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被爆80周年 世界核被害者フォーラム 80th Anniversary World Nuclear Victims Forum

https://mp-nuclear-free.com/Nuclear/2025_WNVF_01.html

2025年10月5日から6日にかけて、広島で原爆投下から80年を記念して、世界核被害者フォーラムが開かれた。これを主催したのは以下の団体である:

核兵器廃絶をめざすヒロシマの会  Hiroshima Alliance for Nuclear Weapons Abolition (HANWA)
核のない世界のためのマンハッタン・プロジェクト  Manhattan Project for a Nuclear-Free World

呼びかけ団体は次の通りである:

日本原水爆被害者団体協議会 (Nihon Hidankyo)
原水爆禁止日本国民会議 (GENSUIKIN)
原水爆禁止日本協議会 (Gensuikyo)

2025年、広島・長崎は米国の原爆下から80年を迎えている。核の時代は、米国が広島・長崎に原爆を落とし人間が地上から人類を抹殺する力を手に入れ人類滅亡の危機に直面して始まった。原爆投下は、一瞬にして無数の無辜の民を虐殺し、ヒロシマ・ナガサキに未曾有の非人間的悲惨さの極みをもたらした。地獄の惨禍をくぐり抜け生き延びてきた被爆者は、放射能の影響に今なお苦しんでいる。国家のひき起こした戦争の結果もたらされた無差別大量虐殺の犠牲者への補償は切り捨てられたままである。

80余年にわたり、核利用を進めてきた国々と核産業は、放射能による健康への影響の事実を矮小化あるいは隠蔽し、核の軍事利用あるいは「平和」利用を問わず、世界中に核被害者=ヒバクシャを生み出してきた。核被害の多くは、先住民や植民地支配の下に置かれた人々に押し付けられてきた。そして、チェルノブイリ、福島の原発重大事故を起こしてもなお、これらの国々と核産業は、「地球温暖化対策」を口実に原発推進を掲げ、核被害をさらに拡大させようとしている。

私たちは、核利用の根底的な廃絶とこれ以上ヒバクシャをつくらない世界を目指し、核被害者および核被害者と共に闘う人々の国際的連帯の場を広島で作り出したい。ヒロシマから世界に届けよう!
核と人類は共存できない!
ヒバクシャの救済と人権獲得を!
世界の核被害者と共にヒロシマに集い、連帯の絆を結ぼう!

この主旨に連帯し、SNBではこのフォーラムで決議された世界核被害者の権利宣言の日本語版、英語版を私たちのサイトでも公開するととともに、ドイツ語圏の方たちも読めるよう、ドイツ語翻訳したので、それを記載する。(ゆう)

作業部会有志(五十音別)
● 安在尚人 NPO 法人世界ヒバクシャ展事務局長
● 井上まり 世界核被害者フォーラム共同代表、核の無い世界のためのマンハッタ
ン・プロジェクト共同創始者、ニューヨーク州弁護士
● 海渡雄一 弁護士、脱原発弁護団全国連絡会 共同代表
● 川野ゆきよ 世界核被害者フォーラム事務局次長、核兵器廃絶をめざすヒロシマ
の会(HANWA)運営委員
● 清水浩 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部
● 藤元康之 世界核被害者フォーラム事務局長・核兵器廃絶をめざすヒロシマの会
(HANWA)事務局長
● 振津かつみ チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西・共同代表、医師
● 森瀧春子 世界核被害者フォーラム共同代表、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会
(HANWA)共同代表
● 森松明希子 東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表、原発
賠償関西訴訟原告団代表
● 籔井和夫 広島市在住ジャーナリスト、日本平和学会

世界核被害者の権利宣言 2025

1.この宣言の目的
1)世界核被害者の権利宣言 2025 は、核被害者の権利と補償確立に向けた、核被害者の人権宣言である。
2)核の加害者の責任を厳しく問い、核被害者の権利・補償の確立と核廃絶をめざす運動の指針を示す。
3)核被害者の権利と補償を確立するため、多分野にわたる具体的政策を提言し、その実現に向けて、国際社会及び各国政府、議会への働きかけに活用する。
4)核兵器や原発、ウランや核廃棄物、核燃料サイクルやそれを維持する政治的抑圧などの影響を受けた多様な核被災地やの核被害者の声を反映させ、核被害者自身及び核被害者と連帯する様々な人々との協働で作成し確認する。

  1. 核被害者の定義
    原爆の被爆者、核実験の被害者、核物質を使った人体実験の被害者、核の軍事利用と民生利用の別を問わず、ウランの採掘・精錬・濃縮の活動、核の開発・利用・廃棄などの核兵器関連活動と原発・核燃料サイクルの全過程における労働と環境放射能汚染によるヒバクシャ、原発事故被害者、放射性廃棄物の劣化ウランを用いた兵器によるヒバクシャなど、の放射線被曝と放射能汚染による被害者すべてを含む。
  2. 基本的権利
    核時代を終わらせない限り人類はいつでも核被害者=ヒバクシャになりうる。「核と人類は共存できない」ことを確認する。
    現在と将来の核被害を防ぐために全ての人々は以下のことを求める権利を有する。                         1.自然放射線および合意の上での医療用放射線以外の放射線被曝を受けないこと。
    2.被曝労働を強制しないこと。被曝労働が回避できない場合には、最小化すること。
    3.医療被曝を必要最小限に留めること。
    4.放射線被ばくの危険性について、意図的な誤った情報ではなく正確な情報を学校教育、社会教育を通して提供すること。情報には以下のことを含めるべきである。放射線被ばくは、どんなに低い線量であっても線量に応じた健康リスクがあること。特に子どもや胎児は大人に比べて放射線被ばくへの感受性が桁違いに高いこと。また、生殖健康(リプロダクティブ・ヘルス)において、現在あるいは将来、妊娠、出産、新生児ケアに重要な役割を果たす母体を担う人に対する放射線被ばくの影響には、特別の配慮が必要であること。従って、現在、原子力産業が採用している「成人男性モデル」のみによる人体への被ばく健康影響の基準は、子どもや女性への健康影響を考慮していない点においても決定的に誤っていること。            5.事故時はもちろん、平常時においても、核施設の環境リスク評価が被ばく防護策や治療法に関する情報と共に透明性をもって公開されること。                            6. 関連する政策の意思決定プロセス(過程)に参加すること。  利害関係者(ステークホルダー)と権利者の意思決定過程への参加は、関連する国の計画や政策を策定する際に、参加しやすく、包括的で、差別的ではなく、透明性のあるものでなければならない。    インフォームド・コンセント(利害関係者や権利者の十分な情報を得た上での合意)は、利害関係者が関連する国や地方の政策に関わるリスクの性質と程度を理解するために必要な知識や手段、通知とパブリックコメント(公開の意見募集)の機会を提供しなければならない。                    政策の意思決定に同意するかについては、核正義への政策及び実践を保障するための監視とアドボカシー(権利擁護)を必要とし、その同意は強要してはならない。                    核正義とは、核被害に関する情報公開、核被害者として認めること、加害者による謝罪、加害責任の追及、核被害者の救済と補償、汚染地域の環境修復、再発防止、核廃絶を含む。            7. 被ばくした個人や地域の被害に関する生きた経験と証言を正当に評価し、その調査結果を公的な文献や、被ばくと救済に関する政策に取り入れること。                        8.予防原則と人道的観点に基づく関連政策を策定すること。    9.軍事・民生利用を問わず、核利用を拒否すること。これ以上の高レベル放射性廃棄物を生み出すことを拒否すること。核施設の建築、稼働または再稼働を拒否すること。                10.将来世代にこれ以上の核被害をもたらさないこと。
  1. 核被害者の健康と生活の保障のため
    a. 医療を受ける権利
    現在、疾病を有しているか否かに関わらず、「被ばくの事実」    (被ばく線量に関わらず)と「被ばくによる健康リスクの可能   性」があれば、核被害者として健康を守り、医療を受けること    のできる権利。

これは「特定の放射線の曝露態様の下にあったこと、そしてその  曝露態様が放射能により健康被害が生ずることを否定することが  できないものであったことを立証することで足りる(2021 年 7    月14 日広島高等裁判所「黒い雨」訴訟控訴審判決 151 頁が被爆者  援護法 1条 3 号の解釈として示した規範)」を基にする基準であ  る。

医療を受ける前に、十分に情報を提供し、同意が自由にできるよう
保障すること。

治療の過程で研究が行われる場合は、被験者を保護するための倫  理規定及び研究基準を遵守すること。

b. 救済をうける権利
c. 生命と健康に対する権利
d. 関連する政策の決定プロセスに参加する権利を保障すること。
e. 核被害者の権利が侵害された場合に、国内および国際レベルの双 方で、効果的な司法もしくはその他の適切な支援を受ける権利

  1. 先住民族の権利
    a. 先住⺠への差別・抑圧、植⺠地⽀配をなくす闘いへの⽀持と、先住⺠族の生存権と自己決定権の尊重が不可分であるとの視点に⽴った要求を求めるために、「先住民族の権利に関する国連宣言」は核被害者の権利の確立における最低基準である。
  2. 労働者被曝(職業被曝)
    a. 労災補償、放射線防護・健康管理、被曝リスクに関する情報を受ける権利。
    すでに⽣じている被害の労災補償、⽇常の被曝管理及び被曝線量を
    最小限にする放射線防護・健康管理、放射線防護や被曝リスクに関
    する教育・研修を受ける権利。

b. 被曝線量の測定・管理をされながら労働し、定期的な健康診断を受ける権利。
原則的には被曝線量を測定・管理されながら労働するという被曝  労働者の特殊な⽴場での権利の⾔及が必要である。放射線被曝を  伴なう労働について、日々の被曝線量を完全に把握し、その結果  と健康に対する影響について、十分な情報と知識を与えられる。   健康に対する影響を調査するために、労働者は、定期的な健康診   断を受ける。

c. 被曝管理と長期的な健康管理を受ける権利。
廃炉や廃棄物管理、「除染」や輸送などの処分・管理に伴う労働者
の被曝の影響と健康管理の必要性は長期にわたって残るため、離  職後も生涯にわたって健康管理と医療を受ける権利を有する。そ  の権利を証明する公的機関が発行した証明書を所持する権利を有  する。

d. 危険な放射線被曝を伴う労働の危険性に関する情報を知る権利と被曝労働を拒否する権利
危険な放射線被曝を伴なう労働について、事前にその危険性につ  いて十分な情報と知識を与えられる権利を有する。労働者が「許  容」被曝線量を受けた場合の死亡率や障害発生率などのリスクが  事前に公表されなければならない。当該労働に従事するか否かは、  その都度、労働者の自由な意思決定に委ねられる。
e. 被曝労働を拒否する権利と差別されない権利
被曝労働を拒否した場合と被ばく限度に達した場合に、当事者の  要求をもとに「代替え職場」での仕事を保障すること。労働を拒  否した場合でも、労動契約上、何らの不利益を受けない。軍人か  民間人か、元請けか下請けかなどの雇用形態にかかわらず、差別  されない権利を有する。原発労働において、重層下請け構造のよ  うな被曝押し付ける構造は許されず、これを無くしていかなけれ  ばならない。無くすまでの間においても、元請企業は、末端の労  働者の権利も補償することに誠実に取り組まなければならない。
f. 関連する政策の決定プロセスに参加する権利を保障すること。
g. 権利を主張した場合の弾圧、差別、解雇、報復などの不当な罰  則の対象にならないことを保障すること。
h. 事業者は、被曝事故があった場合、これを正確に記録し、保管  しなければならない。

i. 事業者は、被曝記録の作成及び管理の責任者を明確にし、ヒバク シャの求めに応じ、何時でもこれを開示しなければならない。
j. 以上の諸項目に違反して、労働者を働かせた使用者は、民事上の 損害賠償責任を負うとともに、行政罰、刑事罰を科せられる。

  1. 住民被ばく(⼀般公衆の被ばく。ウラン関連産業及び核施設の周辺 住民、核実験風下住民、原発を含む核施設の重大事故時の周辺及び 風下住民、等を含む。)
    放射線被ばくをした全ての人は以下の権利を有する。
    a. 被ばく線量のいかんに関わらず、後記の医療被ばくを除く、追加 被ばくを本人の承諾なしに受けた場合には、核被害者(ヒバクシャ)として認められるべきである。多くの場合、正確な個人被ばく線量 の推定は困難であるので、核被害地域に居たり、入域したり、放射 性降下物(フォールアウト)を受けたという状況証拠があれば核被 害者として認められるべきである。
    b. ヒバクシャは、自らの被ばくの推定線量を知る権利を有する。
    c. ヒバクシャは、自らの被ばくが、自らの肉体的、遺伝的、心理的 健康に与える影響について、正確な情報及び知識を得る権利を有する。
    d. 関連する情報の公開を請求する権利。 放射線の安全に関する情報 については、人と将来世代の生命と身体に影響を及ぼすため、生き る権利を行使することに影響するものであるから、国家や軍・核産 業の利益をこれに優先させてはならず、全ての者が情報公開を請求 することができる。
    e. リスクに関する情報を得る権利。 一般人が許容被ばく線量を受け た場合の死亡率や障害発生率などのリスクが公表されなければなら ない。
    f. 被ばくによる人の健康と環境への影響を評価する知識と経験を持 つ独立した科学者及び専門家に助言を求める権利。
    g. 将来の被ばくを最小限に抑えるためのリスク低減政策や放射線防 護政策を求める権利。
    h. 持続的な健康診断と最善の医療の提供を、放射線被ばくによって 引き起こされる可能性のある全ての疾病について自己負担なく受け る権利の保障。疾病は、がん・白血病などの悪性疾患に限定されず、非ガン疾患も含まれる。
    i. すべてのヒバクシャは、その放射線障害によってもたらされる各種 の疾病を予防するための最良の措置を受ける権利を有する。

j. 放射線被ばくと疾病の関連の有無を証明する義務は加害者にある。加害者は被害者の疾病について「被ばくと関係ない」ことを証明で きないならば補償すべきである。
k. 予防原則に基づき、いかなる低線量被ばくであっても線量に応じ た晩発性障害のリスクがあることを認め、放射線被ばくと被害者の 健康障害の間に因果関係が推定されるとの法原則を確立しなければ ならない。
l. 放射線被ばくによる晩発性障害、遺伝的障害については、時間の 経過は賠償を求める権利に影響を及ぼさない。加害者は時効を主張 してはならない。
m. 核施設(原発やウラン関連施設を含む)において環境中に大量の 放射性物質が放出された事故が起こった場合、政府は以下を認めな ければならない。

● 電離放射線を含む有害物質による被ばくから保護するための
予防と防護対策を受ける権利、避難者・移住者のための避難
の権利と、環境汚染による⽣業の喪失への補償、⽣活再建へ
の⽀援、コミュニティ全体の崩壊、⽣活・⽂化全体への被害
の補償を受ける権利。
● 家族は社会の自然かつ基本的な集団単位であり、社会と国家
による保護を受ける権利がある。子ども・胎児・妊婦への特
別な配慮が必要である。放射線被ばくのリスクを十分理解し
た上で、家族や親戚を救出するために行動する者を誰も止め
てはならない。
● 汚染した地域の住⺠・帰還者のための被ばく防護のための施
策や治療を受ける権利。それを保障するための食糧と飲料
水、健康・医療、住居、教育・情報、保養の提供などを含
む。

n. 核被災地の住民の権利を保障するための、各国の「補償法」を確 立し、強化すること。
o. 放射能汚染地域からの避難・移住の権利と、自発的に安全かつ尊 厳をもって帰還または他の場所への定住の選択を確実に行使できる ことを保障すること。

p. 国連憲章および主要な国際文書および関連する地域、国内、地方 の文書に基づく権利は、無国籍者または難民の人々を含む全ての 人々が、核被害によって避難した場合に保障されなければならない。

