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私たちにできる10のこと

[:ja]Sayonara Nukes Berlinは、2013年以来「かざぐるまデモ」を毎年3月に行い、ベルリンから脱原発を訴えている。メンバーのひとりひとりは、前回の投稿で紹介したように、ごく普通の生活者だ。原発なしのエネルギーへの転換は、国の政策や企業の方針に左右されるが、生活者である私たちひとりひとりの声や行動がうねりとなったとき、政府や企業の方向性に影響を与えることができると思う。あらゆる分野において、市民の訴えに応える形で法律や制度が作られ社会が少しずつ変わってきた歴史を見れば、よりよい社会を形成していくために市民運動はとても大切な役割を持っていることがわかる。問題の多くは、突き詰めれば「いのち」「人権」という大きなテーマに行きつく。それがないがしろにされているとき、市民がアクションを起こすことはとても重要なことだ。

「運動する」ことは、特別のことではなく、私たちの生活の一部になるべきだろう。SNSの発達により、いろいろな形態で参加できるようになった。そして、運動に参加することによって、生きていくうえで何を大切にすべきかということを自らもっと考えるようになるし、私たちの考え方や生活のしかたも変革していく。さらに言えば、自らの選択によって生活のしかたを変えていくことも、一つの「運動」なのかもしれない。

そんなことを考えながら、原発のない未来を実現するために、私たちが具体的にどんなことができるのか、メンバーと話し合ってみた。それを「私たちにできる10のこと」としてまとめてみた。

未来のために原発とさよなら ― 私たちにできる10のこと ―

1.エネルギー問題や放射能汚染について関心を持つ
2.チェルノブイリやフクシマを忘れず、家族や友人と原発事故の教訓について会話する
3.エネルギー問題をテーマにした講演会に参加したり書籍を読んで学ぶ
4.ひとつのニュースソースを鵜呑みにしないで、自分で調べて考えてみる
5.エネルギー関係の情報をSNSで共有する
6.原発に反対するデモに参加して共に声を上げる
7.エネルギーを含めた環境問題に取り組む団体を支援する(ボランティア・寄付など)
8.電気を含むエネルギーの節約の工夫をする
9.再生可能エネルギーによる電力会社を選ぶ
10.エネルギーや環境に配慮した政策を提示している候補者に投票する

脱原発を訴えるグループとしてイベントを行うだけではなく、自分たちの日常生活ではどんなことを実践しているかメンバーに振り返ってもらった。ここで何人かのメンバーから集まった実践例を紹介する。

♦再生可能エネルギーの電力会社と契約しています。
♦感情的/扇動的/一方的な情報を見分けて精査する能力を養う努力をしています。そういった情報や精査の過程をとくに賢いわけでもない普通の市民の疑問として友人や家族の目に触れるようにしています。
♦友人と原発事故の様々な影響について直に話すようにしています。

♦再生可能エネルギーの電力を選択しています。
♦エネルギーとは何かという物理の話を議論する集まりをしていました(コロナ前)。エネルギー問題に取り組んでいる人たちでもエネルギーとは何かを知らず(例えばエネルギーの単位は何かなど)、エネルギーとは何かを説明できない場合もありました。そして原発に賛成する側でも反対する側でも間違ったことが共有されてしまったりすることがあったためです。

♦私たちの生活に密着する深刻な問題だからそれぞれの記念日はもちろん、普段からこの問題にまつわる会話を積極的にしてきた。
♦自分の余暇の範囲で、できるだけ信頼のおける専門家の話に耳を傾けるようになった。
♦政治的な発信は時に勇気のいるものだったけど、続けるうちに気づいたら思ったことを何でも言えるようになった。
♦原発に反対するデモに参加している。
♦普段からまめに電気を消して、衣類に気を付けなるべく冷暖房に頼らない工夫をしている。必要以上に家電を購入しないようになった。
♦投票は欠かしたことがないが、ただ投票へ行くだけではなく、周りの友人や家族に声をかけるようになった。
♦再生可能エネルギーによる電力の選択では、代々木公園で環境フェスティバルに参加して各社のテントでパンフレットをもらったり話を聞くなどしてより具体的な選択ができた。

♦あまりたいしたことをやってないので恥ずかしいが、しいて言えば、エネルギー問題の書籍を読んで勉強し、自分で調べて考えるようにしている。

♦わたしの個人の家の電力会社は再生エネルギーの会社にしています。
♦テレビ、ラジオの電源は切っておきます。使い終わったらコンセントから外してます。

♦確実に再生可能エネルギー100%による電力しか供給していない電力会社と契約するのはもちろんのこと、私なりのダイベストメント(投資の反対で投資から撤退すること)を実施し、原子力、化石燃料を扱う企業に出資することをはっきり拒否し、環境に優しいプロジェクトにだけ投資している銀行に口座を変えた。
♦なるべく地元で、無農薬で栽培され野菜・果物を買い、できるだけアフリカや南米から届いた野菜・果物等は買わない。
♦2番にも共通するが、外貨が儲かるからと森林を破壊し大量に水を吸い取って地下水を枯渇させていく南米のアボガド栽培で、水不足をうみ、労働者(子どもも)低賃金・悪労働条件で働かされていることから、アボガドは好きだが非買運動をして、買っていない。

♦子どもたちと原発問題について話してます(息子は興味を持って小学校で原発問題をテーマに作文執筆!)。
♦デモ用のかざぐるまづくりワークショップを小学校を借りて行った(息子のクラスメートも参加)。
♦幼稚園にデモのポスターを貼らせてもらった(保護者がかざぐるまづくりのワークショップに参加してくれたり、先生がデモに参加してくれた)。
♦語学学校のテーマで原発問題を話題にする。
♦エネルギーの節約、できるだけやってるつもりですが、電気のついてるところでまとめて作業するとか、できるだけ昼間の電力を使って調理やアイロンとかするようにしてます。

♦関連のドキュメンタリーがあったら観てみる。
♦センセーショナルなニュースであればあるほどいろんな情報を読んでみます。なるべく別の見方も知りたいので。
♦FaceBookしか使ってないですが、これは!と思ったニュースとかpetitionなどはシェアしてる。
♦毎月引き落としでWWFなどNGOに寄付してる。
♦アマゾンとかの森林を破壊したくないので、なるべく肉は食べない。食べる時はスーパーの安肉じゃなくてマルクトのブランデンブルグ周辺の畜産業者扱いの肉屋で買う。
♦野菜もなるべく遠くから来たのじゃなくて、近くの農園のをマルクトで買う。
♦最安値の会社ではなく、グリーンエネルギーの電力会社と契約してます。
♦在外投票してます。候補者の政策も比べて投票してる。
♦かざぐるまデモには友達誘って毎年参加!

福島の原発事故から10年、被災地がどう変わったかという報道はよく目にするが、私たち自身の意識や生活はどう変わったのだろう?

あなたの意識や生活にはどんな変化がありましたか?

何か新しく始めてみようと思うこと、ありますか?

 

 [:]

コミュタン福島訪問等

[:ja] 福島の事故から5年以上が経過し、その間自分の中でもいろいろな変化があった。

 特に2014年に乳がんの手術を受け、治療の一環で放射線治療を受けた後は、医療上のことと事故のことという違いはあるものの、「放射線」というテーマに対して、変ないい方かもしれないが、何か一つ肩の力が抜けたような気がする。そんなこともあって、今回SNBさんより「何かこのテーマについて書いてみませんか」とお誘いを受けたときも、何か書いてもいいかな、という気分になることができた。ただ、私はジャーナリストでも、とりたてて博識なわけでもないので内容は稚拙なところがたくさんあると思うので最初にその点だけお断りしておきたい。

 201611月。用事があって日本に帰省するのに合わせ、福島県郡山市に1泊することにした。大きな理由は震災後から毎年クリスマス時期に郡山からほど近い三春町にある葛尾村の仮設幼稚園に小さなプレゼントを送っているのだが、ちょっと早いプレゼントを直接持参しようと思い立ったからである。高速バスやホテルを予約したのち頭をよぎったのが、そういえば武藤類子さんのお住まいがこのエリアではなかったか、ということを思い出し、連絡を取ってみたところ、ちょうどその週末はアメリカから知人の方がいらしているがご自宅にはいらっしゃるということで何度かメールのやりとりをする中で、三春についにできた「コミュタン福島」という施設を見たほうがよいとお勧めいただき、当日コミュタン福島で待ち合わせをさせていただくことになった。

   8時半の郡山行き高速バスに乗ってちょうどお昼すぎ、郡山駅前に到着。急いでホテルに荷物を置いて13時発の「コミュタン福島」への無料シャトルバス(日曜日だけ運行されている)に乗るべくダッシュした。多分13時ちょっと過ぎたと思うが、シャトルバスはまだ出発しておらず、運転手の方も何かちょっとびっくりされたような風で迎えてくださった。。。50人乗りの大型バスには私一人がちょこんと乗車しているだけだったので、なんとなくびっくりされた理由がわかった(私もびっくりした)。30分ぐらい走った後だったか、途中バスが止まったので何事かと思い運転手の方にお尋ねしたところ「この停留所で一応止まることになっていましてね、まあ誰も来ないんですけど、すみませんお急ぎですか?」と申し訳なさそうに答えられてしまった。。。

当日は私一人でびっくり、の車内

 さてそれから10分後ぐらいだったか、ようやく「コミュタン福島」に到着した。武藤さんと、アメリカからいらしていた知人の方もともにいらして、それがシカゴ大学日本文学名誉教授ノーマフィールドさんということをこの時初めて知った。

 さて、「コミュタン福島」とは「福島県環境創造センター 交流棟」の愛称である。

コンクリートでできたシンプルな外観

ホームページには

 ”福島県環境創造センター交流棟は、県民の皆さまの不安や疑問に答え、放射線や環境問題を身近な視点から理解し、環境の回復と創造への意識を深めていただくための施設です。

コミュタン福島には、放射線やふくしまの環境の現状に関する展示のほか、360度全球型シアター、200人収容が可能なホールなどを備えております。

コミュタン福島で得た学びや体験から得た知識や深めた意識を、子どもたちや様々な団体が共有し、それぞれの立場から福島の未来を考え、創り、発信するきっかけとなる場を目指します。”

 と記載がある。

 当日ほとんど事前知識のない状態でさらりとこの「コミュタン福島」を見てみると、入口で福島の事故が起こった時のビデオ、そして放射能とは何か云々(ようは自然界にも存在するとかそういった「安心感」を与えるようなよくある内容)の他に展示の何パーセントかがいわゆる自然エネルギー紹介であることもあり、ちょっと錯覚を起こしてしまいそうな雰囲気となっている。錯覚とは、放射能について正しく学びつつ将来は自然エネルギーについて考え、未来は原子力に頼らない県づくりを、といった前向きなメッセージを感じ取れるような施設に仕上がっている風に思い違いを起こすような、という意味だ。

