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シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金主催のアクションウィーク参加報告

シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金のマーティン・カストラネック氏は、フクシマ原発事故が起こる数年前から「アクションウィーク」を企画して実行してきた。これは、チェルノブイリ原発事故のあった4月前後にシュレスヴィヒホールシュタイン州の学校を回って、原発事故の「記憶を伝える」とともに、それを踏まえどのような未来を築いていけばいいのかというテーマを生徒に与えながら、学校、身の回りの環境でなにを改善することができるか話し合い、アイディアを出し合い、最終的に皆で投票して決めた一つのアイディアを、クラブ活動のようなチームで半年くらいかけて実現していく、そのためのノウハウやアドバイスを与えたりエキスパートを招いたりしてサポートしていく、という長い期間に渡るプロジェクトだ。持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に国連総会で採択されてからは、このSDGsを自分たちの環境でどのような形で実現するか、という主旨に変更した。こうしたコンセプトで地元の学校に提案を出し、目的に賛成し、生徒たちが積極的に参加しなければ成り立たないプロジェクトを一緒にやりたいと考える教師が協力を申し出て、時期や企画内容で折り合いがつけば実行される。このようにしてほぼ毎年、シュレスヴィヒホールシュタイン州の各地の学校(主にギムナジウムまたは総合学校(Gemeinschaftsschule)の10年生または9年生を対象)を、4月から5月の間の一週間、毎日1校ずつ5日間(月曜から金曜まで)めぐり、第一回目の集まりを開いてきた。

ここには、チェルノブイリ原発事故のリクビダートル(原発事故の処理作業に従事した人々を指す)として参加した人や実際の事故をその場で体験した人などがウクライナ(またはベラルーシ)から招かれていたが、フクシマ原発事故が起きてから、「記憶を伝える」の部分にはフクシマの話も大切だとして、フクシマまたは日本からも人を招くよう試みてきた。それで私は、ベル基金には緑の党寄りの基金としてそれだけの財源があるのかと思っていたのだが、そうではなく、このアクションウィークをどうしても実現・存続させるべく、カストラネック氏が宝くじによる社会貢献事業支援の枠組みに何度も応募してはこのプロジェクトに対し資金をもらっていたことがわかった。ただし、この宝くじによるあらゆる社会支援プロジェクトも、もう何度もこのプロジェクトが資金援助を受けたからかどうかはわからないが、同じ内容のプロジェクトではこれからはもう支援は与えられないと通達されているそうで、来年もこうしたプロジェクトを実現したければ、内容やコンセプトを変更せざるを得なくなる、という話だった。それにしても、若い中学3年生または高校1年生に当たる若者たちを対象に、原発事故の記憶を伝え、長期にわたるあらゆる側面に渡る問題を考えさせるだけでなく、そうした不安のない持続可能なエネルギーシフトを導き、自分の身の回りでもなるべく、どのようにすれば持続可能な環境を作っていけるか自分の問題として捉えさえ、考えさせるという試みはとても大切だし、通常の授業の枠組を超え、自分たちで具体的な考えを出し合い、そのアイディアを実行できるまで具体的にサポートしてもらえる、という経験を生徒に提供するというのはすばらしいアイディアだと思った。もう何年も前から反原発・反核の活動を通じて交流のあったマーティンから今回は私にもぜひ参加して私の立場から「フクシマの問題」を話してほしいと依頼された時、これなら応援しようと承諾した。このように5月の5日の月曜から5日間キールを拠点に、シュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校を毎日めぐる、2025年のアクションウィークに参加したので、これはその報告である。

国連のSDGs

招かれていたのは私だけではない。フリーの調査ジャーナリストとして事故後福島第一原発で普通の労働者として6か月被ばくしながら働いた桐島瞬氏が日本から参加していた。彼は、このアクションウィークの招きでドイツに来るのはこれで3度目だそうである。私は彼の通訳も受け持つことになった。桐島瞬氏は3.11の起きた時、日本のある出版社に勤めていたそうだが、それまで環境問題に関するテーマでも取材は行ってきたものの、原子力エネルギーに関しては一切かかわってこなかったという。フクシマ事故が起きて、情報が伝わってこない中、どうなっているのか自分の目で見たいという気持ちが募り、社員として新聞社や出版社に勤めているジャーナリストは「高線量の場所に行かせるわけにはいかない」と行かせてもらえないので、まず出版社を辞職し、フリーとなってから「潜入」する決心をしたそうだ。自分の本名で書いてネットで発表されていたそれまでの記事は、訳を話して名前を伏せてもらい、ネットでも彼の「正体」や電話番号、メールアドレスなどが暴かれないよう、いろいろ工夫をしてから、福島第一の中で働く仕事に就くことになったという。もちろん東電に直接雇われたわけではなく、現場から30キロほど離れたところにある会社に雇われたそうだが、東電で働くには身分証明をしっかりして本名を明かさないわけにはいかなかったのでそれなりの対処が必要だったようだ。また労働者は写真を撮ることを固く禁じられていて、携帯の所持も許されていなかったのだが、彼は隠れてジャーナリストとして潜入するからには、どうしても写真を撮りたいと、苦労して隠れて写真撮影もした。

雇われていた6か月ほど、彼は車で寝起きしていたという。早朝、同僚と会社の車で楢葉町にある中継拠点のJヴィレッジまで行き、防護服に着かえ、放射性物質を吸い込まないための全面マスクを手に取る。そこから作業員を載せる大型バス数台で福一に向かう。線量の高いところに入ればバスの中ですでに全面マスクもつけたそうだ。

彼が福島第一に入ったころはまだ、水素爆発の後あちこちに飛び散った瓦礫が散在しており、敷地内はまっすぐ車などが通ることもできないほどだったという。それでも、原子炉を冷却するための「循環注水冷却システム」と、冷却などで高レベルに汚染された水を浄化するための「多核種除去装置(ALPS)」を作り、重く太いホースを人海作戦で持ち運び、繋げる仕事に従事していたそうだ。最初は軽量の塩化ビニール製ホースだったが、草がホースを突き破り、汚染水が漏れることがわかり、のちにポリエチレン製のしっかりしたホースを使うことが決まったため、労働者たちがまったくのマンパワーで瓦礫や草木に覆われた場所を苦心してホースを運び繋いだそうだ。労働者たちは高線量の中を働くため、毎朝、その日の計画線量(その日の仕事の最大被ばく許容線量)を言い渡されるが、数時間でいっぱいになることもある。被ばく線量を測定するために24時間付けているガラスバッジと、敷地内の作業時につける線量計とで線量管理は一応しているのだが、朝の8時くらいから仕事を始めても昼近くには被ばく量が増えるため、休憩所に行って休むことになる。だが、その休憩所の線量も低くはないため、そこで全面マスクを外して休憩すると、休憩の間に汚染空気を吸い込んで被ばくしてしまうことになる。また夏の暑い時期には、全面マスクの中で汗を掻き、びしょびしょになってほとんど息ができなくなって苦しくなることが少なくなかったという。彼が働いていた当時は3000人前後の労働者が福一で働いていたが、休憩所はその人たちを収容する広さがなく、ロッカールームの前で横たわるしかないこともあった。肌が直接放射性物質に触れることがないように、特殊なポリエチレン繊維不織布で作られた全身の防護服を着ているが、休憩所では全面マスクを取り、首元を開ける。それで休憩中も被ばくをしてしまうのだそうだ。頭ではわかっていても、実際に目には見えない、味も臭いもしない放射能被ばくに関する懸念は、そこで具体的な仕事に携わり、暑さや疲労と闘っていると、どんどん麻痺していく、と彼は語っていた。

6か月ほど仕事をしてやめたすぐ後は、鼻血が止まらなかったことが何度もあったそうだ。それは、線量の高いところに住んでいる住民もよく報告していた症状である。彼が働いていたときだけで、2~3名が作業中に発症した急性心疾患などで死亡し、あとから取材した1人は白血病に罹患したが、東電は作業による被ばくとの因果関係を認めていない。彼も14年近く経つ今年の1月に心筋梗塞を起こし、心臓の手術を二度も行ったそうだ。つい1か月前まではまともに歩けなかったというが、ここまで回復してドイツにやって来たのだ。がんや心疾患は被ばくとの関連性が高いと言われ、被ばく後、長い時間が経ってから発症することがあると言われている。

私は、自分がドイツでフクシマ事故の話を聞いてどう反応し、何をしたか、という話をした。日本にいるより遠くのドイツにいる私の方が得られる情報や報道があったことに驚き、それを翻訳して日本の人にアクセスできるようネットで拡散し始めたことなどを話すとともに、日本ではフクシマ事故以来、実際の健康調査や被ばくの状況のデータ収集をしっかり進めて人々をサポートしたり、故郷を離れざるを得なくなり、帰ることのできない人たちに住宅支援を続ける代わりに、中途半端な「除染」でどんどん帰還政策を行って、住宅支援を断ち切り、包括的な調査をする代わりに「心の除染」「ちょっとくらいの放射能は大丈夫」「フクシマはおいしい、きれい」の大々的なキャンペーンを国や県や自治体が税金を使って政府寄りの広告代理店にやらせている話などもした。また、日本のフクシマの実態をドイツでも伝えるため、証言をドイツ語に翻訳するボランティア活動を続けていることも話した。その中で、遠くの隣人3.11の杉田くるみさんが制作してきた一連の「証言ビデオ」(ことに菅野みずえさんの、フクシマからの避難の話に私がドイツ語訳をつけたもの*2)を使わせてもらったり、彼女がコミック作家のダミアン・ヴィダルさんと作った「Fukushima 3.11」のコミックドイツ語版を紹介し、生徒たちに配布することもできた。くるみさんとダミアンさんにはこの場を借りて改めてお礼を言いたい。

今回のアクションウィークの第一回目の生徒との集まりでは、まず最初にこの企画の説明と流れを紹介してから、「まずフクシマと聞いて何を思い浮かべるか」、「フクシマとSDGsを繋ぐものはなにか」というような質問をMentimeterというリアルタイムフィードバックプログラムを使って(最近の学校はこのように進歩していて、かつて黒板のあったところに大きなモニターが付いていたりするのを私は初めて知った)生徒に答えさせる。何しろ14年前のことで、15歳16歳の生徒たちを対象としているから、当時の報道のことは知らない世代だが、教師と授業などですでにこのことが話題になっていた場合には、最初の質問に「原発事故」とか「放射能」とか「津波」とか答えた生徒もかなりいた。2番目の質問でも「環境問題」とか「持続可能な社会」とか「環境にやさしいエネルギー」とか答えられる生徒もいた。

コミックFukushima 3.11 *1

その後で、インタビュー形式で桐島氏と私に「事故のとき、何を思ったか、何をしたか」とか「日本でのメディアはどのように事故のこと、その後の影響などを伝えているか」などの質問をしながら答えさせるといった形でほぼ1時間くらい「フクシマ原発事故」にまつわる個人的な話をさせた。桐島氏は、実際に現場で被ばくをしながら一般の労働者と同じように働いたという実際の体験を語ったので、それは証言というものの常として、聞く人を動かす力があったと思う。放射能の危険性を知りながらも潜伏してその体験を語るInvestigative Journalistということで、話を聞いていた生徒たちや教師の中にも感動する人たちがいた。私はしかし、実際にフクシマの地震や津波も体験していないほか、故郷を追われたわけでもない、遠くに住むただの日本人として、それをどう自分なりに受け止め、反応し、それでどのように行動したか、というアクティビストとしての活動報告のようなものを語るしかない。また、アクションウィークのコンセプトに合う「ストーリー」に沿って用意された質問に対して答えるしかなかった(ことにそれは用意された質問に答える形でしかゲストである私たちは話すことができなかったからでもある)。

例えば日本のマスコミの問題点、政府・当局や東電の事故後の対応や責任問題、市民の健康管理や避難した市民たちの援助を徹底して実行・続行するよりずっと多大の金額を電通を先頭とする広告代理店に委託してプロパガンダを続け、汚染水の海洋放出や汚染土リサイクルなどを正当化しているなどの話もしたが、短い時間に、しかも原発事故に対する問題意識や知識のない若者たちに語れることは限られており、あまり詳しい内容を話すことはできない。どこに重点を置くか決めて、これだけは話そう、と要点に絞るしかない。ということは、これではフクシマの問題点、原子力産業の問題点、核の恐ろしさは伝えられない、と思っても、また問題点は複雑であり、ないがしろにできないデリケートかつ難解なテーマや説明が難しい状況が多岐にわたってあることがわかっていても、それを異国のティーンエージャーに、しかも学校のカリキュラムではない課外授業のような限られた枠内で、この事故の14年来(または原子力発電が誕生してから?)の問題を伝えることは不可能だ。簡単にまとめ、わかりやすくアレンジした「ストーリー」に嚙み砕くしかなくなる。ベル基金は緑の党に近い基金であるし、脱原発がまがりなりにも実現したドイツで、原発に頼らないエネルギーシフトと持続可能な社会を作って行こうということはいいとしても、政治的メッセージ、洗脳の試みとして取られかねないので学校であまり反原発を直接呼びかけない方がいいだろう、ということは最初に言われてもいた。私にはこうした「短い時間」で「噛み砕いた」フクシマの原発事故とその問題を(遠い異国の出来事として学ぶドイツの生徒たちに)わかりやすく、掴みやすい(しかもマーティンの主旨に沿った)ストーリーで伝える、ということ、そして同じ内容のプログラムをほぼ5日間繰り返したので、大体何をどのように話すのか決まってしまい、マンネリ化を感じながら、こうした「偏った」または「短絡化した」「ストーリーにまとめられた」フクシマを結果として伝える一人となったことに、罪悪感というか、フクシマ以来、さまざまな苦しみ、悲しみ、悩みを抱えてきている人たちを裏切っているような気持に苛まれた。

私はまったく被害者でも当該者でも体験者でもないわけだから、アクティビストとして学んできたこと、考えてきたこと、観察してきたことのほか、人前で話せることはない。それはこのような学校の限られた枠内で話すのには適さないのではないか、という思いに責められた。あるいは、こうして日本のことを全く知らない若者たちにフクシマまたは原発事故の悲劇、問題点を語るということは、私にはできない、私は不適格者だ、と悟らざるをえなかったとも言えよう。「これさえ伝えれば、あとは語らなくてもいい」とか「この側面だけ伝えよう」というような単純なメッセージづくりにフクシマも核をめぐる問題も縮め、簡略化することができない、もしくはしたくない私には、こういう任務はまったくふさわしくないのだ、と感じたと言えようか。そういう意味で、私は最後まで居心地の悪い参加となってしまった。それでも、桐島氏の話の通訳や、私の話にそれなりに満足し、任務を果たしたと思ってもらえたのはよかったと言わなければならないだろう。

アクションウィークには私たち「日本人ゲスト」のほか、シュレスヴィヒホールシュタイン州Bad Bramstedt地区代表の緑の党州議員で環境保護、エネルギー政策を専門とするGilbert Sieckmann-Joucken氏が参加しているほか、若手の女性二人(一人はエラスムス計画でスウェーデンの大学で半年勉強しているMelina Wolf(数年前からこのアクションウィークプロジェクトの研修生として働いてきている)と、大学での政治学修士を獲得後、今は難民支援団体Flüchtlingsratで仕事をしているMiriam Zweng(彼女も3年前からアクションウィークに参加)が司会やサポート役として来ていた。彼らがSDGsをどのように身近な学校環境で変えていくことができるか説明したり、例を挙げたりしてから、自分たちの周りで何が問題か、何を変えることができるか考えさせるワークショップへと生徒たちを導いていく。

