Category Archives: 原子力映画評

2020年国際ウラン映画祭@ベルリン(10月15日~18日)

今年のIUFFポスター

2019年は十分な資金が集まらなかったこともありベルリンでの開催が見送られた国際ウラン映画祭だが、今年2020年はコロナ禍にもかかわらず無事にオープニングにこぎつけ、18日に終了した。

2010年にブラジルに住むドイツ人ジャーナリストNorbert Suchanekと彼のパートナーMarcia Gomes de Oliveiraがリオデジャネイロで創立した国際ウラン映画祭(IUFF)は、ウラン採掘から原子力、核兵器、放射性廃棄物に至るまで、原子の鎖に関わる(批判的)映画ばかりを集めた世界で唯一の映画祭である。ベルリンでもここ数年毎年開催され、最近ではオープニングと閉会式はベルリンの大プラネタリウムで行われてきたのだが、今年はコロナ禍のためプラネタリウムからはキャンセルされ、Prenzlauer BergのKulturbrauereiの映画館内だけでの開催となった。

今回の映画からいくつか紹介する。

「Vom Sinn des Ganzen」の1シーン

オープニングで上映された映画は、この映画祭で何度もオープニングなどの司会を務めてきたClaus Biegert(ドイツのジャーナリスト。1992年に世界会議Uranium Hearing をザルツブルクで創立し、Nuclear-Free Future Award Foundation基金によるNuclear-Free Future Awardを設立、1998年以来毎年世界各地で核兵器・原子力エネルギーのない世界のために貢献している人たちを選んで授与している)による新作ドキュメンタリー映画「Vom Sinn des Ganzen(全体の意味)」だった。これはドイツの物理学者兼平和運動家Hans-Peter Dürrの功績に光を当てた映画だが、私はこの素晴らしい人物のことをあまりに知らなかったため、すごく感銘を受けることとなった。Dürrはドイツの原爆開発チームにも加わっていた物理学者Werner Heisenbergからマックスプランク研究所の後任者として指名された物理学者だが、1987年にStarnbergでGlobal Challenges Network e.V. というNGOを創立し、自然環境を脅かす数々の問題を克服するために建設的に共同で作業する企業と団体・グループによるネットワークを作った。ゲッティンゲン宣言という有名な科学者・研究者によるマニフェストがある。これは1957年に、当時のアデナウァー首相と防衛大臣シュトラウスが、ドイツも核武装すべきだとしていた考えに反対し、核武装を認めれば、世界中での緊張感が増し核武装競争がさらにひどくなるだけだと科学者たちがドイツの核武装政策に全面的に反対したのだが、Dürrはその意志を継ぐだけでなく、戦略的防衛イニシアティブという考えに対する批判を続け、技術開発は平和目的のためにしか利用されるべきでないという立場を崩さなかったために、Right Livelihood Award(第二のノーベル賞ともいわれる)を受賞したばかりか、1995年にはノーベル平和賞も受賞している。核戦争の恐れが実際にあった時から心ある科学者として当然のあり方として平和運動を熱心に続けてきた彼だが、物理学者だからこそ持ちえたのかもしれない崇高な哲学・自然観を身に着けていたのがDürrだった。2005年には彼は仲間とPotsdamer Manifest「ポツダムマニフェスト」を発表したが、ここでの彼の核となる訴えは「We have to learn to think in a new way」(私たちは新しい別の考え方を学ぶ必要がある)、我々はこれまで「思考」の中に嵌り込み、にっちもさっちもいかなくなってしまっている、しかし新しい思考法が生まれなければ新生もありえない、人生をもっと生気に満ちたもの、持続可能なものにしていくにはどうすればいいのか真剣に考えていかなければならない、これまでのようにただ自然、地球の資源をどんどん使い、あらゆる人間の多様性、生活様式を踏みにじっていくのでは先が見えている、量子物理学の進歩で得られた新しい見識をもとに、脅威を沈静し、問題を解決して新しい方向へ向かっていかなければならない、ということであり、どういう方向に向かっていくべきか、そのために科学者たちがどう研究を続けていくべきかを2005年にすでに明確に訴えている。そして彼は「物質というのは本当はないんだ、あるのは凍り付いた光だけだ」ということを物理学者として主張し、仏教的哲学にも通じた世界観を持っていた。そしてそのために生気ある、楽しい、喜ばしいものとして人生を「祝って」いた。彼は友だちと集まって踊り、歌い、そしてよりよい世界のためにあらゆる人と議論を交わし、当時の平和運動に大きなインスピレーションと影響を与えた。映画を作ったClaus Biegertは実際にDürrが亡くなる数年前に長くインタビューをしていたため、たくさんの撮影フィルムがあり、それを使いながら、また新たに彼の人生のパートナーであるアメリカ人の夫人や、彼と一緒に研究や運動をしてきた人たちにインタビューし、Dürrの人柄と功績が目の前に甦るように作られている。最後に、ドイツでは有名なシンガーソングライターのKonstantin Weckerを訪ね、彼がDürrの言葉を歌詞にして作った歌を披露している。長くなったが、このドキュメンタリー映画で初めてDürrの人柄や哲学について知った私は、市民の運動のあり方、その背後の考え方、そして人としての生き方に関しても感銘を受け、とてもインスピレーションを受けた。Claus Biegertはこのオープニングにも来て話をしたが、彼もDürrという存在に学び感銘を受けたからこそ彼の生涯を紹介する映画を作らないではいられなかったということがよく伝わってきた。私はこれからもWe have to learn to think in a new wayということを考えていくだろうし、自分の市民参画に関しても、彼の言葉を幾度となく思い出すことになるだろうと思った。この作品はぜひ他でも上映してたくさんの人々に見てほしい映画だ。

