するの形容詞でもあり、抵抗する強さ、堅牢さも指し、さらに抵抗する人たちのグループ、という意味にもなる。ただし、なぜ女性系の複数なのかははっきりしない。「闘い」が女性だからか?)という名のフェスティバルに参加した。これは、フランスのノルマンディー地方オルヌ県のサン・イレール・ド・ブリウーズという田舎の村で市民グループTerres de Luttes(土地を守る闘い、とでも訳すか)を主とする主催者により催された。このグループは、土地を不毛にするだけで、自然(大地)にとってもそこで生を営む人々や生物、植物、環境にとっても有害ばかりで無益、反民主的な大計画(土地整備・開発)に反対する各地の草の根の運動の間をつなげ、ノウハウを共有して連帯しているネットワークのような集まりといえようか。
どんな発想から始まったかは知る由もないが、最終的に計画実行されたのは大規模な市民フェスティバルで、これだけたくさんのテント会場や駐車場などを仮設する土地を見つけるのは容易ではなかったはずだ。だから実際に、会場のすぐ隣に駐車場が作れなかったなどの問題点もあり、大きな酪農地をもっている農家の人が提供した土地(通常は牛が放牧される場所)で、開催が可能となったと聞いた。
以下がそのプロモーション動画:
3年前私が参加したビュールレスクの開催に協力したフランスの最大反核団体ネットワークであるRéseau Sortir du Nucléaireがこのレジスタントにも協力団体に入っていたため、反核・反原発テーマももちろん「抵抗運動」としてここで取り上げられていた(ちなみに、このネットワークも含む反原発・反核・処分場反対等の各団体は今年も共同で、9月にビュール地方で規模は3年前よりは小さいものの、最終処分場計画に反対するマニフェストアクションを計画している:La manif du futur : à Bure contre la poubelle nucléaire)
信じられないほどのたくさんのイベント(ディスカッション、展示パネル、各グループのインフォスタンド、アクション、映画上映、芝居などなど)がいくつも同時進行であらゆるテントや野外で行われ、その数も種類もあまりにたくさんで、プログラムもはっきり言って見にくく、どこで何が行われていて、自分は何を見たいか、何に興味があるかを探し出すのも一苦労なのは確かだった。それにこのフェスティバルは8月7日(木)から始まり、8月10日(日)まで続いたのだが、そこにその間訪れた人たちの数は合計で約7500人(主催者側の発表)ということもあって、野外トイレの設置や食事や飲み物の提供、子どもの遊び場、救急医療体制、音響技術、はたまた最寄りの駅からの送迎バス(最寄りの駅からはかなり何キロもある)、駐車場(いくつかに分かれている)のロジスティクス、その案内・門番係だけでもたくさんのボランティアを総動員しての大イベントだった。

広いフェスティバル会場にはいくつもの大きなイベント用テントが 建てられていた
私は前回ビュールレスクを訪問した時のように、フランスのよそものフランスのパリのグループ数人と、遠くの隣人3.11のグループ数人とでパリで合流し、2台の車(1台はよそものメンバーの一人の自家用車、1台はレンタカー。車がないとフェスティバルの場所と借りていた休暇用貸家との往復や買い物などができないため)にブースで使う折り畳みの机や椅子、横断幕、資料と私たちの荷物を載せ、さらに4人は電車でノルマンディー地方のArgentanという駅まで向かった。
ここでは、上記のフランスの最大脱原発ネットワークRéseau Sortir du NucléaireとTerres de Luttesにより今回、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年ということで、広島平和記念資料館資料調査研究会委員、都立第五福竜丸展示館専門委員も務める奈良大学文学部史学科の高橋博子教授が招かれていた。それで私も彼女と知り合いになる機会に恵まれ、一緒に時間を過ごし、お話をうかがうことができた。彼女はヒロシマ・ナガサキ原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証という研究を続けてきた方だ(著書に「封印されたヒロシマ・ナガサキ: 米核実験と民間防衛計画」、「核時代の神話と虚像――原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史」など)。