  • 核被災地から避難した国内避難民に対しては、指示による避
    難者・自主避難者を問わず、平等な条件で支援と補償を受け
    る権利と、国際基準である国内避難に関する指導原則を適用
    しなければならない。これを国の法律または地方の条例,お
    よび行政における規則等に反映させることが推奨される。
  • 避難民には帰還や別の土地への再定住,家族やコミュニティ
    の再統合に関連する政策に基づく計画の決定プロセスに参加
    する権利が保障されるべきである。
  1. 医療被曝について
    a. 全ての人は医療被曝を必要最⼩限にとどめる権利を有する。
    b. 被曝による健康リスクと患者の⽣命・健康を守るという患者に  とっての利益を⼗分に説明した上で、患者⾃⾝が選択できる権利を 有する。(インフォームドコンセント)
    c. 患者と医療従事者の被曝害を防ぐため、低線量被曝にリスクがあ ることを含む、放射線被曝の健康リスクに関する独立した最新の研 究や情報について、医学教育と医療者への再教育(研修)が必要で ある。
    d. 健診業者や私的医療機関の経済的利益を優先させない。

関西訴訟結審 ‐ 原告団長・  森松明希子氏による最終陳述

©Takezo Takahashi

原発事故で関西に避難してきた人達が、2013年に国と東京電力に対し損害賠償請求を求めた訴訟が始まってから12年。これまで避難者による約1万人を含む原告団による訴訟は30ほどあったが、国と東電の責任を認めた判決が控訴審で出されたのは3件(2020年の「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」訴訟、2021年の千葉と愛媛の訴訟)、しかし最高裁はその後2022年6月に、事故は予見できなかったものとみなして国の賠償責任を否定し、4件(前述の訴訟3件と群馬訴訟)で原告の訴えを却下した。

その一連の「原発事故避難者による訴訟」の中で、この「関西訴訟」は「しんがり」裁判でもあり、2013年9月17日に訴訟を起こしてから実に12年を経て、やっとこの2025年12月24日に最終口頭弁論・結審を迎えることとなった。この間、原告全員である79の家族が尋問を受けた。それまでの裁判では、原告全員ではなくて限られた人が尋問を受けるだけだったが、ここで大阪地裁の方法は違っていた。原告の尋問は月一度のペースで2025年9月まで行われてきた。もう一つ異色だったのは、長く続く裁判では裁判官が交代して変わっていくことが多いのだが、この関西訴訟ではずっと同じ裁判官が続けたことである。それだけに、この判決がどういうものになるのか、市民の注目を集めている。

結審は2025年12月24日に行われ、判決期日は2026年9月2日と定められた。

この日に関西訴訟の原告団長、森松明希子氏が心打つ最終陳述をしたが、そのテキストをここに紹介する。


最終意見陳述書(森松明希子)

原告番号1−1の森松明希子です。

最終意見陳述を法廷で述べる機会をいただき、ありがとうございます。

1.家族の分断と平穏生活の喪失

    福島県郡山市から大阪市に2人の子どもを連れて、今日も母子避難を続けています。

    夫を福島に残し、家族バラバラの生活も14年9ケ月となります。

    震災当時0歳と3歳だった子どもたちも、今は15歳と17歳になりました。

    中学3年生、高校3年生という多感な時期を迎えており、父親は健在であるにもかかわらず、人生について様々な相談やアドバイスを求めたくても子どもたちのそばに居られず、この14年間、子どもの成長を夫は毎日見ることができず、子育ての苦楽を私たち夫婦は共有することができませんでした。子どもたちは、「家族が、一堂に集まり、楽しく会話をしながらリラックスして過ごす」という平穏な時間、すなわち家族団欒を一切合切失うことになりました。これは原発事故による明白な被害です。

    2. 「被ばく」を避けたいという切実な願い

    それでも、私たちが母子避難を続けているのは、2011年3月11日に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故により福島県郡山市はもとより広範囲に放射性物質が降り注いだからです。放射能汚染がそこに「ある」から避難を続けるのです。本来しなくてよい「被ばく」を避けたいから、そこから避難し続けているのです。

    そして、「強制避難」ではないからこそ、苦肉の策としての「母子避難」を敢行しているのです。強制避難区域の外側からも含め、現在わかっているだけでも2万6,597人(復興庁2025年12月5日「全国の避難者数」)が今なお避難を続けています。これほど多くの人々が実際に避難を続けていても、国はこの14年間、避難者を保護する制度や施策をほぼ何も実施して来ませんでした。

    私たちは「自主避難」ではなく「自力避難」を強いられ、苦境に立たされて来ました。原因は、国策による原発事故の放射能汚染だと誰が見ても因果関係が明確であるにもかかわらず、原発避難の統計や母子避難の実態を正確に把握する努力もせず、差別や誹謗中傷の標的として晒され続けてきました。

    3. 被ばく強要という「自己決定権」の侵害

    私は、パニックを起こして避難をしたわけではありません。

    2011年3月11日、その日に存在していた基準・規範に基づいて避難することを判断し、客観的な汚染の事実と照らし合わせて避難を続けたいと申し上げているのです。

    通常一般人の公衆被ばく限度が年間1ミリシーベルトだったものを、3.11後に年間20ミリシーベルトに引き上げて(ゆるめて)、それで大丈夫と言われても、納得も許容もできるはずがありません。なぜ福島だけ高い被ばく線量を受け入れなければならないのでしょうか?これは、明らかな差別です。

    もう一点、「自主避難」に対する誤った世論があります。

    それは、自主避難者は避難するか、しないかの選択肢があたかもあるかのように捉えられています。避難の選択をしたのは自由意思に基づいた自己責任であり、自分勝手に避難したのだから被害はないかのように理解されている点です。

    これは明らかに誤りです。私たちは、避難するか、しないか、という選択肢を与えられたのではなく、「放射能に被ばくし続けるか」、それとも「被ばくが嫌なら避難するか」という、どちらも選びたくない二つの苦痛を、平穏な生活の場で、強制的に選ばされたのです。

    その被害について、何ひとつ触れずに、加害者が決めた「これくらいの被ばくなら大丈夫だろう」「我慢せよ」という被害の押し付けに甘んじるつもりは毛頭ありません。

    4. 「広報」は真実を教えてくれない

    本人尋問の中で、被告東京電力は、毎回避難元の「広報誌」を提示して「広報を見ていないのか?」「安全だと書いてある」と言わんばかりの主張を繰り返しました。

    私は裁判官の皆さんにお聞きしたいです。

    「祭り」や「入学式」を「広報」で宣伝すれば、放射能汚染の事実は無くなるのでしょうか? 自主避難区域には様々な理由でその地にとどまっている住民の方々がいます。人が住んでいれば花見もすれば夏祭りで花火も打ち上げます。「がんばろう東北」の掛け声と莫大な復興予算が投入される中、大きなイベントも開催し、あたかも「復興」したと盛り上げることはできるでしょう。

    「広報」は国や行政が税金を投入して国民(市民)に知らせたいことを知らせるものです。私は「プロパガンダ」や「大本営発表」という言葉も知っています。歴史上どういう役割を果たしてきたかも理解しています。国や行政が、国民に知らせたいことだけを伝える「広報」は、私たち避難者の知りたい真実を何一つ与えてくれるものではありませんでした。

    一方で、私の避難元の郡山市では午前・午後通しで時間制限なく屋外で運動会が再開されたのは2018年になってからです。(原発事故からは実に7年も経ってからです。)

    避難した当時、100万人に1人か2人しかかからないと言われた小児甲状腺がんは、約37万人しかいない福島県の当時18歳未満だった子どもたちの県民健康調査の結果では、現在400人近くが発症しており、誰の目にも多発の事実があります。放射能は県境では止まりませんが、公費で大規模に健康調査がされているのは福島県だけです。

    そして、当時、6歳から16歳までだった子どもたちが、東京電力を被告として小児甲状腺がんにかかったのは福島原発事故が原因だと集団訴訟を提起しています。そこでの子どもたちの証言を聞くと、「何も知らずに無防備に雨風に当たった」「親には外に出ないように言われたが友達と遊びに出てしまった」と被ばくに対して脆弱な子どもたちが無防備に放射線被ばくに晒されつづけ、それを後悔しているという事実が証言されています。

    5. 裁判官への問いかけ

    裁判官の皆さん、具体的な生活者の視点で、1人の人間として、想像してみてほしいのです。外で運動会もできないようなところで子育てをしたいと、あなたは本気で思いますか?

    あなた方にお子さんがいらっしゃるかどうか、私は知りません。ですが、あなた方にも子どもだった時代はあったはずです。運動会をはじめ、外遊びの時間を制限されながらのびのびと自由に遊びに出掛けられなかった記憶はありますか?食べ物に関して、触るものに関して、いちいち、被ばくしないだろうか、健康被害は出ないだろうかと心配して過ごす毎日を送ることが、どれほどの負担になるか、考えたことはありますか?

    ましてや、毎日飲む水道水に「放射性物質が検出された」と報道されて、その水を飲み続けることが、あなたにはできるのか? ご自身に置き換えて、そして育ててもらった親の顔を想像して、考えてみてください。

    親であれば誰しも子どもに1マイクロシーベルトたりとも無駄に被ばくはさせたくないと思うのが通常一般人の合理的意思ではないでしょうか?

    放射線量の寡多は問題ではなく、被ばくするかしないか、が問題なのです。

    被ばくするかしないかは、私が決める。それが憲法で保障された「自己決定権」を行使できる状況ではないでしょうか?

    6. 絶望を終わらせてほしい

    私は闇雲に避難したい、避難を続けたいと言っているわけではないのです。

    何度でも繰り返します。

    放射線被ばくから免れ健康を享受する権利は、人の命や健康に関わる最も大切な基本的人権にほかなりません。

    誰にでも、等しく認められなければいけないと、私は思います。

    少しも被ばくをしたくないと思うことは、人として当然のことであり、誰もが平等に認められるべきことです。

    また、これから先、将来のある子どもたちに、健康被害の可能性のリスクを少しでも低減させたいと思うことは、親として当然の心理であり、子どもの健やかな成長を願わない親は一人としていないと思うのです。

    そこには、一点のくもりもなく、放射線被ばくの恐怖、健康不安があってはならないと思うのです。

    裁判で、客観的な汚染の事実をいくら提示しても、事故を矮小化したい国と東京電力が、加害者主導で賠償基準を勝手に決めて、そのまま裁判所の賠償認定にも影響を与えるということでは、とても公平な裁判所とは言えないと思います。

    避難するためには費用もかかります。東京電力福島第一原発事故による避難の特徴的な形態となった母子避難世帯の場合、居所を2箇所に分けて二重に生活費もかかります。家族再会の費用も自力で負担しなければなりません。父子再会の費用を抑えれば、それだけ子どもが親と会えない精神的負担を強いられます。原発事故がなければ、誰も好きこのんで家族バラバラに避難することなどしません。

    そしてこれらはすべて、原発事故による放射線被ばくから免れるために、つまり、被ばく防御のための苦肉の策としての私たち家族の最善であり、明らかに原発被害なのです。

    2022年6月17日に最高裁判所が国の責任を認めないという論理的にも説得力を欠く不当判決を言い渡しました。それ以降、被害実態にそぐわない不当に矮小化された損害認定が下級審でも量産されています。

    しかし、司法がいかなる判断を下そうとも、原発事故による放射能汚染を原因とする私たち被害者の被害が消えて無くなるわけではありません。私は今日も避難を続ける必要があり、苦渋の決断で、今日もまた避難を続けています。 つまり原発事故による損害は間断なく、今この瞬間もこうむり続けているのです。

    不当な判決が出されるたびに、私は司法からも「絶望」を与えられ続けています。

    そして、無用な被ばくを避ける権利を人類が手放す「危機感」しか感じられないでいます。

    松本展幸裁判長、右陪席の寺田幸平裁判官、左陪席の清水康平裁判官、どうか、これ以上、原発被害者に「絶望」を与えないでください。

    放射線被ばくから免れ健康を享受する権利を奪わないでください。

    人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか?

    私は放射線被ばくから免れ、命を守る行為が原則であり、そのことが最優先で尊重される判決を心から希望します。

    私からは以上です。

    ドキュメンタリー映画   「サイレントフォールアウト」(2023年、伊東英朗監督、    英語版ドイツ語字幕)         ドイツ上映会ツアー報告

    2025年10月1日から9日にかけて、私がドイツ語字幕をつけ、ドイツ国内でのプロモーションを引き受けた伊東英朗監督のドキュメンタリー映画「サイレントフォールアウト」が各地で上映された。本当は、伊東監督がフランスの反核ネットワーク・レゾーの招きでフランスに来ることになっていたのに合わせ、ドイツにも招いて集中してドイツでの監督トーク付き上映会ツアーを行う予定で計画していたのだが、伊東監督が病気でドクターストップがかかったため、伊東監督の代わりに私だけが赴いて上映会が開かれた。ツアーは以下のスケジュールで行われた。

    10月1日:Braunschweig市内Universum映画館

    主催:Braunschweig市福音教会アカデミー/ブラウンシュヴァイク市日独協会

    10月4日:Kaiserslautern市内Union映画館

    主催:Friedensinitiative Westpfalz

    10月5日:ハノーファー市ラッシュ広場映画館

    主催:ハノーファー独日協会

    10月6日:ダルムシュタット市レックス映画館

    主催:ダルムシュタット平和フォーラム

    10月7日および9日:ベルリン国際ウラン映画祭オープニング、ツァイスプラネタリウム内映画館およびベルリン国際ウラン映画祭第3日目夜のプログラム、ACUD映画館

    主催:Sayonara Nukes Berlin、ICAN ドイツ、IPPNWドイツ支部、ICBUW、IALANA、平和の鐘協会、ベルリン国際ウラン映画祭

    上記の上映会ツアーでは私が監督代理・ドイツ語字幕翻訳者・プロモーションをした者として話をし、会場の質問にも答えたが、そのほかにもドルトムント、ボッフム、ツェレでも上映会が行われ、それぞれ主催者により伊東監督にも寄付が寄せられた。

    ここでは私が参加した上映会の全体的な報告をしたい。

    私はプロモーションに当たり、ドイツ語字幕付きの映画トレイラーのリンクと一緒に、あらすじと伊東監督のプロフィールなどを付けたフライヤーとともに、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年の今年に、ぜひこの映画を上映して、核兵器とはどういうものなのかを議論する場を作ってほしい、という呼びかけを知り合いの団体に回したり、SNSでも拡散していた。それでいくつかの団体が上映会を申し出てくれて、上映会が実現したのだった。

    例えば、Kaiserslauternカイザースラウテルンはサッカーファンには馴染みの深い名前だが、それ以外には特別に大きな都市ではない。しかし、ここから約9.5㎞ほどのところにヨーロッパ最大のアメリカ空軍基地ラムシュタインがあり、ヨーロッパに駐留する米空軍部隊を統轄するアメリカ空軍司令部、そしてNATO軍の航空部隊を統轄する連合航空軍司令部もある。イラクやアフガニスタンなどに航空部隊を送り込む司令が出されたのはここからだ。そのこともあって、ここでの平和運動は長い。上映会を主催してくれた平和イニシアチブも歴史が長く、ずっと軍縮、核兵器反対、武器輸出反対の運動を続けてきたグループだ。彼らは毎年一度、自分たちのテーマに合う映画を見つけては、町のアートハウスシネマであるウニオン映画館の協力を得て、上映会をしているという。今年はヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年ということがあったので、ぜひ核兵器に関する映画を上映したいと思っていたところ、サイレントフォールアウトの話を聞いて、私に連絡してくれたのだった。