土曜日は日本関係の映画が2本上映された。

1作はアメリカのKeith Reimink監督が作った、第五福竜丸の乗組員の運命を語ったアニメーション・ドキュメンタリー映画「Day of the Western Sunrise」と、もう1本は2011年3月11日の地震津波のあとから最初の5日間に起きた菅政権下での日本の様子を劇映画にした「太陽の蓋」(ドイツ語字幕付)だ。コロナ禍で監督やプロデューサー等関係者が誰も映画祭に来ることができないため、私がこの2作の映画の背景などを解説することとなった。第五福竜丸が1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカのこれまで世界最大規模の水爆実験「キャッスル作戦ブラボー」で被ばくした際、その爆発時の閃光が西の空で見えたため、乗組員たちが太陽がまさか西から昇るはずはなし、と訝ったということからこのタイトルWestern Sunriseは来ている。現在もまだ健在の元乗組員3人にインタビューをし、当時の体験とそれから日本に帰ってきてからのアメリカと日本政府の対応、故郷での差別、放射線障害との闘いについて語っている画像と、思い出をイメージしたアニメが交互に出てくる。インタビューもその編集もなかなかいいのだが、私が耐えられなかったのはそのアニメというか絵の質である。本物通りである必要はないが、実際にあったことだし船も日本で見ることができ、写真や資料は豊富に残っているのだから、ある程度史実考証をした服装、船や建物の内装などを手本にすることはできなかったのか。そこがあまりにお粗末なので、インタビューとの釣り合いが取れていないことと同時に、観る者が馬鹿にされているような気にもなってしまった。インタビューをここまでして編集するだけの時間、エネルギー、考えをもって臨んだ映画なら、どうしてそこは徹底できなかったのか。また、ナレーションとアニメの登場人物のセリフ(日本語)などは素人の人たちがやったようだが、これについてももう少し質をよくすることはできなかったかと思ってしまうレベルだった。予算がない、というのはあるかもしれないが、それでももう少し練習してわかりやすい話し方などにすることはできたのではないかと残念である。

「太陽の蓋」は数年前にすでにハンブルクで上映されたためドイツ語字幕があるもので、SNBにもこの映画をウラン映画祭と共に上映してくれないかという話が入ったことがあったが、去年はウラン映画祭がベルリンで開催されず、SNBが主催者となって上映会を行う作品としては、実際のフクシマの状況を伝えるドキュメンタリーでもなく、俳優が演じているフィクションの部分が多い劇映画であることもあり、私たちの趣旨には沿わないとして上映会を見送ったものだった。今回は(私の憶測では)IUFFのNorbertと製作者の橘氏と直接話し合いの上ここで上映されることになったのではないかと思う。この映画についての私の意見は伝えてあったのだが、見事に無視され、この映画が上映されるという話を聞いたのは、IUFFベルリンでのプログラムが出来上がってからだった。それでも、私がこの映画の背景と批判も交えた解説をするよう依頼されたため、もちろんきちんと紹介をした。私も久しぶりにこの映画を見ることとなったが、この回の観客は残念ながら非常に少なかった。私としては、当時の(やや英雄的に描かれているのが気になる)管直人元首相率いる政府が、電源が切れ、緊急宣言が出されてからも東電からはっきりとした情報をリアルタイムで得ることができずにとうとう東電本社に乗り込まざるを得なかった当時のやり取りなどがかなり史実通りに再現されているので、それを詳しく知らなかった人に臨場感を与えることができるとはいえ、それと同時に描かれるフィクションの新聞記者、原発に詳しい元記者、市民の姿、避難を余儀なくされたフクシマの市民たちの描かれ方が物足りない。この映画は原発事故から時間が経ってから同じ新聞記者が当時の政府関係者にインタビューしていく形にもなっているのだが、実際はまだ収束していない原発事故なのに、なにか終わってしまったことに関して分析しているような印象を与えるのが、私には問題に思えた。こういう実際の最悪事故を劇映画にすること自体の難しさなのかもしれない。

「Atomlos durch die Macht」の1シーン

私は受付も担当している日があったので、上映された映画を全部見ることはできなかった。その中で私がもう1作、半分くらいだが見ることができたのは、最終日の日曜の夕方に上映されたオーストリアのドキュメンタリー映画「Atomlos durch die Macht」(監督 Markus Kaiser-Mühlecker)だ。オーストリアは、原発を作りながらも、人民投票で稼働反対が多数を占めたため、完成した原発を一度も運転することなく博物館にしてしまったという世界で唯一の国である。1978年のことだ。原発を作ったからにはもちろんそれを稼働したい人はたくさんいてロビーも強かったに違いない。政治的目論見も当然ある。その中で市民運動を続け、稼働させないと多数の市民が反対の投票をするまで導き、ついにはオーストリアは今後一切原子力エネルギーには手を出さないと決定させた活動家たちとのインタビューがこの映画のメインである。しかもこの原発は、2011年に事故を起こした福島第一のと同じ沸騰水型で、それもあってフクシマ事故のあとは胸をなでおろした人が少なからずいたという。しかし自国に原発がなくてもオーストリアはヨーロッパの中の小さい国に過ぎず、周りにたくさんの原子炉を持つ国々に囲まれているため、危険は変わらず存在している。だから反原発運動は今なお続いている。市民が反対しても、それでも甚大な被害を受ける可能性のある危険をはらむのがこの非民主主義的な発電方法である。ドイツは2022年に脱原発が実現するからと、この問題をもう問題視しなくてもいいように、片付いたことのように思う人たちもいるようだが、そうなってもオーストリアと同じで、問題はちっとも解決されていないことが分かる。ましてや今ドイツでは最終処分地問題で岐路に立っている。そしてドイツでは、最後の原子炉が2022年末で停止されても、ウラン濃縮工場(グローナウ)や核燃料製造工場(リンゲン)は期限なく稼働し続けており、ここからは相変わらず放射性廃棄物が出されるばかりか、世界の原発の10基につき1基がドイツで作られる燃料棒で動かされる計算であることが分かっている。それでは決して「脱原発」などではないはずだが、そういうまやかしと共にあるのがドイツの原発政策だ。このオーストリアのドキュメンタリー映画を最後まで見ることができず(受付に戻らなければならない時間になったため)上映後の監督とのQ&Aにも参加することができなかったのは、残念だった。