このフェスティバルでは、高橋氏の演説、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というタイトルでの円卓会議への高橋氏の出席、長崎原爆忌である9日の朝は、(私も秋にドイツで上映会を予定している)伊東英朗監督の映画「Silent Fallout」のフランス語字幕付きの上映会(その後の討論に高橋さんが参加)が予定されていた。そのほか、よそものフランスが、広島平和記念資料館、長崎原爆死没者追悼平和祈念館から被爆者が描いた絵を選んでデータとして借り出し、それをA2の大きさにきれいにプリントアウトしてラミネート加工し、キャプションも丁寧に翻訳して、フェスティバル開催中誰もが見られるように展示されることになっていた。
残念ながらパリからArgentanの駅に到着して、駅前で車組と電車組が合流して昼食を取った最初の日から私たちは不運が続いた。2台の車のうち、1台はフェスティバルの会場でよそものフランスと遠くの隣人3.11の共同ブースの設置や、被爆者の絵の展示の準備に会場に向かい、もう1台は食料の買い出しをしてから高橋さんを宿泊先に送り届け、私たちの宿泊先にもチェックインする予定だったのだが、あいにくこのレンタカーが故障してしまい、道中レッカー車を手配して運び込まれることとなった。
私はフェスティバルに向かう組だったが、駐車場の標識がわかりにくく、また駐車場自体が会場からとても遠くて、会場設置用の荷物があるから、入り口まで行かせてほしいという頼みも剣もほろろと厳重に断られ、私たちはなんの陰もない田舎道や土地を強い日差しと高い気温の中、えんえんと歩かされる羽目となった。駐車場からこれだけ歩かされるのでは、若い人はともかく、年配の方やハンディキャップのある方たち、ベビーカー連れの家族などはどんなに大変か、と思われる感じで、しかも人によって説明や指示が異なったり、コミュニケーションが全体に行き通っていないのを感じた。入り口にたどり着いても、そこから反核・反原発・放射性廃棄物処分場建設反対の団体が集まっているブース用テントまで標識もない中をかなり歩き、やっと着いた時には私は半分熱中症になった感じで、しばらく日陰で腰をおろして休憩しなければならなかったが、飛幡祐規さんははるばるパリから車を運転しただけでなく、何度も遠い駐車場から会場を行ったり来たりし、関係者と交渉し、役立たずの私とはまったく対照的な活躍ぶりだったが、この彼女の精力的な活躍は、最後パリに帰り着くまで続いた。

駐車場から会場入り口までなかなか到着しない長い道のりで、 「あともうちょっとだよ」という標識が出た時は思わず失笑
一方、同じころレンタカーが買い物をした後で故障してしまった車組は、車を脇道に入れたまま、レンタカーに連絡したもののレッカー車が来るまで、結局何時間も待たされていたのだった。そんなつもりではなかったため、皆がわずかな飲料水しか持っていなくて、暑い中を杉田さんが最後まで持っていた少ない水筒の残りを皆で分け合いながら飲んだということだった。
というわけですっかり恵まれない星の下で私たちのレジスタントフェスティバルは始まった。次の日、金曜の高橋さんも出席する「円卓会議」(テーマ:「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」)は夕方から開始だということで、金曜はゆっくりでかけた。被爆者の絵の展示は、展示用のイーゼルを真似たスタンドが木曜はしっかりできあがっていなかったのだが、それも完成し、見事に並び、思わず立ち止まって説明を読み、絵に見入ってしまう、といった人たちがフェスティバル開催中、続いた。これは私もぜひベルリンでも原爆投下から80周年の今年、実現したかったのだが、ICANやIPPNW、ICBUWなどとも相談したのだが、展示する場所も資金もなく、あきらめたものだ。やはり原爆投下後の写真や被爆者の写真とは違い、実際に被爆した人たちがその体験を絵に描いたものというのはまた別の大きく人の心を揺さぶるものがある。そして大切なのはそれぞれの絵についているキャプションで、そこにその絵をめぐるストーリーが隠れている。広島平和記念資料館と長崎原爆死没者追悼平和祈念館のウェブサイトで見ることのできるたくさんのイメージデータの中から、力強い絵を何枚も選び出し、それをデータとしてプリントアウトし、キャプションも丁寧に翻訳してこれだけ力強い展示会を実現したよそものフランスのメンバーを称えたいと思う。