ワークショップの様子

アイディアとして出た例は、「学校の緑化」「自転車をつかって電気を作ってそれで校内の一部の設備機械のエネルギーを賄う」「戦争や紛争を逃れて難民として来ている子どもたちを支援する寄付金集め」 「太陽光パネルを屋根に設置して校内の電気として使う」「学校の庭で畑を作り、養蜂もする」「屋根の緑化」などがあったが、その前に「どういう問題があるか」という段階で、「ファーストファッションが問題」とか「パン屋でいちいち新しい紙の袋にパン菓子を入れて買うとゴミが出る」、「低学年の生徒に正しいゴミの仕分け方とその意味、理由を教えて、リサイクリングを徹底する」から「暴力」や「武力闘争」問題、差別問題まで提示するほど、意識の高い生徒もいた。9年生と10年生の生徒両方と接したが、やはりこの年齢での1年の差は大きく、10年生のギムナジウムの生徒は、意識も高く、考えもしっかりまとめられる人がいるのに感心した。

アイディア例

最終的には、多数出されたアイディアの中から1つまたは2つを投票で選び、それをこれから半年かけてクラブのような形で集まって具体的な計画を経て、実現していく、これがアクションウィークだ。資金がかかるアイディアだと、どのように資金を調達するかアドバイスを出す、技術的な支援が必要なアイディアなら、エキスパートを招いて講習する、などのフォローがベル基金の方から出されることになっている。

生徒から出されたアイディア

滞在中、Schönbergという町でフクシマ原発事故以来、かかさずMahnwache(戒めの集い)を続けてきたグループが私たちを招待してくれたので、キールからフェリーでLaboeまで行き、そこからさらにSchönbergまで向かった。このフクシマ・グループは事故直後はかなりの人数だったというが、今は7人程度、といいながらも毎週欠かさず町の真ん中の商店街の薬局前(ここは屋根があるので雨でも大丈夫)でMahnwacheをしているというので驚いてしまった。薬屋もそれを快く受け入れてくれているということだ。この町は、町長も原発事故後、役所の建物をミーティングで使わせてくれたり好意的だったそうだが、それはここが元原発が稼働していたBrokdorf (Kreis Steinburg)、Brunsbüttel (Kreis Dithmarschen)そしてKrümmel (Kreis Herzogtum Lauenburg)から離れていたからだろうという。最初にメンバーの一人の自宅に伺い、そこで菅野みずえさんが避難の模様を語ったビデオを見せながら少し話をして、それから一緒に食事のできる海岸沿いのレストランに向かった。彼らは、かつて反原発運動がドイツで盛んな頃、よく作られたという「たいらげて退治」しまおう原発お菓子(Schokokussと細長いワッフルクッキーで作ったもの)を持ってきてくれた。私が初めてこれを知ったのは、SNBや私の活動にいつも協力を惜しまずサポートしてくれた大切な友だった今はいないAnnette HackがSNBの集まりに作ってもってきてくれた時だったことを懐かしく思い出した。

食べてなくしてまおう!原発

ドイツの学校は朝の授業開始時間が早く、宿泊しているキールから車で1時間くらいかかる学校もあったため、毎朝かなり早い出発時間だったのが大変だった。でも、首都のキール周辺にアクションウィークに参加する学校が集中してしまわないよう、できるだけシュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校に行けるよう、企画しているのだ。いろいろな教師がいることも、いろいろな学校(その建物、設備、生徒たちの様子なども含め)があることもこの目で見て、改めて勉強になった。そして、携帯(スマホ)の所持を学校内で禁止しているところも少なくなかった。そしてある教師は、ここ数年、TikTok等の影響で、数秒で興味を覚えないものにはすぐに集中力が失せてしまう生徒たちが圧倒的に増え、10年前と同じ授業は今は行えない、と嘆いていた。ここで話をした若者のどれくらいの人たちが、私たちの話を数年経っても覚えているだろうか。何か、心に残ったり、なるほどと思ってくれたことはあっただろうか。あと10年も経たないうちに、この若者たちがドイツで仕事をしていく世代になるのだ。彼らが次の世代を育てるようになる頃には、どういう社会が、どういう環境ができているのだろうか。自分の生きる、自分の大切な人たちが生活する環境、世界をできるだけ安心できる、気持ちのいい場所にしたいというSDGsの理念を、自分で考え、自分で実践していってほしい。そのためにアクションウィークのようなプロジェクトをこれからもあらゆる学校で生徒たちに提供し続けてほしいと思う。(ゆう)

*1 コミックFukushima 3.11(以下のリンクでフランス語・英語・ドイツ語版がダウンロード可)

*2 菅野みずえさんの証言ビデオ

原発事故の強制起訴裁判、最高裁東電元副社長2人を無罪確定

2025年3月6日、日本の最高裁は、メルトダウンを起こし、未曽有の被害、死、をもたらした東京電力福島第1原発事故を巡る、東電旧経営陣の責任を問う刑事裁判で地裁、高裁の判決を認め上告棄却を決定し、旧経営陣の無罪が確定することになった。

旧経営陣を告訴・告発した「福島原発告訴団」の武藤類子団長は、最高裁の上告棄却が決定されてから弁護士とともに記者会見を開いて、悔しさを語った。

武藤類子団長の発表の抜粋

地裁、高栽と全員無罪となりましたが、私たちは最高裁の裁判官としての誇りと最高裁判所という場所の正義に一縷の望みをかけてきました。

刑事告訴するための準備を含めて13年間を費やして夢中で走ってきました。振り返る間もありませんでした。事故から14年が迫る中、その直前の判断は、被害者の気持ちを踏みにじるもので、冷酷さを感じます。

3月11日を目前に控えた今日、このような判断がされたということは、原発事故の被害者を本当に踏み躙るという冷酷さを感じています。どれだけの原発被害者が落胆して憤っているかと思います。

福島原発事故は今も続いています。どれだけの被害がこの事故によって引き起こされたのか、そしてどれだけの人が人生を狂わされたのか、そして未来の世代にどれだけの負の遺産を負わせたのか、そして原発事故を起こした企業の経営者の責任を問わないということが、次の原発事故を引き起こす可能性があるということ、それを裁判所が理解してくれなかったということが何よりも悔しくてそして残念です。

私たちはこの判決も司法でこれから問うことはできませんけれども、この判決にはまるで納得していません。これからも、この事故の責任というものは色んな形で問われると思いますので、そういった活動をしていきたいというふうに思っています。

Dokumentarfilm „Silent Fallout“ (Leiser Fallout, mit deutschem Untertitel)von Hideaki ITO aus Japan anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki

Im August 2025 jähren sich die ersten Atombombenabwürfe auf Hiroshima und Nagasaki zum 80. Mal.


Leider ist die Welt die Angst vor dem Atomkrieg nicht losgeworden, vielmehr ist die Bedrohung heute stärker denn je. Und ohne den Einsatz von Atomwaffen in einem Krieg gibt es seit der Entdeckung der Kernspaltung und der ersten nuklearen Kettenreaktionen überall auf der Erde Strahlenopfer – sei es von Atomtests, von Atomkraftwerken oder vom Uranabbau. Man übersieht meistens die Tatsache, dass man selbst betroffen ist.

Gerade jetzt, wo die Gefahr eines Atomkriegs wieder hoch aktuell geworden ist wie noch nie, ist es von großer Wichtigkeit, uns nochmals bewusst zu machen, was radioaktive Strahlen anrichten können. Um das Thema – anlässlich des 80. Jahrestag von Hiroshima und Nagasaki – stärker ins Blickfeld zu rücken, schlagen wir Sayonara Nukes Berlin (nachfolgend „SNB“), vor, gemeinsam mit euch eine Filmvorführung zu veranstalten, bei der ein besonderer Dokumentarfilm gezeigt wird, der nun mit deutschen Untertiteln verfügbar ist.


Der Film vom japanischen Filmemacher ITO Hideaki „Silent Fallout“ (Leiser Fallout) taucht tief in die unerzählten Geschichten der Opfer von Atomtests in Amerika ein. 1951 begannen die USA mit Atomwaffentests auf dem Festland und setzten unzählige Bürger einer gefährlichen Strahlung aus. Mary Dickson, die in den 1950er und 1960er Jahren in einem Vorort von Utah aufwuchs, wurde Zeugin, wie ihre Mitschüler in der Grundschule an ungewöhnlichen Krankheiten und Todesfällen starben. Gleichzeitig führte Dr. Louise Reiss in St. Louis, Missouri, eine bahnbrechende Studie durch, bei der sie Milchzähne sammelte und das Vorhandensein von Strontium-90, einem radioaktiven Element, in den Körpern von Kindern nachwies, die der Strahlung in ganz Amerika ausgesetzt waren. Dies veranlasste schließlich Präsident Kennedy zu dem Beschluss, die atmosphärischen Atomtests einzustellen.

Mit Berichten von Betroffenen aus erster Hand und Interviews mit Wissenschaftlern will Filmemacher Ito mit seinem Film das Bewusstsein für das gravierende Problem der Strahlenvergiftung und der nuklearen Verseuchung in den USA und weltweit schärfen. „Silent Fallout“, der die wahre Dimension der weltweiten radioaktiven Verseuchung, insbesondere durch Tests im Pazifischen Ozean und in Russland, aufzeigt, ist ein Muss für jeden, der sich für die dunklen Kapitel der Geschichte und ihre anhaltenden Auswirkungen in der heutigen Zeit interessiert, und bietet eine Fülle wissenschaftlicher und historischer Informationen sowie Berichte der Opfer aus erster Hand. Der gut geschnittene Film hat die Qualität eines guten Erzählfilms und ist ein wirkungsvolles pädagogisches Instrument.


Der Filmemacher Ito verzichtet bewusst auf feste Vorführgebühren, damit möglichst viele Menschen diesen Film anschauen können, aber freut sich über jede Spende von Zuschauergästen und/oder Organisationen, die die Filmvorstellung organisieren. Der Film ist auf Englisch mit deutschen Untertiteln, und ist 70 Minuten lang.


Nach der Vorstellung kann man entweder per Skype oder direkt ein Gespräch mit dem Regisseur (SNB stellt eine Dolmetscherin zur Verfügung) anbieten. Herr Ito plant, im September/Oktober eine Filmvorstellungstour durch Frankreich zu machen und könnte je nach Bedarf und Einladung auch nach Deutschland kommen.


Wir würden uns sehr freuen, wenn möglichst viele Menschen in Deutschland die Gelegenheit bekämen, diesen beeindruckenden Film anzuschauen.


Filmvorführungen können auch in kleineren Rahmen veranstaltet werden, d.h. der Film darf überall, egal in kleineren Gruppen von Menschen, oder in Kinos, Theatern, Universitäten, Schulen, Vereinen oder Firmen gezeigt werden.


Bei Interesse schreibt eine Mail an:
Silent Fallout promotion team in Europa: (SilentFallout_projection_eu@protonmail.com )

Filmemacher Hideaki ITO:
Geboren 1960 in Japan. Seit 1990er Jahren ist er als Filmemacher tätig. 2004 fing er an, über die Fischerboote Japans zu berichten, die 1954 im Pazifik verstrahlt worden waren im Zuge der Atomtests durch die USA im Bikini Atoll, und seitdem setzt er sich mit dem Thema Strahlenopfer auseinander. Der Dokumentarfilm „Silent Fallout“ aus dem Jahr 2022 ist sein dritter Film über dieses Thema. Er wurde in den USA erstmal beim Hampton International Film Festival gezeigt und bereits mit mehreren Preisen ausgezeichnet.

Weltatomerbe Braunschweiger Land:

Endlager-Symposium(核の遺産を背負うブラウンシュヴァイク地方最終処分場シンポジウム)報告

2024年6月16日から20日まで核の遺産を背負うブラウンシュヴァイク地方最終処分場シンポジウムが開催された。これはブラウンシュヴァイク地方でずっと原発・放射性廃棄物処分場問題をテーマに運動してきたプロテスタント教会グループのPaul Koch氏と、シュレスヴィヒ・ホールシュタイン州ハインリッヒ・ベル基金のMartin Kastraneck氏が中心となり、ブラウンシュヴァイク近郊に点在する中・低レベル放射性物質処分場を実際に巡り、放射性廃棄物最終処分のための連邦機関(Bundesgesellschaft für Endlagerung、以下BGEと略)の主張、進行状況報告を聞き、その土地で運動をしている市民グループたちが警鐘を鳴らしている問題点を聞こうという濃厚なプログラムだ。

具体的には、最終処分場候補や、かつて最終処分場とされたもののそれを撤回し、すでに存在する廃棄物を取り出さなければいけないことになっている処分場が抱えている問題だけに留まらず、「放射性廃棄物の処分」とはどういうことか、国はどういうコンセプトでどう進めているかBGEから直接話を聞くと同時に、市民グループはそれに対し何を不服とし問題視しているか、どんな運動をしているかを話してもらい、実際に問題の処分場にも足を運んで自分の目でも問題を捉え直すというプログラムだ。それぞれの処分場を訪ねて地下に潜ると何時間もかかるので、一日に一か所しか巡れないため、4泊5日に渡る大プログラムとなり、Koch氏が主に一人で計画準備設定をしてくれた。私の宿泊費はKoch氏が所属する教会でフクシマ原発事故以来彼らが続けている勉強会「ワーキングサークル・日本(Arbeitskreis Japan)」が負担すると提案していただいたため、こんな機会はめったにないとありがたく受け入れさせていただき、参加の運びとなった。。深謝。

ハードスケジュールのプログラムだったが、学ぶことばかりだった。これまで聞いてある程度知っているように思っていたドイツの処分場に関する知識も不十分だったことも実感した。またドイツに限らず、解決法がないままずっと夥しい量の放射性廃棄物をどんどん作り上げ、見えないところに押し込み(投げ捨て)、考えないようにしてきたツケが、世界各地でこのような形で噴き出ているのだという事実を改めて見直し、放射性廃棄物に対する考えも、処分という考え方、処分法についても熟考するいい機会となった。プログラムを追ってここに報告したい。

一日目夜:オープニングプログラム「放射性廃棄物処分の取組み方と問題点をあらゆる視点から考察する」

Koch氏、Kastraneck氏からの開催に関する挨拶後、BGEを代表してManuel Wilmanns氏がBGEの最終処分コンセプト、方針、計画について発表、アッセII(研究鉱山でここに1967年から1978年まで中・低レベル放射性廃棄物が処分されそのままになっている)周辺の環境市民グループを代表してEleonoreとWolfgang Bischoff夫妻がそれに対する意見、批判とアッセIIの状態についてデータを挙げながら考察を述べた。最後に私が日本の最終処分場探しに関する歴史、現在の状況、問題点などをパワーポイントファイルを使いながら簡単に説明し、最後は参加者が自由に意見を述べたり議論する場となった。

Asse II近郊市民運動家の報告

この最初のプログラムの会場となったのは、Koch氏が所属するSchöppenstedt市の教会(プロテスタント)教区集会場だ。この近くにAsse IIを始めとする、岩塩等のかつての鉱山坑内に中・低レベル放射性廃棄物を「処分」してきた処分場がまとまって存在しているため、放射性廃棄物による環境汚染や放射線障害の問題に関する市民の意識が長年高く、それで教会に属するKoch氏のような人たちも「放射線交流会」のような話し合いの場、意見交換の場、勉強会などを開いてきた。以前フランクフルトのレップ牧師が退職するまでおしどりマコ&ケンさんをドイツに毎年のように招いてくれていたころ、ベルリンの前後には必ずこのKoch氏に招かれておしどりさんたちがブラウンシュヴァイクに行っていたことを思い出す。ちなみに、この二人はKochさんに連れられて、Asse IIの坑内に見学しに行ったことがあるそうだ。