Valley oft he Godsの1シーン

今年最優秀映画賞を受賞したのは私には納得のいかない映画だった。ポーランドの監督Lech MajewskiによるVALLEY OF TH E GODS(神々の谷)(トレイラー:https://vimeo.com/357576802)という映画自体は、私の好みではないにせよ、画像もカメラワークもプロの質で、SFと広大な自然風景、そしてインディアンの神話に興味のある人にとってはきっと興味深い作品だったかもしれないが、問題は内容である。まがりなりにも「原子力・核・放射能・ウラン採掘などに関するテーマを扱い、それらの問題点を明らかにしていく映画を集めた」映画祭のはずなのに、この映画ではまったくそのことがテーマではないのだ。ハリウッド俳優のジョン・マルコヴィッチがナバホ族が神々の渓谷と名付けている聖なる谷でウランを採掘しようとする億万長者を演じている、という設定はあるものの、そしてナバホ族の神話や生活が描かれたりするものの、聖なる谷に眠るウランを揺り起こされようとするナバホ族の葛藤や、それが起こすだろう汚染問題などが描かれるわけではない。なんだか話は(私にはまったく納得のいかない)キツネにつままれたような話で、最後にはキングコングならぬ巨大な赤ん坊が大都市を根こそぎにしてしまうというようなSFになっていくのだが、私にはこういう映画をウラン映画祭で見させられている理由もわからなかったし、それが最初から「大賞」受賞と決まっていたために最終日の最後に授賞式で上映されるわけもわからなかった。しかも、その最後の授賞式での司会の賞授与の理由や監督とのインタビューも実にお粗末だった。

もう一つ、北大西洋条約機構(NATO)の軍隊が十年以上も演習・実験を目的に劣化ウラン弾を投下しているイタリアのサルデーニャで、自分の故郷の問題に向かい合い、観光で賑わうこの島を軍事に利用する悪習に闘う勇気ある市民たちの運動を捉えたLisa Camilloによる映画BALENTES – THE BRAVE ONES:(トレイラー:http://www.balentesfilm.com/abouthefilm)もドキュメンタリー映画賞を受賞したが、私はこの作品は受付で働いていて観ることができなかったので、残念ながらコメントできない。

以上が2020年のIUFFベルリンでのウラン映画祭に参加しての報告である。私がIUFFとの協力関係を今回をもって終了する経過は、別の記事で報告する。(ゆう)

核のない未来へと希望をのせて「かざぐるまデモ」2015

3月7日、東京電力福島第1原発事故から4年が経つのを前にベルリンで反原発デモを行いました。
ドイツ人、日本人、韓国人、イスラエル人などベルリンに住む市民ら約700人が参加しました。
Anti-Atom-Berlin(アンチアトムベルリン)、NaturFreunde Berlin e.V(ナトゥアフロインデ)、ドイツの反原発、自然保護団体2団体との共催で行いました。

今回は「福島を忘れないで!」をテーマに、原発事故を風化させないこと、日本の原発再稼動・原発の海外輸出に反対するとともに、世界のすべての原発の早期廃炉と再生可能エネルギーへの転換を求めました。

核のない未来へとの希望をかざぐるまに象徴し、昨年に続き今年も「かざぐるまデモ」と名付けたデモ。前日まで雨が降っていましたが、見事に晴れ、かざぐるまが風を受け勢いよく回っていました。

©Tsukasa Yajima
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Puppe’n Muckeのライブ演奏がはじまりの合図となり、ブランデンブルク門前に集まった人々の注目を浴びました。

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©Tsukasa Yajima

その後、ブランデンブルク門前を舞台にSayonara Nukes Berlinから梶川ゆうさんが開会のあいさつをし、「福島の原発事故はいつでもどこでも起こりえます。放射能まみれの地球を次世代に残してはいけません」と訴えました。

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©Tsukasa Yajima

かざぐるまデモ2015 梶川ゆうさんのあいさつ全文

Kazaguruma-demo2015 Rede von Yu Kajikawa in Deutsch

参加者は東日本大震災での犠牲者と世界中で放射能の被害に遭った人々に黙とうをしました。

福島県の民謡「会津磐梯山」に合わせてかんしょ踊りのレクチャーをした後、BodyPoetとTakushi&Friendsによるかんしょ踊りのダンスパフォーマンスが行われ、「Jetzt los!」(さぁ出発)の掛け声でデモが出発しました。
かんしょ踊りとは福島県会津地方に伝わる踊りで、他の反原発アクションシーンでも踊られています。

©Tsukasa Yajima
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アンチアトムの横断幕「FUKUSHIMA HIROSHIMA NAGASAKI ATOMTOD STOPP 福島 広島 長崎 被曝死ストップ」(ママ)、女優の木内みどりさんから届いた横断幕「DON’T FORGET FUKUSHIMA」を先頭にデモは進んでいきました。

©Tsukasa Yajima
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参加者は「会津磐梯山」のリミックス曲に合わせ、踊ったり、リズムにノったりしながらベルリンの中心街をデモ行進しました。

©Tsukasa Yajima
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リミックス曲は公募し、ドイツ、フランス、イギリス、メキシコ、日本から15人のミュージシャン、DJからの応募がありました。そのうちの数曲をDJ SiSeNが演奏しました。

©Tsukasa Yajima
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ひょっとこ、おかめ、きつねのお面を被ったり、和装をしたり、法被を着たりして踊る様子は観光客や道行く人々の目を引いていました。

©Tsukasa Yajima
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最終地点Potsdamer Platz(ポツダマープラッツ)に到着後、日本で「のりこえねっと」(ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)の共同代表をしている辛淑玉(シンスゴ)さんのあいさつがありました。

©Tsukasa Yajima
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辛淑玉さんのあいさつ

Anti-Atom BerlinのBernd Lisekさんが閉会のあいさつをしました。
Kazaguruma-demo2015 Rede von Bernd Lisek

©Tsukasa Yajima
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最後はPuppe’n Muckeのライブ演奏で締めくくりました。

デモに参加した保育士のカタリーナ・ヴァルケンティンさん(26)は「原発事故は健康被害や環境破壊をもたらします。原発ではなく再生可能エネルギーに転換すべき。子どもの未来のためにも原発はなくすべきです」と話していました。

わたし自身、2回目の参加となる「かざぐるまデモ」。集会が始まる前にワークショップで作ったかざぐるまを参加者や観光客に渡していると、ブランデンブルク門を見に来た日本人観光客が参加しますとかざぐるまを受け取ってくれたり、かざぐるまを受け取ったスペイン語圏の観光客が「一体何をしているの?」と聞いてきて、説明するとわたしたちの主旨に賛同してくれたりと昨年より事前にデモを知らなかった人たちが関心を寄せてくれたように感じました。ライブがあったり、音楽が流れていたという雰囲気が飛び入りのデモへの参加をしやすくしたのではないかと思います。残念ながら東京電力福島第1原発事故を知らない外国の方もおり、時間の経過とともに特に海外では関心が薄れていきがちになってしまうことですが、世界の問題として、日本のみなさんとも連帯し、続けていくことが大切だと改めて感じました。