圧巻だった被爆者の絵の展示。たくさんの訪問者が足を止めて じっくり見て、説明を読んでいた
次の金曜日に行われた「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマの円卓会議には、もともと予定されていた最初のコンセプトからどんどん変わってしまい、会議に並ぶ面々もかなり増えてしまった、という話を聞いていた。それにしても、テーマもさることながら、きっと自分たちの応援するグループの誰かが出席している、などの理由か、会場は開始前からあふれるほどの人々が入り込み、席が足りずに地面にじかに座り込む若者たちも大勢いた。高橋さんだけがフランス以外から来た方として壇上に並び、彼女は英語で発言するため、同時通訳用のイヤホンなどが貸し出され、ブースにも同時通訳の人たちが並んだ。これだけ盛況に始まったのはいいが、実際に見せられたものは円卓会議でもパネルディスカッションでもなんでもなかった。私のフランス語ヒアリング能力では残念ながらすべてを理解することはできなくて、完全にいろいろな内容が把握できたわけでも、各グループの背景などがわかっていたわけでもないので、後から情報をよそものフランスの飛幡祐規さんや遠くの隣人3.11の杉田くるみさんに補ってもらったことを、ここに記しておく。
モデレーションをすることになっていた男性はいたのだが、その彼も、舞台正面のテーブルに所狭しと座っていた円卓会議「発言者たち」も、自分が参加している、または率先して行っている「闘争」について饒舌にまくしたてるだけで、「世界の再軍備」という本来のテーマで、その数々の世界における武力衝突、戦争、植民地主義的・帝国主義的・構造的レイシズムを推し進めるような政策の共通点や違いを比べることも、根本にある共通の問題を問うこともなく、どう異なる場所や問題を超えてお互いに連帯しあい、「再軍備」を超越することが可能か、という話にはいっさいならなかった。
大体、司会者であるはずの人がいっさいモデレートすることなく、わざわざ日本から招待されてここまで来た高橋氏をしっかり紹介することも、彼女がこの「再軍備」のテーマの円卓会議で発言をすることの意味を語ることもなく、たくさんの世界各地の現在の「武力衝突・戦争に対する市民闘争」をしている人たちの話から浮き上がってしまう形になってしまったことがとても残念だった。しかも、彼女はこのフェスティバルで演説するために、彼女の今回の発言内容はすでに用意されていた英語のテキストが渡されてあったにもかかわらず、同時通訳者はそれをまったく読んでも準備してもいなくて、高橋氏の英語での発言の仏訳は間違いだらけだったと、飛幡祐規さんが嘆いていた。高橋さんの横に座って彼女の次に話をしたのが、Patrice Bouveret氏 (グループObservatoire des armements代表、武装監視市民グループとでも訳すか)だったが、彼の話が唯一、この円卓会議発言者の中で高橋さんおよびテーマに繋がる話をしたと私は理解した。
この司会をしなかった司会者はCoalition Guerre à la guerre(戦争に対する戦争連合、とても訳すか)という連合の代表で研究者のMathieu Rigouste氏という人で、現在は、植民地支配で培われてきた軍や警察の抑圧的暴力的な取り締まり方法が、治安問題における国内の「敵」に対して使われるようになっている、という視点から反軍備、反軍拡を主張しているようだ。このGuerre à la guerre(戦争に対する戦争)というのはもともと、アメリカの哲学者William Jamesが19世紀後半に確立した表現「War against war」の仏訳だ。