翌日の月曜にはAsse IIの坑内、火曜日にはMorslebenの坑内、そして水曜にはSchacht Konradの低・中放射性廃棄物最終処分場工事現場に見学に行くこともあり、そこの問題点を中心に「放射能廃棄物処分」というこれまでの歴史と経過そして予定されているこれからの行政の計画から復習することとなった。放射性廃棄物最終処分のための連邦機関(Bundesgesellschaft für Endlagerung, BGE)は連邦政府が運営する機関組織として6つの部門に分かれて放射性廃棄物最終処分に関する仕事を取り扱っている。その6つの分野とは:

  1. Endlager Schacht Konrad(唯一ドイツで現在許可が下りて建設工事が進んでいる中・低レベル放射性廃棄物最終処分場、もと鉱山)
  2. Endlager Morsleben(かつて最終処分場とされ、1971年から1998年の間に処分され中・低レベル放射性廃棄物が37000立方メートルすでにある)
  3. Schachtanlage Asse II(1967年から1978年までにここに処分されてしまった中・低レベル放射性廃棄物が約47000立方メートルあり、ドラム缶が塩水で錆びているような危険な状態の廃棄物を取り出して、水に溶けて陥没するかもしれない塩山を安定させなければならない)
  4. Bergwerk Gorleben(2020年になってやっと高レベル放射性廃棄物最終処分場候補リストから降ろされたゴアレーベンの塩ドームは、1977年から「最終処分予定地」として調査のための採掘が行われた。2021年にBGEはこのゴアレーベン鉱山を閉山することになっている。このすぐそばには中間貯蔵施設があり、ここにラアーグなどから戻された高レベル放射性廃棄物の入ったキャスクが保管されていて、この貯蔵施設の使用許可が2034年に切れるのでそれをどうするかについてもまだ未定なのだが、こちらの問題は放射性廃棄物中間処分のための連邦機関BGZ(Bundesgesellschaft für Zwischenlagerung)が担当している。)
  5. 最終処分場サイト探索(サイト選定と日本語ではふつう訳されるが、実際は「探索」だ)
  6. 品質管理(最終処分用容器や最終処分場の運営・管理・制御方法に関する品質管理、認可など)

このBGEと日本で最終処分探しを担当している原子力発電環境整備機構(NUMO)との決定的な違いは、BGEが完全に連邦政府により資金が出され運営経営されている公共機関であるのに対し、NUMOは幹事に経済産業省のもと大臣官房付きだった人などが入っているものの、ほとんどは電力会社、日本原子力研究開発機構(JAEA)日本原燃から納付された拠出金・運用益によって賄われ、それらの関係者で運営されていることだ。

BGEは2016年7月に、それまでの放射線保護連邦庁 (BfS)内の最終処分部門とAsse運営会社と廃棄物最終処分場建設運営会社 (DBE)を統合し、ドイツの「原子力法」と改正された「最終処分サイト選定法」に基づいて設立され、現在約2300人の従業員がそれぞれの分野で従事しているという。透明性、公明性を強調するため、広報には力を入れていて、どの処分場サイトに行っても、どんな質問にも真摯に答えられるだけの知識専門情報を持ち合わせた広報担当者が詳しく案内・説明し、批判的な意見に対してもきちんと対応し議論しているのは気持ちがいい。もちろんだからといって、彼らの言っていることが必ずしも正しいわけではないし、批判の余地がないわけではなく、それを監視する情報や目も、市民が持ち続けなければならないことに変わりはない。

今回のシンポジウムでは、Asse IIとMorslebenの坑内(地下)、Schacht Konradの中・低レベル放射性廃棄物最終処分場の工事現場を見学してそれぞれの問題点を学び、さらにブラウンシュヴァイク市外で主に医療で使われる放射性医薬品を製造するEckert und Ziegler社の放射性廃棄物の処分問題についても話を聞くこととなった。

二日目:Asse II坑内見学

ドイツでは1960年代に原発計画が持ち上がった。ドイツ国内で原発による発電を始めたら、必ず排出されることになる高レベル放射性廃棄物については、その崩壊熱がある程度おさまってから、それを最終処分する場所がいずれ必要になることはわかっていた。1959年11月にモナコで放射性廃棄物処分に関する国際会議がIAEAとユネスコ共催で催されたが、ここで、これから原発が世界各地で増設されていくのを鑑み、排出も増える放射性廃棄物をどのように処分すべきかが話し合われた。32か国から約300人の科学者たちが集まって15年のそれまでの経験をもとに(つまり1944年からの経験)議論や講演を行った。特記すべきは、当時はまだ誰もが「原子燃料サイクル」を信じていたため「廃棄物」とは言わず「使用可能な資源」と言っていたそうである(日本ではそれをまだ相変わらず言い続けている)。この会議では、放射性物質は固体に固めるか容器に入れて密閉し、人工的または自然の地下の空洞に処分するのがいいという結論が出されたという。しかし、それぞれの土地・地方の地理的、地質的、天候的、水資源的等条件がことごとく異なるため、どこにも採用可能な統一の解決法をここで提示することはなかった。またここではまだソ連を除き、ほかの国々は海洋放棄という方法も完全に放棄しなかったとある。

これを受けてドイツでは、地質的条件から最適なのは塩山ドームだという議論が優勢になった。というのは、当時最終処分場として適しているとされてきた地質には大きく分けて3種類あり、それは岩塩(塩山)、粘土質岩、結晶質岩(花崗岩)である。それぞれに長所短所がある。例えば結晶質岩の例で花崗岩(Granite)が挙げられ、例えばフィンランドのオンカロに予定されている最終処分場は花崗岩の地質だが、花崗岩は極めて硬質であるのが長所だが、短所として脆性性(割れやすい)がある。粘土質岩は熱に強いが、水を含むと膨張するという短所がある。それと同様に岩塩は水に溶けるという短所があるものの、塩は放射性物質の遮蔽性能が高いとされている。

そこでドイツは、塩山や塩ドームが国内にいくつもあり、すでに坑道もあって採掘後の空洞があったため、ここを使うのが経済的にも安いし便利だと思われたのだった。まず第一に高レベル放射性廃棄物の最終処分場候補として考えられたのが当時の西ドイツの東ドイツとの国境沿いにあったゴアレーベンの塩ドームだった。ただ、まだ技術的に解明しなければいけない問題があったため、放射性物質研究機関(GSF)が連邦政府の指示で、1965年にすでに採掘をやめていた塩山のAsse IIを買い上げ、研究鉱山という名前でここに「試しに」低・中レベルの放射性物質をドラム缶に入れたものを「保管」することにしたのだった。あくまでも「研究鉱山」という名で、GSFはゴアレーベンに高レベル放射性廃棄物最終処分場を造るための技術的科学的調査を行うという目的で、Asse IIを使用することにしたのだった。

すでに水が流れ込んでいるという問題は知られていたので、それを裁判で訴えた市民、環境団体がいたのにもかかわらず、Asse IIは「乾燥して」おり、「放射性廃棄物処分に適している」と宣言されてしまい、1972年当時の連邦科学省長官であるKlaus von Dohnanyiは「ほぼ百パーセントの確率で水が入り込むことはない」と言い放った。

Asseはこの近郊地下に広がる塩鉱山だが、IIという番号からも予想できるように、まずはAsse Iの坑道で1899年からカリ塩が採掘され始めた。しかしまもなく水が入り込んで塩が溶け始め、1921年にはこのAsse Iの坑道は完全に陥没してしまった。Asse IIIは1911年に掘り始められてからも塩水の流れが何度も見つかり、なかなか塩の採掘にたどり着かなかったそうだ。第一世界大戦後728メートルの深さまで掘られたのち、ここで採掘していたカリ塩の需要が少なくなったこともあり、閉山された。今はここもほぼ陥没状態に近いと言われている。残ったAsse IIは1906年から1908年の間に765メートルの深さまで掘られ、そこから坑道が作られていった。ここでは主に岩塩が採掘されていったが、いくつもの深さと水平の長さに空洞に岩塩が削られていったのである。1964年に採掘が終了され、一部の空洞は埋められたという話だが、結局合計300万立方メートルもの空洞が残されたことになる。

「スイスチーズの穴」Asse II内部の模型

訪問者センターに入り、BGEの広報担当の人から最初のレクチャーを受ける場所にAsse IIの模型があるが、ここを見るとわかるように、坑内は地下に作られた大規模な高層ビルのように、何層にも長い坑道が掘られて「スイスチーズの穴」のようだとも言われている。(写真参照)

Asse IIには1965年から1978年まで、約126,000ものドラム缶に入れられた中・低レベル放射性および化学毒性物質の廃棄物がここに処分された。最初は縦、または横に寝かしてきちんと並べられていたのが、1971年からは地下の穴奥深くにただごろごろと投げ落とされて放棄されていたことが知られており(動画にもその様子が残っている。写真参照)、そこに水が出始めてドラム缶の蓋や容器が塩水で錆び出し、放射能が漏れ始めて怖い状態になっているため、これをどうして取り出して安全に処分し直すかが最大の課題となって いる。

後先考えずに放り込まれた廃棄物の入ったドラム缶
後先考えずに放り込まれた廃棄物の入ったドラム缶

この無秩序な処分はなにより「時間の節約」のためでもあったが、労働者の放射線保護のためになるべく放射線に近づく時間を短縮するためでもあったということで、それだけ「後日これをまた回収する」などということは予定に入っていなかったことがわかる。ここに放棄された廃棄物には、約25000のドラム缶に分散されて28㎏分のプルトニウム、102トンのウラン、500㎏のヒ素が含まれているそうだ。

さらに、これらドラム缶はいくら中・低レベルといっても放射線を放出する廃棄物を入れる容器としては、輸送のためにしか適していないもので、放射性遮蔽が長期にできる貯蔵のために設計されたものではもちろんなかった。さらに、ドラム缶を無防備に下の方に投げ入れたため、それで凹凸が生じたり、傷がつくなどの損傷があるという。考えれば考えるほど恐ろしい状態でドラム缶が水で溶け始めている岩塩の地の底に埋まっているわけだ。

1978年にAsse IIでの処分は終了されたが、いわゆる「研究」は続けられ、同時にあらたな「湿った壁」もいくつも発見されていった。1988年からは地下水がこの塩山に入り込んでいることがわかっており、将来放射性廃棄物が流れ出して地表面にも出てくる可能性がある、または地下水を汚染する可能性があると、恐れられている。水が浸み出しているところでは、丈夫なビニールシートを張ってそこで集水するようになっており、それをまとめてポンプで地上に汲み上げている。塩山が水によって地形を変え「動く」「変形する」ことでこのビニールシートが水平に保てず、窪みや凹みができてしまうなどの問題が生じていたが、ここでは今年4月からさらに予想外の新問題が生じている。

シートを張ってある場所のそば

このシートのある658メートルの深さのところでは、長年 測ったように毎時10立方メートルの水が入り込んでいた。それが4月になって急に変わってしまったのだ。この深さでの浸水が急激に減少し、725mの深さのレベルでの浸水が増えた。1時間に40リットルの水しか届いていない。400リットルではなく、40リットルだ。3センチの厚さのシートで浸み出てくる水を集めてはタンクに入れ、それをまた地上にポンプで汲み上げてきた。水は今もどこかで流れ続けているはずなのに、それがここまで全部届かなくなっているのだ。今のところ毎日2000リットルから3000リットルの水がどこかで「消えて」いることになる。塩は水で溶けるので、これでいくと水が浸みていけばいくほど、塩山の安定性がさらに失われていくことになる。Asseはこれまでも時間との競争だったが、その度合いがさらに激しくなってしまったことになる。これで、その「消えた」水探しという課題が一つ加わってしまったわけだ。廃棄物は2033年に回収することになっているのに、もしその前に塩山が溶け落ちてしまったらどうするのか?

BGEの最大の課題は、このAsse IIに詰め込まれた廃棄物の入ったドラム缶をどのようにして「回収する」かだが、同時に空洞となった場所を、塩を混ぜた特殊セメントで埋めて、脆弱になっている塩山全体を安定させていく、という作業もしていかなければならない(それにしても巨大な空洞があれだけあるのだから気の遠くなるような話である)。廃棄物の取り出しは2033年開始と予定されているものの、それもあまり現実的な計画ではない。

全員がこの装備で立坑を下った。肩に5キロの酸素

鉱山というのはどこもそうだが、まず坑道に入る地下の立坑(エレベーターのような乗り物)に、作業員も工具、大規模な機械も作業車もすべて載せて運ばなければならない。大きな機械や車は、分解して運び、地下でまた組み立てて使えるようにするのだ。また、地面の下を何百メートルといった深さまで掘り下げて作られた坑道なので、常に空気を下に送り込み、また送り戻して循環していなければならない。地下採掘の鉱山では最初に坑口を開け、そこから必要な深さまでボーリングして立坑を使って人も物も工具もすべて運ぶので、それが地上に戻る唯一の手段である。万が一電気が使えなくなってこの立坑のエレベーターも止まり、空調も止まった場合、緊急時用電源を使えるようにしてそれが復活するまで最大1時間ほどかかることが想定されるため、下に行く人間はすべて5キロの酸素を担いでいくことが義務付けられている。これに作業服と作業用靴、ヘルメットと大きな懐中電灯を渡されて(一番小さいサイズを借りたが私にはそれでもすべてぶかぶかで動きにくかったが)さらに5キロもの酸素を担いで歩かなければならず、大変だった。ちなみに坑道は広く、迷子になりそうな迷路のような暗いトンネルが広がっているので、実際に自分の足で歩いたのはわずかな距離だけで、ほとんどは地下に備えてあるヴァンやジープなどの車で移動した。ガイドの人はよくあんな暗い、どこも同じようなトンネルの中でオリエンテーションがつくなぁ、と感心した。

Asse IIの立坑。これですべてを運ぶ

Asse IIは地下の坑道は30度以上で湿度が高く、日本の夏のようだ。それで下着からシャツ、ジャケット、ズボンにヘルメットと着させられて汗を掻くが、地上に無事戻ると気持ちよいシャワーが待っている。下着まで脱いでここのものを着なければならないのかと思ったが、汗を掻くと、最後にすべてそれを脱いで汗を掻いていない自分の元の下着に戻れたことが嬉しかったので、意味はあった。その代わり、あんなに大きなぶかぶかのパンツを履くのはずり落ちそうで、気持ちが悪かった。BGEはこのAsse IIにかつて回収を前提として考えないで表向き「試験的」とだけいいながら合計約4万7,000m3の放射性廃棄物を処分してしまったことは「過ちだった」と認めているものの、BGEは2016年に作られたばかりの機関なので、自分たちがやったことではないから我々の責任ではない、というスタンスで、これからの計画、コンセプトを自信をもって宣伝している。それでも、すでにひどい状態になって置かれている廃棄物のほか、その周囲で汚染されてしまった岩塩や塩水などを含めて「回収」しなければならないことに変わりはなく、その量はほぼ10万立方メートルになると言われている。それを取り出すために、既存の塩山の東側に新しく立坑を建設し、回収用の坑道も建設する計画であること、そして回収は2033年に開始するというのが今の計画だが(それが実現できるというのを裏付ける具体的なデータはまだ上がっていない、これも市民グループの批判の対象である)、実際に回収作業が開始されるとして、それを地上に搬出したら、それをどうするか、についても問題が大きく横たわっている。