©Tsukasa Yajima
©Tsukasa Yajima

 

ベルリン在住のドキュメンタリー映画監督アーチー・ドルダー(Archy Dolder)氏が制作してくださった日英独の字幕付きかざぐるまデモ2015年ドキュメンタリーフィルム。

CLOSED CAPTION VERSION/クローズドキャプション版

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報道先リンクまとめ

rbb(ベルリン・ブランデンブルク放送) http://www.rbb-online.de/abendschau/archiv/20150307_1930/nachrichten-eins.html

共同通信 http://www.47news.jp/CN/201503/CN2015030701000946.html

NHK ニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150308/k10010007631000.html

新潟日報モア http://www.niigata-nippo.co.jp/world/world/20150307167478.html

京都新聞 http://www.kyoto-np.co.jp/international/article/20150307000153

北海道新聞 電子版 http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/international/international/1-0109153-s.html

西日本新聞 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/article/154346

佐賀新聞Live http://www.saga-s.co.jp/news/national/10209/163948

北國新聞(富山新聞社) http://www.hokkoku.co.jp/newspack/kokusai2015030701000946.html

千葉日報ウェブ http://www.chibanippo.co.jp/newspack/20150307/244604

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関連リンク

明日うらしま

みどりの1kWh

小林敏明教授の「ライプツィヒの街から35 ベルリン風車デモ 2015」 – OILife オイルライフ

FromBerlin

CO-OP NEWS

ちきゅう座
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写真アルバムリンク

Thorsten Strasas

Florian Boillot

ⒸB.Sauer-Diete/bsd-photo-archiv

Uwe Hiksch

PetShop Petshop

※写真の二次使用等それぞれの掲載元にご確認いただくなどご注意ください。

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映像リンク

原発事故から4年 ドイツで反原発デモ

Kazaguruma-Demo zum 4. Jahrestag von FUKUSHIMA| am 7.3.2015 in Berlin

Anti-Atom-Berlin – PM – Politische Demonstration und Kunstevent – die Kazaguruma-Demo in Berlin

※映像の二次使用等それぞれの掲載元にご確認いただくなどご注意ください。a3372827158_16 _TY19868

2015年3月7日に脱原発を願い、ベルリンで行われたかざぐるまデモ「福島を忘れない」のために提供された14曲の会津磐梯山リミックスを無料ダウンロードアルバムとしてリリースしました。

https://sayonaranukesberlin.bandcamp.com/album/remix-for-fukushima

バラエティにとんだ新しい会津磐梯山をどうぞお楽しみください。
この場をかりて、私たちの活動に賛同の意を表し、無償で楽曲を制作・提供していただいたアーティストのみなさまへ厚く御礼申し上げます。

※著作権は楽曲提供者である各アーティストに帰属します。許可なく営利目的で使用することはご遠慮ください。

Sayonara Nukes Berlinドキュメンタリー映画、「わたしの、終わらない旅」の上映会が6月2日、Sayonara Nukes Berlinの主催で行われ、ドイツ人、日本人など約60人が参加しました。

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あいさつする坂田雅子監督

映画の概要を紹介します。

2011年の福島第一原発事故後、坂田監督は母、坂田静子さん(故人)が1976年ころから反原発運動を続けていたことの意味に気づきます。そして、兵器と原発の2面性を持つ「核」について、フランス、マーシャル諸島、カザフスタンを巡り、そこで核実験と原発によって翻弄された人々を映し出しました。

映画を見る参加者
映画を見る参加者

フランスでは、日本の使用済核燃料が2950トン処理されたラ・アーグ再処理工場やANDRA(国家放射性廃棄物管理局)周辺で放射線検査をするACRO(放射線モニターNGO)の活動を紹介します。ACROの会長は「ラ・アーグの最大の汚染源はお金だと言われている」と話します。

アメリカの核実験が1946年から58年まで67回行われたマーシャル諸島。そのうち23回はビキニ環礁で行われました。実験のためにビキニを離れなければならなくなった島民は今も帰島できないでいます。1960年後半、アメリカの原子力委員会は「ビキニは安全、帰島できる」と発表し、72年から帰島開始、「何を食べても安全」と伝えられました。その後、多くの人が亡くなり、「これ以上住むのは危険」と再び島を離れなくてはなりませんでした。

1949年から89年まで470回の核実験が行われた旧ソ連、カザフスタン・セミパラチンスク。150万人が影響を受けました。実験場跡地の東に位置するセメイ市の病院ではガンの発症率が高いこと、若い世代の免疫力が落ちていることが指摘されました。実験場跡地、1万8千平方キロメートルの4分の1は除染され、4千平方キロメートルが農地にしても安全といわれています。旧ソ連時代、核開発が行われたクルチャトフ市の市長は「わたしたちは次世代の原発を開発しつつある。原爆と原発は別物なのです。きちんと管理していれば原子力はもっとも環境に優しいのです」と語ります。

1953年、国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」についてスピーチをしました。その後、1954年3月1日に第五福竜丸の乗組員たちが水爆ブラボーの実験で被曝しました。日本では原水爆禁止運動が盛り上がりますが、平和利用へのキャンペーンが張られていきました。第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんは「ビキニ環礁事件が起きたとき、みんなで勉強し考えていれば日本に54基もの原発はつくられなかったのでは」と問います。フランスの元原発労働者が「それが人を殺すことを知りながら、家で原子力の電気を使うのか」と語った言葉が胸に突き刺さります。ビキニの人たちが島の美しいメロディーに合わせながら歌います。「わたしたちの島と生活は奪われた」。

1995年のもんじゅナトリウム火災事故隠しに対応して、1996年に開催された第2回原子力政策円卓会議には坂田静子さんが市民代表として出席していました。「原子力基本法、つまり国策を見直すべきではないか。国策も誤ることがあります。わたしたちの世代は身をもってこれを経験しました」。

この映画に出てくる核の被害を受けた人たちの姿を通して今の日本、フクシマが見えてきます。

「終わらない」のか「終わらせるのか」はわたしたち市民にかかっているのだと感じさせる映画でした。

上映後は坂田雅子監督への質疑応答もあり、活発な意見が交わされました。かいつまんで以下にご紹介します。

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監督に質問する参加者

-日本の現状、脱原発の現状について

監督:反原発、原発ビジネスなど立場によって言うことが異なり、一人ひとり、掘り下げないとそれぞれ考えていることが見えてこない。

-日本では原発に変わる代替エネルギーは進んでいないのか?