写真がぼけていてすみません
コンピュータで自分で学べる図書館のような場所がある

 この施設の建設時には武藤さんをはじめとした脱原発に取り組んでいる方々からもいろいろ意見を取り入れますということで話し合いが持たれたそうだ。そういった面で多少の意見が取り入れられたのだと思われるが、ただ冷静になって考えてみると例えば原発事故はまだ収束していない、原発労働者の問題や汚染水の問題等は一切この施設には出てきていない。汚染水の流出などは数値化して毎日更新するなどしたほうが現実味が増すような気がするがそういったものではなく、数値化されているのは福島に観光で訪れた人の人数(震災後観光客足がどう増えたか)だったりで、負の側面を「巧妙に語らない」ようにできた施設といえるかと思う。

放射能に対する知識をつけるような冊子類に交じって、水俣病問題の本やシリア難民についての本が置かれていた。

 あと特出したものといえば、360度全球型シアターで上映されるイメージ映画?というのか、震災、原発事故という災難を超え、福島の美しい四季を西田敏行さんの素晴らしいナレーションで堪能できるシアターがあった。聞いた話によればこの360度のスクリーンを使った施設は世界で2件しかないという最先端の技術だそうだ。。。
 ちなみに施設の建設費は70 億円(南相馬にもある環境放射能センターと合わせて全体で192億円)、年間運営費は9億円×10年 という話で、これは国の復興費からでているそうだ。日本国民はこういうこと知っているのか?と不思議に思う次第。。。復興とは何ぞや。。。

 さっと見学したのち、武藤さんとノーマさんの3人で休憩室にて少しお話しをすることができた。

 個人的なことを最初に書けば、ノーマさんとは今回初めてお会いしたのだが武藤さんとは2度目になる。1度目は2013年に当方のイベントにてビデオ上映をするため東京にてインタビューをさせていただいた経緯がある。武藤さんにお会いする前まで、私の中の勝手なイメージは失礼ながら「長いこと脱原発に取り組んでいらっしゃるバリバリの活動家の方」で、何か変な質問したら怒られそう、とか戦々恐々としていたのだが、実際お会いした時の第一印象がとても柔らかで、それでいて一つ芯の通った素敵な女性、こういう方を「大和撫子」というのだ、と感動したことが忘れられない。知識のない私の稚拙な、どうでもいいような質問に対してもゆっくりと丁寧に、わかりやすく答えてくださる。何よりも私が尊敬するのは、武藤さんの言葉の背景にはいつも「人への愛情」がこもっていると感じさせてくれる点である。武藤さんご自身はもちろん脱原発という確固とした意志を持っていらっしゃるわけだが、例えばその意志が何か相手を傷つけるような場面に遭遇したとしたら、武藤さんは決して相手に自分の意見を強いるようなことはしないと感じる点である。静かに、相手の意見に耳を貸しながら、寄り添っていかれるのだと私は推測する。

 私が悲しく思うのも、攻撃の矛先が国や東電ではなく何故か避難しなければならなかった人たちだったり、県民同士国民同士が争う構造だ。武藤さんの今回のお話の中で例えば「被災者支援の延長を求める人たちはクレーマー扱いとなっている」などのことは、日本人の冷酷さを感じるところである。以前東京の山谷地区で長年ホームレスと活動している方と話しをしたことがあるが、ホームレスについていえば「ホームレスになった本人に問題がある」的な意見が普通にまかり通るのが日本の風土のようである。よくよく思うに、これはホームレスの方に対してばかりでなく、何か社会的弱者の立場にあるような人々に対してよく見られる反応、いわゆる「自己責任」という言葉でばっさり切り捨てるような風土があるように思う。実際私も15年東京で暮らしていた際はそのように思っていた節があるし、そのままずっと日本に暮らしていたらそんな風に思って一生を終えていたかもしれない。今は、例え自己責任があったとして、どうしてそれが「人を助けない」理由になるのか、と疑問に思うようになった。震災を海外ドイツで体験したわけだが、それでもこの出来事は自分の考え方を変える大きなきっかけとなったといえる。

 さて、武藤さんからうかがって空恐ろしいと感じたことといえば、福島県内の小学校5年生は全員「コミュタン福島」へ課外授業として訪問することとなっているそうだ。すでにその取り組みは始まっている。武藤さんのお話しではなんでも水俣病問題の際も小学校5年生がターゲットになっていたらしい。日本の小学校5年生のレベルで、この施設に対して負の側面を見極めることのできる子はどれくらいいるのか、正直判らない。私が訪問した日曜日には数人の家族連れの方がいて、子供たちが「放射能撃退ゲーム(?)」(大きなスクリーンを使って、何か専用の板をかざして放射能に見立てた点やら記号やらから自身の体を防御するといった風なゲームと思われる・下記写真)をしながらキャッキャッとはしゃいでいる様子を見た限り、よほどご両親か教員の方がきちんとした状況を伝えないことには難しいのではと思う。

インタラクティブなシステムを使ってこのようにゲーム感覚で放射能(と見立てた記号物)と遊ぶことができる

 そもそも放射能を安易に撃退できるような術はないと思うが、こういったゲームで何か「自分が撃退できる」ような疑似体験をさせるのはいかがなものか、と考えてしまう。 

 そういう意味で親御さんや教員の皆さんの役割は極めて大きいと思う。子供たちに事故の罪はないから明るい未来を見てほしい、と思うかもしれない(大人自身がそう思いたい)が、このような重大な事故を起こした現実を大人たちにはきちんと伝える義務と責任があると私は思う。特に「コミュタン福島」の館長が原子力村出身、その他IAEAJAEAのジョイントベンチャー施設ということを冷静に見つめれば、いろんなことを「疑ってみる」べきだと思う。

 脱原発の活動において全く先が暗いというわけでもない点ということで武藤さんにお話しいただいたこととしては、ご自身が活動されている福島原発告訴団の活動がようやく実を結んで東電の当時の役員を強制起訴すべきであるという結果を導くことができた点と前新潟県知事の突然の不出馬に混乱を来した新潟県知事選において脱原発を掲げた米山氏が当選したということだ。(その後柏崎市長選では原発容認候補が勝利してしまいましたが。。。)
 強制起訴については活動が実を結ぶというのはうれしいことではあるが、5年もウヤムヤにしている司法制度、国、東電はどうなんだ、という感もある。というかまだ決着していないわけなので大変な道のりと思う。オリンピック、オリンピックと浮かれている場合ではないと思うのは日本から離れた場所に住んでいるからだろうか。オリンピックでよくなったであろう景気を堪能できない身分なので「そんなに大事なこと、すごいことなのか?」と思うばかり。。。

 今年もすぐに6年目の311日がやってくる。不精な私はそれこそ毎日アクティブに日本の状況をネット等で検索しているわけではないが、年を追って原発事故のニュースが目につきやすいトップページに掲載されることは少なくなってきたと感じる。それはただ、決して「56年たって状況が良くなってきた」からではない。下記の201719日放映のドキュメンタリーを見たが5年の歳月を耐え、また状況に戦って来られ、そのエネルギーが今尽きようとしている方々がたくさんいらっしゃるという現実を知るべきと思った。

東日本大震災「それでも、生きようとした~原発事故から5年・福島からの報告~20170109
http://www.dailymotion.com/video/x57x49t
(リンク切れの場合はご容赦ください)

 子供たちの甲状腺がん(疑いを含む)についていえば、201612月までに183人になったそうだ。ニュースではだいたい数字の報告だけの「冷たい」お知らせになっているかと思うが、例えば183人の子供という数値を現実感をもって「想像」しようとすれば、これは小中学校の4クラス分とかそんなとんでもない数ではないか?ちなみに武藤さんたちが20167月より設立した「3.11甲状腺がん子ども基金 」の第一回療養費給付金補助には36件の応募(うち福島県外から9件)があったそうである。

福島第一の模型が飾られていたがなんとなく危機感がない

 この文章を記載するにあたり再度武藤類子さんに数値上の誤り等を修正していただきたくコンタクトをしたところ、

「昨年11月にお会いした後に、身近に甲状腺がんを含めた健康被害が見つかり、また自死などの事象も起こり、やりきれない状況です。それでもおそらく3月までには、刑事裁判が始まると思います(福島原発告訴団の活動,東電の当時の役員を強制起訴)。出来うることを、一つずつやっていくしかありませんね。」という静かで力強いメッセージをいただいた。

 ご自身が福島にて被災され、福島の被災された方々に寄り添いながらいろいろな活動をされる中、心が何度も折れるような大変な状況下をすごしていらっしゃるのに、こうやって一歩一歩前進していこうと心を振るい立たせるのは本当に並大抵のことではない。その原動力は、と思いをはせたとき、思い出すのはコミュタン福島でお会いしたときに話してくださった梨の話だ。

 お知り合いの農家の方で長年梨を生産していた方がいらしたそう。原発事故で放射能汚染され、最初の数年はセシウム値が検知され、心を痛めつつ購入をせずにいたそうだ。それが今年になってセシウム値がゼロとなった旨連絡がき、不安に思いながらも一箱梨を購入されたそうだ。

「もし私に子供がいたら食べさせるかどうかわからない、、、でもねえ、この買った梨を食べたときは(原発事故以前と変わらず)本当においしい~ぃって思ってね、、、」

 ”おいしい~”と話されたときの武藤さんの、複雑な声のトーン。このような”おいしい~” は初めて聞いたように思う。戻ることのできない過去への思慕と悲しみの中にミックスされた「郷土への深い愛情」が静かに響く、そんな寂しくも強い音色だった。

Manami N.