ドラム缶に入れられた廃棄物の状態も何がどのように入っているかその詳しい情報も把握できていない(過去に、内容物がまったく間違って書かれたままのラベリングがあったことも見つかっている)ので、取り出した廃棄物をどこかにしっかり処理する前に(もちろん、その行先はまだ決まっていない。現在唯一中・低レベル放射性廃棄物最終処分場として決定され建設工事が始められているSchacht KonradにはAsse IIから回収された廃棄物は入らないことは決まっている)、中身を取り出し、調べ、特性評価(Charakaterization)し、再び「正しく処分」できるようコンディショニングしなければならない。BGEはそれを放射線防護の観点から移動距離を最小限にするために、Asse II東側に作る予定の立杭そばで行い、回収し特性評価し正しくコンディショニングされた廃棄物が新しくどこかに中・低レベル放射性廃棄物最終処分場が建設されて操業を開始し、処分が開始できるまで、そこに中間貯蔵施設を併設して貯蔵しようと計画している。

近郊の住民たちが一番懸念しているのは、ここである。投げ込まれ、放り出されたまま溶けだした塩水でどうなっているかはっきりわからないような恐ろしい状態にある放射性廃棄物を一刻も早く取り出し、それ以上放射能汚染が広 がらないようにしなければならないことは言うまでもない。しかし、なぜ廃棄物を取り出したら、それをその場で(しかも地上で)開き、何が入っていてどの程度の汚染でどのような状態かという特性評価をし、コンディショニングしなければならないのか。さらに最終処分場が見つかるまで、危険な廃棄物をなぜまたAsse IIの地上で保管しなければならないのか、ということである。なぜなら、そのためには3万平方メートルもの面積に新しく放射性廃棄物を取り扱う、高さ25メートルほどの施設を建設すると計画されているが、Asse IIから2 km以内にはRemlingen、Mönchevahlberg、Klein Vahlberg、Groß Vahlbergなどと、すぐ近郊に普通に住民が暮らす村が点在しており、小学校や幼稚園まである。放射線防護の観点から見れば住民の住む地区から最低4kmは離れているべきだし、しかもすでにAsse IやAsse IIIは陥没してしまったくらいで、Asse IIにも地下水が入り込んでいる場所があり、地盤が安定していないとわかっているところに、それも地上に放射性廃棄物を扱う施設を作り、さらにいつまでのことかわからない中間貯蔵施設をつくるというのはとんでもない、というのが市民の言い分だ。せっかくAsse IIから「危険な廃棄物」を取り出しても、それが「地上」で蓋を開けられ、特性評価し、コンディショニングしなおすという作業をすれば、放射能が空間に放出されることは必然となる。それをどうして住民がそんな近くにいる、しかも地盤がそれほど悪い場所で行わなければならないのか? 単に経済的な理由でそこを選んでいるだけではないか、本当に放射線防護、環境への遮蔽と生命の安全確保を考えれば、そんなところにそんな施設をつくることなどできないはずだ、というそういう主張で、もっともである。彼らに言わせれば、「適した場所までの回収した廃棄物輸送を可能にする設備」さえ作ればいいはずで、これなら設備としての規模も圧倒的に小さいし、周囲環境への放射性物質放出の危険もずっと少なくなる、としている。

岩塩の壁

BGEは、なぜそこにそういう施設を作らなければならないのかという問いかけに対し、かつてAsse IIを「処分するのに適切」と決めつけたのと同様の独断で、「ここの地盤は基本的に安定しており、この施設建設に適している」と説明しているのみだ。「一番安全で適した場所」をゼロから探すのではなくて、「ここにあるものを苦労して取り出すのだから、ここで特性評価やコンディショニング(詰め替え)もしてしまおう、どこかにいつか最終処分場ができるまで、回収した廃棄物はついでにここで中間貯蔵するのが経済的だし手っ取り早い」という考えが見え見えなのだ。これでは、今BGEですら間違っていたと認めている「大きい空洞があるからそこに核のゴミを入れてしまうのが経済的で便利」という立場からほとんど変わっていないことになる。「そこにゴミがあるから、そこで特性評価もゴミの詰め替えもしてしまおう、最終的な処分場がみつかるまで、そこに置いたままにするのが都合がいい」といっているわけだからだ。

地元の市民たちは、BGEの強硬な進め方、計画に反対し、市民が参画できる開かれた作業プロセスを望み、Begleitprozess(市民参画プロセス)を作ったが、それは結局失敗に終わった。決裂の最大の原因を作ったのは、この特性評価・コンディショニングのための設備と中間貯蔵施設をこのAsse IIの東側に作ろうという計画を一切見直そうとしないBGEと市民たちが議論できなくなったことだという。BGEがオープンな議論を形ばかりで本気でせず、ちゃんとした意見交換、調整、共同の決議などをすることができなかったからで、それがさらに市民たちの懐疑感を増長し、対等な意見交換が不可能な状態を作り出してしまった。

廃棄物は危険な状態にあるから、もちろん一刻も早く取り出すべきなのだが、実際に廃棄物を取り出してしまったら、それをどうしていくかについてはっきりしたコンセプトが確立していなければ、なにしろあらゆる種類とレベルの危険な状態にあるドラム缶にあらゆる種類とレベルの危険な廃棄物が入っているので、「とにかく取り出してしまおう」では危ない、そのことを市民グループは指摘しているのに、それに対する真っ当な議論が行われないのだ。具体的な疑問、例えば湿ってしまった廃棄物はその場で乾燥させるのか? その場合は乾燥時に放射性の蒸気が排出されることになるが、それをどのように外気から遮蔽すべきか?ということを、周辺に住む住民たちは考えざるを得ない。放射線防護の観点から言えば、大体そんな危ないゴミが地下に埋め込まれていて、塩が溶け始めて地下水や外気にどう漏れ出すかわからない、という処分場のそんなそばに住民が住んで普通の暮らしを営んでいるということこそ、あってはならないはずだ。

というわけで、BGEの計画に市民グループが断固として反対しなければならない理由があり、BGEがその異議に対し協議し一緒に最善の解決策を追求するのではなく、結局は自分たちのコンセプトをただ押し付けようとしていることに対しても、彼らはNOと言い続ける以外にないという状態が続いているのである。

Asse II近郊の村Remlingenには測定所がある。https://www.transens.de/buergermessstelle

Schulz氏が従事する測定室

これは、チェルノブイリ事故やフクシマ事故後のように、原発事故が起きてから食品、土壌、空気などの汚染の危険が実際にあって各地に作られた市民測定所とは異なり、Asse IIにかつて処分され、それが塩水で錆びたり溶けだしたりして放射能汚染の危険が報じられているこの土地で、自分たちの環境を心配する市民たちのために独立した測定所を作り、それをいずれは、市民がボランティアでそれを続けていけるようにするのを助けようという目的で、ハノーファーのライプニッツ大学の放射線生態学・放射線保護研究所研究員のWolfgang Schulz氏がTRANSENSというプロジェクトの枠内で実験的にここに設立したものである。彼はだからハノーファー大学の研究員として給料を得ながらここの仕事をしてきた。周辺環境の放射線測定に関する知識、データをここに集め、測定方法や必要な知識を近郊の学校などで生徒や一般市民に教えるという活動をしながら、市民が持ち込む土壌や水などのサンプルの測定をしてきた。

ここには鉛の容器を装備した超高純度ゲルマニウムガンマ検出器、ヨウ化ナトリウムシンチレーション検出器、携帯用ガイガーカウンターなどがある。ちなみにKoch氏はすでに自宅の庭の土をサンプルとしてここに持ち込み、土壌の放射性物質検出をしてもらったそうである。ここではチェルノブイリか、または世界各地での核実験の際に飛散した核物質と見られるものが分析できたそうだ。先日は、近郊の市民グループとの協力で、Asse II近くの池の水のトリチウム検査、やはりAsse II近くで伐採された木の樹皮の炭素14検査が行われたという(結果は前述のサイトで公表されている)。

Schulz氏は、このプロジェクトが終了し、彼が測定所での作業をやめるまでに、この測定所を引き継いでやっていく意思のあるボランティア市民を育てたかったのだが、残念ながら見つからないため、このプロジェクトが今年いっぱいで終了すると測定所自体を引き上げることになるだろうと語っていた。本来なら、2033年に問題のあるAsse IIの廃棄物を取り出す作業が本当に始まってから、またはこれから汚染が広がりその影響が環境に漏れ出すことを懸念して、これからこそ独立した測定所がこの地にあることが大切なはずだが、やはり運動している市民もそこまで余裕がない人が多いのだろう。これだけノウハウをきちんと教えてくれる専門家がいて、測定器も揃っているのに残念なことである。

三日目:Morsleben見学

Morslebenはカリ岩塩鉱山で、かつての東ドイツが中・低レベル放射性廃棄物最終処分場と設定した場所で、約480mの深さの地下にある坑道におよそ37000㎥の中・低レベル放射性廃棄物が1971年からドイツ再統一となる1998年まで、ここに処分された。使用済み核燃料(高レベル放射性)はソ連へと運ばれることになっていたので、ここには中・低レベル放射性廃棄物だけを東ドイツ国内で処分することになっていた。無期限の最終処分場としての運営認可が東ドイツ政府から下されたのが1986年。

もともとMorslebenは第二次世界大戦中に、ナチス政府の命令で収容所の捕虜たちをここに連れ込み、日の目を見ないところで強制労働させて戦闘機部品や弾薬を製造させた場所だという。戦後、59年から82年まで東ドイツはまずMorslebenの最初の坑口地下Marieで大規模な養鶏場を運営していて、その後毒性の強い廃棄物をここに処分するようになったという。養鶏場の運営で出た大量の糞が地下に残っていたそうだ。東ドイツ時代にここには、放射性廃棄物以外にも約2万のドラム缶に入った高度の毒性の廃棄物がここに処分されたが、これらは1996年に回収されたそうだ。1969年に塩の採掘は終了されている。

坑内に入る前にBGE広報の説明を聞く

西ドイツで1973年に高レベル放射性廃棄物最終処分場サイトを見つけなければいけないということになったとき、当時はまさに冷戦時代の真っただ中にあり、東ドイツが西ドイツのニーダーザクセン州との国境沿いにあるMorslebenに最終処分場を作るつもりなら、西ドイツ側でもニーダーザクセン州の東ドイツとの国境沿いに処分場を見つけてやれ、という政治的判断によりゴアレーベンに白羽の矢が立ったのだ、と言われている。東ドイツがその気なら、同じことを西ドイツでも仕返ししてやれ、ということだったらしい。

ドイツ再統一後、このもと東ドイツの最終処分場Morslebenにも水が入り込む危険性が何人もの専門家により指摘されていたにもかかわらず、1990年代の連邦環境相(はじめはクラウス・テプファー〈CDUの連邦環境大臣からその後国連環境計画事務局長になり、「環境」を一番に考えるCDUの良心、緑寄りの政治家とすら言われた〉、のちはアンゲラ・メルケル〈のちに首相となるが、再統一後は当時のコール首相に買われて環境相に抜擢された〉)は、このMorslebenをそのまま最終処分場として使用できると変更しようとしなかった。というのは、ここにすでに「処分」されている廃棄物をそのまま保管する方が、取り出すよりずっと費用が安いことが計算で出たからである。

ドイツ再統一後、連邦政府は東ドイツの「処分認可」をまず十年に制限して有効と認めることにしたが、その十年が切れたら、西ドイツで作られていた原子法に基づいた基準で新しく認可を与えることが必要になり、それはおそらく不可能だろうということは明らかだった。それでも94年から98年までに新たに放射性廃棄物がここに、約22,320㎥ももたらされた(合計でアルファ線0.08テラベクレル、ベータおよガンマ線は91テラベクレル)。当時のメルケル環境相は原子法の「例外」を初めて作り、Morsleben最終処分場の東ドイツ政府による認可を、経済的観点から鑑み、東ドイツで有効だった認可のための条件を(西ドイツでの法に従えば認可されないはずなのに)さらに適用すると決定したが、環境団体BUNDがそれを法違反だとして訴え、マクデブルク裁判所が1998年9月にその訴えを認める決定を下した。これにより、正しく法に則った認可決定がなされるまでは、それ以上の廃棄物処分は許可されないこととなった。完全にここでの最終処分を正式に放棄することになったのは、2001年になってからである。

重い酸素を下に置いてBGE案内人の話を聞く

1998年9月以来新しい廃棄物は持ち込まれていないが、塩山坑内の倒壊の危険が強くなったため、Morslebenは安定させるための工事などが余儀なくされる。この処分場のデコミッショニングには22億ユーロがかかると見積もられている。この任を負っているのがBGEである。デコミッショニングの完全なコンセプトがまだ公開されていないことが市民運動家たちからずっと指摘されてきており、コミッショニングの認可もまだ下りていない。最終処分場のデコミッショニングとは、廃棄物をそのままに、それが環境に漏れ出すことのないように遮蔽した状態で、完全に閉鎖し、そのまま誰もまた開くことができないように封鎖するということである。

塩の入ったコンクリートで埋める作業、右は新しい混合での実験箇所

塩山の空洞を廃棄物が入ったまま安定化し、閉じ込めるため、ここでとれるカリ塩を40%分混ぜたセメント、石灰、砂、塩水によるコンクリートで固めるという作業を進めているが、それについてもまだ実験的な段階が多い。2005年からデコミッショニングの認可に必要な書類・データ準備が進められている。処分場をデコミッショニングするということ

は、閉じ込めたところに水が入り込んだり、汚染が拡散したりすることなどがないという長期の安全確認を、日々刻々と進む技術に合わせて調整しながら、証明しなければならないので、認可に必要とされるデータもどんどん増えるらしい。それらをすべて揃えられるのが2026年だと言われている。

地下で廃棄物が入った坑道を完全に遮蔽する作業、鉱山を塩の入ったコンクリートで完全に埋める作業、Morslebenの最初のピットMarieとBartenslebenを完全に封鎖する作業という3つが主作業だ。一度デコミッショニングしたら、それからあとはメンテナンスフリーでなければいけない。デコミッショニング後も水の侵入を100%防ぐことはできない可能性が残るので、それで地下に、廃棄物の入った空洞を埋めてからも、それをさらに遮蔽する建物を作って、環境に放射線汚染が広がらないようにする、という設計なのだそうだ。認可が無事に下りれば、デコミッショニングまで約15年から20年の年数がかかるとBGEは言っている。

このMorslebenの近郊Helmstedtという村の住民でずっと環境への影響を懸念し運動をしてきた市民の一人がAndreas Fox氏だが、彼はかつて、Morslebenを最終処分場として認可されていることの撤回を求めて裁判を起こした市民の一人である。ドイツ再統一の際にすでに、ここMorslebenを最終処分場として西ドイツの原子法に則れば認可できる状態でなかったのに、あきらめずにだらだらと既成事実をいいことに現状追認し、長い間最終処分場としての使用続行を断念しなかっただけではない。ここでの最終処分を放棄してからも、放射線保護連邦局、そしてそこから派生して作られたBGEも、きちんと裏付けのある詳細のデコミッショニングのためのコンセプトを作成していない。2009年に提出され、2011年に説明された計画書は、連邦政府の廃棄物処分委員会ですら、当時の最先の科学的技術的水準で練り直してコンセプトを書き直せと求めたほどである。それを2018年までに提出するように言われたはずなのに、その期限がとっくに過ぎたのに、BGEは未だに求められた条件を満たすコンセプトを提出していないのである。