監督:太陽光エネルギー発電も進んでいたが、再生可能エネルギーの制度が変わり、電力会社は再生可能エネルギーの買取義務がなくなったので、高くつく再生可能エネルギーの買い取りを電力会社が避けるようになり、その発展を阻んでいる。(*買取にかかった費用は一般電気料金に上乗せしているので、結局消費者が負担している)

-なぜ、世界で60年間原発が稼動してきたのか?

監督:それこそ自分に問いかけてきたものでこの映画を撮る原動力になった。

-フランスにもドイツのように反原発運動をしている人たちがいるのか?

監督:少数だがいる。少数でもがんばっていることに意味がある。フランスでも再生可能エネルギーが発展することを願っている。

 

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*上映会の際、坂田監督へのカンパ、会場費、Sayonara Nukes Berlinの活動費のため呼びかけた
カンパ(事前、当日)は、合計337,60ユーロでした。ご協力いただいたみなさまにお礼申し上げます。
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今回上映会場となったACUD  http://www.acud.de/
*「わたしの、終わらない旅」DVD版は、amazonなどで購入することができます。

A2-B-C

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ドキュメント映画を観る機会が増えた。おそらくは真実を知るための一番の近道だ。「A2-B-C」は、聞き慣れないタイトル、海外でのフィルムフェスティバルでの受賞のニュースが目に止まり、気になっていた映画だ。ベルリン自由大学日本学科のブレッヒンガー・タルコット教授(Prof.Dr.Blechinger Talcott)が構内で上映会をすると云う招待を受けて、学部関係者に混じって映画を観せていただいた。

このドキュメント映画は甲状腺の検査結果で、A2、すなわち結節および嚢胞が見つかった子どもたちに初めてカメラを向けたものだ。

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無邪気に遊ぶ幼稚園児のあどけない姿が映る。ほとんどの子どもがガラスバッヂを身に着けていた。ガラスバッヂとは、特殊なガラス素材を使用した携帯型線量計で、各自の浴びた放射線を計測する装置である。子どもたちは禁止された遊具を取り囲み、どこが放射線の測定値が高く、危険であるかを指で指し示す。遊ばなければ安全と云うわけではないのに、どうして。また小学校の塀を挟んだ通学路の放射線は、インタビューを受ける母親の腰の位置でおよそ12.42μSv/h、足元ではインタビューの間中、35.37μSvと異常なまでの数値の上昇を見せた(※)。撮影が行われた日は、強風が吹き荒れ、校庭では体育の授業が行われていた。

「頭を切ったかのようなびっくりするぐらいの鼻血、2度倒れ、発疹、白血球のかなりの減少、そして医師から風邪の診断」

ある母親が自分の子どもの体調を語った。風邪で初めて血液検査を受けた上、一度も放射線についての質問をしていないのに、医師から「放射線とは関係ない」と言われたという。

「医大の検査結果では一人は嚢胞なしのA1、もう一人は嚢胞ありのA2」

ある家庭では子どもたちの検査結果に満足できず、近所の個人病院で再検査を行ったところ、2人とも嚢胞が見つかった。これを聞いた他の母親は、同じ病院に再検査を依頼したところ、医大の検査にてA2判定後は再検査はできないと断られたそうだ。この時には、原発事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一氏の文書が出回り、他県などでの検査もできなくなっていたと言う。

「怒っていいんです」

不安と怒りが入りまじり、涙を見せる母親たち。
日本では感情を押し殺して表に出さないことが美学とされてきたが、怒るべきは今なのだと語る。

「僕はA2です」

カメラを向けられた小学生たちが口々に自らの検査結果を紹介する。この判定が意味するものは何かという問いに、「白血病になって死ぬ」「癌になって死ぬ」と答える。

こんなことが普通であってたまるかと、ぐっと胸を締め付けられる思いで観ていた。やるせない哀しみと怒りが全身に行き渡り、気付けば嫌な汗をかいていた。

鑑賞後は、監督のイアン氏(Ian Thomas Ash)に質疑応答の時間を設けていただいた。主な質疑内容は以下の通りである。

―福島の汚染区にいるファミリーにはどんなオプションがあるか?
避難する人もあれば、とどまる人もある。30km圏内は居住できず、みな避難しているが、境界線の外30.2kmのところには人も住んでいるし、学校(伊達市)も再開しているという状態。
お年寄りと子どもがいる家族には、とても厳しい選択である。お年寄りはそこにとどまりたいと思うが、子どもがいる場合、とどまることは健康安全上の不安が大きい。家族が離散する状態になったり、離婚率も高くなった。

―日本ではこの作品を見ることができないと聞いたが?
まだ限られているが、9月に日本のフィルム・フェスティバルで上映し、メディア関係者への試写会も行った。

―避難しなければならなくなった家族はいつごろ戻れるのか?
その質問に対する簡単な答えはない。不透明というのが実情。

―福島の母親たちは何を一番求めているのか?
彼女たちが求めているものは、安全や賠償金などではない。一番求めているのは「信頼できる情報」である。信頼できる正確な情報があれば、家族とともに今後どうするかという正しい判断を自分たちで下すことができる。現在の情報は背後で操作されていたりして、信頼できず、その中で身動きが取れなくなっている現状に母親たちは怒っている。一人の母親との出会いからたくさんの母親たちとつながることができ、彼女たちが話し合っている場面を撮影した。声を上げることは勇気のいることだが、彼女たちは、力を合わせてこれからどうしていこうか、という将来を見据えた視点で話し合っていた。カメラの目の前で、女性たちの草の根による活動の輪がまさに生まれた瞬間に立ち会った形になり、感動を覚えた。

―除染作業をしていた人たちはどのようなモチベーションで作業に携わっているのか?
2人の作業員と話すことができた。映画の中に登場した若い作業員は、北海道出身で、勉強を続けたいが経済的に厳しく、その資金を得るため、他よりも報酬の高いこの作業に応募した。確か以前原発で働いていたと言った 作業員は、家族とともに避難したが、汚染地区での作業に毎週通っている。