リンク
3.11甲状腺がん子ども基金
http://www.311kikin.org/[:]

(Deutsch) Zwangsräumung des Anti-AKW-Camps in Tôkyô. Gedanken zu einer Nacht- und Nebelaktion/ Steffi Richter

[:de]

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Han-genpatsu keisanshô-mae tento hiroba (kurz: Tento hiroba) in Tôkyô

Zwangsräumung des Anti-AKW-Camps in Tôkyô. Gedanken zu einer Nacht- und Nebelaktion

Steffi Richter

 

Anlässlich der ersten Wiederkehr des Tages, an dem Nordost-Japan von der Dreifachkatastrophe verheert wurde, erschien in der Online-Ausgabe von „The Wall Street Journal“ vom 10. März 2012 ein Artikel, der mit „March 11, One Year On: Occupy METI” betitelt war. Der Journalist Obe Mitsuru beschreibt darin eingangs eine Szenerie, in der auf einem kleinen Eckplatz direkt vor dem mächtigen Ministerium für Ökonomie, Handel und Industrie (METI) im Tôkyôter Regierungsbezirk  Kasumigaseki ein vergleichsweise „wackeliges Zelt“ steht, geschmückt mit bunten Bannern und Plakaten, auf denen Japans Ausstieg aus der Atomkraft gefordert wird. Mit einem „Welcome to ‘Occupy METI,’ Japan’s take on Occupy Wall Street“ (OWS) leitet Obe dann zum Hauptteil seines Artikels über. http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2012/03/10/march-11-one-year-on-occupy-meti/

Nun, genau gesagt, sind es mittlerweile drei Zelte, die dort – gar nicht „wackelig“ – stehen; und auch das Gleichnis, ‚Occupy METI‘ sei eine Anlehnung an OWS, ist zumindest dahingehend zu präzisieren, dass mit dieser etwas später auftauchenden Bezeichnung zwar sehr wohl ein Bezug zu den New Yorker Ereignissen in Herbst 2011hergestellt worden ist. Die Belagerung des Platzes vor dem mit der Atomwirtschaft besonders eng verbundenen METI aber hatte bereits wenige Tage vor dem 17. September – dem Beginn von OWS –, am 11. September begonnen. An jenem Tag waren genau sechs Monate seit „3.11“ vergangen, weshalb verschiedene Protestaktionen in Tôkyô (aber auch in anderen Teilen des Landes) stattfanden: Eine Menschenkette sollte das METI einkreisen, was auch gelang; im Subzentrum Shinjuku war eine weitere Genpatsu Yamero-Demonstration („Schluss mit den AKW“) mit anschließender Kundgebung geplant, ca. 20.000 Menschen nahmen daran teil; und direkt vor dem METI traten vier junge Leute unter der Losung „Nachdenken über die Zukunft“ in Front vom METI in einen Hungerstreik. Sie waren extra aus Kaminoseki  (Präfektur Yamaguchi) angereist, wo gegenüber der Insel Iwaishima in der zu den schönsten Landschaften Japans gehörenden Inlandsee (Setonaikai) bereits seit Anfang der 1980er Jahre ein AKW errichtet werden soll, was lokale Atomkraftgegner lange Zeit verhindern konnten. Als dann Anfang 2011 mit Aufschüttungsarbeiten begonnen worden war, ereignete sich jedoch die AKW-Erdbeben-Katastrophe von Fukushima Daiichi, woraufhin das Vorhaben erneut auf Eis gelegt wurde. Vom Tisch ist der geplante Bau allerdings bis heute nicht, zumal laut Energieplan der jetzigen nationalkonservativen LDPJ-Regierung unter Abe Shinzô Atomstrom auch in Zukunft eine „Grundlastenergiequelle“ bilden soll (20-21% bis 2030).

Fuchigami Tarô渕上太郎(*1942) erinnert sich (vgl. in Oguma 2013: S. 79-82), dass ihm und einigen anderen Teilnehmern der Menschenkette plötzlich die Idee gekommen sei, doch nicht einfach wieder auseinanderzulaufen, sondern dass es eines realen Raumes bedürfe, um der Anti-AKW-Bewegung zu mehr Kontinuität zu verhelfen. So sei noch am gleichen Abend – auf besagtem Eckplatz – ein erstes, sechs tsubo (reichlich 18m²) großes Zelt errichtet worden, in Nachbarschaft zu den vier jungen Leuten, die sie als eine Art Enkelgeneration wahrgenommen hätten. Letztere haben insgesamt 10 Tage, bis zum 19. September, ausgeharrt, während die wesentlich älteren „Zeltleute“ – unter ihnen auch (wie Fuchigami) ehemalige Kämpfer gegen den Sicherheitsvertrag mit den USA, deren durchaus auch radikale politische und soziale Protesterfahrungen bis in die 1960er und 1970er Jahre zurückreichen – nach einigen Beratungen sowie Verhandlungen mit Beamten des METI beschlossen haben zu bleiben . Sie  stellten einen Antrag auf Erlaubnis der Nutzung des staatlichen Bodens. „Auf diese Weise wurde der Zeltplatz vor dem METI in Kasumigaseki , mitten in der Hauptstadt – eben dort, wo sich alle Ministerien und Behörden dicht aneinanderreihen – zu einer Willenserklärung des Protestes gegen die Befürworter von Atomkraft, also gegen TEPCO als Verursacher der Havarie im AKW Fukushima Daiichi und gegen den Staat in Gestalt des METI.“ (80) Einen guten „Rundumblick“ über das Areal, in dem Tento hiroba liegt – eine vielbefahrene und sonst vor allem von Beamten und Geschäftsleuten frequentierte Straßenkreuzung – bietet die folgende knapp eineinhalbminütige Videosequenz von „Voicesofprotest“ aus YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=WcMag_O45Tc ). Der offizielle Name des Camps lautet seither  Datsu/Han-genpatsu keisanshô-mae tento hiroba (kurz: Tento hiroba): „Zeltplatz vor dem METI gegen AKW/für den Ausstieg aus der Atomkraft“.

In wenigen Tagen wäre dort der bereits in Vorbereitung befundene 5. Jahrestag begangen worden – wenn nicht in einer Nacht- und Nebelaktion der Polizei und staatlicher Behörden in den Morgenstunden des 21. August 2016 in nicht einmal zwei Stunden das Lager geräumt und damit der weltweit längsten „Occupy“-Aktion ein Ende bereitet worden wäre. Es war diese der 1807. Tag seit Beginn der Besetzung, ein Tag, an dem sich, wie einer meiner Studenten in Erfahrung bringen konnte, einige der Aktivisten in Fukushima aufhielten, um dort an verschiedenen Veranstaltungen teilzunehmen – was darauf hindeutet, dass die Planer der Räumung über die Aktionen der (vermutlich rund um die Uhr beobachteten) Zeltbewohner Bescheid wussten. Und es war auch der Abschlusstag der Olympischen Spiele in Rio, an dem die ohnehin große Aufmerksamkeit der Bevölkerung und der Massenmedien sich Stunden später noch einmal auf einen besonderen Höhepunkt richten wird: auf die Abschlussveranstaltung, bei der nicht nur die Olympische Flagge an Koike Yuriko überreicht wird, also an die gerade neu gewählte Gouverneurin von Tôkyô, dem Austragungsort der 2020er Spiele. Es wird auch Premier Abe Shinzô auftauchen, der als „Superma-Rio“ verkleidet ist und – vom Kasumigaseki-Regierungsviertel kommend – via Subzentrum Shibuya durchs Erdinnere mitten ins Maracana-Stadium gebeamt wird. Dort hält er einen roten Ball in der Hand, den er nach einer furiosen Laser-und Tanzshow in die Hände japanischer Olympiateilnehmer legt und mit ihnen gemeinsam ruft: „See you in Tôkyô!“. Ein Gruß, der als Schriftzug auch in der Spielfeldmitte  erscheint, darüber die illuminierte Silhouette der Megalopolis mit dem „heiligen“ Weltkulturerbe Fuji-san, dem Fuji-Berg, im Hintergrund (leider ist diese YouTube-Videosequenz aus urheberrechtlichen Gründen nicht mehr abrufbar).

Doch lange bevor dieser Gruß aus dem virtuellen Tôkyô auch über die Bildschirme japanischer Zuschauer flimmerte, waren – ebenfalls dank Hightech und der Neuen Medien – bereits erste Protestaktionen gegen die sehr reale Zwangsräumung im realen Tôkyô im Gange, auch wenn diese sich von der Zahl der Teilnehmer in Grenzen hielten. „Ein Gefühl tiefer Enttäuschung, des Verlustes geht einher mit stillem Zorn. Der Gedanke, etwas Unersetzbares verloren zu haben, Trauer, die wohl nicht so schnell verschwinden, nicht zu trösten sein wird, und von der ich auch nicht möchte, dass sie verschwindet. Ich schaue auf die kalt und hoffnungslos aussehenden Mauern der Macht, und möchte doch diesen Anblick nicht vergessen. Das bleibt als Erinnerung tief in mir erhalten, war  vielleicht der Sinn für mich als Mitorganisator der Zelte.“ Das sind erste Reflexionen des Publizisten (und ebenfalls ehemaligen studentischen Aktivisten der 1960er/70er) Mikami Osamu三上治 (*1941), die er an den Tagen 1 und 2 nach den 1807 Tagen im „Zelt-Tagebuch“ (Tento nikki, vgl. hier: http://tentohiroba.tumblr.com/ ) niederschreibt. Ja – das ist die neue Zählung von Aktivisten wie Mikami, die von Beginn an dabei waren – und deren Sicht ist es vor allem, die ich in diesem kleinen Text referiere. Wurde also vom 11.9.2011 an die Zeit in Tagen gemessen, die das Lager bestand (und zwischendurch auch in Tagen, an denen ganz Japan atomstromfrei ist und war) , so wird nun in „Tagen danach“ gezählt. Und es sind keineswegs nur solch verhalten-nachdenkliche, in die vergangenen knapp fünf Jahre zurückschauenden Einträge, die das Tagebuch nun bestimmen, sondern schon wird zu den nächsten Aktionen aufgerufen, die an das, was bisher geleistet wurde, unmittelbar anknüpfen. So wird am „Tag 5 danach2 (26.8.2016) davon berichtet, was seit dem Tag 1807 (bzw. 1 danach) eben dort passiert, wo bislang die Zelte gestanden haben, nun aber eine mit grünen Blättern bemalte Absperrung errichtet wurde: Sit-ins, Gesprächsrunden im Stehen, Ansprachen von den Zelt-Aktivisten selbst (von denen einer den originellen Gedanken äußert, dass die Zelte zwar beseitigt wurden, die AKW ja aber noch nicht, weshalb nun wohl nichts anderes übrig bleibe, als dass jede, jeder einzelne nun selbst zum Zelt werden und bleiben müsse), aber auch Beiträge von Leuten, die  „Occupy METI“ in der einen oder anderen Weise unterstützt haben. Auch der Bauer Yoshizawa Masami吉沢正巳 (*1954) kommt aus seiner nur 14 km vom havarierten AKW Fukushima Daiichi entfernt in der  „No go-Zone“ gelegenen „Farm der Hoffnung Fukushima“ (Kibô no bokujô Fukushima) angereist, wo er auch nach „3.11“ mit seinen etwa 300 kontaminierten Rindern lebt und sich weigert, die Tiere notschlachten zu lassen, wie die Regierung es ganz nach dem Motto „Was stinkt – Deckel drauf“ per Dekret eigentlich verordnet hatte (vgl. auch Richter 2013: 407-411). Ausführlich – in Form von Live-Video-Mitschnitten – informiert über diese Aktivitäten das unabhängige und alternative Live-Stream-Medium „Independent Web Journal“ (IWJ) von Iwakami Yasumi岩上安身 (*1959) und seinem Team, das am 21.8. ab etwa 9 Uhr vor Ort filmte; siehe hier: http://iwj.co.jp/wj/open/archives/326652 ; http://iwj.co.jp/wj/open/archives/326859 . In einer auf YouTube auch einzeln zugänglichen Sequenz der IWJ-Dokumentation (https://www.youtube.com/watch?v=gQ_ISk8jWr8) kann man Yoshizawa auf seiner „Nostalgie-Kuh“ (bôkyô no ushi) sitzen sehen – eine drahtige Skulptur, die er von der Künstlerin Tomotari Mikako (*1965) 2012 geschenkt bekommen hatte und mit der er seither an Anti-AKW-Demonstrationen auch in Tôkyô teilnimmt, stets mit einem Abstecher zum „Occupy METI“.