この表現に対するWikipediaの英語版を読んでいたら、これは20世紀初頭にヨーロッパでも平和主義・反戦運動のスローガンとなった表現であり、平和主義アナキストだったドイツの作家Ernst Friedrichは、これに同調して「Krieg dem Kriege」というタイトルで1925年にパンフレットを出版し、この翻訳がヨーロッパ中に広がったという。彼は1924年にベルリンで反戦博物館(Antikriegsmuseum)を開館し、新しいラジカルな抵抗運動を提唱したという。もちろんこの博物館はナチス台頭でヒットラーが政権を取った1933年に破壊され、Friedrichもベルギーに逃亡せざるを得なかったようだが、彼はWar Against Warというタイトルで本まで出版している。(詳しくはこちらを参照:https://en.wikipedia.org/wiki/War_against_war)
ここで提唱された理想を継承する形で、現在ウクライナやパレスチナでの戦争をきっかけに、フランスやEU、そして世界全体が軍拡に舵を切っている状況に対し、これではいけない、その傾向に抵抗していかなければならない、と左派の団体や個人が集まってできたのがこの新しいGuerre à la guerreという連合だそうだ。ここに、反核・反原発の運動も参加すべきだという指摘があり、それに賛同するグループが加わっていくことになったらしい。ただ、この円卓会議はもともと、フランスで反核・反軍備をずっとやってきた前述の武装監視市民グループ(Observatoire de armements)の代表と高橋博子さんが中心になって進めるという計画だったはずなのに、Guerre à la guerreの運動が結びついたことで、この連合の中心的存在であるSoulèvements de la terre(大地の蜂起、とでも訳すか)連帯グループの人たちに、ある意味乗っ取られてしまった感じらしい。それで私の耳にも繰り返し「Guerre à la guerre」という言葉が聴こえた理由も納得できた。ただし、戦争、武装、軍拡に対し、どのように闘い、それを抑止、または縮小して平和への道を築いていけるかどうかのビジョンや、あらゆる武力闘争・戦争の共通の問題を問いただす視線は、ここでは覗えなかったと思う。


名ばかりの円卓会議は超満員だった
とにかく、この名ばかりの「円卓会議」で、唯一遠い国からはるばる招かれてきていて、フランス語話者ではない高橋さんだけが異様に浮く場となってしまったのは、この円卓会議の主催者と司会の完全な失敗であり、高橋氏に対してとても失礼な扱いでもあっただけでなく、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマにふさわしくないイベントとなってしまった。今、世界各地でどんどん進められている再軍備・軍拡の共通の問題を問いただし、どうやってそうでない平和運動を目指すことが可能か、なにを互いの闘いから学ぶことができるか、どんな歴史からの教訓があるか、議論することができれば意味があっただろうし、すばらしい機会であったはずなのに、残念だったとしかいいようがない。
ただ最後まで耳に残ったのは、「Guerre à la guerre」だった。私は個人的には、Antikrieg、反戦、反暴力、反武装はもっともだが、戦争に対しても戦争・闘い、という表現を用いるのに抵抗がある。この表現には武力的、暴力的な印象があり、不適切に聞こえ、自分では使いたくないと思うのだ。Krieg dem Kriege、戦争に対する戦争、と言ったところで、具体的になにを示すのか? 戦争をやめるためには手段を択ばない、という立場には私にはなれない。戦争をやめるために暗殺やテロ行為を認めるわけにはいかない。「Guerre à la guerre」に参加している人たちがそういうことを主張しているというわけではもちろんないが、戦争に反対するばかりにそれに対し戦争を宣言してしまうと、そういうラジカルなものも許してしまうニュアンスが生まれてしまうので、私にはあまり使いたくない表現だ。とにかく、この「円卓」ならぬ円卓会議は、私にはとても不満なままで終わった。