    主催者グループの一人で司会をしてくれた人は、職業が歯医者だそうで、あれだけ乳歯を集めて検査した、という事実が感慨無量だったそうだ。

    ハノーファー市の独日協会では、よそものネットのメンバーでもある田口理穂さんが理事を務めており、彼女がもう一人のメンバーで「ヒロシマ連盟」という平和運動にも携わっていて独日協会のメンバーでもあるドイツ人女性と二人で、このサイレントフォールアウトをぜひハノーファーでも上映したいと努力してくれたため、この上映会が実現した。ラッシュ広場映画館というのはハノーファー中央駅すぐそばにあるアートハウスシネマで、この日曜日のマチネで上映してくれることになった。

    ハノーファーで参加してくれた男性の一人が話してくれたことが印象に残った。チェルノブイリ事故発生した時、自分のこどもはまだ小さかった。事故後、近所の公園が軒並み閉鎖され、しばらく外で遊ばせなかったことを思い出したが、あの時は、ある程度日にちが経つと「もう大丈夫」というような「解除」が州知事から出されて、公演は解放され、子どもたちがまた皆、何もなかったように普通に遊ぶようになったが、もしかしたらあの時の「大丈夫」の根拠はなかったのかもしれない、とその男性は語ってくれたのだった。

    ハノーファー市独日協会のメンバーで、ヒロシマ連盟という組織にも加わって平和運動をしているという女性は、来年1月末に核兵器禁止条約発効(2021年1月22日)5年を記念したイベントを予定しているので、ここでもぜひこの映画をもう一度ハノーファーのIPPNWグループと一緒に上映したいとも申し出てくれた。

    ダルムシュタット平和フォーラムには、Regina Hagenという反核運動ベテランの女性がいて、この人が中心になって今年、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年を記念して、核問題を扱う映画を4作、地元のアートハウス映画館で上映し、その他にも展示会や講演会、ディスカッションなどの一連のプログラムを企画した。今回上映された4作の最後の作品がサイレント・フォールアウトだが、その他に上映された作品は「ザ・デイ・アフター」「太陽が落ちた日」「風が吹くとき(アニメ版)」だ。

    伊東監督は、この映画を特にアメリカ人に見せて、放射能被害は遠い国の出来事ではなく、アメリカ人も同じように被害者なのだ、ということを伝えたいために制作した、と語っているが、実際にアメリカでの反応はどうだったのか、という質問が出た。ドイツでもチェルノブイリ原発事故後、フォールアウトが風に乗ってことにドイツ南部を襲って土壌を汚染したので、その時の影響でバイエルン地方では例えば、今でも野生のイノシシやキノコは放射能汚染されている。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の核実験の影響、チェルノブイリ、フクシマなどの原発事故の影響、核のゴミ、原発・核施設周辺で出される放射線などがずっと地球全体を汚染していて、汚染されていない場所はどこにもない、というマンガノ氏の映画の最後の言葉が会場で繰り返された。

    また、ケネディ大統領は、イギリス、ソ連の間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を1963年にモスクワで調印したが、この条約では、地下を除く大気圏内、水中、宇宙空間での核実験を禁止するものの、地下核実験は禁止されなかったこと、そして1996年にやっと、宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発、その他の核爆発を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が国際連合総会によって採択されて翌年1997年に批准されたが、いまだに核兵器保有国を含む44か国が批准していないため、未発効だ。従ってアメリカも、イスラエル、イラン、エジプト、中国が署名のみで批准していないし、朝鮮、インド、パキスタンは署名すらしていない。核爆発を伴わない未臨界核実験はこの条約の対象ではないため、アメリカとロシアで臨界前核実験は繰り返し行われているし、インド、パキスタン、朝鮮はそれから核実験を行っている。そして今、第二次トランプ政権のもとで、再び核実験を行うという議論がされているようだ。またトランプ政権下で、このサイレントフォールアウトに出てきたような風向きの情報やその他のフォールアウトの情報などがどんどんインターネットで見られなくなってしまうのではないかという懸念が増加した、というコメントも出た。

    7日と9日はベルリンでの国際ウラン映画祭という場を得て、私のイニシアチブでICAN、IPPNW、ICBUW、IALANA、平和の鐘協会とSNB主催で2回も上映会を実現することができた。7日はウラン映画祭のオープニング映画としてツァイスプラネタリウムの映画会場で、そして9日はACUD映画館で上映された。7日は私が伊東監督のメッセージを伝えたり映画の裏話などを話し、会場からの質問にも答えたが、9日はICANドイツの理事の一人であるヤニーナ・リューター氏、ICBUWの代表であるマンフレッド・モアー氏、そして私が、国際ピースビューローのルーカス・ヴィルル氏の司会でパネルディスカッションを行った。

    ここでのディスカッションでは特に、この映画の中でケネディ大統領が発表する部分的核実験禁止条約(PTBT)と、包括的核実験禁止条約(CTBT)、それから2021年に発効した核兵器禁止条約について触れた。部分的核実験禁止条約は、正式名を日本語で「大気圏内、宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約」と言い、映画の中でケネディが語るように、1963年にモスクワで正式調印され(アメリカ合衆国、イギリス、ソ連)、それから108か国が調印して、発効した。しかし中国、フランスを含む十数か国が調印しなかったこと、それから地下での核実験が除外されていた(のちにアメリカとソ連間で地下核実験制限条約が著名され、地下核実験での最大角出力を150ktに制限することが決められたが、1990年まで批准されなかった)。

    それで1996年にようやく包括的核実験禁止条約(地下核実験も禁止対象)が国連総会で採択され、186か国が署名し、178か国が批准したが、発効要件国とここで設定されている核兵器保有国を含む44か国が批准していないため、未発効である。

    ICBUW代表で国際法専門家であるManfred Mohr氏(今年もかざぐるまデモで演説してくれた)は、ここで興味深い話をした。2021年に核兵器禁止条約(TPNW)が発効したが、これは、発効要件が厳しかったために包括的核実験禁止条約がいまだに発効できないでいることからの教訓を得て、発効に必要な批准国数として50か国と設定したため(さらに核兵器保有国を含むとしない)、それで発効が実現できた、ということだった。この核兵器禁止条約の国連総会での採択や条約の推進には、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)とそこから独立して結成されたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が大きく貢献しており、それで2017年のノーベル平和賞を受賞しているのだが、残念ながらここには核兵器保有国だけでなく、いわゆる「核の傘下」を謳っているドイツ・日本を含め、ほとんどのNATO加盟国も署名していない。それでも、この締約国会議では、例えば実際に核実験で汚染され、被害者援助や環境修復に関する国際信託基金を作ることや、環境修復するための科学顧問グループなどを作るなどの検討会議が開かれている。そこに去年まではドイツもオブザーバーとして参加していたのだが、ウクライナ戦争などから地政学的状況が変わった、ということを理由に今年3月の会議にドイツはオブザーバーを送ることをやめてしまった。そのことに対する批判もこのディスカッションでは出された。ちなみに日本はヒロシマ・ナガサキ原爆投下を体験した国でありながら、オブザーバーにすらなったことがない。

    それでも、このサイレントフォールアウトの中で描かれている、子どもたちを守るために乳歯を集めて検査し、政治を動かした女性たちのように、政治家、専門家のいいなりになることなく、自分や自分の愛する人たちの健康、生活環境を守るために情報を集め、自分が納得できない場合にはとことん調査し、データ収集してそれを同じ懸念を持つ仲間同士で共有し合い、話し合って、抵抗しなければいけないところではしっかり抵抗する、声を上げる、改善を求める、そういう市民運動がいかにこれからも欠かせないか、結局は自分の生を自分で守っていくために市民が力を合わせていくしかないという、連帯や市民運動の重要性を確認して、ディスカッションを終えた。(ゆう)

    フランス・ノルマンディー地方で行われた「抵抗」フェスティバル参加報告

    Les Résistantes „Rencontres des Luttes locales et globales” ‐Terres de Luttes

    2022年8月に私は、フランスで高レベル放射性廃棄物最終処分場が計画されているビュールで行われた大きなビュールレスク反核・反原発フェスティバルに参加したが(報告記事:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2022/08/18/%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%82%af%e8%a8%aa%e5%95%8f%e8%a8%98/)、2025年の今年は、反核・反原発というテーマだけにとどまらず、現在世界で起きているあらゆる社会的政治的軍事的人道的環境・生態的問題点を取り上げ闘い、運動しているグループ、団体を総動員して「レジスタント」(抵抗運動自体は「レジスタンス」だが、レジスタントというのは抵抗するの形容詞でもあり、抵抗する強さ、堅牢さも指し、さらに抵抗する人たちのグループ、という意味にもなる。ただし、なぜ女性系の複数なのかははっきりしない。「闘い」が女性だからか?)という名のフェスティバルに参加した。これは、フランスのノルマンディー地方オルヌ県のサン・イレール・ド・ブリウーズという田舎の村で市民グループTerres de Luttes(土地を守る闘い、とでも訳すか)を主とする主催者により催された。このグループは、土地を不毛にするだけで、自然(大地)にとってもそこで生を営む人々や生物、植物、環境にとっても有害ばかりで無益、反民主的な大計画(土地整備・開発)に反対する各地の草の根の運動の間をつなげ、ノウハウを共有して連帯しているネットワークのような集まりといえようか。

    どんな発想から始まったかは知る由もないが、最終的に計画実行されたのは大規模な市民フェスティバルで、これだけたくさんのテント会場や駐車場などを仮設する土地を見つけるのは容易ではなかったはずだ。だから実際に、会場のすぐ隣に駐車場が作れなかったなどの問題点もあり、大きな酪農地をもっている農家の人が提供した土地(通常は牛が放牧される場所)で、開催が可能となったと聞いた。

    以下がそのプロモーション動画:

    3年前私が参加したビュールレスクの開催に協力したフランスの最大反核団体ネットワークであるRéseau Sortir du Nucléaireがこのレジスタントにも協力団体に入っていたため、反核・反原発テーマももちろん「抵抗運動」としてここで取り上げられていた(ちなみに、このネットワークも含む反原発・反核・処分場反対等の各団体は今年も共同で、9月にビュール地方で規模は3年前よりは小さいものの、最終処分場計画に反対するマニフェストアクションを計画している:La manif du futur : à Bure contre la poubelle nucléaire

    信じられないほどのたくさんのイベント(ディスカッション、展示パネル、各グループのインフォスタンド、アクション、映画上映、芝居などなど)がいくつも同時進行であらゆるテントや野外で行われ、その数も種類もあまりにたくさんで、プログラムもはっきり言って見にくく、どこで何が行われていて、自分は何を見たいか、何に興味があるかを探し出すのも一苦労なのは確かだった。それにこのフェスティバルは8月7日(木)から始まり、8月10日(日)まで続いたのだが、そこにその間訪れた人たちの数は合計で約7500人(主催者側の発表)ということもあって、野外トイレの設置や食事や飲み物の提供、子どもの遊び場、救急医療体制、音響技術、はたまた最寄りの駅からの送迎バス(最寄りの駅からはかなり何キロもある)、駐車場(いくつかに分かれている)のロジスティクス、その案内・門番係だけでもたくさんのボランティアを総動員しての大イベントだった。

    広いフェスティバル会場にはいくつもの大きなイベント用テントが        建てられていた

    私は前回ビュールレスクを訪問した時のように、フランスのよそものフランスのパリのグループ数人と、遠くの隣人3.11のグループ数人とでパリで合流し、2台の車(1台はよそものメンバーの一人の自家用車、1台はレンタカー。車がないとフェスティバルの場所と借りていた休暇用貸家との往復や買い物などができないため)にブースで使う折り畳みの机や椅子、横断幕、資料と私たちの荷物を載せ、さらに4人は電車でノルマンディー地方のArgentanという駅まで向かった。

    ここでは、上記のフランスの最大脱原発ネットワークRéseau Sortir du NucléaireとTerres de Luttesにより今回、ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年ということで、広島平和記念資料館資料調査研究会委員、都立第五福竜丸展示館専門委員も務める奈良大学文学部史学科の高橋博子教授が招かれていた。それで私も彼女と知り合いになる機会に恵まれ、一緒に時間を過ごし、お話をうかがうことができた。彼女はヒロシマ・ナガサキ原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証という研究を続けてきた方だ(著書に「封印されたヒロシマ・ナガサキ: 米核実験と民間防衛計画」、「核時代の神話と虚像――原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史」など)。

    このフェスティバルでは、高橋氏の演説、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というタイトルでの円卓会議への高橋氏の出席、長崎原爆忌である9日の朝は、(私も秋にドイツで上映会を予定している)伊東英朗監督の映画「Silent Fallout」のフランス語字幕付きの上映会(その後の討論に高橋さんが参加)が予定されていた。そのほか、よそものフランスが、広島平和記念資料館、長崎原爆死没者追悼平和祈念館から被爆者が描いた絵を選んでデータとして借り出し、それをA2の大きさにきれいにプリントアウトしてラミネート加工し、キャプションも丁寧に翻訳して、フェスティバル開催中誰もが見られるように展示されることになっていた。

    残念ながらパリからArgentanの駅に到着して、駅前で車組と電車組が合流して昼食を取った最初の日から私たちは不運が続いた。2台の車のうち、1台はフェスティバルの会場でよそものフランスと遠くの隣人3.11の共同ブースの設置や、被爆者の絵の展示の準備に会場に向かい、もう1台は食料の買い出しをしてから高橋さんを宿泊先に送り届け、私たちの宿泊先にもチェックインする予定だったのだが、あいにくこのレンタカーが故障してしまい、道中レッカー車を手配して運び込まれることとなった。

    私はフェスティバルに向かう組だったが、駐車場の標識がわかりにくく、また駐車場自体が会場からとても遠くて、会場設置用の荷物があるから、入り口まで行かせてほしいという頼みも剣もほろろと厳重に断られ、私たちはなんの陰もない田舎道や土地を強い日差しと高い気温の中、えんえんと歩かされる羽目となった。駐車場からこれだけ歩かされるのでは、若い人はともかく、年配の方やハンディキャップのある方たち、ベビーカー連れの家族などはどんなに大変か、と思われる感じで、しかも人によって説明や指示が異なったり、コミュニケーションが全体に行き通っていないのを感じた。入り口にたどり着いても、そこから反核・反原発・放射性廃棄物処分場建設反対の団体が集まっているブース用テントまで標識もない中をかなり歩き、やっと着いた時には私は半分熱中症になった感じで、しばらく日陰で腰をおろして休憩しなければならなかったが、飛幡祐規さんははるばるパリから車を運転しただけでなく、何度も遠い駐車場から会場を行ったり来たりし、関係者と交渉し、役立たずの私とはまったく対照的な活躍ぶりだったが、この彼女の精力的な活躍は、最後パリに帰り着くまで続いた。

    駐車場から会場入り口までなかなか到着しない長い道のりで、          「あともうちょっとだよ」という標識が出た時は思わず失笑

    一方、同じころレンタカーが買い物をした後で故障してしまった車組は、車を脇道に入れたまま、レンタカーに連絡したもののレッカー車が来るまで、結局何時間も待たされていたのだった。そんなつもりではなかったため、皆がわずかな飲料水しか持っていなくて、暑い中を杉田さんが最後まで持っていた少ない水筒の残りを皆で分け合いながら飲んだということだった。

    というわけですっかり恵まれない星の下で私たちのレジスタントフェスティバルは始まった。次の日、金曜の高橋さんも出席する「円卓会議」(テーマ:「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」)は夕方から開始だということで、金曜はゆっくりでかけた。被爆者の絵の展示は、展示用のイーゼルを真似たスタンドが木曜はしっかりできあがっていなかったのだが、それも完成し、見事に並び、思わず立ち止まって説明を読み、絵に見入ってしまう、といった人たちがフェスティバル開催中、続いた。これは私もぜひベルリンでも原爆投下から80周年の今年、実現したかったのだが、ICANやIPPNW、ICBUWなどとも相談したのだが、展示する場所も資金もなく、あきらめたものだ。やはり原爆投下後の写真や被爆者の写真とは違い、実際に被爆した人たちがその体験を絵に描いたものというのはまた別の大きく人の心を揺さぶるものがある。そして大切なのはそれぞれの絵についているキャプションで、そこにその絵をめぐるストーリーが隠れている。広島平和記念資料館と長崎原爆死没者追悼平和祈念館のウェブサイトで見ることのできるたくさんのイメージデータの中から、力強い絵を何枚も選び出し、それをデータとしてプリントアウトし、キャプションも丁寧に翻訳してこれだけ力強い展示会を実現したよそものフランスのメンバーを称えたいと思う。

