シュレスヴィヒホールシュタイン州のハインリッヒ・ベル基金のマーティン・カストラネック氏は、フクシマ原発事故が起こる数年前から「アクションウィーク」を企画して実行してきた。これは、チェルノブイリ原発事故のあった4月前後にシュレスヴィヒホールシュタイン州の学校を回って、原発事故の「記憶を伝える」とともに、それを踏まえどのような未来を築いていけばいいのかというテーマを生徒に与えながら、学校、身の回りの環境でなにを改善することができるか話し合い、アイディアを出し合い、最終的に皆で投票して決めた一つのアイディアを、クラブ活動のようなチームで半年くらいかけて実現していく、そのためのノウハウやアドバイスを与えたりエキスパートを招いたりしてサポートしていく、という長い期間に渡るプロジェクトだ。持続可能な開発目標(SDGs)が2015年に国連総会で採択されてからは、このSDGsを自分たちの環境でどのような形で実現するか、という主旨に変更した。こうしたコンセプトで地元の学校に提案を出し、目的に賛成し、生徒たちが積極的に参加しなければ成り立たないプロジェクトを一緒にやりたいと考える教師が協力を申し出て、時期や企画内容で折り合いがつけば実行される。このようにしてほぼ毎年、シュレスヴィヒホールシュタイン州の各地の学校(主にギムナジウムまたは総合学校(Gemeinschaftsschule)の10年生または9年生を対象)を、4月から5月の間の一週間、毎日1校ずつ5日間(月曜から金曜まで)めぐり、第一回目の集まりを開いてきた。
ここには、チェルノブイリ原発事故のリクビダートル(原発事故の処理作業に従事した人々を指す)として参加した人や実際の事故をその場で体験した人などがウクライナ(またはベラルーシ)から招かれていたが、フクシマ原発事故が起きてから、「記憶を伝える」の部分にはフクシマの話も大切だとして、フクシマまたは日本からも人を招くよう試みてきた。それで私は、ベル基金には緑の党寄りの基金としてそれだけの財源があるのかと思っていたのだが、そうではなく、このアクションウィークをどうしても実現・存続させるべく、カストラネック氏が宝くじによる社会貢献事業支援の枠組みに何度も応募してはこのプロジェクトに対し資金をもらっていたことがわかった。ただし、この宝くじによるあらゆる社会支援プロジェクトも、もう何度もこのプロジェクトが資金援助を受けたからかどうかはわからないが、同じ内容のプロジェクトではこれからはもう支援は与えられないと通達されているそうで、来年もこうしたプロジェクトを実現したければ、内容やコンセプトを変更せざるを得なくなる、という話だった。それにしても、若い中学3年生または高校1年生に当たる若者たちを対象に、原発事故の記憶を伝え、長期にわたるあらゆる側面に渡る問題を考えさせるだけでなく、そうした不安のない持続可能なエネルギーシフトを導き、自分の身の回りでもなるべく、どのようにすれば持続可能な環境を作っていけるか自分の問題として捉えさえ、考えさせるという試みはとても大切だし、通常の授業の枠組を超え、自分たちで具体的な考えを出し合い、そのアイディアを実行できるまで具体的にサポートしてもらえる、という経験を生徒に提供するというのはすばらしいアイディアだと思った。もう何年も前から反原発・反核の活動を通じて交流のあったマーティンから今回は私にもぜひ参加して私の立場から「フクシマの問題」を話してほしいと依頼された時、これなら応援しようと承諾した。このように5月の5日の月曜から5日間キールを拠点に、シュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校を毎日めぐる、2025年のアクションウィークに参加したので、これはその報告である。

国連のSDGs