それに、ドイツ再統一後、連邦政府の責任において1994年から1998年の間に、Morslebenの東側にかなりの量の廃棄物が貯蔵されたのだが、ここは東ドイツの運営認可さえ受けていない場所である。それをマクデブルク裁判所ですら指摘したため、ここでの廃棄物処理が停止されることとなった。この東側の処分場としての利用が問題なのは、ここの地層がカリ塩でも岩塩でもなく、割れやすく、脆い硬石膏(Anhydrite)だからだ。後日、この硬石膏の空洞をコンクリートで固めて埋めようとする実験は、失敗に終わっている。今も新しい方法でこの硬石膏を遮蔽する実験が行われているが、それがうまくいくかどうかはまだわかっていない。そのようなことから、環境への影響を懸念する地元の市民運動家たちは、ラジウムが入っているドラム缶を回収すること、東側に処分されている放射性廃棄物はせめてすべて回収することを求めていると同時に、BGEに一刻も早く裏付けのある最新の技術と科学知識をもとに作られたデコミッショニングのコンセプトを提出するように求めているのである。

四日目:Schacht Konrad情報センター(これはSalzgitterの街中にある)とSchacht Konradサイトの実際の工事現場見学

Schacht Konradはドイツで現在適用されている原子法に基づき、初めて中・低レベル放射性廃棄物の「最終処分場」サイトとして決定され、工事がすでに始められている場所だ。Schacht Konradはニーダーザクセン州のSalzgitterという市の近郊にあり、その名にも「塩」が入っているのでここも塩山なのかと私は思い込んでいたのだが、岩塩もあることはあるのだが、ここは主に鉄鉱石の採れる鉱山なのだった。ここも鉱山として坑道がすでにいくつもあり、ここに昔からある立坑の塔は歴史的記念物として指定されているため、解体や改装が許されていないので、そのまま残されている。

鉄鉱石は19世紀の産業革命の時代に注目を浴びるようになり、この場所で最初に鉄鉱石が採掘されたのが1867年だという。Schacht Konrad 1(約1232mの深さ)とSchacht Konrad 2(約999mの深さ)の2つのピットがあり、1961年から1976年までに約670万トンの鉄鉱石がここで採掘されたそうだ。鉄鉱石採掘を終了してから、中・低レベル放射性廃棄物の最終処分場として適しているかどうかの調査が行われ、結果的にここが適していると認められるようになった。鉄鉱石鉱山としてはことに乾燥していることがその理由の一つでもあるが、ここでも毎日16,300リットルの水が浸入しているのだという。

この鉱山が最終処分場に適しているのではないかという調査は1975年に始められ、「良好」な結果が得られた後、当時最終処分認可を出す連邦庁であった連邦物理工学研究所(PTB)により1982年8月に、実現のための具体的な詳細計画を打ち立てる段階へと入った。

建設予定の模型

興味深いのは、鉄鉱石というのが素材として将来性がないことがわかり、経済性がないため、鉱山を閉山しなければならないという時になったとき、ここに従事していた労働者たちの労働組合が、職場を失わないためにここでできる代わりの仕事を求め、それで最終処分場をここに作るとなれば、それまで当分仕事は確保されるということで、かなり熱心に誘致したという歴史があることだ。

ここには、すでに6つの房室があり、ここからさらに処分用のホールを建設して、処分後にそれを、切削した岩石の素材とセメントを混ぜて作った特殊コンクリートで埋めてデコミッショニングする予定だ。処分される房室は、断面が約40平米で、7m幅で高さはおよそ6m、そして長さはそれぞれの地質に従い、100mから1000mの長さになるという。処分する前に廃棄物は「適切な」コンクリートで

固定され、閉じられるはずで、そのための設備が立抗の下に作られ、すべてが地下で処理されることになる。ここで処分される廃棄物の量は303,000立方メートルと設定されており、例えばAsse IIで回収される予定の廃棄物はここには入らないことがすでに決まっている。実際にドイツですでに各地の中間処分場に入れられたままになっている中・低レベル放射性廃棄物の量は、それよりずっと多いため、中・低レベル放射性廃棄物の最終処分場もSchacht Konradtだけでなくもっと必要なのだ。2030年代前半には、303,000㎥分の中・低レベル放射性廃棄物の処分を開始する計画だ。

市民グループはことに、「認可」が下ろされたベースとなるデータ資料が1980年代の古い技術基準によるものであることを批判している。それからあらゆる技術・分析調査方法は進み、当時明らかにできなかったことが調査できるようになっているのに、いまだに1980年代の技術水準でなされたデータをもとに出された認可を、最新技術でもう一度確認しようとしないことを問題にしている。Schacht KonradもAsse IIと同じで、水が入っている箇所があり、使用済み核燃料以外の放射性廃棄物をどんどん押し込んで入れ、それをさらにコンクリートで固めて埋めてしまい、そのままずっと放っておくというのでは、もし地下水にその水がつながって汚染を拡散し始めたらその危険は取り返しがつかないことになると訴える。

この日の最後のプログラムは、ブラウンシュヴァイク市郊外Thuneの工業地区に40年前から放射線医薬品を製造している企業があり、その問題点を指摘してAsseやSchacht Konradと並んで運動している市民たちの話を聞いた。これまでに企業のオーナーは変わったが、2009年に大きな工場拠点を買い取って以来営業しているEckert & ZieglerとHealthcare Buchlerがここで大量の放射性物質を取り扱い、同時に中・低レベル放射性廃棄物も出している。Eckert & Zieglerが作った廃棄物は、これまでSchacht Konradにも大量に運ばれてきた。ここでは放射性物質を扱う医薬品を作っているだけではなく、放射性廃棄物処理業務も業務分野に入っていて、放射性物質を扱う他企業が出す廃棄物がここに持ち込まれ、そのコンディショニングと詰め替え作業を行っているのだ。すぐ近くに住民が暮らし、小学校や幼稚園も近くにある場所で、である。そのための特別な「許認可」は官庁から下されたことがなく、今から業務を開始するとすれば、その許可は決して下りなかったはずだということを政治家も官庁も認めている。

Eckert & Ziegler社の前で市民運動家から説明を受ける

スキャンダルはそれだけではない。毎年1万個のドラム缶に入った中・低レベル放射性廃棄物がグラウト充填され、この拠点からトラックで運び出され、またそれがここに戻される。その運送のたびにキャスク輸送と同様の放射能がここで外気に放出されているわけだ。2001年から2011年の10年の間に10万以上のドラム缶がほかの放射性物質を扱う企業からEckert & Zieglerに運ばれてくるそうだ。2012年からはさらに、2000トンの放射性物質がアメリカに「焼却」のために船で送られ、高濃度になった放射性物質がまたここに送り返されてくるという。

2011年3月に日本でフクシマ原発事故が起きてからドイツではドイツ国内のすべての原子炉および放射性物質を扱う施設にストレステストを行うことを義務付けたが、Eckert & Zieglerはこのストレステストに不合格だったという。それでも相変わらず「業務続行」されているのである。

どれだけの放射性廃棄物がどのような状態で入っているかわからないが、この上空を飛行機が飛ぶ

市民が警鐘を鳴らしているのはことに、このEckert & Zieglerがこの拠点でさらに16000平米の平地を買い取り、ここで業務拡大を行うと言ったからである。このブラウンシュヴァイク地方にはAsse II、Schacht Konrad、Morslebenがあり、さらにこのような放射性物質を扱う企業とそこに運ばれてくる放射性廃棄物の運送などで、放射性物質の全体量が高くなっている。また、すぐ近くにはWaggumという飛行場があるが、この企業の上空は原発と異なり、飛行禁止区域に制定されていない。もしここで飛行機が墜落したらどうなるか、と考えると怖い。ここにはそれに放射性廃棄物だけでなく、超高圧ガスのガス管が工場施設に通っているほか、何トンもの化学物質も取り扱われているという。

ここの市民環境グループは、あらゆる運動でニーダーザクセン州の環境省などとも議論を続け、裁判でも訴えて積極的に行動しているので、今のところ計画されていた新しい廃棄物用ホールは建設されていないし、新しい建物の認可も下りていないという。しかしそれでもこの企業は営業をこれまで通りに続けているので、市民たちの反対運動はまだ続くのである。

五日目:

連邦物理工学研究所(PTB)

午前中は連邦物理工学研究所(PTB)を見学し、主に放射線に関係する部署を案内してもらった。この研究所は連邦政府の資金で運営され、ドイツ国内での物理・工学分野に欠かせない調査分析における、時間、長さ、重量、力量、流量、温度、電流量値、光度、物質量等の単位の設定と測定器の較正・検定認可を行うと同時に、最新測定技術と精度を保つための研究を並行して行っていて、それぞれの分野ごとにあらゆる部門が備わっている。先ほども触れたが、BGEができる前は、このPTBが最終処分認可を出す連邦庁でもあった。ここにはドイツの時間を制定している原子時計もある。

いくつかの部門を見学させてもらったが、そのうちの一つで放射線被ばくについて案内してくれた、その部門で働く放射性物理学者と話をしているとき、外気にある放射線を世界全体で見ると、その約半分が自然発生しているラドンであり、そのラドンによる被ばくの方が圧倒的に高く、人工的に作られた原発、核実験のフォールアウト、放射性廃棄物による放射線は割合からいくと2%にも及ばないほどで、まったく大したことはないのだ、というような話をし始めたので、こういう物理学者を相手に、私の物理学知識で議論する気にはならず、そのまま黙っていたが、こういうことを「専門家」が主張するのは、ドイツでも同じなのだなと嫌な思いだった。あらゆる種類と半減期の放射線を全部一括りにできるわけはないし、自然界にも存在し、それが危険なら、なおさらのこと人工の放射線をさらに作り出してそれを外気に出していいわけがないし、ましてや自然界にはなかったような恐ろしい、半減期が夥しく長いプルトニウムを始め、ストロンチウム90、セシウム137、ジルコニウム96などの核分裂で生成される放射性核種、原子炉内で中性子照射で生成される放射性核種コバルト60や炭素14、トリチウムなどをさらにつくってはいけないはずなのだが(そしてそれらが実際に原発事故で大量に発生して外気や海に放出されたわけだから)、すべてを同じに扱ってパーセンテージで出してどうするんだ!と憤るものの、科学者がすべてそうだとはもちろんいわないが、こうして乾いた「データ」だけを扱って全体のコンテキストの中で、把握すべき核心の意味が読み取れない研究者は本当にだめだ、とここでも思ってしまった。

ミヒャエリス教会ステンドグラス

この日の午後はシンポジウム最後のプログラム、ブラウンシュヴァイク市のミヒャエリス教会で行われた「最終処分場シンポジウム」というタイトルの「最終処分」というテーマに関するあらゆる側面からの意見をそれぞれの人に短く発表させるものだった。BGEの人の意見も、ハノーファー大学の無機化学専門の教授で、新しい最終処分方法について研究しているRenz博士の発表もあれば、Asse IIやMorslebenの市民運動家の主張と問題指摘の発表、さらには文化的、倫理的、宗教的立場からの発言もあり、最後には私が日本との問題も合わせてどういう最終処分が可能か、または好ましいか、という考察も発表した。五日間もハードスケジュールで中身の濃いプログラムばかりだったので、完全に消化しきれていない部分があるのは事実だが、私にとっては学ぶところの多いシンポジウムであり、参加させていただいたことを心から感謝する。

ことに、これまでもGorlebenなどを訪れたりそこの市民と交流するたびに、「市民参画」、民主主義的決定とはどういうものか、ということを考えてきて、答えは完全に出ていなかったが、ここでも同じ問いかけに直面した。

人間が作り出してしまった核のゴミをどのように「できる限り可能な範囲で」安全に「処分」するかというのは、本来エネルギー危機と同じくらい重要なテーマなはずなのに、それがそれだけの重大性にふさわしい優先順位で扱われていないことがまた問題である。放射線防護の観点から、放射性廃棄物はできる限り環境から遮蔽する形で生命体から隔離して管理し続けていかなければならないのだが、「廃棄処分」という「放り出して捨てる」というアイディアは捨てた方がいいのではないかと私は思う。ドイツは日本のようにいくつも活断層があるわけでもなく大地震がないので、確かにテロや戦争、飛行機墜落などの危険を考えれば、地層処分という地下深い場所に廃棄物を貯蔵する方が安全なのかもしれないが、「すでに鉱山で採掘した後の空洞があるからそこを使うのが経済的で便利で、手っ取り早い」という安易な発想でそこに放り込んで「処分」してきたドイツの過去の廃棄物処分政策のツケが、各地の処分場で出てきている。日本や他国と同じように、「中間貯蔵施設」が、認可期間を越して事実上の最終処分場となりかねないような事態が起き始めている。それをどうしても防ぎ、最新の技術での最大限の安全が確認される場所を建設して廃棄物を移動させたい市民たちと、それが実際には見つからない、お金もない、反対運動ばかりされて建設ができない、ということで「とりあえずそのままにしておきたい」国との間で、にっちもさっちも動かないまま、どんどん時間ばかりが経っている。それに、「いつまでに」という期限を設けずに「調査」を続けるばかり、すぐにでも「回収」しなければならない危ない廃棄物も、ドラム缶が錆びて塩水に溶けだしそうな状態のまま年月が経っているのである。鉱山の空洞がすでにあるところ(ドイツ)、とか、輸送に便利だから海岸沿いに(日本)、とかではなく、世界のどこであっても、地質的、科学技術的、天候的、地理的に最大限安全な場所、最大限安全な手段、そして最大限安全な建築で、まったく白紙の状態から(まやかしの科学的特性マップなしに)処分場は探し求め、適性を徹底的に調査しなければならないはずだ。一応BGEではそういうことを言っていて、今のところ、高レベル放射性廃棄物最終処分場サイトの選定は、一番適切と見つかった第一位を高レベル放射性廃棄物最終処分場に、そして第二位をSchacht Konradに続く第二の中・低レベル放射性廃棄物最終処分場にする、ということを表明している。しかし、ドイツでも、サイト選定法では2031年までにサイト選定を連邦議会で決定する、ということになっていたが、2022年11月にはBGEが、高レベル放射性廃棄物最終処分場に適したサイトを探し出すにはそれ以上の時間がかかると認めている。今のところ、2046年から2068年までの間にあらゆるオプションで最終処分場としての適性調査を進めて、サイトを選定することができるはずだとしている。つまり、これもただの「見通し」であり、そんな適正な場所が本当にドイツ国内にあるかどうかもわからないのである。

Schacht Konradの市民グループ拠点

日本に至っては、ドイツと違って2000以上の活断層が地下にあり、4枚のプレートが相接した島国であり、地震という危険だけでなく、台風、津波、火山爆発という自然災害に見舞われる国であり、最近では大地震のたびに液状化で地盤が沈下したり傾いたり盛り上がるという現象が多々見られているところである。そこで原発をあれだけ作って電気を作ってきたことが信じられないことではあるが、この島国のどこかに、しかも海岸線に近いところで地層から300メートル以上の地層に処分しようというコンセプトもにも無理がある。すでに2023年10月末に日本の地球科学、地質学等の専門科学者有志300余名が、「日本に適地はない」という声明を公表している。(注:https://www.asahi.com/articles/ASRBZ641WRBWPLZU001.html日本列島は複数のプレートが収束する火山・地震の活発な変動帯であり、北欧と同列に扱い、封じ込めの技術で安全性が保証されるとみなすのは「論外」だと彼らは批判している。岩盤が不均質で亀裂も多いうえ、活断層が未確認の場所でも地震が発生している上、地下水の流れが変化し、亀裂や断層を伝って放射性物質が漏れ出す可能性があり、10万年にわたり影響を受けない場所を選ぶのは現状では不可能だというのだ。つまり、日本で2000年に成立した「最終処分法」は不可能なので廃止にするしかなく、地上での暫定保管も含め、中立的な第三者機関を設けて再検討すべき、ということをこれら科学者たちは求めているのだ。日本が「科学的最新の調査と見解に基づいた結論」ではなく、(見えないところに隠してしまえ式の)地層処分ありきで進めてきたにすぎない、ということだ。