Umringt von zahlreichen Polizisten, versucht Yoshizawa die im doppelten Sinne aufgeheizte Atmosphäre zu beruhigen, bevor er von seiner „Nostalgie-Kuh“ heruntergezerrt wird. Später von einem IWJ-Mitarbeiter interviewt, erzählt er, dass er natürlich am kommenden 11. September am (bereits vor dem 21.8.) geplanten „AKW-Ausstiegs-Wut-Festival“ (Datsu-genpatsu 9.11. ikari no festibaru) partizipieren werde, dafür habe er jetzt auch seine Kuh mitgebracht, die er dann in einen Mikoshi – einen tragbaren Schrein – verwandeln und mit ihr durch die Straßen prozessieren werde. Und im Hintergrund hört man ein knarzendes Saxophon, auf dem der auch als Punk- Rocker und DJ bekannte Kamuro Tetsu (alias Kaenbin (=Molotov) Tetsu, der auch die oben erwähnte Zelt-Idee äußerte http://fukusimatotomoni.blog.fc2.com/ ) „We shall overcome“ spielt.

Mit diesen wenigen Impressionen soll gezeigt werden: Die Aktionen gehen weiter, und zwar in der Weise, die auch bisher prägend gewesen war. Der schon mehrfach erwähnte Zorn (ikari) ging und geht stets auch mit einer Prise Humor einher; es wurde und wird diskutiert, gestritten, musiziert. Im Laufe der knapp fünf Jahre wurde zudem gemeinsam gekocht und gegessen, auch getanzt, geweint, getrauert – um verstorbene Aktivisten und Aktivistinnen. Mikami  Osamu fasste, als das Zeltlager 500 Tage alt wurde, das Leben dort in seinem Bericht „Fast zwei Jahre: Der Zeltplatz an der Ecke vor dem METI (3)“ (Keisanshô no ikkaku ni datsu-genpatsu tetnto sonzoku shiteiru (3)) folgendermaßen zusammen. „Viele Leute kommen her, um sich auszutauschen, treffen sich hier. Auch Versammlungen finden häufig statt, und traditionelle Tänze wie der „Kansho odori“ werden aufgeführt. Auch unschöne Dinge geschehen. Mal herrscht eintöniger Alltag, dann wieder passiert etwas und bringt alles durcheinander. Hier ist ein wirklich unbeschreiblicher Raum (Platz) entstanden … Mag sein, dass das nichts als unsere Sehnsüchte sind, doch ich jedenfalls empfinde es so.“ http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E7%B5%8C%E7%94%A3%E7%9C%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A7%92%E3%81%AB%E8%84%B1%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E5%AD%98%E7%B6%9A%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%883%EF%BC%89 .

Zu den unschönen Dingen gehören sicher die Provokationen von rechtsextrem-nationalistischen und AKW befürwortenden Kräften, die mit ihren schwarzen, mit Mega-Lautsprechern bestückten Autos immer mal wieder aufkreuzen und Drohungen ausstoßen (zuletzt am 14.8., worüber auch IWJ berichtete, vgl. hier: http://iwj.co.jp/wj/open/archives/325531 ), zuweilen auch handgreiflich werden würden, würde nicht die Polizei zwischen beide Fronten gehen.  Und sicher gehört auch die gerichtliche Klage dazu, die die staatliche Behörde gegen zwei der „Okkupanten“ (neben Fuchigami auch gegen Masakiyo Taichi 正清太 (*1938) erstmals Ende März 2013 erhoben hat. Auch jetzt stehen noch und wieder jene Schilder vor der errichteten Absperrung, auf denen zu lesen ist: „Staatseigenes Land. Betreten für Unbefugte verboten“ (Kokuyûchi – kankeisha igai tachiiri kinshi). Da die Aktivisten als Unbefugte gelten (das heißt, ihrem Antrag auf Nutzungserlaubnis wurde nie stattgegeben) haben sie dieses Verbot verletzt und müssen sich wegen widerrechtlicher Besetzung staatlichen Landes vor dem Obergericht Tôkyô juristisch verantworten – die Räumung des Platzes wird gefordert und eine Schadenssumme in Höhe von ca. 33 Mio. Yen (= knapp 290.000 Euro; pro Tag 21.917 Yen = 292 Euro). Unterstützt von zahlreichen Rechtsanwälten wehren sich die Angeklagten natürlich gegen diese Vorwürfe und führen immer wieder die Gründe an, mit denen sie ihr widerständiges Handeln rechtfertigen. Denn was heißt schon „unbefugt“? Mit ihren Aktionen wollen sie auf das unverantwortliche Handeln des Fukushima Daiichi-AKW-Betreibers TEPCO wie auch des Staates/METI im Gefolge des Supergaus aufmerksam machen. Tento hiroba sei zu einem Ort geworden, an dem sich all jene treffen können, die den Ausstieg aus der Atomkraft verwirklichen wollen; ein Ort, an dem die Gedanken und Empfindungen der Menschen zusammenkommen, die aufgrund der Havarie haben fliehen müssen und die es in alle Winde zerstreut hat; ein Ort, der einer nach Tôkyô evakuierten Frau aus Fukushima zur „zweiten Heimat“ geworden sei – so ist es zu lesen auf der Homepage http://tentohiroba-saiban.info/ , die Materialien und Informationen über den laufenden Prozess und den Widerstand dagegen bereitstellt.

In der Tat ist der „Zeltplatz“, ist „Occupy METI“ seit dem 11. September 2011 zu einem zentralen Ort, zu einem Knotenpunkt der Anti-AKW-Proteste geworden, die bereits seit April des gleichen Jahres anschwellten und seither andauern. Über sie berichtet der Dokumentarfilm „Tell the Prime Minister“ des japanischen Soziologen Oguma Eiji小熊英二 (*1962) – mittlerweile selbst Aktivist –, der zu Beginn des Jahres 2016 auch in verschiedenen deutschen und europäischen Städten zu sehen war (vgl. auch das von Oguma 2013 auf Japanisch herausgegebene Buch „Leute, die die AKW stoppen. Von 3.11 bis zu den Protesten vor der Residenz des Premiers“, das auch Fuchigamis obigen Bericht enthält). Zu einem solchen rebellischen Raum konnte er sich dank des Zusammenwirkens der folgenden drei Momente konstituieren

  1. Die Präsenz und die verschiedenen Aktivitäten der „Okkupanten“ selbst, die sich in ihrer Anwesenheit einander abwechselten und so dafür sorgten, dass die Zelte stets, Tag und Nacht, bei Hitze und Kälte, während Taifunen und Erdbeben, besetzt waren: zunächst Zelt 1, seit Ende 2012 Zelt 2 als das „Atomkraft, nein danke!-Frauenzelt: an der Seite von Fukushima“, und 2013 kam ein drittes hinzu.
  2. Von ebenso großer Bedeutung sind die vielen in- und ausländischen Besucher der Zelte, die an diesem Ort aus unterschiedlichen Motiven zusammenkamen und mit ihren sehr verschiedenen Ideen, Aktivitäten und (finanziellen, logistischen, Ess- und Trinkwaren-) Unterstützungen dessen Langlebigkeit überhaupt erst ermöglichten. Am lebendigsten war, ist, und wird es wohl sein an den Freitagen, an denen viele Teilnehmer ´vor oder nach dem „Freitagsprotest vor dem Amtssitz des Premierministers“ (Kinyôbi kantei-mae kôgi) einen Abstecher auch zum nahegelegenen Zeltplatz machen. Diese Protestaktion fand erstmals am 29. März 2012 und dann seit dem 6. April freitags zwischen 18 Uhr und 20 Uhr statt, seither Woche für Woche um die gleiche Zeit – über die Zahl der Teilnehmer gibt die eine Homepage Auskunft, die von den Organisatoren Metropolitan Coalition Against Nukes  betrieben wird: http://coalitionagainstnukes.jp/?p=6199 ). Auch die künstlerische Komponente ist zu erwähnen, die zur Anziehungskraft des Platzes beitrug. So verwandelten die Frauen von Zelt 2 ihr Domizil Anfang Dezember 2015 zugleich in ein „Anti-nuclear Tent Museum“ (Han-genpatsu bijutsukan)  um, in dem schon wenige Tage später, am 19. Dezember, ein „Anti-Atom(bombe wie auch –kraftwerk)-Holzschnitt-Workshop“ veranstaltet wurde, organisiert und durchgeführt vom “A3BCollective/ Anti-War, Anti-Nuclear and Arts of Block-print Collective”, Illcommonz, Misato Yugi und anderen Künstlern. Die dabei entstandenen Werke wie auch alle anderen Artefakte des Museumsbestandes wurden am 21.8. ebenfalls von den Räumungsvollstreckern mitgenommen und einer Zwischenlager-Firma übergeben. Werden die Dinge innerhalb eines Monats nicht abgeholt, würden sie versteigert – meldet die Facebook-Seite des Museums am 27.8. (10:35 https://www.facebook.com/antinuketent2015/ );
  3. Neben diesen beiden Formen der „physischen“ Präsenz spielt zudem die mediale Präsenz von Tento hiroba eine zentrale Rolle. Das Internet-(online-)Tagebuch wurde bereits erwähnt, hinzuzufügen ist vor allem auch der TV-Sender Aozora („Blauer Himmel“), der wesentlich von der Journalistin Matsumoto Chie 松本ちえgeprägt wurde. Wie vom Namen angedeutet, geht dieses Livestream-Fernsehen „unter freiem Himmel“ über den Äther – erstmals am 14. September 2012 und dann über Monate hinweg (fast) jeden Freitag ab 16 Uhr. Das ermöglichte Interessenten in Japan wie auch außerhalb, live vom Zeltplatz aus über aktuelle und / oder länger laufende Anti-AKW-Aktivitäten im ganzen Land informiert zu werden und Hintergrundwissen dazu zu erfahren – je nachdem, wer vor die Kamera geladen war und berichtete. Und wie die spontanen Protestaktionen unmittelbar nach der Zwangsräumung am 21.8. zeigen, sind natürlich auch die sozialen Netzwerke wie Twitter, Facebook oder Mixi unverzichtbar für die Alltagskommunikation und damit den Bestand dieses umkämpften Raumes mitten im Regierungsviertel.