    圧巻だった被爆者の絵の展示。たくさんの訪問者が足を止めて          じっくり見て、説明を読んでいた

    次の金曜日に行われた「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマの円卓会議には、もともと予定されていた最初のコンセプトからどんどん変わってしまい、会議に並ぶ面々もかなり増えてしまった、という話を聞いていた。それにしても、テーマもさることながら、きっと自分たちの応援するグループの誰かが出席している、などの理由か、会場は開始前からあふれるほどの人々が入り込み、席が足りずに地面にじかに座り込む若者たちも大勢いた。高橋さんだけがフランス以外から来た方として壇上に並び、彼女は英語で発言するため、同時通訳用のイヤホンなどが貸し出され、ブースにも同時通訳の人たちが並んだ。これだけ盛況に始まったのはいいが、実際に見せられたものは円卓会議でもパネルディスカッションでもなんでもなかった。私のフランス語ヒアリング能力では残念ながらすべてを理解することはできなくて、完全にいろいろな内容が把握できたわけでも、各グループの背景などがわかっていたわけでもないので、後から情報をよそものフランスの飛幡祐規さんや遠くの隣人3.11の杉田くるみさんに補ってもらったことを、ここに記しておく。

    モデレーションをすることになっていた男性はいたのだが、その彼も、舞台正面のテーブルに所狭しと座っていた円卓会議「発言者たち」も、自分が参加している、または率先して行っている「闘争」について饒舌にまくしたてるだけで、「世界の再軍備」という本来のテーマで、その数々の世界における武力衝突、戦争、植民地主義的・帝国主義的・構造的レイシズムを推し進めるような政策の共通点や違いを比べることも、根本にある共通の問題を問うこともなく、どう異なる場所や問題を超えてお互いに連帯しあい、「再軍備」を超越することが可能か、という話にはいっさいならなかった。

    大体、司会者であるはずの人がいっさいモデレートすることなく、わざわざ日本から招待されてここまで来た高橋氏をしっかり紹介することも、彼女がこの「再軍備」のテーマの円卓会議で発言をすることの意味を語ることもなく、たくさんの世界各地の現在の「武力衝突・戦争に対する市民闘争」をしている人たちの話から浮き上がってしまう形になってしまったことがとても残念だった。しかも、彼女はこのフェスティバルで演説するために、彼女の今回の発言内容はすでに用意されていた英語のテキストが渡されてあったにもかかわらず、同時通訳者はそれをまったく読んでも準備してもいなくて、高橋氏の英語での発言の仏訳は間違いだらけだったと、飛幡祐規さんが嘆いていた。高橋さんの横に座って彼女の次に話をしたのが、Patrice Bouveret氏 (グループObservatoire des armements代表、武装監視市民グループとでも訳すか)だったが、彼の話が唯一、この円卓会議発言者の中で高橋さんおよびテーマに繋がる話をしたと私は理解した。

    この司会をしなかった司会者はCoalition Guerre à la guerre(戦争に対する戦争連合、とても訳すか)という連合の代表で研究者のMathieu Rigouste氏という人で、現在は、植民地支配で培われてきた軍や警察の抑圧的暴力的な取り締まり方法が、治安問題における国内の「敵」に対して使われるようになっている、という視点から反軍備、反軍拡を主張しているようだ。このGuerre à la guerre(戦争に対する戦争)というのはもともと、アメリカの哲学者William Jamesが19世紀後半に確立した表現「War against war」の仏訳だ。この表現に対するWikipediaの英語版を読んでいたら、これは20世紀初頭にヨーロッパでも平和主義・反戦運動のスローガンとなった表現であり、平和主義アナキストだったドイツの作家Ernst Friedrichは、これに同調して「Krieg dem Kriege」というタイトルで1925年にパンフレットを出版し、この翻訳がヨーロッパ中に広がったという。彼は1924年にベルリンで反戦博物館(Antikriegsmuseum)を開館し、新しいラジカルな抵抗運動を提唱したという。もちろんこの博物館はナチス台頭でヒットラーが政権を取った1933年に破壊され、Friedrichもベルギーに逃亡せざるを得なかったようだが、彼はWar Against Warというタイトルで本まで出版している。(詳しくはこちらを参照:https://en.wikipedia.org/wiki/War_against_war

    ここで提唱された理想を継承する形で、現在ウクライナやパレスチナでの戦争をきっかけに、フランスやEU、そして世界全体が軍拡に舵を切っている状況に対し、これではいけない、その傾向に抵抗していかなければならない、と左派の団体や個人が集まってできたのがこの新しいGuerre à la guerreという連合だそうだ。ここに、反核・反原発の運動も参加すべきだという指摘があり、それに賛同するグループが加わっていくことになったらしい。ただ、この円卓会議はもともと、フランスで反核・反軍備をずっとやってきた前述の武装監視市民グループ(Observatoire de armements)の代表と高橋博子さんが中心になって進めるという計画だったはずなのに、Guerre à la guerreの運動が結びついたことで、この連合の中心的存在であるSoulèvements de la terre(大地の蜂起、とでも訳すか)連帯グループの人たちに、ある意味乗っ取られてしまった感じらしい。それで私の耳にも繰り返し「Guerre à la guerre」という言葉が聴こえた理由も納得できた。ただし、戦争、武装、軍拡に対し、どのように闘い、それを抑止、または縮小して平和への道を築いていけるかどうかのビジョンや、あらゆる武力闘争・戦争の共通の問題を問いただす視線は、ここでは覗えなかったと思う。

    名ばかりの円卓会議は超満員だった

    とにかく、この名ばかりの「円卓会議」で、唯一遠い国からはるばる招かれてきていて、フランス語話者ではない高橋さんだけが異様に浮く場となってしまったのは、この円卓会議の主催者と司会の完全な失敗であり、高橋氏に対してとても失礼な扱いでもあっただけでなく、「世界の再軍備に対してどう闘うべきか」というテーマにふさわしくないイベントとなってしまった。今、世界各地でどんどん進められている再軍備・軍拡の共通の問題を問いただし、どうやってそうでない平和運動を目指すことが可能か、なにを互いの闘いから学ぶことができるか、どんな歴史からの教訓があるか、議論することができれば意味があっただろうし、すばらしい機会であったはずなのに、残念だったとしかいいようがない。

    ただ最後まで耳に残ったのは、「Guerre à la guerre」だった。私は個人的には、Antikrieg、反戦、反暴力、反武装はもっともだが、戦争に対しても戦争・闘い、という表現を用いるのに抵抗がある。この表現には武力的、暴力的な印象があり、不適切に聞こえ、自分では使いたくないと思うのだ。Krieg dem Kriege、戦争に対する戦争、と言ったところで、具体的になにを示すのか? 戦争をやめるためには手段を択ばない、という立場には私にはなれない。戦争をやめるために暗殺やテロ行為を認めるわけにはいかない。「Guerre à la guerre」に参加している人たちがそういうことを主張しているというわけではもちろんないが、戦争に反対するばかりにそれに対し戦争を宣言してしまうと、そういうラジカルなものも許してしまうニュアンスが生まれてしまうので、私にはあまり使いたくない表現だ。とにかく、この「円卓」ならぬ円卓会議は、私にはとても不満なままで終わった。

    次の日、8月9日は朝早くからドキュメンタリー映画「サイレント・フォールアウト」(伊東英朗監督)の上映が行われた。これは、私も10月からドイツ各地で上映会を行うべくドイツ語字幕版を作ってプロモーションしている映画だが、フランスでは遠くの隣人3.11.がフランス語字幕版を作り、フランス各地で上映会を行っており、このフェスティバルでもその上映会が実現したのだった。遠くの隣人3.11のメンバーである杉田くるみさんが司会をし、上映後は高橋博子氏がこの映画のテーマ、背景の解説者として話をした。

    マンハッタン計画ですでにアメリカ軍は放射線兵器開発をして、人体実験もしていたこと、だからこそ放射能フォールアウトの問題性をアメリカは世界に知られては困ると、できるだけ放射能の影響を矮小化し、隠蔽しようとしていたこと、ABCCも米エネルギー省が管轄していたもので、ヒロシマ・ナガサキでの原爆投下後の調査も、その後のマーシャル諸島での一連の核兵器実験での調査も、次の核戦争の準備のために行われていたのだという、高橋さんの研究結果を踏まえた話が力強く語られた。

    左から:ICAN FRANCEのJean-Marie Collin氏、よそものフランスの        飛幡祐規さん、奈良大学の高橋博子さん、遠くの隣人3.11の杉田くるみさん

    また、この映画にでてきたように、乳歯を集めることでかなりのフォールアウトの分析ができるのに、それをフクシマ原発事故後に始めようと言い出した人が当初は自民党の福島県議員にさえいたのに、その後その話は姿を消していき、「乳歯を集めることの意味のなさ」を説明する話に取り替わって、福島県を中心に乳歯を集めるという企画は水に流されたことも、話してくれた。「サイレント・フォールアウト」はまさに、アメリカ本土でのアメリカによる核実験による放射能汚染とその影響を調べるために、大々的に乳歯を集めたプロジェクトをある女性医師がイニシアチブを取って始め、分析を可能にしたことを土台にしたドキュメンタリー映画なので、高橋さんの解説はとても大切な補足情報となった。

    そしてこの映画は、女性たち(母親)が子どもを守ろうとして立ち上がったことを示すものでもあるが、司会の杉田くるみさんが、日本のフクシマ原発事故後も、母親である女性が主に、子どもたちを放射能から守ろうと、夫(子供の父親)と離れ離れになろうとも自己避難し、一人で故郷を離れ子どもと新生活を始め、差別や非難に晒されても、国・自治体や東電からの援助や損害賠償の欠乏にも耐え、それでも子どもがさらなる差別に遭わないようにとできるだけ名前を表に出さないようにし、子どもを支えながら事故発生後からずっと頑張ってきている、その女性たちに対し大いなる尊敬の意を表したい、と語り、会場の拍手を買ったが、私もまったく同感である。

    また、ヒロシマ・ナガサキや、サイレント・フォールアウトに出てきたアメリカによる核実験による被害の話だけでなく、ICAN Franceの男性が、フランスがアルジェリアや南ポリネシア、ムルロア環礁でおこなった核実験の被害についても語って、情報を補足したのは、とてもよかったと思う。

    正午になって、たくさんのフェスティバル参加者たちが昼食のための長い行列を作る横で、原爆投下から80年を記念したアクション行列に私も参加し、横断幕を掲げながらフランスのICANなどを始めとする運動家たちと一緒に練り歩いた。ここでは、スティルツ(竹馬のようなもの)で背を高くし、仮面を被った「死神」が鎌で人をどんどん打ち倒していく(要するに倒された人たちはそこでダイイン)というパフォーマンスや、招かれた舞踏家のダンスなどがあった。よそものフランスにいた、今は亡くなってしまったメンバーの一人が、毛糸の残りなどを使って編み、さらに刺繍やパッチワークをして作ったという、オリジナルの素晴らしい編み物横断幕があり、私もそれを持たせてもらって一緒に行進した。この横断幕はそれだけで十分にアート作品なので、たくさんの人が写真を撮っていた。ただ、この日も昼間はものすごく暑く、さらに会場はテントを出ると日陰というものが一切ないので、この日帽子を宿に忘れていった私としてはなかなか辛かった。

    夜は、毎晩いくつものテントで遅くまであらゆるコンサートが開かれているようだったが、9日の夜はLGBTQ+の人たちが多いパンクロックといった感じのコンサートがあり、そこでコンサートの合間に高橋さんを舞台に登場させて演説してもらう予定だという。それからその頃、会場のどこかで、原爆投下80年を記念して、ランタンを空に昇らせる、ということだった。最初はどの程度の規模のものなのか、高橋さんの演説がそんなコンサートの会場で聞く耳をもたれるのか、疑問だったのだが、蓋を開けてみたら、それは素晴らしい驚きとなった。

    皆が熱狂して踊っているコンサート会場で、舞台のバンドが休憩で引っ込むと同時に、高橋さんを紹介すると言って、その前から高橋さんのプロフィールなどを彼女に直接インタビューして話を聞いていた若いタトゥーも見事な男性(彼もクイアかな)が、それまでに音楽に酔っていた会場の聴衆の熱を冷まさずに、ラップとも思われるノリで高橋さんを紹介し、彼女と通訳の飛幡祐規さんを舞台に呼んだ。そこで熱狂的な拍手と歓声で迎えられた二人は、レジスタント・フェスティバルのトレードマークである拳を上げている「抵抗」のロゴが背後にそびえる舞台で、力強い演説を行った。高橋さんもその熱い歓迎に応えて、演説の前に「音楽がレジスタンスであることがよくわかりました!」と英語でいうと、観衆はまた熱烈な歓声で応えた。それから高橋さんが用意してあった演説(彼女の演説はこちら:https://sayonara-nukes-berlin.de/ja/2025/08/11/80-jahrestag-der-atombombenabwurfe-auf-hiroshima-und-nagasaki-august-2025/)を区切りながら読み、その仏訳を飛幡さんが読んだのだが、その区切りのたびに観衆は最後まで歓声や指笛で応酬していて、こんなにこの反核テーマで盛り上がった演説はこれまでになかったのでは、と思えた。

    熱狂に包まれたコンサート会場での高橋博子氏の演説

    高橋さんの演説をこのコンサートの合間にするというアイディアは、ビュールで最終処分場計画に反対するグループで活躍しているアンジェルという女性が強く推したからだそうだが、単に「世界初の原爆投下から80年を記念して」というタイトルでは決してこれだけの人が集まらないことが安易に予想されるだけ、こういうところで演説をさせることによって、こういうところでなければ、きっとこのテーマに関する演説を聞くことはなかっただろうというタイプの若者たちにも耳を傾けてもらうチャンスとなったので、まさに大当たりのアイディアだった。ここにいた人たちも、マイノリティーとして差別や弾圧、人権問題に敏感にならざるを得ない当事者であることが多いと考えられ、それだけに高橋さんのスピーチが受け入れられたのかもしれない。

    ちょうど高橋さんが舞台で熱狂的な応酬を得ながら演説していているときに、大きな気球が「No Nukes」と日本語で「脱原発」と書かれた垂れ幕を付けて空に上がった。それから、紙のランタンがいくつもいくつも上げられていくのが見えた。高橋さんが拍手喝采を得て演説から戻ったときには、彼女の出番をコーディネートしてくれていた若い女性が「高橋さんが見られるように、最後の2つを取ってあるから、ぜひ一緒にきて」といって私たちをランタンを飛ばしている、少し離れた場所まで連れて行ってくれた。そこで、私たちは高橋さんとともに最後の2つのランタンに火を点けて、空に飛ばすのを体験できたのだった。レンタカーが故障して車が1台しかなくなり、移動が難しくなった私たちを助けて、車での送迎を引き受けてくれていたGuyさんという主催者の一人の男性が、その最後のランタンが空に昇るときに「No more Hiroshima Nagasaki, plus jamais ça!」としっかり声を上げていたのが嬉しかった。