Abschalten(脱原発)

誰も自分の近所に核のゴミは欲しくない。しかし、ただよそに押し付ければいいわけではない。後先のことを考えずにこれだけの量を作り出し安全でない状態のまま放ってきてしまった以上、せめて最大限安全な状態を確保すべくその可能性を探り、それで最大限可能で最良の方法を実現すべきだということに違いはない。このままずるずると後回しにするわけにはいかない。でも、どの市民も怖い、近くにもってきては欲しくない、というものを結局どこかに押し付けるしかない以上、最大限の技術と調査で環境から遮蔽し、安全を確保すべきだし、同時にその方法について一方的に決定して市民に強制するのではなく、一緒にコンセンサスを見つけ、互いに了承しあえる結論を出すべきだ。これだけ生命、生活圏、将来の世代にもわたることだからこそ、一部の人間が決めて押し付けていいことではない。そのための民主主義の原則を徹底した市民参画の意思決定が欠かせないはずだ。

しかも、日本のように、とりあえず文献調査に手を挙げれば、その自治体には御褒美のお金が山ほど来る、というやり方はあまりにひどすぎる。本当は処分場を引き受けたくないのに、文献調査だけやってもいいと手を挙げることで、お金だけを手にしたい過疎地がそれでNUMOのいいなりになって買われていく。こうした原発誘致でさんざん経験したやり方をこそ絶たなければ、この過疎地の原発頼みという「麻薬」構造が最終処分場でも続けられていくことになる。

市民グループが作った核のゴミ学習遊歩道

ドイツには一応そういう「札束で頬を叩く」ということは処分場探しでは行われていない。それだけに、経済的効果や贅沢な「招待」などに釣られて賛成する一般市民は少なく(経済界、政界にはいるが)、それよりはしっかり知識を蓄え、勉強し、論点を明らかにして、科学的・法的・政治的とあらゆる側面で国や自治体などと闘っていく市民たちの力強さとその根気強さに圧倒される。自分たちの正しさ、当然のことを求めているのだという公平性を求めるその「ブレなさ」、一貫性、粘り強さは、市民運動では一番大切なことだ。しかし、そうした市民運動のあり方も、確かに若い人が参加しなくなっているということに関しては、ドイツも日本と似ているので、これから運動の在り方が変わっていかざるを得ないと思う。シンポジウム最後のプログラムであった、ブラウンシュヴァイク教会での最終処分場意見交換の場も、参加者は多いとは言えなかった。その代わり、地元のメディアが取材に来て、発言者たちにインタビューをしていた。その番組をあとで聞かせてもらったが、BGEの人の発言と並んで、科学者の意見、市民運動家の話もしっかり紹介していた。

それに、Asse IIでの問題は、連邦環境相レムケ氏(緑の党)も四月に見つかった「大量の水の消滅問題」を案じて先日足を運んで見学に行き、私も今回交流した市民活動家たちとも意見交換をしており、ここにある問題の廃棄物を一刻も早く回収しなければならない、と改めて表明した。このことはニュースでも新聞でも大きく報道された。

もうすぐ運営認可の切れる、長期的に安全に高レベル放射性廃棄物を保管するようには作られていないGorlebenの「中間貯蔵設備」にすでに運び込まれているキャスクやガラス固化体の高レベル放射性廃棄物をどうするかについても、青写真もできていない。ここでも、原発上空にはあるのに飛行機の「飛行禁止」区域に指定されていない、飛行機の墜落やテロ行為、ドローン等の侵入などを防ぐための設備はなにもなく、ただ壁を高くするというような子ども騙しのような対策しか取ろうとしていない国の対処を、ゴアレーベンの市民たちも鋭く批判して抜本的な解決を求めているが、ここもAsse IIやMorsleben、Schacht Konradと同様に、基本的な解決を出そうとはしない国の態度が明らかになっている。これだけ国の政治的意思と経済力で行われてきた原子力エネルギーの「遺産」を、それと同じだけの意思と経済力で、名誉にかけても、そして市民の生活を守るという国の最大の任務としても、実現してもらわなければ困る。それは後先のことを考えず原発をこれだけ動かして恐ろしく莫大な量の核のゴミを生み出してきてしまった各国に共通する課題である。

日本はフクシマ原発事故を起こしてしまった国として、「通常の原発稼働」から出る放射性廃棄物以外に、夥しい量の水と土壌汚染を作り出している。汚染は事故から13年経った今もまだ続いている。その量を少なくしたいと、それも「目に見えないところに隠してなくしてしまいたい」と、フィルター後希釈して海洋放出したり、ほかの土と混ぜてリサイクル使用しようとしているのが日本である。それこそ、放射線防護を真っ当から否定する方針だ。

4泊したSchöppenstedt市で見た虹

さらに日本はいまだに核燃料サイクルというおとぎ話を信じてしがみつき、高レベル放射性廃棄物として認めている物は「再処理」後の高濃度の廃棄物の残りをガラスで固めた固化体だけだ。つまり、リサイクルして再使用するつもりで大量の使用済み燃料棒をこれからもプール貯蔵し続けるつもりなのだ。日本の原発のそれぞれの使用済み燃料貯蔵プールは、どこでもすぐにいっぱいになることが分かっている。それで東電でも、青森県むつ市に建設中の中間貯蔵施設(RFS)に、柏崎刈羽原発の使用済み核燃料を搬入すると言っている。しかし、中間貯蔵施設からそれら使用済燃料棒が搬出される見込みも計画も決まっていない。再処理工場建設は完成の見込みはなく、日本での核燃料サイクル計画は事実上破綻している。

Aufpassen!!!気を付けろ!

一度むつ市の中間貯蔵施設にそれを持っていけば、ずっとそこに(最終処分場という認可が下りていない、あくまでも仮の貯蔵施設に)置きっぱなしにされる可能性がある。そんな滅茶苦茶な話が許されてはならないし、計画もコンセプトもなしに、ただ原発政策を強行し、核燃料サイクルに固執し続ける日本政府を、市民の手で止めなければならない。そこに今、そして将来生きるすべての生命体の環境を、地球を、欲に目が眩んだたった一握りの人間たちだけの勝手な決断でこれだけ破壊させてきた政治を止めないと、地球には未来がない。気候変動の影響がこうもあらわに出始め、すでに将来のあらゆる夢、可能性が奪われてきている現在だ。今それを変えなくてどうする、と非力ながら思う。とにかく黙ってはいられない。それをあらためて痛感したシンポジウムだった。(ゆう)

汚染水海洋放出への抗議メッセージ

SNBもメンバーになっている在外邦人の脱原発ネットワーク「よそものネット」で、現在日本政府が計画している放射能汚染水海洋放出に対する抗議声明を日・英・独・仏4か国語で発信しましたhttps://yosomono-net.jimdofree.com/

フクシマ原発事故/日本:放射能汚染水を海へ放出?

日本は、福島第一原発事故から出る、フィルター処理後もまだ放射能汚染されている水を希釈して2023年の夏にも海へ放出しようとしています。

「フクシマ原発事故」とは?

2011年3月11日の大地震と津波の発生後、福島第一原発で水素爆発と炉心溶融を伴う深刻な原子力事故が起こりました。これにより大量の放射性物質が環境に放出され、大気、土壌、水、食物を海陸で汚染し、それが今も続いています。

12年以上経った今も、当時発令された原子力緊急事態宣言は出されたままで、2万人以上の人が公に避難者として登録されています。子ども、若者、妊婦を含む近隣の住民たちには年間20ミリシーベルトという被ばく限度線量が強いられていますが、これは法律で民間人に許されている最大被ばく線量の20倍で、原発労働者の基準値と同じです。

なにを海に放出?

事故を起こした原子炉は、冷却回路が壊れていてもずっと水で冷却する必要があるため、強度に汚染した冷却水がどんどん溜まり、それが漏れ出てくる地下水と雨水と混ざって日々大量の汚染水に膨れ上がっています。今では130万トンもの量となって約千基ものタンクで福一の敷地で保管されています。この水を日本はフィルター設備で処理し、希釈してから海に放出しようとしています。

日本政府の言い分

放射性核種の含まれた水はALPSというフィルター設備で「問題のないレベル」まで処理される。残るのは主に水から分離が難しいトリチウムだけである。トリチウム水は世界のどの原発からも放出されている。水に含まれている放射性核種はすべてそれぞれの濃度限度を下回るまで処理され、さらに放出前に希釈される。国際原子力機関IAEAからも承認を得た。東電によればタンクを置く場所がもうすぐなくなる、こう主張しています。

問題点

福島第一に保管されている水は、溶けた燃料棒に触れた液体の放射性廃棄物であり、通常の原子炉の運転で放出されるトリチウム水とは比べることはできません。ALPSは放射性核種すべてを取り除けるわけではありません。水素の同位元素であるトリチウムだけが処理後に残る唯一の核種かのように言われていますが、実際にはトリチウムのほか、セシウム134および137、ストロンチウム90、コバルト60、炭素14、ヨウ素129などが含まれています。

生態系および食物連鎖におけるトリチウムの影響はしかし、調査が不十分なほか、わずかな調査結果も考慮されていません。どの量からは何が「問題ない」と、誰が判断するのでしょうか? 放射性物質の環境への放出に関し、日本政府はそれぞれの核種に対する告示濃度限度を定めました。これは、人が70年にわたり毎日その濃度の水を2リットル飲み続けた場合、1年間で平均1ミリシーベルト被ばくする、という濃度です。ということは、長期にわたる影響評価はここでは全く考慮されていないことになります。また、個々の放射性核種がどのように海水で変化し、どのように食物連鎖で濃縮され、どのような害を及ぼす可能性があるかについての研究も不十分です。濃度がいくら希釈されても、トリチウムは年間22兆ベクレル/ℓ分が海に放出されることになります。希釈されてもばらまかれても、量に変わりはありません。

トリチウムの半減期:12年、ストロンチウム90:28.8年、炭素14:5730年、ヨウ素129:1570万年。

予防の原則

放射線防護の観点から言えば、福島第一の汚染水は厳重な管理のもと、タンクに保管されたままであるべきです。疑義がある場合には予防の原則に則るべきです!

ことに心配されているのが近隣の港で捕れる魚から検出されるセシウム134/137 が増加している事実です。2023年6月には、クロソイでなんと18,000ベクレル/キロが測定されました。汚染水の漏洩が続いている可能性があります。これを徹底的に調査し対策をとらずに汚染水を海洋放出するなどは無責任です。

「心の除染」と「風評被害」

市民を放射能によるさらなる危険から守る代わりに日本政府は「少しくらいの放射能は大丈夫、それより不安の方が問題だ」というおとぎ話を広めています。その不安克服のため彼らは、厳重な健康調査や放射能汚染の計測ではなく、「心の除染」という大規模な宣伝キャンペーンで、原発推進派の科学者の意見だけを集めた偏った結論を繰り返しています。人々の正当な恐れを「放射能パニック」、経済に害を及ぼす「風評被害」だとしているのです。

原子力推進のためのIAEA

1957年に「原子力の平和利用」というモットーの下原子力エネルギー推進を目的に作られた国際原子力機関の任務は、放射線防護ではありません。それよりどこまで放射線リスクを「軽微であり無視できる」と呼べるかの規定を作っています。IAEAの影響評価報告書には、海の生態系への長期影響は考慮されていません。どうして彼らの報告書が「認可」だと言えるでしょうか?

去るもの日々疎し?

近隣国、南太平洋諸国は当然ながらこの日本の計画に反対しています。国連の専門家も人体の健康と環境に及ぶ可能性のある危険について懸念を表明しています。一度海洋放出を始めてしまえば、将来も汚染水の海洋投棄を許す前例を作ることになります。日本は、すでにあらゆる環境汚染の影響を受けている海、地球のほかのどの海洋とも繋がっている海を30年以上にわたってさらに汚染しようというのです。海は汚染物の廃棄場ではありません。汚染をできるだけ限られた場所に閉じ込める努力をする代わりに、それを散りばめようとするなど、無責任極まりありません。しかし、東電も日本政府も、大量の水タンクなど、事故がもたらした目に見える結果を、汚染水を海に放出することでできるだけ見えなくしてしまおうというのです。決してそれを許してはなりません!

従って以下のことを求めます:

  • フクシマであろうがどこであろうが、放射能汚染された水を海洋放出してはならない!
  • 世界各地の原子力施設に対し、生態系変化と人体への健康への影響をモニタリング・分析する、独立した団体による管理・研究システムの設立
  • 研究・モニタリング結果の透明性高い開示

2023年7月23日付

出典:

http://oshidori-makoken.com/

https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/decommissioning/committee/fukushimahyougikai/2021/23/shiryou_04_2.pdf

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal-de/de04-02.html

https://www.ohchr.org/en/press-releases/2021/04/japan-un-experts-say-deeply-disappointed-decision-discharge-fukushima-water

https://www.iaea.org/sites/default/files/iaea_comprehensive_alps_report.pdf

 

リンゲンでの祝脱原発デモ参加報告

2023年4月15日。この日をどんなにたくさんの人たちが待ちわびていたことか。4か月半遅れでドイツの脱原発が実現した。矛盾と噓に満ちた「脱原発」、解決されていない問題が山積みと、手放しに喜べないものだとはいえ、とにかくドイツ国内原子炉の最後の三基が停止されることになったのは、前進だ。ドイツ国内で発電のために核燃料棒が燃やされることはなくなり、そこからはもうこれ以上放射能のゴミは出なくなったのだ。

 

 

4月15日付けのTAZ紙第一面©ゆう

 

 

これまでの経過(事情に通じた方はここを飛ばして読んでください)

本来なら、昨年2022年末でドイツ国内で最後に残ったEmsland、Isar II、Neckarwestheim IIの三基が停止して脱原発を完成するはずだった。それが、ロシアのウクライナ侵攻でロシアに依存していたガス・石油の輸入が途絶え、一挙に「エネルギー危機」が叫ばれることとなった。今の連立政権に加わっているFDPや野党のCDU/CSUは、ドイツの「優秀でまだ十分に安全に使える原発をなぜこのエネルギー危機の最中に停止しなければならないのか、この原発を止めて、その代わりに石炭火力発電を運転期間延長して動かしてさらに二酸化炭素を排出するなどもってのほか」というシナリオで世論を誘導して、それまで反原発派だった多くの人たちも、今脱原発すべきではない、という風潮が高まった。脱原発が党成立以来のレゾンデートルでもあった緑の党のハーベック経済相・副首相はそこで、電気安定供給性について調査し、これら三基を停止しても安定供給は実現できるという判断をした。これらの三基は22年いっぱいで運転停止されることになっていたため、新しい燃料棒は用意されていない(どの燃料棒もそれぞれの原発タイプ、サイズによって特別注文される必要があり、そのウランの注文にもほぼ2年はかかるということだ)し、その他のスペアパーツも欠乏、運転要員も確保されていない。急に運転延長を決めても、どの道残っている燃料棒を長く持たせるために性能レベルを低くして「水増し運転」させる以外にないことは明らかだった。それに、2022年末に停止されることが決まっていたため、本来なら定期検査をされなければいけないのを、去年はしないできた。つまり、運転期間を延長するということになれば、定期検査を行わなければならず、当分運転できないことになるのだ。だから急に去年の秋になってこれらの原発の継続運転が、足りなくなったロシアからのガスや石油に取って代わる「オールマイティソリューション」になれるわけはなかったのに、それをFDPやCDUはそのことを言わずに、あたかもこの原発を延長運転しさえすればエネルギー危機が回避できるかのように声高に宣伝し、脱原発をやめさせようとしたのだ。