Ich fasse einstweilen zusammen – mit dem wohl überflüssigen Hinweis darauf, dass eine Analyse des Tento hiroba in seiner zeitlichen Gesamtheit, seiner Bedeutungsvielfalt, einschließlich der eben erwähnten medialen Quellen (unter denen das Tagebuch wohl die größte Herausforderung bildet), aussteht. Eine Analyse, die aber zweifellos eine lohnenswerte und notwendige Aufgabe darstellt, denn die Aktivitäten des „Frauenzeltes“ etwa wurden hier noch gar nicht berührt bzw. in den Blick genommen:

Vor knapp 50 (1967) Jahren erschien Henri Lefebvres inzwischen zum Klassiker gewordene Schrift „Recht auf Stadt“. Es war dies eine Zeit, in der Leute wie Mikami, Fuchigami oder Masakami mit Helmen und Knüppeln auf die Straße zogen und sich dort sowie in den Universitäten verbarrikadierten, um sich vor der Bereitschaftspolizei zu schützen; in der sie sich in den Dienst des proletarisch-antikapitalistischen Kampfes verschiedener radikaler Organisationen stellten. Auch darüber reflektieren sie im Tento hiroba-Tagebuch, diskutieren sie untereinander und mit Besuchern. Tento hiroba ist ein Forum, ein Ort, an dem Demokratie verteidigt und der Stimme „des Volkes“ Raum gegeben werden soll. Es geht, so Fuchigami, auch um die Verteidigung des Artikels 12 der japanischen Verfassung, der da lautet: „Das Volk wird unablässig bestrebt sein, die durch diese Verfassung garantierten Rechte und Freiheiten aufrechtzuerhalten. Es wird sich jeden Mißbrauchs dieser Rechte und Freiheiten enthalten und immer dafür verantwortlich sein, daß sie im Interesse des öffentlichen Wohles wahrgenommen werden.“ Fuchigami fährt fort: „Die Zelte zu errichten und den Willen zum Protest Ausdruck zu geben, eben das ist unserer Meinung nach unablässiges Bestreben des Volkes, Recht und Freiheit aufrechtzuerhalten.“ (81). Dafür einen zentralen Ort, einen Raum zu konstituieren, wo den verschiedenen Forderungen der AKW-Gegner immer wieder Gehör verschafft wird, ist auch eine wichtige Praktik, Recht auf Stadt und ein gutes Leben darin zu beanspruchen. Möge es auch weiterhin – ganz im Sinne von Kamuro Tetsu – viele Zelte geben.

Literatur:

Fuchigami, Tarô: „Keisanshô-mae tento wa gôhôsei o mezasu“. [Die Zelte vor dem METI streben nach Legalität]. In: Oguma Eiji (Hg.): Genpatsu o tomeru hitobito – 3.11 kara kantei mae made [Leute, die die AKW stoppen. Von 3.11 bis zu den Protesten vor dem Amtssitz des Premiers]. Tôkyô: Bungeishunjû, 2013, S. 79-82.

Richter, Steffi: „‘Fukushima‘. Wissen er/fahren: Vor Ort“. In: Gebhardt, Lisette/Richter, Steffi (Hg.): Lesebuch „Fukushima“. Übersetzungen, Kommentare, Essays. Berlin: EB-Verlag Dr. Brandt, 2013, S. 400-421.

(Mit Erlaubnis der Autorin etwas gekürzte Fassung)[:]

3月11日に思う。

[:ja]今日は3月11日。

東日本大震災の被害にあわれた方々のことを思います。

私は震災直後、かつて働いていたNGOに3か月間の助っ人として緊急援助チームに加わるため日本に帰りました。ベルリンから日本に向かう飛行機の中で「私のふるさとの国はどうなってしまうのか」と日本の新聞を涙を流しながら読んだこと、現地に向かい津波がすべてをさらった場所に初めて立った時の衝撃は今でも忘れられません。

緑の山を抜けるといきなり広がった光景(南三陸・筆者撮影)
緑の山を抜けるといきなり広がった光景(南三陸・筆者撮影)

福島第一原発事故が発生し、米国に本部のあるそのNGOは、活動は原発から80㎞以上離れていなければならない、という指示が出ました。当時原発や放射能についての知識がそれほどなかった私は、歯がゆい思いをしたものです。

あれから5年。2013年に友人と一緒にSayonara Nukes Berlinを結成してベルリンで反原発のデモを初めて行い、仲間が増えて様々な活動を通して勉強するにつれ、原発がいかに倫理に反しているか、原発に頼らない未来をめざさなければならないことを深く思うようになりました。 続きを読む 3月11日に思う。

大切なあなたの一票を海外から届けよう―在外選挙の呼びかけ

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日本国外在住のみなさん、在外選挙人登録はもうお済みですか?

※2016年に書かれた記事ですが、記事の終わりにある在外選挙を呼びかけるためのフライヤーをいつでもどこでも配布できるよう更新してあります。ぜひご活用ください。今回が間に合わなくとも、この機会にぜひ在外選挙への登録を。(2017年更新)

今年2016年の夏(6月下旬以降)に参院選があります。この参院選は、連日ニュースで伝えられているとおり、野党共闘初の選挙となり、自民・公明とそれ以外の党というかたちで二つの選択肢が明確に提示される選挙になります。私たちベルリン在住の日本人グループSayonara Nukes Berlin(SNB)は、今度の参院選を前に、みなさんにぜひ在外選挙制度を活用していただくよう呼びかけています。

今回の参院選で自公が2/3以上の議席を占めることになれば、憲法改正が現実となってきますし、川内原発や高浜原発につづいて他の原発も再稼働される可能性が出てきます。日本の未来がどうあってほしいか、今回の選挙を機会に海外からあなたの意思を票にのせて送りましょう。

申請から在外選挙人証を受け取るまでに2~3か月かかります。まだお持ちでない方は、ぜひ今から準備をし、夏の参院選に備えましょう。

申請の流れ(総務省ホームページより)

http://www.soumu.go.jp/senkyo/pdf/061025_02.pdf

在外選挙関連申請書一覧(外務省ホームページより)

http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/senkyo/shinseisyo.html

さらに詳しい情報は下記Q&Aでチェック!

Nさん(81歳・ドイツ在住43年)のおはなし

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『1970年代ドイツで「海外在住の日本人にも投票のチャンスを」という運動を一人で始め、日本に一時帰国した時に当時の自治省の担当者などに会って希望を伝えましたが、何年も何も起こりませんでした。そのずっと後になって、アメリカ在住の大勢の日本人の運動が実り、2000年から海外の日本人も投票できるようになりました。なかばあきらめていた私はすごく喜び、以来1度も棄権したことはありません。私たちは一票で日本の政治につながっているわけですから、この権利を海外でも行使するのはとても大切だと思っています』

 

在外選挙Q&A

Q. 日本と出てくるときに転出届をだしていないのですが、在外選挙人証を取得することができますか?

A. ①在外選挙人証を取得するには、まず市区町村役場に転出届を提出し、日本での住民登録を除籍しておく必要があります。転出届を行わないと日本国内の選挙人名簿に登録されたままとなるため、在外選挙人名簿に登録できません。

②転出届けは代理人でも可能です。代理申請に必要な書類は:

1.パスポートのコピー(出国した日付が確認できるページと、本人確認ができるページ)

2.出国してから14日以上たってしまった場合は、遅れた理由を一筆書いたもの(原則として、1年以上転出する場合は、転出届を出すのが義務なため。)

3.同じ世帯同居人が代理ではなく、一人暮らしだった場合、代理人は上記の書類のほか申請者の委任状の提出が必要。(様式は各市町村のホームページなどでダウンロードできます)

Q. 移転先でまだ在留届を出していないのですが。

A. 在外選挙人登録申請には、在住の地域を管轄する日本大使館または領事館等に「在留届」が提出されている必要があります(オンラインでも簡単に届け出ることができます)。在外公館に出向いて在留届を提出する場合、一緒に在外選挙証を申請することができます。

在留届について(在独日本大使館ホームページより)

http://www.de.emb-japan.go.jp/nihongo/konsular/001zairyu.html#zairyu

Q. 国民年金を払い続けるために、日本に住民票を置いてきたのですが。

A. 日本に住所がなくても国民年金を払うことができます。転出届を出す前に、年金課で「任意加入」の手続きをすれば可能です。

Q. 在外選挙人登録申請は郵便でもできますか?

A. パスポートの提示など本人確認が必要ですので、必ず本人が在外公館に出向く必要があります。

この他にもご質問などありましたら、どうぞお気軽に、sayonara-nukes-berlin@posteo.net までお送りください。

在外選挙呼びかけフライヤーを印刷用にダウンロードする ↓

在外選挙制度2017 呼びかけ更新版_表

在外選挙制度活用の呼びかけ_裏

 [:]

被爆、終戦70年、現在、そして未来

[:ja]「兵隊が姉の遺体を竹棒でつつきながら焼くところを見ても、涙が一滴も流れず、自分が非情な人間に思えて自分を責め続け、このことがずっと私を苦しめることになった。」

被爆体験を語り継いでいる、カナダ在住のサーロー節子さんは、足の痛みを押して杖をつきながら被爆体験の証言をするためにドイツに来られ、講演の司会者に「広島の原爆を経験し、感情的にどのように乗り越えたのか」という質問に、冒頭こう答えた。