招かれていたのは私だけではない。フリーの調査ジャーナリストとして事故後福島第一原発で普通の労働者として6か月被ばくしながら働いた桐島瞬氏が日本から参加していた。彼は、このアクションウィークの招きでドイツに来るのはこれで3度目だそうである。私は彼の通訳も受け持つことになった。桐島瞬氏は3.11の起きた時、日本のある出版社に勤めていたそうだが、それまで環境問題に関するテーマでも取材は行ってきたものの、原子力エネルギーに関しては一切かかわってこなかったという。フクシマ事故が起きて、情報が伝わってこない中、どうなっているのか自分の目で見たいという気持ちが募り、社員として新聞社や出版社に勤めているジャーナリストは「高線量の場所に行かせるわけにはいかない」と行かせてもらえないので、まず出版社を辞職し、フリーとなってから「潜入」する決心をしたそうだ。自分の本名で書いてネットで発表されていたそれまでの記事は、訳を話して名前を伏せてもらい、ネットでも彼の「正体」や電話番号、メールアドレスなどが暴かれないよう、いろいろ工夫をしてから、福島第一の中で働く仕事に就くことになったという。もちろん東電に直接雇われたわけではなく、現場から30キロほど離れたところにある会社に雇われたそうだが、東電で働くには身分証明をしっかりして本名を明かさないわけにはいかなかったのでそれなりの対処が必要だったようだ。また労働者は写真を撮ることを固く禁じられていて、携帯の所持も許されていなかったのだが、彼は隠れてジャーナリストとして潜入するからには、どうしても写真を撮りたいと、苦労して隠れて写真撮影もした。
雇われていた6か月ほど、彼は車で寝起きしていたという。早朝、同僚と会社の車で楢葉町にある中継拠点のJヴィレッジまで行き、防護服に着かえ、放射性物質を吸い込まないための全面マスクを手に取る。そこから作業員を載せる大型バス数台で福一に向かう。線量の高いところに入ればバスの中ですでに全面マスクもつけたそうだ。
彼が福島第一に入ったころはまだ、水素爆発の後あちこちに飛び散った瓦礫が散在しており、敷地内はまっすぐ車などが通ることもできないほどだったという。それでも、原子炉を冷却するための「循環注水冷却システム」と、冷却などで高レベルに汚染された水を浄化するための「多核種除去装置(ALPS)」を作り、重く太いホースを人海作戦で持ち運び、繋げる仕事に従事していたそうだ。最初は軽量の塩化ビニール製ホースだったが、草がホースを突き破り、汚染水が漏れることがわかり、のちにポリエチレン製のしっかりしたホースを使うことが決まったため、労働者たちがまったくのマンパワーで瓦礫や草木に覆われた場所を苦心してホースを運び繋いだそうだ。労働者たちは高線量の中を働くため、毎朝、その日の計画線量(その日の仕事の最大被ばく許容線量)を言い渡されるが、数時間でいっぱいになることもある。被ばく線量を測定するために24時間付けているガラスバッジと、敷地内の作業時につける線量計とで線量管理は一応しているのだが、朝の8時くらいから仕事を始めても昼近くには被ばく量が増えるため、休憩所に行って休むことになる。だが、その休憩所の線量も低くはないため、そこで全面マスクを外して休憩すると、休憩の間に汚染空気を吸い込んで被ばくしてしまうことになる。また夏の暑い時期には、全面マスクの中で汗を掻き、びしょびしょになってほとんど息ができなくなって苦しくなることが少なくなかったという。彼が働いていた当時は3000人前後の労働者が福一で働いていたが、休憩所はその人たちを収容する広さがなく、ロッカールームの前で横たわるしかないこともあった。肌が直接放射性物質に触れることがないように、特殊なポリエチレン繊維不織布で作られた全身の防護服を着ているが、休憩所では全面マスクを取り、首元を開ける。それで休憩中も被ばくをしてしまうのだそうだ。頭ではわかっていても、実際に目には見えない、味も臭いもしない放射能被ばくに関する懸念は、そこで具体的な仕事に携わり、暑さや疲労と闘っていると、どんどん麻痺していく、と彼は語っていた。
6か月ほど仕事をしてやめたすぐ後は、鼻血が止まらなかったことが何度もあったそうだ。それは、線量の高いところに住んでいる住民もよく報告していた症状である。彼が働いていたときだけで、2~3名が作業中に発症した急性心疾患などで死亡し、あとから取材した1人は白血病に罹患したが、東電は作業による被ばくとの因果関係を認めていない。彼も14年近く経つ今年の1月に心筋梗塞を起こし、心臓の手術を二度も行ったそうだ。つい1か月前まではまともに歩けなかったというが、ここまで回復してドイツにやって来たのだ。がんや心疾患は被ばくとの関連性が高いと言われ、被ばく後、長い時間が経ってから発症することがあると言われている。