    このように、最初はかなり印象が悪く、悪運も続いて始まったレジスタンス・フェスティバルだったが、この9日は長丁場の一日で疲れたことは疲れたが、とてもいい結果となり、高橋さんもわざわざ訪れた甲斐があり、とても喜んでいた。このコンサート会場での演説は、忘れがたい思い出となった。全体的には、確かに問題点が多く残り、不消化気味の、オーガナイズが今一つよくない、大きくなり過ぎたフェスティバル、という印象は残ったが、あらゆる「抵抗運動」を1か所に集めて提示する、というのは興味深い試みだと思う。それも、これだけあらゆる問題が満載している今の世界では、そういう俯瞰図的な視野、全体像を見る試みは必要なはずだ。抵抗しなければならない問題、対処していかなければならない問題は、山積みにあり、増える一方だ。

    これまでにもずっとあったあらゆる環境問題は悪化の一途をたどっており、解決されない原発や核廃棄物とその最終処分場計画問題に加え、ウクライナやガザ、スーダンなどで現実に悲劇となっている戦争の実態、それにともなう世界の武装強化、はたまた当たり前のように議論され始めたヨーロッパ独自の核の傘構想がある。あっという間に軍事費のGNPに対するパーセンテージが各国で吊り上がったことは言及するまでもない。同時に気候変動は確実に進んでおり、あらゆる土地の砂漠化、森林火事の増加(ちょうどこのフェスティバルの間も、南フランスの各地で大きな森林火事がニュースとなっていた)洪水や水不足、猛暑記録の更新などは日常茶飯事だ。それなのに、相変わらず石油や石炭は惜しまず使われており、土の地面をコンクリート舗装して覆い、断熱対策をきちんとしないまま大都市のヒートアイランド現象は増加している。飛行機のCO2 の排出量が高いことは知られているのに、ローコストキャリアの運航サービスで、鉄道よりも安上がりに観光のための長距離旅行ができるシステムはいまだに変わらない。グリーンディールとしてEUがかつて掲げていたあらゆるエネルギーシフトのための政策はどんどん骨抜きとなっていっている。

    レジスタント直後に開かれていた、プラスチック環境汚染を規制するための国際プラスチック条約交渉も、合意に至らなかった。気候変動の対策に関する各国、EUまたは世界のコンセンサスもできないまま、さらにたくさんの人命を奪い、その人たちの築いている生活、社会、生命線、インフラストラクチャー、住居、農地を夥しいエネルギーを使って破壊する戦争が各地で続けられており、それらに私たちはなんらかの形で望む望まないにかかわらず加担させられている。性暴力、あらゆるマイノリティに対する差別、人権問題、レイシズム、女性蔑視、LGBTQ+差別、そして新植民地主義的思想や支配構造もなくならない。

    そして、市民が「抵抗」せずにいられないのは、一部の独裁者、権力者、資産家、グローバル企業などが自分たちの利害獲得や維持のために、環境・生態系を破壊し、資源を独占・消耗し、社会・共同体を破壊し、権力・軍事・経済力で人々の生命を殺傷し、生活手段を奪い、貧困や飢餓を招き、経済的精神的なトラウマを生み出し、一方でその罪も自らもたらした加害の事実も認めないばかりでなく、あらゆる影響・損害を矮小化し、黙殺し、なかったことにするか事実を書き換えようとすることがあらゆる場所とレベルで行われてきて、それに声を上げずにはいられないからだ。そういう意味で、私たちは「抵抗」し、闘って解放と変革・改善を求めていかなければいけないものに囲まれて生きているともいえるし、同時にあらゆる異質の抵抗がその根元で、同等であるべき人間の尊厳に関する「人権問題」なのだということもできる。だからこそ、このフェスティバルのようなありとあらゆる「抵抗」運動を集めて一緒に問題提起しよう、連帯しよう、交流を深めよう、という試みはとても意義あることだと、私は思う。ただ同時に、これだけ多彩多様な運動、グループ、市民たちを集めるだけの意義にふさわしい、交流・発表・マニフェスト・話し合いを可能にするためには、それなりのモデレーションとビジョン、方向性、シナリオが必要だと感じた。

    手作りのベンチにはリラックスのシンボルと                    抵抗の拳のシンボルが両方描かれている

    私の知る限り、まだドイツではこのようにあらゆる抵抗運動を1つに集中させてフェスティバルの様な場で集まり交流し、意見・情報交換しよう、という試みはまだ行われていない。オーガナイズはかなりカオティックではあったが、それでもこれだけボランティアを集め、あらゆる企画を実現させ、合計7500人もの参加者を集めたのは凄いことだ。資金もかなり必要だっただろうし、ボランティアの数は約2500人いたという。こうしたアクションに情熱をかけ、エネルギーと時間を注いで頑張る人たち(特に若者たち)がこんなにもいることが、まさに今、日々少なくなってきている希望の光であると思った。この光がたくましく育つよう、私も非力ながら私なりの努力を今後も続けていきたいと思った。(ゆう)

    核へのレジスタンス

    ヒロシマ・ナガサキ原爆投下から80年

    高橋博子氏の演説

    ©Hiroko Takahashi

    本日2025年8月6日は、アメリカ合州国政府による広島への原爆攻撃から80周年にあたります。この攻撃による「爆風」「熱射」「放射能」によって残酷な被害をもたらしたこと。そのことを正面から考えなくてはなりません。

    この原爆攻撃によって何が起こったのか。現在に至っても核被災の実態は人類共有の体験として充分には共有されてきておりません。とりわけ核のフォールアウトの人間や環境への影響については実態が隠されています。その理由としては、第1に、原爆の影響については日本占領期に情報統制があったこと、第2に、放射線影響研究そのものが軍事機密情報として扱われ続けていること、第3に、米国政府は原爆の威力については公表するけれども、国際法違反に問われかねない情報については公表せずにきたことがあげられます。そうした中で核被災者の救済や援護は国際政治の中でも国内政治の中でも構造的に放置されてきました。

    広島・長崎の場合、爆風・熱射・放射線が生じますが、原爆の炸裂後1分以内に発生する放射線を初期放射線、それ以降に発生する放射線を残留放射線という。残留放射線のうち放射性物質がチリ・ほこり・雨などに付着して広い範囲に降下することを核のフォールアウト(放射性降下物)といいます。この影響は過小評価され、核被災者の救済や援護は国際政治でも国内政治でも構造的に放置されてきました。核被災者を軽視することから、更なる核被災者が出てきているのです。

    米ソ冷戦下「国家安全保障」の名の下で、国家レベルでは核被災者は放置されてきましたが、ジャーナリスト・科学者・知識人、そして市民による実態解明・救済活動はこの80年様々な形で実施されてきました。フランスでも1959年に公開されたアラン・レネ監督の映画『HIROSHIMA MON AMOUR』は広島での悲惨な原爆の影響を示す映像を使用しました。

    グローバル・ヒバクシャによる運動も高まってきました。逆に訴えなければ何も救済されない80年間だったのです。原爆症認定集団訴訟、広島「黒い雨」訴訟、ビキニ水爆被災訴訟、長崎被爆体験者訴訟、福島原発訴訟と核被災者は裁判に訴え続けてきました。いずれも直接的・間接的の違いはあるものの被告は日本国政府です。日本政府はアメリカによる原爆攻撃直後、毒ガスの使用や不必要な苦しみを与え続ける兵器を禁止したハーグ陸戦条約違反だとしてスイス政府を通じてアメリカに抗議しました。しかし日本政府による抗議はこれだけです。現在に至るまで80年にわたって、日本政府は抗議するどころかアメリカと一緒になって原爆の残虐性を否定し続けています。日本外務省の公式な見解としては「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です」、「核兵器禁止条約では、安全保障の観点が踏まえられていません。核兵器を直ちに違法化する条約に参加すれば、米国による核抑止力の正当性を損ない、国民の生命・財産を危険に晒(さら)すことを容認することになりかねず、日本の安全保障にとっての問題を惹起(じゃっき)します」などと言って核兵器禁止条約にも参加しません。それどころかアメリカと一緒になって核兵器の残虐性、とりわけ残留放射線・内部被曝・フォールアウトの影響を過小評価したり否定しているのです。また、放射線被ばくは成長する子どもたちにとりわけ大きいことは早くからわかっているにも関わらず原発事故の影響も含めて子どもたちへの影響は隠されてきました。

    こうした日本政府に対して、私は幾つもの裁判で、放射線人体研究が人を救うためではなく、核戦争の準備や放射線兵器の開発のため、いかに医学研究として問題があるのかについて歴史的に検証した意見書を提出してきました。これは私の「原爆投下肯定論」「核抑止論」「戦争正当化論」に対するレジスタンスです。そして未来を核被災から守るためのレジスタンスなのです。

    核によって脅すことも脅されることも、被害者になることも加害者になることも、核被災を隠蔽することも隠蔽されることにも、レジスタンスすることを呼びかけます。

    右側が演説をする高橋氏(左は通訳の飛幡祐規さん)

    高橋博子:奈良大学文学部 史学科 教授、広島・長崎原爆による黒い雨・米核実験による放射性降下物の歴史的検証研究で知られる。この演説は、2025年8月7日から10日にかけて行われたフランス・ノルマンディー地方での大きなレジスタント(抵抗)フェスティバルで、ナガサキ原爆投下80年の8月9日に行われた。

    おしどりマコ&ケン        ZOOM講演会

    Fukushima matters!                問い続けよう、知ろう、フクシマの現状

    2025年7月12日(土)東京 20:00/Berlin/Madrid/Paris 13:00/London 12:00/Montréal/New York 07:00

    事前登録はこのリンクから:

    https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_jQhDPkk4SLKYbI_4RDp0NA

    2025年3月で14周年を迎えたフクシマ原発事故。11月には燃料デブリからたった0.7グラムを取り出し、デブリ撤去が本格的に始まったかのように報道されましたが、その陰ではたくさんの作業員が高線量の被ばくを強いられました。

    汚染水海洋放出が続行される中、空になったタンクを撤去する作業員も、底にたまった高線量の泥の処理で被ばくします。メルトダウンを起こし、たくさんの住民から故郷を奪い、今も収束からは程遠い原発事故ですが、どんどん事実を伝える報道が少なくなり、安全を謳う広告記事の方が大々的に流される今、核心の問

    題点、東電や官庁が話したくない事実、見逃しがちなテーマを追求し続けるマコ&ケンの存在はますます貴重です。東電記者会見に通い続け、追及の手を緩めず、データをチェック分析するおしどりマコ&ケンによる恒例のオンライン講演会「Fukushima matters! 問い続けよう、知ろう、フクシマの現状」。

    【プロフィール】

    マコとケンの夫婦コンビ。漫才協会/落語協会/保健物理学会会員。東京電力福島第一原子力発電所事故(東日本大震災)後、随時行われている東京電力の記者会見、様々な省庁、地方自治体の会見、議会・検討会・学会・シンポジウム・被害者による各地の裁判を取材。また現地にも頻繁に足を運び取材し、その模様を様々な媒体で公開している。2016年「平和・協同ジャーナリスト基金」奨励賞受賞。http://oshidori-makoken.com

    欧州・米大陸などで反原発・反核運動に取り組む日本人を中心としたネットワーク「よそものネット」では、今年もまたおしどりマコ&ケン・オンライン講演会を開催します。

    2025年3月でフクシマ原発事故は14周年を迎えました。東京電力の旧経営陣が業務上過失致死傷の罪で、検察審査会の議決で強制的に起訴された裁判で、最高裁は上告を退け、無罪が確定されました。世界史上でも重大な事故の責任を「責任者」であるはずの経営陣が取らなくていいと司法が認めるということが、理解できません。原告団代表の武藤類子氏はその後の会見で「どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、どれだけの人が人生を狂わされたのか、未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか」と語りましたが、事故以来ずっと、せめて司法による正義を求めて闘ってきた被害者の方たちの悔しさを思うと、言葉になりません。責任が問われずに済むなら、こういう事故が再発する可能性が高まります。原発事故はまだ収束からほど遠いのに、当事国の日本では、海洋放出も汚染土「再生利用」もすべて「安心」と宣伝だけ熱心で、肝心の健康調査や避難者の支援などはどんどん減らされています。これまでに1gにも満たないデブリを取り出したものの、溶け落ちた燃料デブリは合計で880トンもあります。

    そのほかにも報道されないため私たちが知らない事実がたくさんあります。14年間東電記者会見に通い続け、細かい取材・調査・分析をし続けてきているマコ&ケンさんだからこそできる濃厚な報告を、今年もお二人にお願いします。各国にまたがる「よそものネット」が世界各地で同時視聴可能な時間帯を選択しています。また、時間が合わず、ライブ視聴できない方たちのために、講演会は録画して後日公開しますので、必ずご覧いただけます。

    参加費は無料。ライブ視聴には下記URLからの事前登録が必要です。

    https://us06web.zoom.us/webinar/register/WN_jQhDPkk4SLKYbI_4RDp0NA

    各国にまたがる「よそものネット」が世界各地で同時視聴可能な時間帯を選択しています。また、時間が合わなくてライブ視聴できない方たちのために、講演会は録画して後日公開しますので、必ずご覧いただけます。

    お二人の取材活動を支援する寄付金にもご協力ください。

    マコさんケンさんのご祝儀口座: http://oshidori-makoken.com/?page_id=126

    海外からの送金は、下記お問い合わせメールアドレスへご相談ください。

    お問い合わせ E-mail:sayonara-nukes-berlin[at]posteo.net

    広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏の ベルリン訪問同行報告

    2025年5月20日から22日までIPB(国際平和ビューロー)とドイツICAN 、ドイツIPPNWから要請を受け、広島県被団協・理事長の佐久間邦彦氏がベルリンを訪れた。もともとドイツの大統領Steinmeierに「世界で初めて核爆弾が落とされてから80年経つ今年、被ばく者の生存者を招いて話を聞いてほしい」という手紙をICANが出し、署名運動で市民の署名もかなり集めて返事を待っていたが、回答をかなり待たされた挙句、結局「今の地政学的状況では難しい」という(おそまつな)答えが返ってきてしまった。それで、国に被ばく者を招いてもらうというアイディアが叶わなくなったが、それでも今年はぜひとも被ばく者の話を直接聞きたいということで、資金的余裕のあまりないIPBとICAN、IPPNWが原水協にも参加してもらうことで、佐久間氏の訪問が可能となった。今回の訪問にはそれもあって原水協事務局次長の土田弥生さんと、学生で原水協で「個人理事」という肩書で活動している小薬岳氏が一緒に訪れた。ベルリンの後は、中立の立場を捨ててNATOに加盟したばかりのフィンランドのヘルシンキで行われる平和フェスタにも訪れた。 ベルリンでのたった三日の滞在で予定されていたのは、原爆投下がトルーマン大統領によって決定されたポツダム会議近くにあるトルーマンが滞在していた館の向かいに作られている「ヒロシマ・ナガサキ広場」訪問、ベルリンのFriedrichshain区Volkspark公園内にある平和の鐘訪問、社会民主党SPDと左翼党Die Linkeの議員やSPD寄りの基金Friedrich-Ebert-Stiftung、左翼党寄りの基金Rosa-Luxemburg-Stiftungとの話し合い、メディアとのインタビュー、それから最後に一般の市民が参加できるイベントだった。私はこの佐久間氏のベルリン滞在で通訳を務め同行する機会を得たのでその報告をする。

    佐久間氏は生後9か月で被ばくしたため、原爆投下自体に自らの記憶はないものの、爆心地から2.8キロのところにあった自宅で被ばくし、母親の背中に背負われて避難所に避難する間に黒い雨に降られたということだ。十歳から十一歳の頃、腎臓、肝臓を患って長い間闘病をしたときの苦しみがトラウマになっている、と彼は語った。でも、それより私が心を打たれたのは、ドイツのntvの若い実習生が行ったインタビューで佐久間氏が話したことだった。この実習生だという女性は、インタビューを行うにあたってとても丹念に佐久間氏の経歴、体験談を勉強してきていた。それだけに、佐久間氏がこれまでもよく語ってきたことはすでに知っていて、それ以上のことを質問できるよう、準備してきていた。彼女は81歳になる彼に「被団協の事務所まで毎日自転車で通っていると読みましたが、それはどうしてですか」と訊いた。佐久間氏はにっこり笑って、かなり前にさかのぼって話をし出した。