―今後の活動の予定は?
配給会社を見つけるのが課題。福島の問題を継続して取り組んでいきたい。

―日本で上映した際、日本人の観客、およびメディアではどのような反応・フィードバックがあったか?
フェスティバル会場に足を運んでくるような人たちは、もともとこういう問題に意識の高い人たちなので、関心を持ってもらえたが、多くの日本人は今はインターネットで好きな動画が見れる時代で、わざわざ足を運ぶことがあまりないので把握しづらい。メディア関係者(特に日本在住の外国人ジャーナリスト)を招待しての試写会を行ったが、まだ無名の作品だったので、何か賞を取って認められないと取り上げづらいと言われた。賞を取ることが目的ではないが、賞をいただくことで、この作品に対しての注目が高まり、日本や世界に福島の現状を知らしめることの助けになればいいと思っている。

DSC01616
質疑も終わりイアン氏に声をかけると、大変気さくな印象で、撮影中に子どもたちが懐く様子が見て取れたのも頷けた。翌日ベルリンで行われたRAINDANCE FILM FESTIVALでの上映の告知は、多くの人々にとって間に合わないと思うので、今後のベルリンでの上映の可能性について話した。イアン氏は、「フィルムフェスティバルの良いところは、色々な映画が混じっているところだと思う。反原発だと限られた人々にしか観てもらえない」という様な事をおっしゃった。

確かにこれが現実だと突きつけられれば、多くの日本人は目や耳をふさぐに違いない。遠く福島での出来事とたかをくくる人もいるかもしれない。でも、たくさんの子どもが、身も心も傷ついて、目に見える血を流している。私はこの現実から目をそらす事は出来ない。福島の子どもたちも、世界中の今を生きる子どもたちと同じ未来を担う子どもたちであると考える。子どもたちはみな平等に、こうした不安を感じ日常を放射能におびやかされる事なく、夢を描いて生きていく権利を持っている。大人たちにそれがどうしてわからない、またはわからないふりができるだろうか。(R)

作品中の17歳の女子高校生の言葉を反芻する。
―みんなが今の現状を忘れている事が大切な問題だと思う―

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※撮影場所と思われる箇所での測定動画

放射線量測定:福島県伊達市立小国小学校2013.1.13測定①: http://youtu.be/xrF7ewCfQrY
放射線量測定:福島県伊達市立小国小学校2013.1.13測定②: http://youtu.be/EcemHMEtbj0
50マイクロシーベルトが出ています。

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イアン・トーマス・アッシュ(Ian Thomas Ash)
公式ウェブサイトhttp://www.documentingian.com/

今後の上映スケジュールhttp://ianthomasash.blogspot.jp/2013/11/on-road-again.html

December 19th PIA Film Festival (Kyoto, Japan)
12月19日 PIA映画祭、京都

December 21st PIA Film Festival (Kobe, Japan)
12月21日 PIA映画祭、神戸

セシウム137:ゴイアニアの悪夢

先日、ベルリンで行われた放射能に関わる映画を扱う「ウラニウム映画祭」に行ってきました。いくつか見た中から、特に興味深かった「セシウム137:ゴイアニアの悪夢」について。cesio137

この映画は1987年にブラジルのゴイアニア市で本当に起きた被曝事故をもとに作られています。私は今回、ドイツ語字幕で見たこの映画を通して初めてこの事故のことを知りました。
ゴイアニアの事故とはどんなものだったのでしょう。小出裕章さんが詳しく書いているので、以下に引用します。

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1987年 9月、ブラジル、ゴヤス州の州都ゴイアニア市で セシウム137(Cs-137)による被曝事故が発生しました。廃院となった民間の放射線治療クリニックに放射線治療装置が放置されたままになっていて、それを廃品回収業者が持ち出し、市内にあるその業者の作業場で分解されたことで事故は発生しました。
2人の若者(22才と19才)が、廃院となった病院から放置されていた治療用セシウム137 照射装置 (50.9TBg (1375Ci))を価値があるものと思い、持ち帰りました。その段階から被曝が始まり、2~3日後から2人は下痢、目まいなどに悩まされ始めました。彼らは1週間後にようやく線源容器に穴を開けることに成功し、今度は放射能汚染が始まりました。2人はこれを別の廃品回収業者に売り払いました。セシウム137は青白く光る粉末(セシウムの塩化物)であったため、暗いガレージの中で光っていました。買い取った廃品回収業者はそれを家の中に運び込み、その後数日にわたって家族、親類、隣人が、これを眺め、手を触れ、体に塗ったりしました。また業者の親戚、隣人が好奇心から自宅に持ち帰ったりしました。その家の娘は綺麗に光る粉を舐めて遊びました。作業に当たった人とその家族全員の体の調子が次第におかしくなり、廃品業者の妻が青白く光る粉に原因があるのではないかと気付き、それをゴイアニア公衆衛生局に届けました。医師は症状から放射線障害の疑いを持ち、市の公衆衛生部と州の環境局に連絡しました。放射線測定器で測定して放射線被曝事故が起こっていることがようやくに明らかになりました。当時、ゴイアニア周辺は雨季のため解体された線源中のセシウム137が溶解し、放射能汚染が広い地域に広がりました。
事故後の9月30日から12月22日までの間に約112,800名の住民の汚染検査が行われ、249名の汚染者が発見されました。120名は衣服、履物のみの汚染、残り129名には体内取込みと体外汚染がありました。0.5グレイ以上約 70人、1グレイ以上 21人、4グレイ以上8人でした。結局、この事故で38歳の女性と6歳の女の子、22歳と18歳の男性の合計4名が亡くなりました。死亡者4名の推定被曝線量は4.5~ 6.0グレイでしたが、7.0グレイを被曝しても生き延びた人もいました。もちろん、JCO事故と同じように、被曝によって加えられたエネルギーによって死んだ人たちの体温はわずか1000分の1度ほどしか上昇しませんでした。
回収できた汚染は一部でしかありませんが、ブラジルの原野に広大な置き場を作って隔離されました。

http://chikyuza.net/n/archives/5043 (図は省略)
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これと似たような事故が2000年にタイでもあったそうで、その際はセシウム137ではなく、コバルト60が原因でした。ちなみに、コバルト60が金属に混じる事故はいろいろなところで起きています。