私は自分の持てる限りの想像力でそのときの節子さんの状況を心の中で思い描いてみた。

目を閉じてその光景を描き、自分の愛する家族と置き換えて考えてみた。

でもそれは、また次に訪れる日常の出来事にかき消され、痛みを共有できたように思えたのはほんの一時だった。

でも、節子さんは70年、その痛みとともに人生を送ってこられたのだ。

「ある精神科の専門家に、“人間は悲惨な出来事にあうと、その渦中を生き抜くために感情機能を一時的に遮断する。それは人間的に自然な現象なのだ” と聞いたとき、初めて罪の意識から解放され、自分が泣きたいだけ泣けるようになった」と節子さんは語る。

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ICAN主催のベルリンでの講演会で証言するサーロー節子さん

節子さんは戦後、母校広島女学院の恩師の勧めで、ソーシャルワーカーの学びをするために奨学金を得てアメリカに留学する。

到着してすぐ、広島から来た女学生ということでインタビューを受けたそうだ。

その時に、原爆投下を批判的に語った彼女の元に、たくさんのヘイト・レターが届き、渡米して早々傷つき、悲しみのスタートを切った。

しかしそれにくじけることなく、ソーシャルワーカーとしてキャリアを積み、同時に、生き残った者としての使命を感じて被爆体験と核兵器廃絶を訴えて国連本部を初め世界中で語ってきた。

その原動力とは何かと問われ、彼女はこう答えた。”Demonstrating faith through action” ― クリスチャンである節子さんは、行動を通して信仰を証するという信念が彼女を支えているという。

「世界で唯一の被爆国であり、フクシマ事故という大惨事を起こした日本が、原発を再稼動しようとし、また法案を作って再び戦争のできる国にしようとしている今の日本の状況をどう思いますか?安倍総理に手紙を書くとしたらどんなことを書きますか?」という質問が会場からあった。

「Wake Up! 目を覚ましなさい!そして嘘をつくのはおやめなさい。国民の命を守る政権が、権力と利権のために、国民の命を再び危機におとしめるようなことをしている。国民と十分に話し合わないうちにアメリカと約束をして、国民に不正直になり、憲法を守らず暴走するのは、国民の意思に反することだということに気づきなさい、と言いたい。」

心の底からふりしぼられたような声で節子さんは語った。

壮絶な過去の戦争体験を自ら語るのは簡単なことではない。

生き残った被爆者の方々でも沈黙を続けている人たちも多い。

過去を思い出すことがあまりにも辛いからだ。

だから、思う。

節子さんたち被爆者の方々は単に被爆という日本の戦争被害をアピールするために証言を続けているのではないと。

勇気を持って証言を語り続けるのは、懲りずに核兵器を持ち続けるこの世界へ警鐘を鳴らし、再び過ちを繰り返さず平和な未来をつくるためのミッションなのだ。

広島と長崎の原爆投下という過去を記憶し続けることも。

そのような証言を続ける人たちの努力とは裏腹に、日本はまた戦争に加担する道を歩もうとしている。

いくら後方支援とか国際貢献とか言っても、戦争は戦争だ。ひとたび始まってしまえば歯止めが利かなくなる。

過去の戦争責任をあいまいにしている日本が、再び戦争犯罪の歴史を塗り重ねるようなことをしていいはずがない。

終戦からもう70年、私たちにとっても、戦争の証言をじかに聞く機会はもうあまり残されていない。

私たちは自国の過去の被害だけでなく加害の歴史も直視して真摯に取り組み、「不戦の誓い」を貫くべきである。

もう”意図的な無知”を続けるのはやめて、声に出して語り合おう。

この日はアメリカ人プロデューサー、キャサリーン・スリヴァン さんの作品The Ultimate Wish – Ending the nuclear age-という映画も上映された。

映画ではアメリカで被爆体験を証言し、核兵器の恐ろしさを語り継ぐ長崎の被爆者の女性、フクシマ事故の被災者で避難した女性、また技術者や科学者の証言を通して、核の狂気に私たちは目をつむり続けてはいけないことを訴える。

映画の中である専門家は言う。「核兵器は原発とまったく同じ技術者、科学者でつくれてしまう。」

すなわち、原発を持つということは、核兵器を所持することに等しいのだ。

世界には17,000以上の核兵器があり、これは地球上の人類を滅ぼすに足る量であるという。

それに既存の原発を加えれば、どんなにおびただしい数の恐ろしい爆弾を抱えているかがわかる。

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サーロー節子さんと映画プロデューサーのキャサリーン・スリヴァンさん(中央)

ベルリン近郊ブランデンブルク州の州都であるポツダムは、ドイツが降伏したあと、アメリカのトゥルーマン大統領、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル首相が集い戦後処理を協議した有名なポツダム会談が行われた場所だ。(現在でも会談が行われたツェツェリエンホーフは日本語オーディオガイド付きで見学することができる。)

会談に出席するためポツダムに滞在していたトゥルーマン大統領は、1945年7月25日、宿舎となっていたポツダムの邸宅から、広島と長崎に原爆を落とすGoサインを出したのだ。

2010年、トゥルーマン大統領が宿としていたポツダムの邸宅前の公園に、原爆犠牲者の慰霊と核兵器のない平和な世界を願って、広島から送られてきた被爆石と石碑が築かれ、ヒロシマ・ナガサキ広場と名づけられた。

広島と長崎に原爆が投下されて70周年でもある今年の7月25日、ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場では被爆者の慰霊式典と灯篭流しが行われる。(詳細は下記ヒロシマ広場をつくる会のホームページをご覧ください。)

異国の地ドイツでも、広島・長崎の原爆のことが覚えられている。

なぜなら、これは現在進行形の人類全体に対する脅威の問題だ、とドイツ人も認識しているからなのだ、と思う。

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ヒロシマ/・ナガサキ広場の慰霊碑に花をささげる節子さん

★サーロー節子さんの証言全文はHibakusha Storiesというサイトで読むことができます。また朝日新聞デジタルにその日本語訳が掲載されていますので、ぜひご一読ください。

Hibakusha Stories

http://www.hibakushastories.org/meet-the-hibakusha/meet-setsuko-thurlow/

広島・長崎の記憶 - 被爆者からのメッセージ(朝日新聞デジタル)

http://www.asahi.com/hibakusha/others/jogakuin/jogakuin-028j.html

The Ultimate Wish – Ending the nuclear age-

https://theultimatewish.wordpress.com/

ヒロシマ広場をつくる会 ホームページ

http://www.hiroshima-platz-potsdam.de/jp/aktuellesjp.htm

写真提供 International Campaign to Abolish Nuclear Weapons(ICAN) Germany

http://www.icanw.de/[:]

秘密保護法案と今後の問題を考える。

今日本で秘密保護法案が国会を通過しようとしています。これに対して各界から反対の声が上がっていますが、何が問題となっているのでしょうか。この法案は基本的に国の防衛機密を守ることを目標に掲げているのですが、その規定が曖昧なため、表現の自由、報道の自由などが侵されるのではないかという危惧があるのです。少し具体的に説明しますと、国家の安全を守るために各行政機関は政令を出して、機密にかかわる事柄や仕事を期限付きで指定し、それを警察庁が法に基づいて監視するという体制ですね。この法に抵触すると、重い場合は10年の懲役刑が課せられます。

問題は、この行政機関による機密事項の指定です。国家の安全を守るための特定機密という言葉はきわめて曖昧で、直接的な軍事戦略上の機密から、それに関連する事業内容も含まれます。たとえばわかりやすいところでは、沖縄の基地で何がおこなわれているのか。これを機密事項に指定することができます。軍需産業の内容ももちろん指定の対象です。今日の軍需産業のハイテク化を考えると、機密事項の範囲は相当に広がるでしょう。

そこで気になるのは、われわれが今問題にしている原発はどうなるのかということです。よく知られているように、原発の現場労働には非常に多くの、しかも重大な問題があります。これが機密事項の対象として指定されれば、ただでさえも闇に包まれている問題がさらに隠されることになります。現場の労働者が何かを訴えようとしても、処罰を受けることになりますし、その情報を受け取った側もやはり処罰の対象になります。つまり、今でさえも原発報道に尻込みをしているマスコミ、ジャーナリズムはもっと口をつぐんでしまうことになるわけです。

そこで疑問が湧きます。そもそも原発は国の安全を守る特定機密に当たるのだろうかという疑問ですね。そこで問題になるのがテロの防止という項目です。ヨーロッパでは常識化していますが、原発はテロの目標として考えられています。このテロ防止のために原発に関する情報を機密事項として指定する可能性は充分にあります。しかもこの指定は国会の議論を通してではありません。法案によると、各行政機関が各自の権限で指定することができるのです。経産省がこの法律を利用して原発報道を規制することは充分に考えられますね。

さらに問題なのは、機密事項に指定された事業にかかわる人物には厳格な適性評価がおこなわれるのですが、この場合本人だけではなく、その家族や同居人も調査されることになります。原発の場合で言えば、小出裕章さんや平井憲夫さんのように内部から告発をしてきたような人物を初めから排除することができるわけです。「原子力ムラ」がいっそう閉鎖的になるのは明らかです。(BK)

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電力供給の市民表決 Volksentscheid

volksentscheid2この日曜日に、ベルリンでは電力供給を電力会社から市民組織に移行させるか否かの選挙がありました。この選挙が成功すれば、今まで電力会社が牛耳っていた電力に関するすべてのプロセス(発電方法から組織としての管理まで)を市民が参加して決められる上に、100%再生可能なエネルギーをフェアに配分できるということで、私も非常に期待していました。
しかし・・・残念ながら選挙は失敗してしまい、ベルリン独自のエコなエネルギーの夢は消えてしまいました。それでも、今回の選挙から学ぶこと、得られたことはたくさんあると思うので、今回はそれについて書いてみたいと思います。

まず、こういう政治参加の形態があるということ自体、私はすごいと思いました。
今回のような選挙のことをドイツ語ではVolksentscheidといい、日本語だと住民(国民)表決、レファレンダムなどというようですが、ピッタリ来る日本語訳が思い浮かびません。そもそも、こういう形の政治参加は日本にはない、少なくとも一般市民の日常生活のなかで起こるイベントとしては稀なのではないかと思います。今回の選挙はベルリン市だけで行われたものなので、便宜上ここでは市民表決という言葉を使います。 続きを読む 電力供給の市民表決 Volksentscheid

ベクレルフリーライフのすゝめ。

[:ja]

横浜の市民測定所の創立者のおひとりである高雄先生から、ほとんどの食品の6割が測定不可・非検出を表す中、この半年の測定で汚染が目立ってきている食品についてお話しいただいた。なめこ、レンコン、銀杏、干し芋、大豆、タラ、栗などがそうだ。他に注意が必要なものは、山菜、タケノコ、淡水魚などがある。森の中の野生動物や植物等に未だチェルノブイリの被害の残るドイツを例に見ても、野山や森林では放射線汚染の被害が半永久的に循環され続けることがわかる。