    自分は定年が迫る数年前、2006年にある銀行に出向して働くことになった。そこで、ちょうど広島原爆投下後写真を撮った中国新聞社写真部員だった松重美人(まつしげよしと、注1)氏の写真展が開かれていた。その写真に写っている人々の姿や町の様子を見て、自分はそれまで被ばく者だということを公に語らないできていたが、自分もここにいたのだ、ここに写っている人たちの一人なんだ、と確信した。自分でそのことを認め真っ向から向かっていかなければ、この体験をめぐるあらゆる問題を乗り越え、前に進んでいくことはできないのだ、と悟った。それで初めて、60になってからやっと被ばく者であることを名乗り出ることができた。それで被団協にも入り、自分の体験を語り、二度とこいうことが起きてはならないということを自分も積極的に訴えていくようになった。定年後時間ができたこともあり、被団協で被ばく者を対象にアドバイスをする仕事をボランティアで始めた。広島というのはそんなに大きな都市ではない。街は自転車で西から東まで1時間もあれば行けるほどの大きさであり、うちから事務所も遠くない。しかも、被団協で仕事をしていると、役所に行ったり、ほかの場所に行ったりとなにかと動かなければいけないことが多い。健康にとってもいい、公害は出さない、小回りが利き便利だ、というので、それで自転車で通うようになった、そう語る佐久間さんは微笑みながら、とても前向きな姿勢に溢れていた。

    いつも自転車に乗って通っていらっしゃるというだけあって、佐久間さんは81歳とは見えないお元気なお体で(だからドイツまでもいらっしゃったわけだが)脚も達者、階段もすたすたと昇り降りしていらした。そして、60になってやっと被ばく者であることを明かすまでの思い出話を、語ってくれた。

    広島出身であることはあまり語らない方がいい、そのことはできれば隠していた方がいいのだ、ということを小さい時から言い聞かされてきた。被ばく者が子どもを産むと奇形児が生まれる、病気になりやすい、という差別があり、誰もそのことに関して話さないのが当たり前だった。親戚からもその話はしてくれるな、と言われていた。しかし広島にいる限り、そのことが心の負担になるので、高校を出た時に、すぐに広島から抜け出したいと思って上京した。そこでまずホテル業界で働くための大学に行き、勉強し、その後縁あってヒルトンホテルに就職することができた。しかし、そこでの仕事があまりに苛酷だったため、やめざるを得なくなり、別の仕事を得た。そのうち、ある女性と恋をした。将来も一緒になりたいと真剣な付き合いだったので、彼女には自分が広島出身であることも話した。ある時、彼が里帰りするとき、彼女も同じ方向に故郷があるので、いずれ結婚するなら彼女が親に紹介したいというので、一緒についていった。しかし彼女の両親は、彼が来ることを(彼の存在も?)知っていなかった。彼女のうちに到着して、玄関で待つように言われ立って待っていると、中から彼女が母親と話をしているのが聴こえてしまった。「広島の人なの?」という言葉だった。そして、結局彼女の両親は彼を迎え入れてくれなかった。彼女の様子から、広島出身の彼は彼女の夫として望ましくないと思われていることが掴み取れた。その時佐久間さんは、彼女と結婚しようと望むことはできないのだ、彼女にそれ以上負担をかけるわけにはいかないと悟り、広島に戻るしかない、と東京での生活をやめて、広島に帰る決心をして戻ったという。ここでは佐久間氏はそう言わなかったが、話の前後から、広島に戻ったこの時はそれでもまだ、「自分は被ばく者だ」ということを人前では公表しなかったのだ。

    日本語がわからない若いインタビュアーにこの話を語った佐久間氏のすぐ横で、彼の言葉を訳しながら、私も思わず熱がこもり、夢中でドイツ語にした。証言の強さというのはこういうことではないのか。被ばく者、生存者、というのは単に原爆が投下された時にそこにいて肉体的物質的被害を受けた体験者ということではない。それだけでも惨く、長期にわたって苦痛を強いられることなのに、それ以上に人間としてそれをもとに受け忍んできたありとあらゆる悲劇、ドラマが一人一人の人生残体にのしかかっているのだ。そして、同様のことがフクシマでも起きていることを私たちは何度も耳にしてきたではないか。自分の過失ではない理由で甚大な被害を被った挙句、差別を受け、陰口を叩かれ、賠償や支援を受ければ受けたで妬まれたり罵られたり、そのことを語らない方が家族のためだ、語れば損だ、と出身地や体験を隠さざるを得ない人たちが今もどれだけいるか…

    1957年(昭和32年)に原爆医療法が施行され、旧長崎市および広島市、そしてその隣接区域にいた人約20万人を対象に被爆者手帳が交付された。1962年(昭和37年)には被爆した場所が爆心から2km以内から3km以内の直爆被爆者に拡大された。佐久間氏のお母さんはそれまで一切自分たちが被ばくしたということやその時の体験を話そうとしなかったが、被爆者手帳を交付してもらうため、初めてそのときのことを語ったので、佐久間さんも話を聞いたのだという。その時に、彼が原爆投下直後、母の背中に背負われ、避難所に逃げる途中で黒い雨に降られた話も知ったのだ。この被爆者手帳を交付されることは本当に画期的なことで、それまでは生活が苦しく、医者にもかかれない人たちがたくさんいた。一定の条件を満たしてこの被爆者手帳を支給されれば、とにかく医療給付してもらえ、健康診断を受けられる。

    これは今回のインタビューでは語られなかったことだが、いただいていた資料の中にあった彼の証言の中に、次の項目もあった。ABCCが1950年代に調査した黒い雨に遭った1万3千人ほどの調査資料が放影研に放置されていたということが2011年10月ころ明らかになり、彼も開示請求をした。すると届いた彼のデータ用紙には、黒い雨にあったか、というチェック項目のところでしっかりYESにチェックがしてあったという。

    佐久間氏のお母様も1963年に乳がんと診断されて摘出手術を受けてから、その後も原因不明の病気に苦しみ、入退院を繰り返しながら1998年に亡くなったということだ。

    昨年秋にノーベル平和賞を受賞した際、その理由の一つとして「被団協は被ばくの実相や悲惨を語るたゆまぬ努力を続けてきた。そして核兵器の使用は道徳的に容認できないと強力な国際規範が形成され、「核のタブー」として知られるようになった」ことが挙げられた。しかし佐久間氏は今、その核のタブーが壊されようとしている瀬戸際に立っていると感じているという、その危機感について何度も語った。

    日本から一緒に来られた原水協の土田さんは、ノーベル平和賞受賞後、祝福のために被団協の代表を招いた石破総理が、祝福の言葉を言いながら同時に「核抑止力の必要性」を語ったため、怒り心頭に達したと話していた。トランプがNATOやEUを脅し、これまで通り有事に米国に助けてもらえなくなる可能性が強まったと、ヨーロッパでも急激にフランスの核兵器をEUの核の傘にしよう、などという話が急に当たり前のようにされるようになってきている。急激にどの国も軍拡に舵を切っており、GNPの2%どころか、5%を目指す国も出ている(ドイツ新政府の外務大臣もそれを目標とすると語った)。NATO事務総長のルッテは、加盟国はこれからどこも3.5%を目指し、1.5%を軍事用インフラストラクチャー整備に充てるべきだ、など発言している。冷戦が終わって35年、またまた世界は軍拡競争に突入している。

    ドイツでは、この前の連邦議会総選挙で票を伸ばした左翼党の賛成を得られないことを見越し、新政府発足前の古いメンバーの連邦議会で特別財産基金設置を決め、防衛費については債務ブレーキの適用対象外として「上限なし」で借金してもいい形になってしまった。新政府でも引き続き防衛大臣を続けることになったSPDのピストリウスは(前総理のScholzよりも人気があったそうだが)前の政権時代にすでにドイツの防衛軍は「kriegstüchtig」(戦闘能力を十分に備える、とでも訳せばいいのか? 私の耳には「戦争ができる国」という形容詞に聞こえる)にならなければならない、と言ったことで有名だ。メルツは選挙運動の間「まだ十分発電できた優秀なドイツの原発を信号政権が無理やり止めてしまったので、それをまた再稼働させたい」「せめてそれ以上の廃炉工事はストップする」などと非現実的扇動的な話をしていたし、首相になった途端にマクロンと会って「SMRをフランスとドイツ共同で建設する(したい)」計画を発表した。核融合発電という夢物語も捨てていないようだ。

    要するに、ドイツも日本と同じように(必要とあらば自国でも核兵器が作れる可能性を保つべく)核技術を捨てたくないという姿勢がありありだ。それで、トランプだけでなくロシアのウクライナ侵攻とプーチンによる威嚇、ガザでの戦争を始めとする中東の緊迫状態を理由に「核抑止力」「核共有」「核の傘」といったキーワードがことさら繰り返されるようになってしまった。石破首相は「ウクライナは明日の東アジアだ。アジア版NATOを作り核共有を進めたい」とまで言及している。

    核兵器禁止条約の3回目の締約国会議が今年3月開かれたが、去年まではオブザーバーとして参加していたドイツは、今年参加しないことをその会議直前に公表した。それに今年はアメリカの核の傘のもとにあるNATO加盟国からのオブザーバー参加国が一つもなくなったという。初日は、NATO加盟国からアルバニアがオブザーバー席に姿を見せていたのに、2日目には会議直前になってアルバニアの国名の表示が消えたそうだ。過去2回続けて参加していたドイツとベルギー、ノルウェーが今回は参加しなかった。これが現在の「核兵器禁止条約」をめぐる国々の姿勢であり、それがドイツ連邦大統領が今年、被ばく者を招くことを断った背景なのだ。

    連邦大統領シュタインマイヤーとの会合は叶わなかったが、今回の被団協を代表しての佐久間さんと原水協の土田さんの訪独では、防衛費の底なしの増額にも中距離ミサイルのドイツでの配備にも反対している左翼党の連邦議員(Nordrhein-Westfalen州)で防衛委員会に入っているUlrich Thoden氏、それから連合政府に入っている社会民主党SPDの中でも「核抑止力」に反対する少数派の声であるRalf Stegner氏(Schleswig-Holstein州)と連邦議会の議員会館で会合することができた。左翼党は新しい連邦議会の中でも重要な野党なので当然だが、連合政府に入っているSPD議員のたった一人でも、忙しい中、佐久間さんの話を聞く時間を取ったという事実はポジティブに認識すべきだと思う。SPDの中でも彼の立場は微妙でだが、それでもその中で「核抑止力」に異議を唱えている声があり、議員として新総選挙でも選ばれているということは好ましい。そして彼のような「少数派」の声も、連合政府に参加して軍拡にどんどん力をいれているSPDの中で訴え続けてほしいと願うばかりだ。

    議員や基金との話の中で佐久間氏が必ず「防衛費を上げれば上げるほど、社会保護への支出(教育や医療を含む)が削られるのは目に見えている。しかし、市民を守るということは、軍拡し「抑止力」を高めることより、日常の生活で一人一人の暮らし、健康を支えることのはずだ」ということを語っていたことが心に残った。実際に政治決断の場に参画している議員たちにそのことを訴えるのは大切だし、それをしっかり聞く耳をもつ議員と話ができたことは有意義だったと思う。核兵器は、闘うための「武器」ではなく、単に「無差別殺戮兵器」に過ぎず、本当に核兵器が落とされれば、どこにも勝ちも負けもないのだ。そんなものをいくつも持つということ自体が狂気の沙汰であり、国の名、その時の政府や権力者によって始められる戦争で、被害を受けるのは何より罪のない弱い市民だ。人の手で始められ、つくられる核兵器、戦争は人類の手でなくさなければならない、ということを佐久間氏はしっかり訴えた。また、無差別の大虐殺、という点で、今ガザで行われている戦争に対しても極めて憂慮しており、即刻停止すべきであり、ほかの国も声を上げるべきだ、という話も忘れずにされていた。日本政治の問題点に関しては、原水協の土田さんが詳細に英語で話されていた。 二日目の夕方は、いつもSNBのデモにも協力してくれるベルリンの平和の鐘のグループが佐久間氏たちを招き、鐘のもとに集まった。この平和の鐘というのはもともと、政治・宗教・人種にとらわれることなく、世界平和祈念を目的に世界から集められたコインやメダルを溶かして鋳造した鐘であり、ニューヨークの国連本部にも広島など、世界各地にある。ベルリンの平和の鐘でも毎年8月6日に記念式典が開かれ、鐘が鳴らされるが、平和の鐘協会代表のAnja Mewes氏は被ばく者を代表してベルリン訪問される佐久間氏にぜひ訪れてほしいと招待し敬意を表し、ぜひ鐘を突いてほしいと佐久間氏たちにもお願いして、希望を叶えてもらっていた。

    平和の鐘を背後に「No more Hibakusha」の旗をもって             (今年のSNBのモットーと同じ、とつい3月のデモの写真をお見せしてしまった)

    スケジュールとスケジュールの間、連邦議会議員会館から移動する途中で「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」と「国家社会主義の下で殺害されたシンティとロマの記念碑」を訪れ、(写真)Rosa-Luxemburg-Stiftungの帰りには近くのイーストサイドギャラリーの壁を見に行った。

    最後の公開イベントは、IPBの事務所のある(私がよくGreen Planet Energyとデモの相談で通ったMarienstr.の建物に入っている)会場で行われた。メディアで来ていたのは日本の赤旗、共同通信のほか、ドイツのものではntv以外に、残念ながらドイツ/ベルリンのメディアは一つも来ていなかった。このイベントは外国や会場に来られない人にもオンライン配信されたため、英語で行われることになっていて、私はここだけは不本意ながらも英語で通訳しなければならなかった。私の英語能力はかなり衰えていて、ドイツ語ほどの細かいニュアンスをしっかり訳せなかったという悔いが残ったが、とにかく無事に大役を果たし終えてほっとした。しかし三日ぎっしり通訳をし続けたのでその後はかなりへとへとになって消耗しきり、数日間使い物にならなかった。

    いろいろな人々との交流の中で印象に残ったのは、佐久間さんに対して「学校など、若い世代に対する体験の継承をどう行っているか」という質問があらゆるところで出されたことだ。ドイツは「Erinnerungskultur(記憶文化)」を実践していることを誇りすぎている向きもあるが、確かに日本と比べるとナチス時代のおぞましく恥ずかしい過去と向き合い、それをできるだけ正確に次世代に伝えようという試みがずっと当然の教育指針の一つとして行われてきている国であることは間違いない。学校の遠足でKZ(ナチス強制収容所)を訪れたり、証言者を学校に招いたり、迫害された人たちの話をテーマにした本を授業で扱ったりするのは珍しいことではない。先日103歳で亡くなったホロコースト生存者のMargot Friedländer 氏も、結婚してアメリカに暮らしていたが、過去のことを話したくなかった夫が亡くなって88歳になってからドイツに戻り、体験談を語り始めた人だ。彼女はことに学校を回って若い生徒たちを前に証言していくことをずっとやり続けた人だった。「話すことができなかった人たちのためにも語るのが私の使命だ」と言い続け、若い世代に対して「人間であれ」という言葉を繰り返し伝えた。