放射性物質というと、原発や原爆や水爆の影響で出てくる非日常的なものという印象がありますが、医療器具だけでなく、いろいろなところに使われていているそうです。それに気づかずに、もしくはずさんな管理の結果、作業員が被曝したり、気づかないうちに放射能汚染が広まってしまうことがあります。

ゴイアニアの場合も、一般市民の日常生活の中で突如起こった放射能事故です。廃院から機材を持ち出した人たちは、金属をお金に変えたかっただけで、まさか放射性物質が中にはいっているなどとは思いもしなかった、それどころか、放射能がなんであるかすら知りませんでした。

映画を見ていて面白かった(というと語弊があるのですが)のは、セシウム137の存在を全く知らない人たちが、どうやってこの物質と自分や身の回りに起きる異変を理解するかということです。

セシウム137がどれだけ恐ろしいものか分かっている観客は、映画の中で人々がセシウムの入った容器を開けたり、中身を取り出したり、それで遊んだりするという「ありえない」行為に遭遇し、言葉を失ってしまいます。それと同時に、すぐに危険だと分からない放射能のおそろしさを痛感するのです。

セシウム137が暗いところで放つ青白い光は美しく、人々はその不思議な美しさに魅了されます。「おもしろいものがあるから見てみろ」「子供が喜ぶから少し持って行け」。そうやって放射能汚染が広まっていってしまうのですが、危ないものだと知らなければ、全く普通の、なんとも人間らしい言動です。そういえば、マリー・キュリーの伝記で、ラジウムの放つ青い光に感動するシーンがあったよな、とそんなことも思い出しました。鉄くずを売って生計を立てている貧しい人々や子供たちが、見たこともない美しい光に目を輝かせるのは、その後起こる悲劇を予想できるだけに、見ていて切ないです。

この映画を通してよくわかる、もう一つの放射能の恐ろしさは、放射線障害が食あたりや他の病気でも起きうる症状として現れることです。何か悪いものを食べたからだろう、そのうち治るだろう。そう思って、誰もすぐに病院に行こうとしません。そして病院にいっても、(本当の)原因は見つかりません。そうしているうちに放射能の汚染はどんどん広がっていきます。
あの光る物質が来てからどうもおかしい。人々が体調を壊しているのはあれのせいではないか?その因果関係を見つけるまでに時間がかかるのです。そこに気づくと、病院だったところから持ってきたものだということが引っかかり、医療知識のある人が、これは放射能なんじゃなかと疑いだします。

どこからどこまでが放射能による被害なのか。放射線障害は放射能の存在が確認されて、汚染の量が測られてみて初めてわかります。健康被害との関係は、結局のところ推測の域をでません。大量に放射能を浴びても生き延びる人は生き延び、少量でも深刻な被害を受ける人がいます。実際に、この事件でもっとも多く放射線を浴びたであろう鉄くず回収業者の男性は、事故の直後ではなく数年後に亡くなっています。
もし今私の近くで似たような事故が起きて、放射能の影響で吐き気を催しても、私はこの吐き気が放射能によるものだとはまず思わないでしょう。映画の中の人々のように、何か悪いものを食べただろうかと考え、タチの悪い風邪だろうか、しばらくすれば治るんじゃないかと思うことでしょう。
この事故で亡くなったのは4人ということになっていますが、直接の関連性が証明できないだけで、事故の影響で病気になって亡くなった人というのはおそらくもっと多いことでしょう。この映画を作った監督も、この事故の被害者の一人だそうです。後遺症に苦しむ人や、精神的なダメージを負う人がいたであろうことを考えると、たった一つの医療器具の不始末によっておこる事故の恐ろしさは計り知れません。

こうした事故が起こることで、身近なところで使われている放射性物質が確実に管理されるようになると思いたいところですが、すでに書いたように、近年でも事故は起きています。やはり、人間がやることに100%安全なことはないのです。
ずさんな管理の結果だけでなく、こうした危険な物質が意図的に盗まれて悪用される可能性も否定できません。原発は空からの攻撃に無防備だということは知られていますが、身近なところにある放射性物質を使ってテロを起こすということも理論的には可能でしょう。そう考えると・・・怖いですね。

何かおかしいと思ったときにどうするか。ゴイアニアの事故で大事な役割を果たしたのは、廃品回収業者の妻でした。夫や男たちは全く無邪気で、飼っていた小鳥が死のうが、犬が病気になろうが、自分や周りの人々が体調を崩そうが、危機感を感じません。
すべては光る粉のせいではないかと気づき、病院に行き、セシウム137を(夫の反対を押し切って)衛生局に持っていった彼女の存在がなければ、この事故はもっと深刻なものになっていたでしょう。もう一人、光る粉に最初から懐疑の目を向けたのも女性でした。放射能だと気づき激怒し絶望する、この映画の中でようやく私が理解できる行動を取ったのは、この、放射能の存在を知る母親でした。直感的に異変に気づく能力や、おかしいことをおかしいと認識する能力、それを裏付ける知識というのが大事なのだと思いました。フクシマ後、放射能が身近になった私たちにとっても、それは言えることではないでしょうか。(KIKI)

参考
・Césio 137. O Pesadelo de Goiânia ブラジル(1989), 95 min, 監督: Roberto Pires
・「終焉に向かう原子力」(第10回)放射線被曝事故の悲惨さと避ける道(小出 裕章)」
http://chikyuza.net/n/archives/5043
・日常生活の中で起きた放射能事故についてはここの書き出しも参考になります
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-927.html

Endstation Krasnokamensk

先日、ロシアのウラン採掘場のある街についての映画
Endstation Krasnokamensk. Ein Heimatbesuch (Final Destination Krasnokamensk. A Visit Home)
を見ました。
krasnokamensk

クラスノカーメンスクは、中国とモンゴルの国境の近くにある人口5万5千人ほどのロシアの街です。1963年にこの街の近くでウランが発見され、1969年に街ができました。延々とステップが広がる「なんにもない」ところに、ウランを採掘するために作られたこの街では、毎年3000トンのウランが採掘され、それはロシア全土のウラン生産の90%を、世界レベルでみると約10%を占めているそうです。