次の日、8月9日は朝早くからドキュメンタリー映画「サイレント・フォールアウト」(伊東英朗監督)の上映が行われた。これは、私も10月からドイツ各地で上映会を行うべくドイツ語字幕版を作ってプロモーションしている映画だが、フランスでは遠くの隣人3.11.がフランス語字幕版を作り、フランス各地で上映会を行っており、このフェスティバルでもその上映会が実現したのだった。遠くの隣人3.11のメンバーである杉田くるみさんが司会をし、上映後は高橋博子氏がこの映画のテーマ、背景の解説者として話をした。
マンハッタン計画ですでにアメリカ軍は放射線兵器開発をして、人体実験もしていたこと、だからこそ放射能フォールアウトの問題性をアメリカは世界に知られては困ると、できるだけ放射能の影響を矮小化し、隠蔽しようとしていたこと、ABCCも米エネルギー省が管轄していたもので、ヒロシマ・ナガサキでの原爆投下後の調査も、その後のマーシャル諸島での一連の核兵器実験での調査も、次の核戦争の準備のために行われていたのだという、高橋さんの研究結果を踏まえた話が力強く語られた。

左から:ICAN FRANCEのJean-Marie Collin氏、よそものフランスの 飛幡祐規さん、奈良大学の高橋博子さん、遠くの隣人3.11の杉田くるみさん
また、この映画にでてきたように、乳歯を集めることでかなりのフォールアウトの分析ができるのに、それをフクシマ原発事故後に始めようと言い出した人が当初は自民党の福島県議員にさえいたのに、その後その話は姿を消していき、「乳歯を集めることの意味のなさ」を説明する話に取り替わって、福島県を中心に乳歯を集めるという企画は水に流されたことも、話してくれた。「サイレント・フォールアウト」はまさに、アメリカ本土でのアメリカによる核実験による放射能汚染とその影響を調べるために、大々的に乳歯を集めたプロジェクトをある女性医師がイニシアチブを取って始め、分析を可能にしたことを土台にしたドキュメンタリー映画なので、高橋さんの解説はとても大切な補足情報となった。
そしてこの映画は、女性たち(母親)が子どもを守ろうとして立ち上がったことを示すものでもあるが、司会の杉田くるみさんが、日本のフクシマ原発事故後も、母親である女性が主に、子どもたちを放射能から守ろうと、夫(子供の父親)と離れ離れになろうとも自己避難し、一人で故郷を離れ子どもと新生活を始め、差別や非難に晒されても、国・自治体や東電からの援助や損害賠償の欠乏にも耐え、それでも子どもがさらなる差別に遭わないようにとできるだけ名前を表に出さないようにし、子どもを支えながら事故発生後からずっと頑張ってきている、その女性たちに対し大いなる尊敬の意を表したい、と語り、会場の拍手を買ったが、私もまったく同感である。
また、ヒロシマ・ナガサキや、サイレント・フォールアウトに出てきたアメリカによる核実験による被害の話だけでなく、ICAN Franceの男性が、フランスがアルジェリアや南ポリネシア、ムルロア環礁でおこなった核実験の被害についても語って、情報を補足したのは、とてもよかったと思う。
正午になって、たくさんのフェスティバル参加者たちが昼食のための長い行列を作る横で、原爆投下から80年を記念したアクション行列に私も参加し、横断幕を掲げながらフランスのICANなどを始めとする運動家たちと一緒に練り歩いた。ここでは、スティルツ(竹馬のようなもの)で背を高くし、仮面を被った「死神」が鎌で人をどんどん打ち倒していく(要するに倒された人たちはそこでダイイン)というパフォーマンスや、招かれた舞踏家のダンスなどがあった。よそものフランスにいた、今は亡くなってしまったメンバーの一人が、毛糸の残りなどを使って編み、さらに刺繍やパッチワークをして作ったという、オリジナルの素晴らしい編み物横断幕があり、私もそれを持たせてもらって一緒に行進した。この横断幕はそれだけで十分にアート作品なので、たくさんの人が写真を撮っていた。ただ、この日も昼間はものすごく暑く、さらに会場はテントを出ると日陰というものが一切ないので、この日帽子を宿に忘れていった私としてはなかなか辛かった。

夜は、毎晩いくつものテントで遅くまであらゆるコンサートが開かれているようだったが、9日の夜はLGBTQ+の人たちが多いパンクロックといった感じのコンサートがあり、そこでコンサートの合間に高橋さんを舞台に登場させて演説してもらう予定だという。それからその頃、会場のどこかで、原爆投下80年を記念して、ランタンを空に昇らせる、ということだった。最初はどの程度の規模のものなのか、高橋さんの演説がそんなコンサートの会場で聞く耳をもたれるのか、疑問だったのだが、蓋を開けてみたら、それは素晴らしい驚きとなった。