    広島や長崎の原爆資料館を修学旅行で訪れる高校生などもいることはいるが、漫画の「はだしのゲン」が数年前から平和教育副教材から削除されたり、高校の歴史の授業でも第二次世界大戦のことは扱われないなど、日本では歴史の「継承」を実践する気が教育委員会側にあるとは思えない状態だ。学校を被ばく者が回って体験談を話すというようなことは従って行われず、被団協を始めとする一部の市民団体やイニシアチブが企画して若い人を対象にそうした場を提供するか、自ら興味をもった人が被ばく者団体に接したり勉強したりするほかは、なかなか接点が生まれないのが実情なようで、それには「誇れない過去をなかったことにしたい」「歴史の教科書を書き換えたい」歴史修正主義者たちが権力を持っている社会であることが、ここでも影響しているのだと思う。ことに、広島・長崎の原爆投下に関しては、日本が侵略戦争を始めたという事実、他国を植民地にし、そこの住民たちに強制労働を強い、あらゆる物資資源を搾取し、大量虐殺もおこなったという事実を顧みず(ましては否定し)、「原爆という恐ろしい新型兵器の被害者になった」というストーリーに徹して、反省をしていない今の政治の指導者たちを見ていると、その中で「市民一人一人の当然な人権」としての平和を求める運動を続けていくことの難しさも、重要性も実感する。

    今回の被ばく者を招く企画で私が気になったのは以下のことである。確かに貴重な体験談を実際に被ばく者から話を聞くというのは、単に証言者の話を読んだり、画面越しに見たり、間接的に話を聞くより、ずっと心を動かすものであるし、インパクトは大きい、それは確かだ。

    しかし、実際にヒロシマナガサキ原爆投下から80年経った現在、生存者は皆、高齢者ばかりだ。佐久間さんは生後9か月の時に被ばくしたから「まだ」81歳だが、被ばくの記憶がある方たちのほとんどは80代後半であり、その彼らをはるばるヨーロッパまで連れてきて、長い飛行機の旅や時差ぼけから少しでも回復する時間の余裕も与えずにハードスケジュールで、しかも節約した移動(交通)手段で連れ回すのは、あまりに苛酷であり、被ばく者の方々に対する礼儀、思いやりに欠けてはいないだろうか。

    今回は「なけなしのお金」をIPB、ドイツICAN、ドイツIPPNW、原水協が出し合って、フィンランド・ヘルシンキ訪問とも組み合わせることで、佐久間さんの訪独を可能にしたということだが、早朝にベルリン空港に到着したばかりの彼らを夕方、普通のS-Bahnでポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場にお連れして長時間、夏の様な日差しの下、外で話をしたり、二日目も、すでにいくつもの予定をこなしたあとで、遠いFriedrichshainのVolksparkにある平和の鐘まで連れていくなど、佐久間さんは文句の一つも言わずこなしていらっしゃったとはいえ、私はあまりにも配慮を欠く対応なのではないかと思わずにいられなかった。コストを抑えるためとはあっても、せめてレンタカーを借りて移動する、タクシーをもっと使う、などをして佐久間さんの負担を減らしてあげることはできなかったのか、それから到着した日はせめて何の予定も入れず休んでいただく、という風にはできなかったのか、と思う次第だ。それから、被団協や原水協の方でも、せっかく企画を立てて招待されたから、わがままを言っては悪い、というような日本的な遠慮をせずに、ご高齢の被ばく者の方たちの海外でのプログラムがあまり負担にならないよう、「到着当日は何も予定しないでほしい」とか「移動はなるべく車でしてほしい」とか、最低限の条件を付けて被ばく者の方たちを守るべきではないか、とも思う。また、ベルリンの公共交通機関ではまだまだバリヤーフリーが徹底していなくて、私はできる限りエスカレーターやエレベーターを探したのだが、それでもないところがいくつもあったのも、いつものことながら気になった。

    それでも、佐久間氏とお会いしたこと、お話を直接伺えたこと、また彼の訴えを私がドイツ語にしながらドイツの議員や基金で働く人たちに伝えることができたのはとても有意義なことで、学ぶこと、考えさせられることが多かったので、こうした機会に恵まれたことに感謝している。コーディネーションをしたIPBの代表であるアメリカ人のSean Conner氏や副代表のイタリア人のEmily Molinari氏、ドイツICANのAicha Kheinette氏のチームはとても感じがよく、一緒に話をし、行動する時間が長かっただけに、個人的にも親しくなれたことも嬉しい。ある大きな目標に向かって、皆、それぞれができる範囲で、出来る形で活動し、力を合わせていくことが何より大切だと再確認した。そういう意味でも、さらにネットワークが広がったことを喜びたい(ゆう)。

    注1:松重美人氏https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8D%E7%BE%8E%E4%BA%BA

    注2:ICANでもこの佐久間氏のベルリン訪問に関する記事を発表している。https://www.icanw.de/neuigkeiten/hibakusha-kunihiko-sakuma-zu-besuch-in-berlin/

    シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金主催のアクションウィーク参加報告

    シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金のマーティン・カストラネック氏は、フクシマ原発事故が起こる数年前から「アクションウィーク」を企画して実行してきた。これは、チェルノブイリ原発事故のあった4月前後にシュレスヴィヒホールシュタイン州の学校を回って、原発事故の「記憶を伝える」とともに、それを踏まえどのような未来を築いていけばいいのかというテーマを生徒に与えながら、学校、身の回りの環境でなにを改善することができるか話し合い、アイディアを出し合い、最終的に皆で投票して決めた一つのアイディアを、クラブ活動のようなチームで半年くらいかけて実現していく、そのためのノウハウやアドバイスを与えたりエキスパートを招いたりしてサポートしていく、という長い期間に渡るプロジェクトだ。持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に国連総会で採択されてからは、このSDGsを自分たちの環境でどのような形で実現するか、という主旨に変更した。こうしたコンセプトで地元の学校に提案を出し、目的に賛成し、生徒たちが積極的に参加しなければ成り立たないプロジェクトを一緒にやりたいと考える教師が協力を申し出て、時期や企画内容で折り合いがつけば実行される。このようにしてほぼ毎年、シュレスヴィヒホールシュタイン州の各地の学校(主にギムナジウムまたは総合学校(Gemeinschaftsschule)の10年生または9年生を対象)を、4月から5月の間の一週間、毎日1校ずつ5日間(月曜から金曜まで)めぐり、第一回目の集まりを開いてきた。

    ここには、チェルノブイリ原発事故のリクビダートル(原発事故の処理作業に従事した人々を指す)として参加した人や実際の事故をその場で体験した人などがウクライナ(またはベラルーシ)から招かれていたが、フクシマ原発事故が起きてから、「記憶を伝える」の部分にはフクシマの話も大切だとして、フクシマまたは日本からも人を招くよう試みてきた。それで私は、ベル基金には緑の党寄りの基金としてそれだけの財源があるのかと思っていたのだが、そうではなく、このアクションウィークをどうしても実現・存続させるべく、カストラネック氏が宝くじによる社会貢献事業支援の枠組みに何度も応募してはこのプロジェクトに対し資金をもらっていたことがわかった。ただし、この宝くじによるあらゆる社会支援プロジェクトも、もう何度もこのプロジェクトが資金援助を受けたからかどうかはわからないが、同じ内容のプロジェクトではこれからはもう支援は与えられないと通達されているそうで、来年もこうしたプロジェクトを実現したければ、内容やコンセプトを変更せざるを得なくなる、という話だった。それにしても、若い中学3年生または高校1年生に当たる若者たちを対象に、原発事故の記憶を伝え、長期にわたるあらゆる側面に渡る問題を考えさせるだけでなく、そうした不安のない持続可能なエネルギーシフトを導き、自分の身の回りでもなるべく、どのようにすれば持続可能な環境を作っていけるか自分の問題として捉えさえ、考えさせるという試みはとても大切だし、通常の授業の枠組を超え、自分たちで具体的な考えを出し合い、そのアイディアを実行できるまで具体的にサポートしてもらえる、という経験を生徒に提供するというのはすばらしいアイディアだと思った。もう何年も前から反原発・反核の活動を通じて交流のあったマーティンから今回は私にもぜひ参加して私の立場から「フクシマの問題」を話してほしいと依頼された時、これなら応援しようと承諾した。このように5月の5日の月曜から5日間キールを拠点に、シュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校を毎日めぐる、2025年のアクションウィークに参加したので、これはその報告である。

    国連のSDGs

    招かれていたのは私だけではない。フリーの調査ジャーナリストとして事故後福島第一原発で普通の労働者として6か月被ばくしながら働いた桐島瞬氏が日本から参加していた。彼は、このアクションウィークの招きでドイツに来るのはこれで3度目だそうである。私は彼の通訳も受け持つことになった。桐島瞬氏は3.11の起きた時、日本のある出版社に勤めていたそうだが、それまで環境問題に関するテーマでも取材は行ってきたものの、原子力エネルギーに関しては一切かかわってこなかったという。フクシマ事故が起きて、情報が伝わってこない中、どうなっているのか自分の目で見たいという気持ちが募り、社員として新聞社や出版社に勤めているジャーナリストは「高線量の場所に行かせるわけにはいかない」と行かせてもらえないので、まず出版社を辞職し、フリーとなってから「潜入」する決心をしたそうだ。自分の本名で書いてネットで発表されていたそれまでの記事は、訳を話して名前を伏せてもらい、ネットでも彼の「正体」や電話番号、メールアドレスなどが暴かれないよう、いろいろ工夫をしてから、福島第一の中で働く仕事に就くことになったという。もちろん東電に直接雇われたわけではなく、現場から30キロほど離れたところにある会社に雇われたそうだが、東電で働くには身分証明をしっかりして本名を明かさないわけにはいかなかったのでそれなりの対処が必要だったようだ。また労働者は写真を撮ることを固く禁じられていて、携帯の所持も許されていなかったのだが、彼は隠れてジャーナリストとして潜入するからには、どうしても写真を撮りたいと、苦労して隠れて写真撮影もした。

    雇われていた6か月ほど、彼は車で寝起きしていたという。早朝、同僚と会社の車で楢葉町にある中継拠点のJヴィレッジまで行き、防護服に着かえ、放射性物質を吸い込まないための全面マスクを手に取る。そこから作業員を載せる大型バス数台で福一に向かう。線量の高いところに入ればバスの中ですでに全面マスクもつけたそうだ。

    彼が福島第一に入ったころはまだ、水素爆発の後あちこちに飛び散った瓦礫が散在しており、敷地内はまっすぐ車などが通ることもできないほどだったという。それでも、原子炉を冷却するための「循環注水冷却システム」と、冷却などで高レベルに汚染された水を浄化するための「多核種除去装置(ALPS)」を作り、重く太いホースを人海作戦で持ち運び、繋げる仕事に従事していたそうだ。最初は軽量の塩化ビニール製ホースだったが、草がホースを突き破り、汚染水が漏れることがわかり、のちにポリエチレン製のしっかりしたホースを使うことが決まったため、労働者たちがまったくのマンパワーで瓦礫や草木に覆われた場所を苦心してホースを運び繋いだそうだ。労働者たちは高線量の中を働くため、毎朝、その日の計画線量(その日の仕事の最大被ばく許容線量)を言い渡されるが、数時間でいっぱいになることもある。被ばく線量を測定するために24時間付けているガラスバッジと、敷地内の作業時につける線量計とで線量管理は一応しているのだが、朝の8時くらいから仕事を始めても昼近くには被ばく量が増えるため、休憩所に行って休むことになる。だが、その休憩所の線量も低くはないため、そこで全面マスクを外して休憩すると、休憩の間に汚染空気を吸い込んで被ばくしてしまうことになる。また夏の暑い時期には、全面マスクの中で汗を掻き、びしょびしょになってほとんど息ができなくなって苦しくなることが少なくなかったという。彼が働いていた当時は3000人前後の労働者が福一で働いていたが、休憩所はその人たちを収容する広さがなく、ロッカールームの前で横たわるしかないこともあった。肌が直接放射性物質に触れることがないように、特殊なポリエチレン繊維不織布で作られた全身の防護服を着ているが、休憩所では全面マスクを取り、首元を開ける。それで休憩中も被ばくをしてしまうのだそうだ。頭ではわかっていても、実際に目には見えない、味も臭いもしない放射能被ばくに関する懸念は、そこで具体的な仕事に携わり、暑さや疲労と闘っていると、どんどん麻痺していく、と彼は語っていた。

    6か月ほど仕事をしてやめたすぐ後は、鼻血が止まらなかったことが何度もあったそうだ。それは、線量の高いところに住んでいる住民もよく報告していた症状である。彼が働いていたときだけで、2~3名が作業中に発症した急性心疾患などで死亡し、あとから取材した1人は白血病に罹患したが、東電は作業による被ばくとの因果関係を認めていない。彼も14年近く経つ今年の1月に心筋梗塞を起こし、心臓の手術を二度も行ったそうだ。つい1か月前まではまともに歩けなかったというが、ここまで回復してドイツにやって来たのだ。がんや心疾患は被ばくとの関連性が高いと言われ、被ばく後、長い時間が経ってから発症することがあると言われている。

    私は、自分がドイツでフクシマ事故の話を聞いてどう反応し、何をしたか、という話をした。日本にいるより遠くのドイツにいる私の方が得られる情報や報道があったことに驚き、それを翻訳して日本の人にアクセスできるようネットで拡散し始めたことなどを話すとともに、日本ではフクシマ事故以来、実際の健康調査や被ばくの状況のデータ収集をしっかり進めて人々をサポートしたり、故郷を離れざるを得なくなり、帰ることのできない人たちに住宅支援を続ける代わりに、中途半端な「除染」でどんどん帰還政策を行って、住宅支援を断ち切り、包括的な調査をする代わりに「心の除染」「ちょっとくらいの放射能は大丈夫」「フクシマはおいしい、きれい」の大々的なキャンペーンを国や県や自治体が税金を使って政府寄りの広告代理店にやらせている話などもした。また、日本のフクシマの実態をドイツでも伝えるため、証言をドイツ語に翻訳するボランティア活動を続けていることも話した。その中で、遠くの隣人3.11の杉田くるみさんが制作してきた一連の「証言ビデオ」(ことに菅野みずえさんの、フクシマからの避難の話に私がドイツ語訳をつけたもの*2)を使わせてもらったり、彼女がコミック作家のダミアン・ヴィダルさんと作った「Fukushima 3.11」のコミックドイツ語版を紹介し、生徒たちに配布することもできた。くるみさんとダミアンさんにはこの場を借りて改めてお礼を言いたい。

    今回のアクションウィークの第一回目の生徒との集まりでは、まず最初にこの企画の説明と流れを紹介してから、「まずフクシマと聞いて何を思い浮かべるか」、「フクシマとSDGsを繋ぐものはなにか」というような質問をMentimeterというリアルタイムフィードバックプログラムを使って(最近の学校はこのように進歩していて、かつて黒板のあったところに大きなモニターが付いていたりするのを私は初めて知った)生徒に答えさせる。何しろ14年前のことで、15歳16歳の生徒たちを対象としているから、当時の報道のことは知らない世代だが、教師と授業などですでにこのことが話題になっていた場合には、最初の質問に「原発事故」とか「放射能」とか「津波」とか答えた生徒もかなりいた。2番目の質問でも「環境問題」とか「持続可能な社会」とか「環境にやさしいエネルギー」とか答えられる生徒もいた。

    コミックFukushima 3.11 *1

    その後で、インタビュー形式で桐島氏と私に「事故のとき、何を思ったか、何をしたか」とか「日本でのメディアはどのように事故のこと、その後の影響などを伝えているか」などの質問をしながら答えさせるといった形でほぼ1時間くらい「フクシマ原発事故」にまつわる個人的な話をさせた。桐島氏は、実際に現場で被ばくをしながら一般の労働者と同じように働いたという実際の体験を語ったので、それは証言というものの常として、聞く人を動かす力があったと思う。放射能の危険性を知りながらも潜伏してその体験を語るInvestigative Journalistということで、話を聞いていた生徒たちや教師の中にも感動する人たちがいた。私はしかし、実際にフクシマの地震や津波も体験していないほか、故郷を追われたわけでもない、遠くに住むただの日本人として、それをどう自分なりに受け止め、反応し、それでどのように行動したか、というアクティビストとしての活動報告のようなものを語るしかない。また、アクションウィークのコンセプトに合う「ストーリー」に沿って用意された質問に対して答えるしかなかった(ことにそれは用意された質問に答える形でしかゲストである私たちは話すことができなかったからでもある)。