ショルツ首相は、連立政府内での諍いを治めるためもあって、妥協して4月15日まで4か月半運転停止を延長するものの、その代わり新しい燃料棒注文はせず、それ以降脱原発の日にちをずらすことはない、と去年の10月23日に宣言した。それ以降もFDPやCDUは何度もエネルギー危機を煽り、ことに緑の党や反原発の人たちは理性からでなくただ「イデオロギーのため」だけに脱原発にこだわっているのだ、というような話をして、世論を扇動した。しかし、メルケルの下で政権に長く就いていたそのCDU/CSUこそ、2011年にフクシマ事故があって脱原発を決定したものの、ついこの間までの16年間、原子力からも二酸化炭素からも脱した本物の再生可能エネルギーによる完全なエネルギーシフトを推し進めてこなかったからこそ、今の化石エネルギー危機があるのだ。現在はまだエネルギーミックスの約半分ちょっとを再生エネルギーが占めているだけだが、本来ならばこの割合がもっと広がっていなければいけなかったはずだ。

ロシアからのガスをことに推進したのはその前のプーチンの盟友シュレーダー(SPD)だったかもしれないが、その方針を変えずにエネルギーにおけるロシア依存を推進してきたのはメルケルだ。ドイツ北部では風力発電が立ち並び、再生可能エネルギーの割合が高くなったのに、それをエネルギー消費の高い南ドイツまで運ぶ送電線も計画通りに建たず、風力発電建設も南ドイツでは遅々として進まなかった。ドイツ国内で北から南へのエネルギー供給がそのためできないだけではない。原発は急激な発電量の調整が難しい発電方法であるため、原発からの発電量が送電キャパシティを占めて「詰まらせて」しまうと、その分再生エネルギーからの電気が受け入れられなくなるということも忘れられがちだ。再生エネルギーは太陽の照り具合、風の吹き具合で発電量が変わるが、そのため調整しやすいガスによる発電が便利で、調整のできない原発は不向きであるのは知られた事実である。

また、電気市場はEUレベルだ。ドイツで作られる電気もEU電気市場で扱われる。隣の核大国フランスでは、去年から原発の故障、弁やパイプなどでひびがいくつも発見されるなどの理由で停止が相続くほか、さらに気候変動で川が枯渇し冷却が不可能となって、フランスの原発のほぼ半分が運転しなかったため、EUの電気市場で電気量が欠乏し、電気の値段が上がった。これはロシアとは無関係だ。フランスはたくさんの原発で発電し、それをスペインやポルトガルなどに輸出していて、それを一定の金額で給電する契約をしているため、急遽足りなくなった電気を高い値段で輸入し、それを契約で決まっている安い値段でスペインなどに送らなければならないという赤字の契約履行を強いられている。EU電気市場ではそこで、ドイツからの電気も少しでも多く欲しい、と言われたのだった。ドイツが残りの三基(しかも残っている燃料棒で発電量を抑えながら水増し発電しての状態で)が供給できる電気量は市場にとっては焼け石に水程度の量だったにもかかわらず、だ。

脱原発?

4月15日という日にちはしかしありがたいことに守られた。今年の私たちのかざぐるまデモでも、4月が近づけば、脱原発をやめさせようとする声がきっとまた高まり、覆されるかもしれないという危惧を何人もの演説者が少なからず示していた。でも、私たちはこの脱原発が、決して一貫性のある本当の脱原発ではないことを知っている。なぜかと言えばドイツでは原子力法が脱原発を定めたにもかかわらず、原発で使用される燃料棒を製造する工場(リンゲン)と、ウラン濃縮工場(グローナウ)も平気で稼働したままであるからだ。それだけではない。あれだけプーチン支配下のロシアを裁くために経済制裁を行うと言いながら、ロシアからのウランはオランダを通ってドイツ国内に運ばれてきているばかりか、フランスに至ってはフランスの原子力企業Framatome(もとAREVA)がロシアのRosatomとジョイントベンチャーを作り、このリンゲンでロシア型原子炉向けの燃料棒を製造する計画まで立てられている。原子力関係に関しては、ロシアは一切経済制裁から除外されているのだ。そして、放射性廃棄物処理問題はまだ一切解決されていない。問題は山積みである。

 

 

燃料棒製造工場の門の表示©ゆう

 

 

そこで、ドイツの脱原発を祝いながらも同時に、一貫性のないドイツの原子力政策、そして時代錯誤で経済性のない原子力にいまだにしがみつきたいフランス・日本を始めとする世界各国のまやかしの「二酸化炭素を排出しないグリーンな」イメージで原発をどうにか推進したい無責任な政策を非難するために、4月15日にはドイツ各地でデモやアクションが行われた。

ことに今回運転停止されることになっているEmsland(リンゲン)、Isar II(バイエルン州)、Neckarwestheim II(バーデン・ビュルテンベルク州)では大きなデモが予定された。私が行ったのは、燃料棒工場があり、Emsland原発があるリンゲンというほぼオランダ国境に近い町(ニーダーザクセン州)で、ここで駅から集合場所である燃料棒工場前までバスがデモ隊用にチャーターされて向かった。皆が集まってからは、工場の入り口前でプラカートを掲げながら記念撮影などを撮って、いくつか演説、その後デモ行進をして今回運転停止されるEmsland原発前まで歩いて、またそこで演説をして、解散となった。

 

 

雨の中のデモ行進©ゆう

 

あいにくドイツは全国的に寒さが続き、しかもリンゲンは小糠雨が降り続いてうらめしかった。雨は予報されていたのでレインコートや雨用の帽子を持って行ったが、それでもかなり濡れそぼった。雨でなければもう少し人も集まったにちがいない。それでもきっと昔から反原発運動を続けてきた闘士に違いないという人たちがたくさんいて、和やかな雰囲気だった。子供連れの人もいたし、私のように遠くから集まった人もいれば、すぐ近くに住んでいるという人たちもいた。「親がすでにチェルノブイリやヴァッカースドルフ再処理工場建設計画反対で闘ってきて、私は二代目、私の娘たちもその精神を受け継いでいる」と話してくれた自転車で参加した男性にも出会った。

この日は約300人がリンゲンのデモには集まった。ちなみにバイエルン州のIsar II停止を祝ってミュンヘンでは約1500人、Neckarswestheimには約500人が集まったという。南ドイツでは少なくとも雨が降らなかったため、人も集まりやすかったのだろう。ベルリンのブランデンブルク門前でもGreenpeaceとGreen Planet Energyが主催して大きな原発の恐竜を倒して太陽の反原発シンボルがVサインをしているポーズで写真が撮られた。

©Christoph Soeder / dpa                                     ベルリン・ブランデンブルク門前のアクション。脱原発を最初に2002年に決めた赤・緑政権で環境相だったTrittin(緑の党)の姿が(その後メルケル率いる政権が脱・脱原発を決定、フクシマで再びそれを覆す)。

リンゲンでのデモでは、ゴアレーベンの市民グループBürger Initiative Umweltschutz Lüchow-Dannenbergの理事・共同代表の一人でもあるElisabeth Hafner-Reckers に再会した。彼女に会ったのは、彼女がかざぐるまデモの演説に来てくれた2017年なので、6年ぶりだ。彼女は、寿都町の町長が最終処分場候補地選定に向けた国の文献調査に応募してからできあがった反対グループ「子どもたちに核のゴミのない寿都を!町民の会」に励ましのメッセージを書いてほしいという私の頼みに二つ返事で承諾し、すぐにすばらしいテキストを送ってくれた(http://kakugomi.no.coocan.jp/pdf/rentai_BILW.pdf)。彼女を始めとするゴアレーベンの人たちの抵抗運動の在り方は、あらゆる人たちに勇気とインスピレーションを与えてきた。彼らは、単に国家権力の方針や決定に抵抗してきただけではない。反暴力であらゆるアイディアを駆使した市民抵抗(日本ではなかなか当たり前の語彙として馴染まないZiviler Ungehorsam市民的不服従)の方法を実行に移してきただけでなく、彼らは「国が私たちに民主主義を実践し、人と自然に優しい国を提供してくれないなら、私たちが代わりにもっといいものを作ろう」というモットーで「Republik Wendland(ヴェントラント共和国)」と名乗って、ゴアレーベン周辺地区を、住みやすく、あらゆる年齢層が一緒に楽しく暮らせるコミューンのような共同体に作り上げてきた。まだ風力発電のない頃から独自で風力発電機を建てる人、バイオガスを作る人、太陽光パネルを自分の土地や屋根に付けて、自分で使い切れない電気を近所と分け合う人がいた。

そのエリザベスに今の心境を聞くとこういう答えが返ってきた。

「やっと最後の3基が運転停止されるのは、とりあえず嬉しい。これでドイツで新たに作られる放射性廃棄物がなくなる。でも、まだその運転停止を取りやめてまた再起動したくてたまらない人たちがこれだけいるから、まだまだ監視の目を緩めるわけにはいかない。私たちのグループは、単に抵抗するだけでなく、どんなに平和に、クリエイティブに、仲良くあるものを分かち合いながら生活していけるか、実践で示してきた。お上が何かを勝手に作り、それがただ与えられる、または買わされる大人しい「消費者」になりきるのではない、どんどん新しいものを買わされ、消費し、そのためのお金を稼ぐことだけで生活がいっぱいになる、そういう図式ではない人間らしい在り方を私たちは求めてきたし、その方がよっぽど楽しいしお互いに優しく助け合いながら生きられる(彼女はFreundlichという言葉をよく使った)。ゴアレーベンには最終処分場候補地のリストからは消されたものの、あいかわらずキャスクが「中間貯蔵所」に置きっぱなしにされていて、それはまったく安全な方法でなど保管されてはいない。これは後に続く世代に残していかなければならない負の遺産だ。親から受け継ぐ遺産が嫌な場合は、子どもは普通はそれを「拒否」することができる。しかし、この放射性廃棄物の遺産の場合、彼らにはそれを拒否することが許されていない。だからこそ、私たちにはそれを少しでも安全に、長期にわたって保管するための方法のコンセプトを国に求めていく義務がある。」

©Lars Klemmer/dpa

「共に勝ち取った!50年間続いた反原発運動」と書かれた横断幕

 

それから、もう一人会うことができて嬉しかったのは、Atommüllreport(放射性廃棄物報告)という放射性廃棄物に関する情報、危険性も含め詳しいデータを集める専門ポータルである団体の代表Ursula Schönberger氏だった。彼女はもともと緑の党で連邦議員にまでなり(1994年~1998年まで)その後別の緑の党連邦議員の科学調査担当を受け持って、そこで2013年にドイツ国内の「核のゴミ」の「在庫調べ」と状況について詳しい報告書(272ページにのぼる)を作成している。それは今でも、ドイツの放射性廃棄物に関する包括的報告書の第一号として連邦議会図書館にも保管されており、それをさらに引き継いでオンラインプラットフォームとして続行してきたのが、彼女のAtommüllreportだ。彼女は2002年にはしかし当時ヨシュカ・フィッシャーが副首相・外務大臣を務めていたSPDとの連立政権で、戦後初めてドイツがNATOの一員としてコソボ紛争に参加すべくドイツ軍隊を派遣し、さらにアフガニスタンでもドイツが戦争加担したことに反対して、脱党している。そういう意味でも、個人的にも価値観が似ていて親近感がもてるのが彼女だ。低・中レベル放射性廃棄物最終処分場になることが決まっているSchacht-Konradの反対グループともずっと活動してきた彼女は、私にこう話してくれた。

「いよいよ脱原発の日を迎えることは嬉しい。これまでの苦労の実が結ばれた。この日のためにずっと長年闘ってきたのだ。もちろん、抱えている問題がこれで小さくなるわけではない。そして脱原発を遂げたことになれば、ドイツでの反原発運動が小さくなる懸念はもちろんある。私たちは、核のゴミの「在庫調べ」をし、何がどのくらい、どこに、どういう風に「保管」(かぎ付きにするのは、まったく信じられない危険そのものという感じの放置状態で放っておかれているドラム缶も多いからだ)されているのかを事細かく調査し、報告してきた。そしてそれをどのようにすればよりこれから何万年、何百万年にわたりそれなりに「安全」に保管していけるか考えていかなければならないが、それを進めるうえでの第一歩は、「これ以上危険なゴミをもう作らない」ということだとずっと訴えてきた。保管方法が定まっていないのに、どんどん次から次へと危険なゴミを作り出すのであっては、議論にならない。とにかくそれが終わるのは正しい方向への第一歩だ」。

 

© Lars Klemmer/dpa                「脱原発というからには燃料棒工場もやめなきゃ」と書かれた横断幕

 

この祝脱原発の国内でのデモ・アクションはことに環境保護団体BUNDとドイツ最大の反原発団体.ausgestrahltが提携してキャンペーンを繰り広げていたが、リンゲンでのイベントでは、私が参加できなかった今年3月11日のかざぐるまデモでも演説をしてくれたBUNDのJuliane Deckel(彼女はもともと日本学を大学で専攻していたということで、デモでも日本語で少し演説していた)と.ausgestrahltのHelge Bauerが二人で一緒に司会をしていた。

ドイツで原発が操業されたのが1961年、それから2023年4月15日に全基が停止されるまで62年間。この「原子力時代」の「恩恵」を得てきたのは多くてもせいぜい3世代だが、そのために排出された解毒できないこの放射能のゴミが危険でなくなるまで、これからさらに33000世代以上がこれとともに生きなければならない、と言われている。そんな無茶が押し通されたのがこの狂気の「原子力時代」だ。未来の世代にとってはまったくいい迷惑だ。

©Hakuba Kuwano

悪天候でもリンゲンでのデモに集まった人たち

デモ解散前の最後のディスカッションには上記のElisabethやUrsula、それにEmsland近郊でチェルノブイリ以降、トーマスのように市民測定所を作って放射能検査をしてきた男性、Schacht Konradの活動家の女性などが司会であるHelgeとJulianeに質問され、それに答える形で参加した。「低・中レベル放射性廃棄物」と名付けることで、あたかも「高レベル」より危険性が少ない、大したことがないような印象を与えているが、それは大きな間違いだ、という話にも、まったくだと私は同感した。放射線は高いから危険、低いからより安全ということはない、定量の被ばくで癌などを発症するのは、「宝くじ」に当たるようなもので、線量が高い低いは「安全性に無関係」で、運のようなものなのだということは放射線テレックスのトーマスも常々言っている。これをここで訴えている人たちは、いわゆる「低・中レベル放射性廃棄物」が保管されている場所のすぐそばに住んでいる人たちで、それらの「廃棄物」がどの程度危険な形で山積みされているか知っているからこそ、その危機感が強い。そして自分たちは「もうすぐ死んでいく運命にあり、これらのゴミが今後どのような形で残されるか、見届けることができない」と思っているということだ。それだけ彼らには焦りもある。どうすればなるべく危険がない形で、コントロールしながら保管ができるのか、そのコンセプトを根本的に考え直す必要がある、ということを皆が語っていた。いわゆる「地層処分」(日本のような火山、地震の多い島国ですら地層処分にこだわっているが)になぜこれだけ固執するのか、という疑問もある。でも、今「仮」に保管されているたくさんの放射性廃棄物(低・中・高レベルの)の貯蔵方法はあまりにお粗末で、いつ「安全な場所に処分されるのか」わからないのに、危険極まりない。飛行機墜落やドローンによる攻撃などがあれば、またはサイバー攻撃などがあればすぐに恐ろしい事態が訪れかねない状態のまま何年も置きっぱなしになっている。