麦・麦製品、米などに至っては、福島の作物に比べ神奈川の作物の被害が顕著に見られる。これは当時、神奈川の気温の方が東北に比べてあたたかく稲穂が開いていた事などが要因に考えられている。ただこれらは全てセシウムのみの測定結果で、人体に同じく深刻な被害をもたらし、カルシウムに置き換えられ骨にたまるストロンチウムは、その測定も、高価な機械の維持も難しく調査が追いついていない。ストロンチウムがセシウムほど飛距離を持たず、近郊に降り注いだであろう事は、多くの専門家の推測にも見られるのでご存じの方も多いかと思う。

チェルノブイリの被害報告にも、ナッツ系などの木の実、芋(干すことで上がる)などは例があるが、水産物においては海を持たないチェルノブイリは例にならない。タラということでは来場の主婦らからおでんなど加工された食品はどうかとの不安の声も上がった。

この他に日本の緑茶の汚染状況が問題に上がったが、ドイツでもチェルノブイリ以後、自国をはじめとするヨーロッパの一部の食品、中には60000Bqという検査結果を出したものもあったというトルコの紅茶、ドイツではおよそ80%がトルコからの輸入に頼っていると言われるヘーゼルナッツの汚染のその後にも不安が残る。セシウムの半減期は30年。30年を経ても半分の数値が残るということだ。ドイツの測定所は現在ミュンヘンに残る一か所で、放射線防護協会のデアゼー氏の話によると、ドイツでは既にこれらの調査は打ち切られているそうだ。同じく氏の話によれば、ドイツに輸入される日本食品は日本で定められた基準値が守られ、諸外国からの食品においてはドイツの基準値で輸入されるとあったが、報道によると現在ではドイツ水際での測定は5%とほとんどされていない。こうした中、高雄先生が話された通り、測定所ができる事は測定結果の発表をしていく事だけだ。数字を見て何を思うか、どう選択していくかはあくまで私たち個人の問題なのである。

先日は長男を連れて2週間ほどの一時帰国、日本は秋の味覚を楽しんでいる真っ最中であった。レストランや電車のつり広告にも、秋の味覚をうたった色とりどりのメニューが並ぶ。私にとっても好きな物ばかり。しかしながら不安とむやみにたたかう事を避け、話にあった食品をはじめ、水産物に至ってはまったく摂取を避けて過ごした。高雄先生のお話を聞き、全ての食品が汚染されているわけではないのだとわかり、気持ちが和らいだ。高雄先生も私たちも人々の不安をかき立て煽る事を目的として、こうした活動をしているわけではない。ゼロとはいくまいと思う。だが少しの知識と努力で回避できる事は多い。住んでいればこんなことはやっていられないはずとあきらめないで欲しい。私もここ、ヨーロッパはドイツに居住をおいても気を付けている食品のキーワード群がある。チェルノブイリの汚染も未だ終わってはいないのだ。

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滞在中、妹夫婦に連れられて港北のセンター北にある自然食品を扱う「ナチュラル&ハーモニック レストラン&カフェ コア」(http://www.naturalharmony.co.jp/coa/20110927coaLP.html)にて、話には聞いていたベクレルフリーなディナーをご馳走になった。多彩な調理方法で自然栽培された野菜それぞれの味が生きたこちらのワンプレートは、視覚にも美しく、大変おいしかった。何より、滞在中に食べたどの名店の食事より、心安らかに味わえた。このレストランに併設されたショップでは、非検出、もしくは基準値以下の検出を全て明らかにした野菜や果物、スイーツも各種販売される。詳細はHPにてご確認いただきたい。(http://www.dreamnews.jp/press/0000047660/

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一部の企業の宣伝をするつもりはないのだが素直に嬉しいと感じたので、数年前から首都圏での人気を博した男前豆腐店(http://otokomae.jp/index_jpn.html)。直営店でなくとも巷のスーパーに商品が並ぶようになり、いずれもおいしく、パッケージも洒落ている。本社を京都に構えるこの豆腐会社の商品ラベルに放射能検査済み“の文字。HPではゲルマニウム半導体検出器検査結果の詳細を紹介している。こうした各社の真摯な企業努力に惜しみなく応援と感謝の意を表したい。

高雄先生のお話では、食事会の開催などベクレルフリーレストランを応援するも、だからと言って店に来客が増えるなどの反響が少ないため、努力してくれる店舗の拡大を妨げているようだ。私の周囲にも日頃から気を遣い、通販の野菜などの購入に踏み切った家庭も少なくないが、やむなく一般のレストランで食事する例が多い。お近くのベクレルフリーレストランで、家族そろって心からおいしい食事を楽しんでいただきたいと思った。私たちがこうした選択をする事は、真のベクレルフリーライフにつながりはしないだろうか。R

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・横浜市民測定所 http://www.ycrms.net/

・日本全国での測定結果の統合を目指すフォーラム http://minnanods.jimdo.com/

[:en]横浜の市民測定所の創立者のおひとりである高雄先生から、ほとんどの食品の6割が測定不可・非検出を表す中、この半年の測定で汚染が目立ってきている食品についてお話しいただいた。なめこ、レンコン、銀杏、干し芋、大豆、タラ、栗などがそうだ。他に注意が必要なものは、山菜、タケノコ、淡水魚などがある。森の中の野生動物や植物等に未だチェルノブイリの被害の残るドイツを例に見ても、野山や森林では放射線汚染の被害が半永久的に循環され続けることがわかる。

麦・麦製品、米などに至っては、福島の作物に比べ神奈川の作物の被害が顕著に見られる。これは当時、神奈川の気温の方が東北に比べてあたたかく稲穂が開いていた事などが要因に考えられている。ただこれらは全てセシウムのみの測定結果で、人体に同じく深刻な被害をもたらし、カルシウムに置き換えられ骨にたまるストロンチウムは、その測定も、高価な機械の維持も難しく調査が追いついていない。ストロンチウムがセシウムほど飛距離を持たず、近郊に降り注いだであろう事は、多くの専門家の推測にも見られるのでご存じの方も多いかと思う。

チェルノブイリの被害報告にも、ナッツ系などの木の実、芋(干すことで上がる)などは例があるが、水産物においては海を持たないチェルノブイリは例にならない。タラということでは来場の主婦らからおでんなど加工された食品はどうかとの不安の声も上がった。

この他に日本の緑茶の汚染状況が問題に上がったが、ドイツでもチェルノブイリ以後、自国をはじめとするヨーロッパの一部の食品、中には60000Bqという検査結果を出したものもあったというトルコの紅茶、ドイツではおよそ80%がトルコからの輸入に頼っていると言われるヘーゼルナッツの汚染のその後にも不安が残る。セシウムの半減期は30年。30年を経ても半分の数値が残るということだ。ドイツの測定所は現在ミュンヘンに残る一か所で、放射線防護協会のデアゼー氏の話によると、ドイツでは既にこれらの調査は打ち切られているそうだ。同じく氏の話によれば、ドイツに輸入される日本食品は日本で定められた基準値が守られ、諸外国からの食品においてはドイツの基準値で輸入されるとあったが、報道によると現在ではドイツ水際での測定は5%とほとんどされていない。こうした中、高雄先生が話された通り、測定所ができる事は測定結果の発表をしていく事だけだ。数字を見て何を思うか、どう選択していくかはあくまで私たち個人の問題なのである。

先日は長男を連れて2週間ほどの一時帰国、日本は秋の味覚を楽しんでいる真っ最中であった。レストランや電車のつり広告にも、秋の味覚をうたった色とりどりのメニューが並ぶ。私にとっても好きな物ばかり。しかしながら不安とむやみにたたかう事を避け、話にあった食品をはじめ、水産物に至ってはまったく摂取を避けて過ごした。高雄先生のお話を聞き、全ての食品が汚染されているわけではないのだとわかり、気持ちが和らいだ。高雄先生も私たちも人々の不安をかき立て煽る事を目的として、こうした活動をしているわけではない。ゼロとはいくまいと思う。だが少しの知識と努力で回避できる事は多い。住んでいればこんなことはやっていられないはずとあきらめないで欲しい。私もここ、ヨーロッパはドイツに居住をおいても気を付けている食品のキーワード群がある。チェルノブイリの汚染も未だ終わってはいないのだ。

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滞在中、妹夫婦に連れられて港北のセンター北にある自然食品を扱う「ナチュラル&ハーモニック レストラン&カフェ コア」(http://www.naturalharmony.co.jp/coa/20110927coaLP.html)にて、話には聞いていた”ベクレルフリー”なディナーをご馳走になった。多彩な調理方法で自然栽培された野菜それぞれの味が生きたこちらのワンプレートは、視覚にも美しく、大変おいしかった。何より、滞在中に食べたどの名店の食事より、心安らかに味わえた。このレストランに併設されたショップでは、非検出、もしくは基準値以下の検出を全て明らかにした野菜や果物、スイーツも各種販売される。詳細はHPにてご確認いただきたい。(http://www.dreamnews.jp/press/0000047660/)

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一部の企業の宣伝をするつもりはないのだが素直に嬉しいと感じたので、数年前から首都圏での人気を博した男前豆腐店(http://otokomae.jp/index_jpn.html)。直営店でなくとも巷のスーパーに商品が並ぶようになり、いずれもおいしく、パッケージも洒落ている。本社を京都に構えるこの豆腐会社の商品ラベルに”放射能検査済み“の文字。HPではゲルマニウム半導体検出器検査結果の詳細を紹介している。こうした各社の真摯な企業努力に惜しみなく応援と感謝の意を表したい。

高雄先生のお話では、食事会の開催などベクレルフリーレストランを応援するも、だからと言って店に来客が増えるなどの反響が少ないため、努力してくれる店舗の拡大を妨げているようだ。私の周囲にも日頃から気を遣い、通販の野菜などの購入に踏み切った家庭も少なくないが、やむなく一般のレストランで食事する例が多い。お近くのベクレルフリーレストランで、家族そろって心からおいしい食事を楽しんでいただきたいと思った。私たちがこうした選択をする事は、真のベクレルフリーライフにつながりはしないだろうか。R

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・横浜市民測定所 http://www.ycrms.net/

・日本全国での測定結果の統合を目指すフォーラム http://minnanods.jimdo.com/[:]