    例えば日本のマスコミの問題点、政府・当局や東電の事故後の対応や責任問題、市民の健康管理や避難した市民たちの援助を徹底して実行・続行するよりずっと多大の金額を電通を先頭とする広告代理店に委託してプロパガンダを続け、汚染水の海洋放出や汚染土リサイクルなどを正当化しているなどの話もしたが、短い時間に、しかも原発事故に対する問題意識や知識のない若者たちに語れることは限られており、あまり詳しい内容を話すことはできない。どこに重点を置くか決めて、これだけは話そう、と要点に絞るしかない。ということは、これではフクシマの問題点、原子力産業の問題点、核の恐ろしさは伝えられない、と思っても、また問題点は複雑であり、ないがしろにできないデリケートかつ難解なテーマや説明が難しい状況が多岐にわたってあることがわかっていても、それを異国のティーンエージャーに、しかも学校のカリキュラムではない課外授業のような限られた枠内で、この事故の14年来(または原子力発電が誕生してから?)の問題を伝えることは不可能だ。簡単にまとめ、わかりやすくアレンジした「ストーリー」に嚙み砕くしかなくなる。ベル基金は緑の党に近い基金であるし、脱原発がまがりなりにも実現したドイツで、原発に頼らないエネルギーシフトと持続可能な社会を作って行こうということはいいとしても、政治的メッセージ、洗脳の試みとして取られかねないので学校であまり反原発を直接呼びかけない方がいいだろう、ということは最初に言われてもいた。私にはこうした「短い時間」で「噛み砕いた」フクシマの原発事故とその問題を(遠い異国の出来事として学ぶドイツの生徒たちに)わかりやすく、掴みやすい(しかもマーティンの主旨に沿った)ストーリーで伝える、ということ、そして同じ内容のプログラムをほぼ5日間繰り返したので、大体何をどのように話すのか決まってしまい、マンネリ化を感じながら、こうした「偏った」または「短絡化した」「ストーリーにまとめられた」フクシマを結果として伝える一人となったことに、罪悪感というか、フクシマ以来、さまざまな苦しみ、悲しみ、悩みを抱えてきている人たちを裏切っているような気持に苛まれた。

    私はまったく被害者でも当該者でも体験者でもないわけだから、アクティビストとして学んできたこと、考えてきたこと、観察してきたことのほか、人前で話せることはない。それはこのような学校の限られた枠内で話すのには適さないのではないか、という思いに責められた。あるいは、こうして日本のことを全く知らない若者たちにフクシマまたは原発事故の悲劇、問題点を語るということは、私にはできない、私は不適格者だ、と悟らざるをえなかったとも言えよう。「これさえ伝えれば、あとは語らなくてもいい」とか「この側面だけ伝えよう」というような単純なメッセージづくりにフクシマも核をめぐる問題も縮め、簡略化することができない、もしくはしたくない私には、こういう任務はまったくふさわしくないのだ、と感じたと言えようか。そういう意味で、私は最後まで居心地の悪い参加となってしまった。それでも、桐島氏の話の通訳や、私の話にそれなりに満足し、任務を果たしたと思ってもらえたのはよかったと言わなければならないだろう。

    アクションウィークには私たち「日本人ゲスト」のほか、シュレスヴィヒホールシュタイン州Bad Bramstedt地区代表の緑の党州議員で環境保護、エネルギー政策を専門とするGilbert Sieckmann-Joucken氏が参加しているほか、若手の女性二人(一人はエラスムス計画でスウェーデンの大学で半年勉強しているMelina Wolf(数年前からこのアクションウィークプロジェクトの研修生として働いてきている)と、大学での政治学修士を獲得後、今は難民支援団体Flüchtlingsratで仕事をしているMiriam Zweng(彼女も3年前からアクションウィークに参加)が司会やサポート役として来ていた。彼らがSDGsをどのように身近な学校環境で変えていくことができるか説明したり、例を挙げたりしてから、自分たちの周りで何が問題か、何を変えることができるか考えさせるワークショップへと生徒たちを導いていく。

    ワークショップの様子

    アイディアとして出た例は、「学校の緑化」「自転車をつかって電気を作ってそれで校内の一部の設備機械のエネルギーを賄う」「戦争や紛争を逃れて難民として来ている子どもたちを支援する寄付金集め」 「太陽光パネルを屋根に設置して校内の電気として使う」「学校の庭で畑を作り、養蜂もする」「屋根の緑化」などがあったが、その前に「どういう問題があるか」という段階で、「ファーストファッションが問題」とか「パン屋でいちいち新しい紙の袋にパン菓子を入れて買うとゴミが出る」、「低学年の生徒に正しいゴミの仕分け方とその意味、理由を教えて、リサイクリングを徹底する」から「暴力」や「武力闘争」問題、差別問題まで提示するほど、意識の高い生徒もいた。9年生と10年生の生徒両方と接したが、やはりこの年齢での1年の差は大きく、10年生のギムナジウムの生徒は、意識も高く、考えもしっかりまとめられる人がいるのに感心した。

    アイディア例

    最終的には、多数出されたアイディアの中から1つまたは2つを投票で選び、それをこれから半年かけてクラブのような形で集まって具体的な計画を経て、実現していく、これがアクションウィークだ。資金がかかるアイディアだと、どのように資金を調達するかアドバイスを出す、技術的な支援が必要なアイディアなら、エキスパートを招いて講習する、などのフォローがベル基金の方から出されることになっている。

    生徒から出されたアイディア

    滞在中、Schönbergという町でフクシマ原発事故以来、かかさずMahnwache(戒めの集い)を続けてきたグループが私たちを招待してくれたので、キールからフェリーでLaboeまで行き、そこからさらにSchönbergまで向かった。このフクシマ・グループは事故直後はかなりの人数だったというが、今は7人程度、といいながらも毎週欠かさず町の真ん中の商店街の薬局前(ここは屋根があるので雨でも大丈夫)でMahnwacheをしているというので驚いてしまった。薬屋もそれを快く受け入れてくれているということだ。この町は、町長も原発事故後、役所の建物をミーティングで使わせてくれたり好意的だったそうだが、それはここが元原発が稼働していたBrokdorf (Kreis Steinburg)、Brunsbüttel (Kreis Dithmarschen)そしてKrümmel (Kreis Herzogtum Lauenburg)から離れていたからだろうという。最初にメンバーの一人の自宅に伺い、そこで菅野みずえさんが避難の模様を語ったビデオを見せながら少し話をして、それから一緒に食事のできる海岸沿いのレストランに向かった。彼らは、かつて反原発運動がドイツで盛んな頃、よく作られたという「たいらげて退治」しまおう原発お菓子(Schokokussと細長いワッフルクッキーで作ったもの)を持ってきてくれた。私が初めてこれを知ったのは、SNBや私の活動にいつも協力を惜しまずサポートしてくれた大切な友だった今はいないAnnette HackがSNBの集まりに作ってもってきてくれた時だったことを懐かしく思い出した。

    食べてなくしてまおう!原発

    ドイツの学校は朝の授業開始時間が早く、宿泊しているキールから車で1時間くらいかかる学校もあったため、毎朝かなり早い出発時間だったのが大変だった。でも、首都のキール周辺にアクションウィークに参加する学校が集中してしまわないよう、できるだけシュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校に行けるよう、企画しているのだ。いろいろな教師がいることも、いろいろな学校(その建物、設備、生徒たちの様子なども含め)があることもこの目で見て、改めて勉強になった。そして、携帯(スマホ)の所持を学校内で禁止しているところも少なくなかった。そしてある教師は、ここ数年、TikTok等の影響で、数秒で興味を覚えないものにはすぐに集中力が失せてしまう生徒たちが圧倒的に増え、10年前と同じ授業は今は行えない、と嘆いていた。ここで話をした若者のどれくらいの人たちが、私たちの話を数年経っても覚えているだろうか。何か、心に残ったり、なるほどと思ってくれたことはあっただろうか。あと10年も経たないうちに、この若者たちがドイツで仕事をしていく世代になるのだ。彼らが次の世代を育てるようになる頃には、どういう社会が、どういう環境ができているのだろうか。自分の生きる、自分の大切な人たちが生活する環境、世界をできるだけ安心できる、気持ちのいい場所にしたいというSDGsの理念を、自分で考え、自分で実践していってほしい。そのためにアクションウィークのようなプロジェクトをこれからもあらゆる学校で生徒たちに提供し続けてほしいと思う。(ゆう)

    *1 コミックFukushima 3.11(以下のリンクでフランス語・英語・ドイツ語版がダウンロード可)

    *2 菅野みずえさんの証言ビデオ

    原発事故の強制起訴裁判、最高裁東電元副社長2人を無罪確定

    2025年3月6日、日本の最高裁は、メルトダウンを起こし、未曽有の被害、死、をもたらした東京電力福島第1原発事故を巡る、東電旧経営陣の責任を問う刑事裁判で地裁、高裁の判決を認め上告棄却を決定し、旧経営陣の無罪が確定することになった。

    旧経営陣を告訴・告発した「福島原発告訴団」の武藤類子団長は、最高裁の上告棄却が決定されてから弁護士とともに記者会見を開いて、悔しさを語った。

    武藤類子団長の発表の抜粋

    地裁、高栽と全員無罪となりましたが、私たちは最高裁の裁判官としての誇りと最高裁判所という場所の正義に一縷の望みをかけてきました。

    刑事告訴するための準備を含めて13年間を費やして夢中で走ってきました。振り返る間もありませんでした。事故から14年が迫る中、その直前の判断は、被害者の気持ちを踏みにじるもので、冷酷さを感じます。

    3月11日を目前に控えた今日、このような判断がされたということは、原発事故の被害者を本当に踏み躙るという冷酷さを感じています。どれだけの原発被害者が落胆して憤っているかと思います。

    福島原発事故は今も続いています。どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、そしてどれだけの人が人生を狂わされたのか、そして未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか、そして原発事故を起こした企業の経営者の責任を問わないということが、次の原発事故を引き起こす可能性があるということ、それを裁判所が理解してくれなかったということが何よりも悔しくてそして残念です。

    私たちはこの判決も司法でこれから問うことはできませんけれども、この判決にはまるで納得していません。これからも、この事故の責任というものは色んな形で問われると思いますので、そういった活動をしていきたいというふうに思っています。

    Dokumentarfilm „Silent Fallout“ (Leiser Fallout, mit deutschem Untertitel)von Hideaki ITO aus Japan anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki

    Im August 2025 jähren sich die ersten Atombombenabwürfe auf Hiroshima und Nagasaki zum 80. Mal.


    Leider ist die Welt die Angst vor dem Atomkrieg nicht losgeworden, vielmehr ist die Bedrohung heute stärker denn je. Und ohne den Einsatz von Atomwaffen in einem Krieg gibt es seit der Entdeckung der Kernspaltung und der ersten nuklearen Kettenreaktionen überall auf der Erde Strahlenopfer – sei es von Atomtests, von Atomkraftwerken oder vom Uranabbau. Man übersieht meistens die Tatsache, dass man selbst betroffen ist.

    Gerade jetzt, wo die Gefahr eines Atomkriegs wieder hoch aktuell geworden ist wie noch nie, ist es von großer Wichtigkeit, uns nochmals bewusst zu machen, was radioaktive Strahlen anrichten können. Um das Thema – anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki – stärker ins Blickfeld zu rücken, schlagen wir Sayonara Nukes Berlin (nachfolgend „SNB“), vor, gemeinsam mit euch eine Filmvorführung zu veranstalten, bei der ein besonderer Dokumentarfilm gezeigt wird, der nun mit deutschen Untertiteln verfügbar ist.


    Der Film vom japanischen Filmemacher ITO Hideaki „Silent Fallout“ (Leiser Fallout) taucht tief in die unerzählten Geschichten der Opfer von Atomtests in Amerika ein. 1951 begannen die USA mit Atomwaffentests auf dem Festland und setzten unzählige Bürger einer gefährlichen Strahlung aus. Mary Dickson, die in den 1950er und 1960er Jahren in einem Vorort von Utah aufwuchs, wurde Zeugin, wie ihre Mitschüler in der Grundschule an ungewöhnlichen Krankheiten und Todesfällen starben. Gleichzeitig führte Dr. Louise Reiss in St. Louis, Missouri, eine bahnbrechende Studie durch, bei der sie Milchzähne sammelte und das Vorhandensein von Strontium-90, einem radioaktiven Element, in den Körpern von Kindern nachwies, die der Strahlung in ganz Amerika ausgesetzt waren. Dies veranlasste schließlich Präsident Kennedy zu dem Beschluss, die atmosphärischen Atomtests einzustellen.

    Mit Berichten von Betroffenen aus erster Hand und Interviews mit Wissenschaftlern will Filmemacher Ito mit seinem Film das Bewusstsein für das gravierende Problem der Strahlenvergiftung und der nuklearen Verseuchung in den USA und weltweit schärfen. „Silent Fallout“, der die wahre Dimension der weltweiten radioaktiven Verseuchung, insbesondere durch Tests im Pazifischen Ozean und in Russland, aufzeigt, ist ein Muss für jeden, der sich für die dunklen Kapitel der Geschichte und ihre anhaltenden Auswirkungen in der heutigen Zeit interessiert, und bietet eine Fülle wissenschaftlicher und historischer Informationen sowie Berichte der Opfer aus erster Hand. Der gut geschnittene Film hat die Qualität eines guten Erzählfilms und ist ein wirkungsvolles pädagogisches Instrument.


    Der Filmemacher Ito verzichtet bewusst auf feste Vorführgebühren, damit möglichst viele Menschen diesen Film anschauen können, aber freut sich über jede Spende von Zuschauergästen und/oder Organisationen, die die Filmvorstellung organisieren. Der Film ist auf Englisch mit deutschen Untertiteln, und ist 70 Minuten lang.


    Nach der Vorstellung kann man entweder per Skype oder direkt ein Gespräch mit dem Regisseur (SNB stellt eine Dolmetscherin zur Verfügung) anbieten. Herr Ito plant, im September/Oktober eine Filmvorstellungstour durch Frankreich zu machen und könnte je nach Bedarf und Einladung auch nach Deutschland kommen.


    Wir würden uns sehr freuen, wenn möglichst viele Menschen in Deutschland die Gelegenheit bekämen, diesen beeindruckenden Film anzuschauen.


    Filmvorführungen können auch in kleineren Rahmen veranstaltet werden, d.h. der Film darf überall, egal in kleineren Gruppen von Menschen, oder in Kinos, Theatern, Universitäten, Schulen, Vereinen oder Firmen gezeigt werden.


    Bei Interesse schreibt eine Mail an:
    Silent Fallout promotion team in Europa: (SilentFallout_projection_eu@protonmail.com )

    Filmemacher Hideaki ITO:
    Geboren 1960 in Japan. Seit 1990er Jahren ist er als Filmemacher tätig. 2004 fing er an, über die Fischerboote Japans zu berichten, die 1954 im Pazifik verstrahlt worden waren im Zuge der Atomtests durch die USA im Bikini Atoll, und seitdem setzt er sich mit dem Thema Strahlenopfer auseinander. Der Dokumentarfilm „Silent Fallout“ aus dem Jahr 2022 ist sein dritter Film über dieses Thema. Er wurde in den USA erstmal beim Hampton International Film Festival gezeigt und bereits mit mehreren Preisen ausgezeichnet.