私は、自分がドイツでフクシマ事故の話を聞いてどう反応し、何をしたか、という話をした。日本にいるより遠くのドイツにいる私の方が得られる情報や報道があったことに驚き、それを翻訳して日本の人にアクセスできるようネットで拡散し始めたことなどを話すとともに、日本ではフクシマ事故以来、実際の健康調査や被ばくの状況のデータ収集をしっかり進めて人々をサポートしたり、故郷を離れざるを得なくなり、帰ることのできない人たちに住宅支援を続ける代わりに、中途半端な「除染」でどんどん帰還政策を行って、住宅支援を断ち切り、包括的な調査をする代わりに「心の除染」「ちょっとくらいの放射能は大丈夫」「フクシマはおいしい、きれい」の大々的なキャンペーンを国や県や自治体が税金を使って政府寄りの広告代理店にやらせている話などもした。また、日本のフクシマの実態をドイツでも伝えるため、証言をドイツ語に翻訳するボランティア活動を続けていることも話した。その中で、遠くの隣人3.11の杉田くるみさんが制作してきた一連の「証言ビデオ」(ことに菅野みずえさんの、フクシマからの避難の話に私がドイツ語訳をつけたもの*2)を使わせてもらったり、彼女がコミック作家のダミアン・ヴィダルさんと作った「Fukushima 3.11」のコミックドイツ語版を紹介し、生徒たちに配布することもできた。くるみさんとダミアンさんにはこの場を借りて改めてお礼を言いたい。
今回のアクションウィークの第一回目の生徒との集まりでは、まず最初にこの企画の説明と流れを紹介してから、「まずフクシマと聞いて何を思い浮かべるか」、「フクシマとSDGsを繋ぐものはなにか」というような質問をMentimeterというリアルタイムフィードバックプログラムを使って(最近の学校はこのように進歩していて、かつて黒板のあったところに大きなモニターが付いていたりするのを私は初めて知った)生徒に答えさせる。何しろ14年前のことで、15歳16歳の生徒たちを対象としているから、当時の報道のことは知らない世代だが、教師と授業などですでにこのことが話題になっていた場合には、最初の質問に「原発事故」とか「放射能」とか「津波」とか答えた生徒もかなりいた。2番目の質問でも「環境問題」とか「持続可能な社会」とか「環境にやさしいエネルギー」とか答えられる生徒もいた。

コミックFukushima 3.11 *1
その後で、インタビュー形式で桐島氏と私に「事故のとき、何を思ったか、何をしたか」とか「日本でのメディアはどのように事故のこと、その後の影響などを伝えているか」などの質問をしながら答えさせるといった形でほぼ1時間くらい「フクシマ原発事故」にまつわる個人的な話をさせた。桐島氏は、実際に現場で被ばくをしながら一般の労働者と同じように働いたという実際の体験を語ったので、それは証言というものの常として、聞く人を動かす力があったと思う。放射能の危険性を知りながらも潜伏してその体験を語るInvestigative Journalistということで、話を聞いていた生徒たちや教師の中にも感動する人たちがいた。私はしかし、実際にフクシマの地震や津波も体験していないほか、故郷を追われたわけでもない、遠くに住むただの日本人として、それをどう自分なりに受け止め、反応し、それでどのように行動したか、というアクティビストとしての活動報告のようなものを語るしかない。また、アクションウィークのコンセプトに合う「ストーリー」に沿って用意された質問に対して答えるしかなかった(ことにそれは用意された質問に答える形でしかゲストである私たちは話すことができなかったからでもある)。