皆が熱狂して踊っているコンサート会場で、舞台のバンドが休憩で引っ込むと同時に、高橋さんを紹介すると言って、その前から高橋さんのプロフィールなどを彼女に直接インタビューして話を聞いていた若いタトゥーも見事な男性(彼もクイアかな)が、それまでに音楽に酔っていた会場の聴衆の熱を冷まさずに、ラップとも思われるノリで高橋さんを紹介し、彼女と通訳の飛幡祐規さんを舞台に呼んだ。そこで熱狂的な拍手と歓声で迎えられた二人は、レジスタント・フェスティバルのトレードマークである拳を上げている「抵抗」のロゴが背後にそびえる舞台で、力強い演説を行った。高橋さんもその熱い歓迎に応えて、演説の前に「音楽がレジスタンスであることがよくわかりました!」と英語でいうと、観衆はまた熱烈な歓声で応えた。それから高橋さんが用意してあった演説(彼女の演説はこちら:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2025/08/11/80-jahrestag-der-atombombenabwurfe-auf-hiroshima-und-nagasaki-august-2025/)を区切りながら読み、その仏訳を飛幡さんが読んだのだが、その区切りのたびに観衆は最後まで歓声や指笛で応酬していて、こんなにこの反核テーマで盛り上がった演説はこれまでになかったのでは、と思えた。

熱狂に包まれたコンサート会場での高橋博子氏の演説
高橋さんの演説をこのコンサートの合間にするというアイディアは、ビュールで最終処分場計画に反対するグループで活躍しているアンジェルという女性が強く推したからだそうだが、単に「世界初の原爆投下から80年を記念して」というタイトルでは決してこれだけの人が集まらないことが安易に予想されるだけ、こういうところで演説をさせることによって、こういうところでなければ、きっとこのテーマに関する演説を聞くことはなかっただろうというタイプの若者たちにも耳を傾けてもらうチャンスとなったので、まさに大当たりのアイディアだった。ここにいた人たちも、マイノリティーとして差別や弾圧、人権問題に敏感にならざるを得ない当事者であることが多いと考えられ、それだけに高橋さんのスピーチが受け入れられたのかもしれない。

ちょうど高橋さんが舞台で熱狂的な応酬を得ながら演説していているときに、大きな気球が「No Nukes」と日本語で「脱原発」と書かれた垂れ幕を付けて空に上がった。それから、紙のランタンがいくつもいくつも上げられていくのが見えた。高橋さんが拍手喝采を得て演説から戻ったときには、彼女の出番をコーディネートしてくれていた若い女性が「高橋さんが見られるように、最後の2つを取ってあるから、ぜひ一緒にきて」といって私たちをランタンを飛ばしている、少し離れた場所まで連れて行ってくれた。そこで、私たちは高橋さんとともに最後の2つのランタンに火を点けて、空に飛ばすのを体験できたのだった。レンタカーが故障して車が1台しかなくなり、移動が難しくなった私たちを助けて、車での送迎を引き受けてくれていたGuyさんという主催者の一人の男性が、その最後のランタンが空に昇るときに「No more Hiroshima Nagasaki, plus jamais ça!」としっかり声を上げていたのが嬉しかった。

このように、最初はかなり印象が悪く、悪運も続いて始まったレジスタンス・フェスティバルだったが、この9日は長丁場の一日で疲れたことは疲れたが、とてもいい結果となり、高橋さんもわざわざ訪れた甲斐があり、とても喜んでいた。このコンサート会場での演説は、忘れがたい思い出となった。全体的には、確かに問題点が多く残り、不消化気味の、オーガナイズが今一つよくない、大きくなり過ぎたフェスティバル、という印象は残ったが、あらゆる「抵抗運動」を1か所に集めて提示する、というのは興味深い試みだと思う。それも、これだけあらゆる問題が満載している今の世界では、そういう俯瞰図的な視野、全体像を見る試みは必要なはずだ。抵抗しなければならない問題、対処していかなければならない問題は、山積みにあり、増える一方だ。