The L and R problem

[:ja]Sayonara Nukes Berlinはメンバーの他、様々な人たちの参加・助けをいただいて活動している。先日、いつも我々の活動を手伝ってくださるミュージシャンのManami.Nこと長針真奈美さんのライブがあったので行ってみた。

Berlin のFreunde Guter Musik e.V.主催の社会派作品を集めた3日間にわたるライブ・イベント Relevante Musik – Festival of Political Media Art, Performance and Musicだ。こういうイベントが企画されて、普通の学生や社会人がたくさんやってくるのがいかにもベルリンらしい。日本だったら、ちょっとでも政治色が出ると敬遠されてしまうだろう。

Manami.N さんは日本で一般企業に勤めるかたわらバンド活動をしていたが、ある日突然ドイツ人の音楽関係者から、「君たちの音楽はおもしろいからドイツに来てライブをしないか?」とコンタクトがあり、お金を貯めて、2003年にライプチヒ、ケムニッツ、ハンブルクでライブを実現させた。それからベルリンが気に入って、2006年に日本からベルリンに本格移住。エレクトロニック・ミュージック、ゲーム音楽などの制作に携わっている。

そんなManami.Nさんが原発のこと、エネルギーのことを考えるようになったのは、やはり3.11がきっかけだという。知れば知るほど疑問が湧く原発問題。未来の世代に対して無責任なこの原発政策を推し進めてきた日本。福島第一原発事故という大惨事を起こしたにもかかわらず、命を一番に優先するという誠実な対応に欠ける国と東電。権力・官僚・経済の癒着で脱原発に潔く移行する決断ができない国。なぜそうなのか。

Manami.Nさんはその源泉をたどってみるべく日本の歴史的事実を拾い上げて調べてみた。そこでひとつの共通点を見つけた。それは、福島の問題と戦争責任の取り方は、その精神構造が似ているということだ。犯した重大な罪に対する贖罪の意識なく、犠牲者の痛みに寄り添わず、なし崩し的に何もなかったかのように背を向ける。

今回のライブで初披露した作品 『The L  and R problem』は、流れる映像とともに、日本が包み隠したい出来事を淡々と、しかしそのことを見つめていくという覚悟のようなものが感じられる声で歌う、なかなかお腹にずっしりくるものだった。

心で感じていてもなかなか発言できないことを、外国に住む日本人の視点で、作品を通して発信していくことが、表現者としての役割であるとManami.Nさんは最近強く感じている。これからまたどんな表現が彼女から生まれるか楽しみだ。

 

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ライブの様子、今後の活動予定などはManami.Nホームページをご覧ください。

http://manami-n.com/[:]

内部被曝を考える

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環境フェスティバルの翌日に行った勉強会「東電福島第一原発大惨事の今 ―放射線内部被曝による健康障害―」について、まとめておこうと思います。

今回お話を伺ったのは、岐阜環境医学研究所所長の松井英介医師です。呼吸器学や放射線医学の専門家で、フクシマ以降は内部被曝の危険を訴えて、日本のみならず海外でも積極的な活動をなさっています。かつてベルリンで研究をされていたこともあり、ベルリンは第二の故郷とおっしゃる松井さん。「松井先生」とか「松井医師」という肩書きをつけてより、つい「松井さん」と呼びたくなるような、朗らかで親しみやすい雰囲気の方です。(ということでここでは「松井さん」と表記します)

松井さんは「見えない恐怖 放射線内部被曝」の著者でもあり、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の呼びかけ人の一人でもあります。内部被曝の専門的なことはそちらを参考にしていただくとして、ここでは、今回のお話の中で私が特に興味深いと思った点を挙げておきます。

まず、内部被曝とはなにか、という根本的な問いですが、これは外部被曝(たとえば原爆)と比べると分かりやすいと思いました。外部被曝がおもにガンマ線が外から身体を貫いたときの影響であるのに対して、内部被曝は、身体の中に沈着したさまざまな放射性物質からくり返し長期間にわたって照射される、おもにアルファ線とベータ線による影響です。
内部被曝の場合、影響を及ぼす放射線量は低レベルなのですが、放射性物質が体の中に留まって、そこから放射線を出し続けることにより健康被害が出ます。体のなかに取り入れられた放射性物質は、その性質によっていろいろな部分に溜まります。セシウム137は筋肉や心臓に、ストロンチウム90は骨や歯に、というように沈着して体の中にホットスポットができます。

内部被曝について考える場合、チェルノブイリ事故後の被害をみるのがよさそうです。主にガンマ線による高レベルの外部被曝である原爆の影響は、フクシマ後に微量の放射線を体に取り込み続けている現在の私たちの状況とは違います。しかし、現代の医学の基本にもなっているICRP(国際放射線防護委員会)の基準が、ヒロシマ・ナガサキの外部被曝の影響を元に推定したものなので、体の場所ごとに影響が違う内部被曝については過小評価されているそうです。
被曝の自覚がない人々に深刻な健康被害が出たという点では、イラク戦争で使われた劣化ウラン弾による被害も放射能の「見えない恐怖」を知る手がかりになりそうです。

フクシマが起こってから、必要に迫られて「放射能ってなんだ?」ということを調べだした私にとって、全く実感できないものの存在とその危険性を日々の生活の中で考えるというのはとても難しいことです。今回のお話を通じて、被曝を避ける云々以前に、そもそもそこに危険なものがあるということを突き止めてデータとして出すのが難しいことなのだということがよくわかりました。
たとえば、ホールボディカウンターでわかるのはガンマ線だけ。そうすると、ベータ線しか出さないストロンチウム90やアルファ線しか出さないプルトニウム239は測れない。空間線量を測るガイガーカウンターのようなもので食品の汚染濃度を測ることもできない。
松井さんが問題視していることのひとつに、日本での食品検査の際にストロンチウム90が計測されていないことがあります。ウクライナやベラルーシなど、チェルノブイリの影響が大きいところの調査では、セシウム137とストロンチウム90の許容線量限度値が決められたのですが、日本ではストロンチウム90が無視されています。ストロンチウム90はカルシウムと似ていて、骨に溜まる性質があり、内部被曝を考える上では非常に重要です。検出される量はセシウム137と比べ少ないのですが、ストロンチウム90の健康リスクはセシウム137の約300倍もあるそうです。
旧ソ連でできたことが、なぜ現代の日本でできないのか、などというと語弊はありますが、移住の問題にしろ、検査の問題にしろ、フクシマをめぐる日本の対応を見ていると、チェルノブイリから学ぶべきことはまだたくさんありそうです。

matsui bikini
松井さんのお話の中で、文系人間な私に特に響いたのは、原発というものの歴史的・社会的背景についてです。フクシマは起こるべくして起きたことなんじゃないか、私たちは清算できていない負の歴史の延長線上にいるのではないか、と思いました。原発を考える上で、第二次世界大戦や、原爆や、戦後の原子力政策を無視することはできません。

WHO(世界保健機構)は1959年に「IAEA(国際原子力機関)の了解なしに情報公開・研究・住民救助をしてはならない」という協定を結んだことにより、原子力に関する活動の自由を奪われているそうです。
原子力産業と結びつきの深いICRP(国際放射線防護委員会)が作った基準は原爆の情報をもとにしており、原子力産業に都合のいいようになっています。

「安全だ」「大丈夫だ」と言っている人々や団体は、何を根拠にそう言っているのか。彼らの示す「科学的根拠」はどこまで信用できるのか。背後にどんな権力やお金が潜んでいるのか。集めた情報をどうするのか。そういうことを疑ってかからないと、被害者はいとも簡単に「人体実験」の道具になり得てしまうばかりか、それを傍観する市民は結果的にその無責任な行為に加担するはめになってしまいます。

そんなおおげさな、と思うでしょうが、そこが私たちが歴史から学ばなければいけない核心部分だと思います。
731部隊の資料や原爆の被害者の資料はなぜアメリカに渡ったのか。
戦後に罪を問われなかった「戦犯」たちが何をしたのか。
第五福竜丸の事件後に起きた反原発(水爆)運動はなぜ消えたのか。
核のゴミで作られた劣化ウラン弾とは一体なんだったのか。
ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸を経験した日本人がなぜ「原子力の平和利用」などということに手を染めてしまったのか。
そういう問いは、どこかで「なぜフクシマを経験した日本がまだ原発に頼ろうとし、よりによって外国にまで原発を売ろうとしているのか」という現在の状況に繋がってくるのではないでしょうか。

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内部被曝の恐ろしさを訴える松井さんは「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言をしていらっしゃいます。内部被曝のメカニズムやチェルノブイリの被害などもここで詳しく紹介されているので、ぜひ一読してみてください。
”内部被曝による健康障害の深刻化を食い止めるために、今最も求められているのは、「家族や地域の人間関係を保って放射線汚染の少ない地域に移住し、働き子育てする権利を保障する法」(略称)の制定です。今だからこそ水俣病など公害闘争の歴史に学び、国際的には「チェルノブイリ法」を実現した市民運動に学び、その教訓を生かすべきです。”

松井さんの提言に深く共感する一方で、いまだに収束の見通しすらたたないフクシマの現状や、汚染された瓦礫や食品が全国各地にばら撒かれていることを考えると、早くなんとかしないと、肝心の「放射線汚染の少ない地域」が日本からなくなってしまうのではないか、という気すらします。
何を食べればいいのか、ということに神経をすり減らすだけではなく、未来に向けて社会を変えていく努力をしなければいけないのだと思います。

今回多くのことを考えるヒントを与えてくださった松井さんと、協力してくださった皆さん、どうもありがとうございました。(文責:KIKI)

参考
「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言 http://tkajimura.blogspot.de/2013_04_01_archive.html

インドへの原発輸出

KIKIのコラム第2回目は、私たちが環境フェスティバルでも取り上げていた、インドへの原発輸出について。

この5月の終わりに、インドのシン首相が日本を訪問しました。その際に、日本がインドに原発を売るための交渉が進むだろういうことで、事前に日本の反原発団体は抗議を示していました。このアクションに賛同してもらえないかという要請があり、Sayonara Nukes Berlinも229の団体とともに安倍首相とシン首相に宛てた要望書に名を連ねました。

少々長いので、この記事の終わりに安倍首相に宛てた要望書を載せておきます。インドにおける原子力の背景も分かりやすくまとめてあるので、ぜひ読んでみてください。

原発のない社会を望む私たちにとって、日本であろうが、インドであろうが、新しい原発を建てるというのは言語道断。ましてや、フクシマを経験し、原子力の恐ろしさを身をもって知っているはずの日本人がその技術を海外に売るというのは、とうてい受け入れられるものではありません。 続きを読む インドへの原発輸出