例えば日本のマスコミの問題点、政府・当局や東電の事故後の対応や責任問題、市民の健康管理や避難した市民たちの援助を徹底して実行・続行するよりずっと多大の金額を電通を先頭とする広告代理店に委託してプロパガンダを続け、汚染水の海洋放出や汚染土リサイクルなどを正当化しているなどの話もしたが、短い時間に、しかも原発事故に対する問題意識や知識のない若者たちに語れることは限られており、あまり詳しい内容を話すことはできない。どこに重点を置くか決めて、これだけは話そう、と要点に絞るしかない。ということは、これではフクシマの問題点、原子力産業の問題点、核の恐ろしさは伝えられない、と思っても、また問題点は複雑であり、ないがしろにできないデリケートかつ難解なテーマや説明が難しい状況が多岐にわたってあることがわかっていても、それを異国のティーンエージャーに、しかも学校のカリキュラムではない課外授業のような限られた枠内で、この事故の14年来(または原子力発電が誕生してから?)の問題を伝えることは不可能だ。簡単にまとめ、わかりやすくアレンジした「ストーリー」に嚙み砕くしかなくなる。ベル基金は緑の党に近い基金であるし、脱原発がまがりなりにも実現したドイツで、原発に頼らないエネルギーシフトと持続可能な社会を作って行こうということはいいとしても、政治的メッセージ、洗脳の試みとして取られかねないので学校であまり反原発を直接呼びかけない方がいいだろう、ということは最初に言われてもいた。私にはこうした「短い時間」で「噛み砕いた」フクシマの原発事故とその問題を(遠い異国の出来事として学ぶドイツの生徒たちに)わかりやすく、掴みやすい(しかもマーティンの主旨に沿った)ストーリーで伝える、ということ、そして同じ内容のプログラムをほぼ5日間繰り返したので、大体何をどのように話すのか決まってしまい、マンネリ化を感じながら、こうした「偏った」または「短絡化した」「ストーリーにまとめられた」フクシマを結果として伝える一人となったことに、罪悪感というか、フクシマ以来、さまざまな苦しみ、悲しみ、悩みを抱えてきている人たちを裏切っているような気持に苛まれた。
私はまったく被害者でも当該者でも体験者でもないわけだから、アクティビストとして学んできたこと、考えてきたこと、観察してきたことのほか、人前で話せることはない。それはこのような学校の限られた枠内で話すのには適さないのではないか、という思いに責められた。あるいは、こうして日本のことを全く知らない若者たちにフクシマまたは原発事故の悲劇、問題点を語るということは、私にはできない、私は不適格者だ、と悟らざるをえなかったとも言えよう。「これさえ伝えれば、あとは語らなくてもいい」とか「この側面だけ伝えよう」というような単純なメッセージづくりにフクシマも核をめぐる問題も縮め、簡略化することができない、もしくはしたくない私には、こういう任務はまったくふさわしくないのだ、と感じたと言えようか。そういう意味で、私は最後まで居心地の悪い参加となってしまった。それでも、桐島氏の話の通訳や、私の話にそれなりに満足し、任務を果たしたと思ってもらえたのはよかったと言わなければならないだろう。
アクションウィークには私たち「日本人ゲスト」のほか、シュレスヴィヒホールシュタイン州Bad Bramstedt地区代表の緑の党州議員で環境保護、エネルギー政策を専門とするGilbert Sieckmann-Joucken氏が参加しているほか、若手の女性二人(一人はエラスムス計画でスウェーデンの大学で半年勉強しているMelina Wolf(数年前からこのアクションウィークプロジェクトの研修生として働いてきている)と、大学での政治学修士を獲得後、今は難民支援団体Flüchtlingsratで仕事をしているMiriam Zweng(彼女も3年前からアクションウィークに参加)が司会やサポート役として来ていた。彼らがSDGsをどのように身近な学校環境で変えていくことができるか説明したり、例を挙げたりしてから、自分たちの周りで何が問題か、何を変えることができるか考えさせるワークショップへと生徒たちを導いていく。

ワークショップの様子
アイディアとして出た例は、「学校の緑化」「自転車をつかって電気を作ってそれで校内の一部の設備機械のエネルギーを賄う」「戦争や紛争を逃れて難民として来ている子どもたちを支援する寄付金集め」 「太陽光パネルを屋根に設置して校内の電気として使う」「学校の庭で畑を作り、養蜂もする」「屋根の緑化」などがあったが、その前に「どういう問題があるか」という段階で、「ファーストファッションが問題」とか「パン屋でいちいち新しい紙の袋にパン菓子を入れて買うとゴミが出る」、「低学年の生徒に正しいゴミの仕分け方とその意味、理由を教えて、リサイクリングを徹底する」から「暴力」や「武力闘争」問題、差別問題まで提示するほど、意識の高い生徒もいた。9年生と10年生の生徒両方と接したが、やはりこの年齢での1年の差は大きく、10年生のギムナジウムの生徒は、意識も高く、考えもしっかりまとめられる人がいるのに感心した。