これまでにもずっとあったあらゆる環境問題は悪化の一途をたどっており、解決されない原発や核廃棄物とその最終処分場計画問題に加え、ウクライナやガザ、スーダンなどで現実に悲劇となっている戦争の実態、それにともなう世界の武装強化、はたまた当たり前のように議論され始めたヨーロッパ独自の核の傘構想がある。あっという間に軍事費のGNPに対するパーセンテージが各国で吊り上がったことは言及するまでもない。同時に気候変動は確実に進んでおり、あらゆる土地の砂漠化、森林火事の増加(ちょうどこのフェスティバルの間も、南フランスの各地で大きな森林火事がニュースとなっていた)洪水や水不足、猛暑記録の更新などは日常茶飯事だ。それなのに、相変わらず石油や石炭は惜しまず使われており、土の地面をコンクリート舗装して覆い、断熱対策をきちんとしないまま大都市のヒートアイランド現象は増加している。飛行機のCO2 の排出量が高いことは知られているのに、ローコストキャリアの運航サービスで、鉄道よりも安上がりに観光のための長距離旅行ができるシステムはいまだに変わらない。グリーンディールとしてEUがかつて掲げていたあらゆるエネルギーシフトのための政策はどんどん骨抜きとなっていっている。
レジスタント直後に開かれていた、プラスチック環境汚染を規制するための国際プラスチック条約交渉も、合意に至らなかった。気候変動の対策に関する各国、EUまたは世界のコンセンサスもできないまま、さらにたくさんの人命を奪い、その人たちの築いている生活、社会、生命線、インフラストラクチャー、住居、農地を夥しいエネルギーを使って破壊する戦争が各地で続けられており、それらに私たちはなんらかの形で望む望まないにかかわらず加担させられている。性暴力、あらゆるマイノリティに対する差別、人権問題、レイシズム、女性蔑視、LGBTQ+差別、そして新植民地主義的思想や支配構造もなくならない。
そして、市民が「抵抗」せずにいられないのは、一部の独裁者、権力者、資産家、グローバル企業などが自分たちの利害獲得や維持のために、環境・生態系を破壊し、資源を独占・消耗し、社会・共同体を破壊し、権力・軍事・経済力で人々の生命を殺傷し、生活手段を奪い、貧困や飢餓を招き、経済的精神的なトラウマを生み出し、一方でその罪も自らもたらした加害の事実も認めないばかりでなく、あらゆる影響・損害を矮小化し、黙殺し、なかったことにするか事実を書き換えようとすることがあらゆる場所とレベルで行われてきて、それに声を上げずにはいられないからだ。そういう意味で、私たちは「抵抗」し、闘って解放と変革・改善を求めていかなければいけないものに囲まれて生きているともいえるし、同時にあらゆる異質の抵抗がその根元で、同等であるべき人間の尊厳に関する「人権問題」なのだということもできる。だからこそ、このフェスティバルのようなありとあらゆる「抵抗」運動を集めて一緒に問題提起しよう、連帯しよう、交流を深めよう、という試みはとても意義あることだと、私は思う。ただ同時に、これだけ多彩多様な運動、グループ、市民たちを集めるだけの意義にふさわしい、交流・発表・マニフェスト・話し合いを可能にするためには、それなりのモデレーションとビジョン、方向性、シナリオが必要だと感じた。

手作りのベンチにはリラックスのシンボルと 抵抗の拳のシンボルが両方描かれている
私の知る限り、まだドイツではこのようにあらゆる抵抗運動を1つに集中させてフェスティバルの様な場で集まり交流し、意見・情報交換しよう、という試みはまだ行われていない。オーガナイズはかなりカオティックではあったが、それでもこれだけボランティアを集め、あらゆる企画を実現させ、合計7500人もの参加者を集めたのは凄いことだ。資金もかなり必要だっただろうし、ボランティアの数は約2500人いたという。こうしたアクションに情熱をかけ、エネルギーと時間を注いで頑張る人たち(特に若者たち)がこんなにもいることが、まさに今、日々少なくなってきている希望の光であると思った。この光がたくましく育つよう、私も非力ながら私なりの努力を今後も続けていきたいと思った。(ゆう)

