私がしっかり反原発運動にかかわるようになったのはフクシマからで、そういう意味ではここにいたたくさんの「闘志」たちと比べて新米だが、矛盾を抱え問題の多いドイツで、とにかくまがりなりにも最後の原子炉が停止されたこの記念すべき日を、この問題にずっと立ち向かい、ぶれることなく長い息で闘ってきた人たちの話を聞きながら過ごすことができたのは、有意義なことだった。日本のGX束ね法案、札幌で行われるG7環境相会合で日本政府が「汚染土リサイクルや汚染水海洋放出を歓迎する」旨の共同声明を出すべく各国に働きかけた問題、汚染水を何が何でも今年の夏には海洋放出開始する方針など、日本からは原子力関係を挙げただけでも幻滅するようなテーマに尽きないが、とにかく「反原発」運動がドイツでは長く続いて市民権を得、とにかく動いている原発をやめさせることに成功した、というのはポジティブなニュースだ。ドイツが原発による発電をしなくても、ドイツは原発信仰をやめない国々に囲まれている。フランスも、ベルギーもポーランドも、危ない老巧化した原発を何が何でも運転期間延長して動かすつもりだし(日本も同じ)、原子力がなければ気候変動の点からも今のエネルギー危機に立ち向かえない、などとグリーンウォッシングしながら、実は、おんぼろのひびの入った危ない原発を延長して運転する以外に、新しい原発はあまりに建設費用が高くて実現しないし、今動いている世界の原発がどれももう古くなってきていて修理や追加工事が必要であることに変わりはない。フランスのように気候変動で冷却に必要な川の水が枯れてしまえば原発を動かすことはできないし、急にこれから水不足が解決するとは思えない。エネルギー危機を解決するには、「今すぐ」安全に動ける発電方法が必要なのに、いつ建設が完了するかもわからない原発に未来を託すなど、絵に描いた餅で明日からの食事の支度に備えるようなものだ。できるだけ自然に介入しない方法で、環境になるべく優しく、有毒なゴミも、二酸化炭素も排出せず、となれば、再生可能エネルギーでできる限りの電気需要が賄えるようシフトしていく以外ないことは誰の目にも明らかだ。そのために投資をせず、若い世代に恐ろしいほどの負の遺産を押し付け、政治家にたくさんの嘘をつかせ守れない約束をさせながら、いつまでも既存の利益構造にしがみつくロビーの言いなりになっている世界は哀しい。

とにかくドイツでの原発のスイッチは切られた。それを日本にも、フランスにも、イギリスにもポーランドにも、ベルギーにも拡大していかなければならない。やはり市民が動かなければだめだ。気が滅入るニュースに溢れた今、このドイツの祝脱原発デモに参加したことは私にとって、力の与えられる貴重な体験だった。私一人では遠くのリンゲンのデモには参加しなかったと思うが、デモの取材やインタビューの通訳として赤旗の特派員桑野氏に同行させていただき、このデモ参加が実現した。桑野氏に感謝。(ゆう)

©Hakuba Kuwano

ひびが入って絆創膏の貼られたEmsland原発のスイッチを切るアクティビストたち

 

©ゆう

この日の未明まで原発からはまだ煙が出ている

 

福島の証言が海外でコミックに!「Fukushima 3.11」ドイツ語版

 

閲覧はこちらのリンクから↓

Fukushima-3.11_deutsch_web_

 

このコミック「Fukushima 3.11」はフランスの国立科学研究所CNRSのプロジェクトの枠内で行われたインタビューに応じたよこたすぐる氏の証言をもとに出来上がった作品です。フランス在住の杉田くるみさんがインタビューを行いそれをまとめ、漫画家のダミアン・ヴィダル氏が実際の史実に忠実に研究を重ねコミックに仕立て上げました(オリジナルはフランス語で、英訳もあります)。このコミックはまずTOPOという漫画雑誌の2019年1月/2月号に掲載されました。

今回杉田さん、ヴィダルさんの許可と、お二人が所属なさっている「遠くの隣人3.11」のご厚意で、ドイツ語翻訳が完成しました。「遠くの隣人3.11」はフクシマ原発事故以来被害者の方々を支援してきているグループで、このコミックを無料で誰にでも読めるように提供してくださっていますが、著作権はもちろんこのお二人にありますので、このコミックをどこかで紹介・公開・拡散なさる場合には、必ず「遠くの隣人3.11」を通じて著者の方に連絡してくださいますよう、お願いします。

 

広島・長崎原爆投下記念日の式典にSNB代表が演説

「平和の鐘協会」主催の広島・長崎の原爆被害者追悼記念式でSNBを代表してのロッコの演説(2022年8月6日)和訳(演説執筆:梶川ゆう)

ドイツと日本は署名しなかったものの去年は、核兵器禁止条約がついに発効し、今年末にはドイツ最後の原子炉がとうとう停止される予定でした。

戦時中世界で初めて広島と長崎に原爆が投下されてから77年後経った今、このかすかな希望の光がこうも簡単に消されてしまうなどと誰が想像したでしょうか?

ロシアによるウクライナ侵攻で核の脅威はまた現実的なものとなり、これまで軍縮に賛成だった人たちが急に、核抑止力や核傘下の重要性を強調し始めました。そしてまた、ロシアによるウクライナ侵攻によりヨーロッパは、急激なエネルギー危機を迎えることになりました。これは私たちがロシアのガスだけでなく化石燃料にまだまだ依存し過ぎだからです。それに伴い、まだ稼働しているドイツの最後の原発を今年末より長く運転させようという声が高くなっています。現在のガス欠乏の危機は必ずしも電気の欠乏を意味してはいないにもかかわらず、です。EUは原子力エネルギーを「持続可能」とみなし、天然ガスに並んで「タクソノミー」というグリーンのラベルを貼ろうとさえしています。このように私たちは今年の夏までにまったくひどいニュースに見舞われてしまったのです。

原爆が初めて戦争で使われてから、人類は世界各地で核武装しました。2021年の始め、13,080の核兵器を9か国が所有、そのうち3825投下準備と予測されました。世界第一の核保有国であるロシアは6,255の核弾頭を所有し、アメリカ所有の数は5,550でした。人類を何回も破滅させられる、これだけの数の恐ろしいものがどうしてできてしまったのかは、まったく理解しがたいと言えます。

しかしそれだけではありません。この「悪魔の技術」を使いこなし、平和利用できると軽々しく信じている人たちがたくさん世界に存在します。2021年末には33か国に436もの原子炉がありました。しかし、今年2月に私たちは、軍事で原発も攻撃目標になり得るということを思い知らされたのではなかったでしょうか? 77年にはこれはまだなかったことです。事故で破壊したチェルノブイリ原発は2月末にロシアの手に堕ち、その次にヨーロッパ最大級の原発ザポリージヤも攻撃されました。あの時何が起きる可能性があったのでしょうか、そしてこれから何が起きる可能性があるのでしょうか?

原子炉は恐ろしい脅威となるのに、直接攻撃される必要はありません。電力供給が中断されるだけで十分です。それが2011年にフクシマで起こったことです。それに、ヨーロッパに戦争があるだけではありません。私たちは予測できない極端な異常気象をもたらすグローバルな気候危機を迎えています。核保有国であるフランスはエネルギー供給でロシアにほとんど依存せず、電力需要の約80%を原子力でカバーしているとことを誇りにしていますが、気候変動で原子炉冷却に必要な川が枯渇したり川の水温が温かくなり過ぎることに関してはなにも考えてきませんでした。

核兵器と原子力エネルギーは同じコインの両面に過ぎないことを私たちはよく知っています。残念ながら今の世界は自然災害、武力紛争、人間であるがゆえの過失、技術的欠陥や故障、あるいはテロ行為により、いつ爆発するかしれない核兵器と原発に覆われています。核分裂の連鎖反応や放射線は敵と仲間の区別はしないし、同じ技術が軍事的に使用されようが平和利用されようが構いはしません。広島と長崎に77年前に初めて原爆が落とされてから、軍事紛争でまだ一つも原爆が落とされていないという事実は、これから先もだから安全だという保証には一切なりません。私たちはすでにチェルノブイリ、スリーマイル島、そしてフクシマを体験してきました。原発がある限り、それはどこかに装備されている原子爆弾と同じように人類の脅威を意味するものです。だからこんなものを持ち続けるべきではないということを理解するのが、どうしてそんなに難しいというのでしょうか。

 

北海道・寿都町の最終処分場反対グループへのゴアレーベン市民グループからの連帯メッセージ

2022年9月末

日本・北海道の寿都町が最終処分場建設に向けた政府の調査を受け入れる誘致を表明し、それに反対する運動グループができている(この内容については、詳しく報道している次の北海道放送の動画を参考にしてほしい:「ネアンデルタール人は核の夢を見るか〜“核のごみ”と科学と民主主義」https://youtu.be/N0ciJo7gxPo)このことを知ったビュール(フランスで最終処分場建設が計画されている場所)の反対運動のグループが、 連帯メッセージを寿都町の「子どもたちに核のゴミのない寿都を!町民の会」に送り届けた(フランス・リヨンで活動する「遠くの隣人3.11」が中心となってメッセージを和訳し仲介した)。(そのメッセージは以下のリンクで閲覧可能:https://nosvoisinslointains311.home.blog/2022/10/07/message-de-soutien-aux-habitant-e-s-de-suttsu-depuis-bure/

それで、私もドイツからもぜひ同様の連帯メッセージを貰えればいいと思い、ゴアレーベンのBürgerinitiative Lüchow-Dannenbergの理事会メンバーとアッセの「核のゴミレポート」(Atommüllreport)を発行しているグループ、アッセのArbeitsgemeinschaft Schacht KONRADに連絡をして事情を説明したところ、ゴアレーベンのグループからはさっそくメッセージを貰うことができた。核のゴミレポートからもぜひAG Schacht KONRADと一緒にメッセージを出すからもう少し待ってくれ、という返事が来ている。このゴアレーベンからのメッセージはさっそく和訳し、「子どもたちに核のゴミのない寿都を!町民の会」に送り届けることができたので、そのメッセージを以下に紹介する(この市民団体の説明は最後)。

寿都町の皆さまへ

かつて核廃棄物処分場として選ばれたゴアレーベンで生まれた抵抗運動のグループである私たちは皆様にここに、心からの連帯の気持ちをお届けしたいと思います。核廃棄物処分場探索が、唯一地学的条件だけを考慮して行われることを祈ります。それがどんなに難しいことであるかは、私たちがよく知っていますが、それだけが正しい道です。それを達成する上で、皆様が信頼、勇気、持続力を持ち続けることを祈ります。核廃棄物処分場を決定するまでに村や共同体に与えられるお金は、そこに住む住民たちの生活基盤をかえって悪化させるのだという事実を、皆さんがいろいろな人たちに説得していけることも望みます。

皆さんは今は、広大な砂漠の中で声を上げている孤立した存在のように思えるかもしれませんが、あなた方の勇気、先見の明、そして次に続く世代に対する顧慮はとても重要であると同時に、正しいものです。原子力エネルギーと核兵器のない世界を実現するため、一緒に歩んでいきましょう。

皆様に対し心から励ましと勇気を送ります。

市民イニシアチブ・環境保護リューホフ=ダンネンベルク、ダンネンベルク・フクシマピケ、そしてそのほか世界中の心ある人たちより

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(団体の説明)

市民イニシアチブ・環境保護リューホフ=ダンネンベルク(Bürgerinitiative Umweltschutz Lüchow-Dannenberg):1972年、かつての西ドイツの東ドイツ国境近くに位置したゴアレーベンという岩塩ドームのある土地に核廃棄物処分場および再処理工場などを含めた複合核関連センターを建設するという計画に反対してできあがった市民環境保護団体。ヴェントラントという地域にあるこの市民NGOは千名以上のメンバーを数え、農民たちのグループも含め、長いこと政党などに属さない独立した団体として活発に反原発運動を展開してきた、ドイツの反核運動で長い歴史を持つグループである。ことに使用済み燃料から再処理後、処理できない高レベルの放射性廃液などがガラス固化されいわゆる「キャスク」となってフランスのラアーグなどからドイツに戻される際、その貯蔵方法や場所に対する問題が未解決なままゴアレーベンなどに持ち込まれることに反対して、その輸送を非暴力的に阻止する運動を展開し、何度も話題になった。ドイツ政府はずっとゴアレーベンを処分場候補から外さなかったが、どういう地学的条件で選定するかを定める「最終処分場サイト選定法」が2017年に出来上がり、2020年になってようやくゴアレーベンの岩塩ドームは最終処分場としては不適当であると判断され、最終処分場候補から消された。それでも今もこの市民グループは核のない世界を目指して活動を続けている。

(ゆう)

民主主義を壊した安倍元首相の国葬を許さない

民主主義を壊した安倍元首相の国葬を許さない

よそものネット有志による声明

日本政府は、カルト教団の被害者に暗殺された安倍元首相の「国葬」を法的根拠のないまま勝手に閣議決定した。彼が行った政治を賛美し、国民に弔意を強制する儀式を国会で議論もせずに押しつけたのである。これに対して国民の大多数が反対しているが、改める様子はない。

これは言語道断である。安倍元首相が進めた政治とは、日本国憲法の平和理念を「拡大解釈」して覆し軍事拡大を促進、大日本帝国と軍による植民地支配・侵略戦争の加害と犯罪を矮小化・否定する歴史修正主義を正当化し、ヘイトスピーチを助長させ、さらに教育とメディアの統制を強化した、まさに「民主主義壊し」であった。また、福島原発事故の実態を隠蔽・矮小化してオリンピックを誘致し開催、原子力政策を推進し被害者を切り捨て、ネオリベラル政策で格差の拡大を深めて弱者を苦しめる一方、元統一教会や日本会議など右翼(極右)団体と癒着して政権存続に利用し、国政を私有化して利権者・集団を優遇した。

このように民主主義と立憲主義に反する政治を進め、公文書の改ざんさえ行った安倍元首相の不正行為の数々は、死後も検証され、追及されるべきである。私たち、民主主義と立憲主義の擁護・強化をめざす海外に住む日本人を主としたグループ・個人
は、以下に述べられた竹内康人氏のテキストに賛同し、多額の国税が投じられる安倍晋三の国葬に、断固反対の意を表明する。

反天ジャーナル アベノツミ10条、勲章の内実
竹内康人(歴史研究家)
https://www.jca.apc.org/hanten-journal/?p=1697(転載許可済)

発起人
梶川ゆう(ベルリン、ドイツ)
杉田くるみ(グルノーブル、フランス)
飛幡祐規(パリ、フランス)
団体・個人名
Sayonara Nukes Berlin
よそものネット・フランス
スイス・アジサイの会
JAN(Japanese Against Nuclear) UK
ドイツ在住
熊崎実佳
藤井隼人・弘子
フランス在住
辻俊子
小森浩子
波嵯栄ジュフロワ総子
坂田英三
宮崎洋一
齋藤紀子(Motoko Saito)
Shukuko Voss-Tabe (田部淑子)
深作裕喜子
田中千春
桐島敬子
柴田真紀子
林瑞絵
白髭節子
富樫一紀