アイディア例
最終的には、多数出されたアイディアの中から1つまたは2つを投票で選び、それをこれから半年かけてクラブのような形で集まって具体的な計画を経て、実現していく、これがアクションウィークだ。資金がかかるアイディアだと、どのように資金を調達するかアドバイスを出す、技術的な支援が必要なアイディアなら、エキスパートを招いて講習する、などのフォローがベル基金の方から出されることになっている。

生徒から出されたアイディア
滞在中、Schönbergという町でフクシマ原発事故以来、かかさずMahnwache(戒めの集い)を続けてきたグループが私たちを招待してくれたので、キールからフェリーでLaboeまで行き、そこからさらにSchönbergまで向かった。このフクシマ・グループは事故直後はかなりの人数だったというが、今は7人程度、といいながらも毎週欠かさず町の真ん中の商店街の薬局前(ここは屋根があるので雨でも大丈夫)でMahnwacheをしているというので驚いてしまった。薬屋もそれを快く受け入れてくれているということだ。この町は、町長も原発事故後、役所の建物をミーティングで使わせてくれたり好意的だったそうだが、それはここが元原発が稼働していたBrokdorf (Kreis Steinburg)、Brunsbüttel (Kreis Dithmarschen)そしてKrümmel (Kreis Herzogtum Lauenburg)から離れていたからだろうという。最初にメンバーの一人の自宅に伺い、そこで菅野みずえさんが避難の模様を語ったビデオを見せながら少し話をして、それから一緒に食事のできる海岸沿いのレストランに向かった。彼らは、かつて反原発運動がドイツで盛んな頃、よく作られたという「たいらげて退治」しまおう原発お菓子(Schokokussと細長いワッフルクッキーで作ったもの)を持ってきてくれた。私が初めてこれを知ったのは、SNBや私の活動にいつも協力を惜しまずサポートしてくれた大切な友だった今はいないAnnette HackがSNBの集まりに作ってもってきてくれた時だったことを懐かしく思い出した。

食べてなくしてまおう!原発
ドイツの学校は朝の授業開始時間が早く、宿泊しているキールから車で1時間くらいかかる学校もあったため、毎朝かなり早い出発時間だったのが大変だった。でも、首都のキール周辺にアクションウィークに参加する学校が集中してしまわないよう、できるだけシュレスヴィヒホールシュタイン州各地の学校に行けるよう、企画しているのだ。いろいろな教師がいることも、いろいろな学校(その建物、設備、生徒たちの様子なども含め)があることもこの目で見て、改めて勉強になった。そして、携帯(スマホ)の所持を学校内で禁止しているところも少なくなかった。そしてある教師は、ここ数年、TikTok等の影響で、数秒で興味を覚えないものにはすぐに集中力が失せてしまう生徒たちが圧倒的に増え、10年前と同じ授業は今は行えない、と嘆いていた。ここで話をした若者のどれくらいの人たちが、私たちの話を数年経っても覚えているだろうか。何か、心に残ったり、なるほどと思ってくれたことはあっただろうか。あと10年も経たないうちに、この若者たちがドイツで仕事をしていく世代になるのだ。彼らが次の世代を育てるようになる頃には、どういう社会が、どういう環境ができているのだろうか。自分の生きる、自分の大切な人たちが生活する環境、世界をできるだけ安心できる、気持ちのいい場所にしたいというSDGsの理念を、自分で考え、自分で実践していってほしい。そのためにアクションウィークのようなプロジェクトをこれからもあらゆる学校で生徒たちに提供し続けてほしいと思う。(ゆう)
*1 コミックFukushima 3.11(以下のリンクでフランス語・英語・ドイツ語版がダウンロード可)
*2 菅野みずえさんの証言ビデオ