「地の果て」にあるウラン採掘の街には刑務所もあり、数年前にそこにロシアの大物実業家が収監されたことで注目を浴びましたが、メディアにおけるこの街の描写というのは惨憺たるものです。
この映画の監督の一人であるオルガさんは、16歳の時にこの街を離れてドイツに移住しました。クラスノカーメンスクで子供時代を過ごした彼女にとって、自分の記憶にある街と、メディアで取り上げられる街には大きな隔たりがありました。実際にクラスノカーメンスクとはどんなところなのかという彼女の問いに加え、そこで暮らしているであろう、会った事のない彼女の父親を探すというのが、この映画のストーリーです。

krasnokamensk2
かつては地図にも載せられず、訪れるには特別な許可が必要だった街、クラスノカーメンスク。
どんなに物々しいところだろうか?
放射能の影響はどれほど深刻なのだろうか?
住民はどんな犠牲を強いられているのか?
そもそもそんなところで撮影をして大丈夫なのか?
そういう思いでこの映画を見ると、カメラに映し出される人々の明るさ、素朴さ、そして無邪気ともいえる雰囲気にびっくりするでしょう。街の成立40周年のお祭りに沸く街に、放射能汚染の影をみつけることはできません。
40年前に作られたであろう団地が立ち並ぶ町並みは、私の感覚では美しいとはいえないのだけれど、インタビューを受ける人々は口々に彼らの故郷の美しさと「普通さ」を強調します。ウソをついているのではなく、故郷に対する愛着と誇りから本心で言っているのでしょう。ドイツからはるばる戻ってきたオルガさんは人々に暖かく迎えられ、カメラを向けられた人はみな、それぞれの言葉でクラスノカーメンスクを語ります。

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「放射能の影響はないんですか」という問いをオルガさんは至るところで発するのですが、人々はいたって無頓着です。全然大丈夫だと言い張る行政側だけでなく、一般の住民からウラン鉱山で働く労働者まで、誰も深刻に考えていません。「ウォッカを飲めば大丈夫だとどこぞの教授が言っていた」だの、「どのみち死ぬんだからいいんじゃないか」だの、「汚染された石や服を家にもって帰るわけじゃないから平気だ」だの言う人がいる一方で、「気にはなるが、だからといってどうすることもできない」というのが大方の意見のようだと思いました。
「気にはなる」という程度で留まっているのは、言うまでもなく、クラスノカーメンスクの人々が放射能に関する知識とそれに対応するための十分な情報を持ち合わせていないからです。
行政側が根拠にする統計では、放射能による明らかな健康被害を証明することはできません。
病院は先天性異常や流産に関して「そういうこともあるけれど、それはタバコやお酒の問題なのだと思う」という返事をします。体調が悪いと言う人も、それを放射能のせいだとは断言しません。
事故で亡くなれば本人が悪いということになり、働けなくなってもちゃんとした補償はされません。
一方で、若くして亡くなった人の話や、肺の検査をうけるように勧める通達が貼られていたりと、そこここに放射能の被害が現実にあるのではないかと思わせる部分があります。

実際にウラン採掘に関わっている人々はというと、彼らの関心は放射能ではなく、労働条件です。
ソ連時代は非常に優遇されていた労働者が、今では生活の基盤すら脅かされる程度の賃金しか与えられず、彼らいわく「奴隷のような」労働に駆り出されているのです。昔からウラン採掘に関わってきた人々にとって、正体のつかめない放射能より、日々の生活に直接響く労働条件のほうが深刻なのです。
かつて国の根幹をささえているのだという誇りを持って働き、それに見合った待遇を受けていた人々が、今では私有化された企業の末端で使い捨てにされている。その現実に労働者は憤っても、ウラン採掘そのものを問題視することはありません。

「どうしようもない。」これがクラスノカーメンスクの人々の放射能に対する認識なのだと思います。労働条件の悪さを訴えれば「嫌なら辞めてください」と言われるだけ。クラスノカーメンスクを出ようにも、どこへ行って何をして暮らせばいいのか。人々はその閉塞感の中で、「今までどおり」に暮らしているのです。

映画が終わってから、監督の二人を前に質疑応答がありました。
ジャーナリストの女性が、「なぜもっとちゃんと調査しなかったのか、問題だと思う」という意見を述べ、面白い議論が起こりました。「これはロードムービーであって、ジャーナリズムの作品ではない。厳密な調査をするとなれば全く違う作品になっていただろう。クラスノカーメンスクのいろいろな立場の人に話をきけたが、ひとつの結果を出そうという意図はない」というのが監督2人の答えでした。
もう一人のジャーナリストの女性が「こういうテーマを扱うのに無責任なのではないか」というようなことも言いましたが、それは会場からもブーイング。私も、この映画が「ひとつの真実」を追求するのではなく、クラスノカーメンスクに存在する「たくさんの事実」を描き出したことを評価したいと思います。
原子力産業は、ウラン採掘から放射性廃棄物の処理に至るまで、多くの人々の生活と結びついたものです。それは、日本でも言えることではないでしょうか。原発をやめるとなったら、今までそれに依存してた自治体や人々の生活はどうなるのか。地域の誇りだった産業が悪と断罪された時、人々はその故郷とどう向き合えばいいのか。

質疑応答のあとで、もう一人の監督であるマリアンネさんと話をしました。はじめてクラスノカーメンスクに行ったのが2009年で、映画が出来上がったのが2012年ということで、その間に起きたフクシマの影響はあったのかと聞くと、全然なかった、との返事。「心配する声があったとすれば、それは原発が減ることで彼らの仕事が無くなるのではないかという事だ」という話を聞いて、なるほどと思いました。そこにウラン採掘を環境や健康の問題として考える私たちと、生活の糧としてとらえるクラスノカーメンスクの人々との決定的な立場の違いを読み取ることができるでしょう。

低予算の映画なので、大きな映画館で定期的に上映されることはないと思いますが、(ロシア語のインタビューにドイツ語のナレーションと字幕なので)ドイツ語かロシア語が堪能な人にはオススメです。(文責:KIKI)

参考
Endstation Krasnokamensk. Ein Heimatbesuch. Ein Dukumentarfilm von Marianne Kapfer & Olga Delane. 87min (2013)
トレイラー(英語):https://www.youtube.com/watch?v=dgjJF0sz_Bw
写真はフェイスブックからお借りしました。